Book十一: 宇宙の根本

The Root of the Universe




はじめに


 神様は真の愛を中心として、神様の性相と形状に似せて被造万物を創造されました。そして万物世界を通して人間に愛の交流と秩序を学ばせました。


 人間始祖アダムとエバは、神様の本然の愛を体恤しながら、真の夫婦となり、家庭を完成すべきでした。ところが、彼らは天使長ルーシェルの誘惑に陥って、愛の秩序を破壊し、真の愛から離脱して、偽りの愛を中心として偽りの家庭、国家、世界と歴史を作り上げたのです。文鮮明先生は早くからこのことを看破され、創造本然の愛とその秩序について一貫して教育してこられました。


 文鮮明先生は、現在蔓延しているフリーセックス、同性愛、近親相姦の原因が、愛の本宮であった人間の生殖器の堕落によると説かれています。その人間の生殖器の堕落が宇宙を破壊させ、愛の秩序を崩壊させる道具となって、終末の時を迎えるようになったというのです。


 文鮮明先生は、夫婦がそれぞれもっている生殖器の主人は、自分ではなく相手であると説かれます。つまり夫の生殖器の主人は妻であり、妻の生殖器の主人は夫である、という説明です。この劇的なメッセージは、一九九六年八月一日、アメリカのワシントンD・Cで開かれた「世界平和家庭連合」創設大会の席上、各界各層の指導者の前に宣布されたものです。


 本書はこのメッセージを前章に置き、それに関するみ言を「文鮮明先生み言選集」から精選し、抜粋したものです。本書では神様の愛を中心とした人間の絶対的な価値、絶対セックス、人間の堕落と復帰、そして、私たちの最後の目標である真の家庭理想の実現についてのみ言が網羅されています。


 本書を通して、人類が神様を中心とした真の愛の秩序を取り戻し、一日も早く真の家庭が天宙的に実現されることを心から祈るものです。


二〇〇二年七月


前章


宇宙の根本を探して

(19968月1日、ワシントンD・C、「世界平和家庭連合」創設大会で語られたみ言)


 尊敬する御来賓の皆様、そして紳士淑女の皆様!


 冷戦の終息とともに平和と社会正義に対する新しい希望が急速度に全地球星に拡大しています。新しい世界的現実を無視したり、直視できない指導者たちは津波のように押し寄せる変化に流されてしまいます。今、私たちは新しい世紀の分岐点に立って、私たちの伝統的な思考方式を再検討してみて、新しい機会と価値観を迎えるために、果敢に進んでいくべき時だと信じます。そのような意味で、私はきょう、生涯を懸けて主唱してきた「世界平和の実現と真の家庭の価値」についてお話しし得るようになったことを大変な栄光と存じます。


神様は宇宙と愛の根元


 この世の中には男性と女性の二性が暮らしています。ところで、彼らは互いに立場を変えることはできません。皆様も自らが願ってそのように生まれたのでしょうか。そうでなければ、私たちは願わないのに、そのように生まれたのでしょうか。私が考えもせず、願いもしなかったのに、そして原因はもちろん、結果や過程も知らないのに、そのように生まれたのです。


 人がいくら偉大だとしても、原因的な存在ではなく、結果的な存在であることを否定することはできません。したがって、第一原因である存在がなければなりません。そうすると、そのお方は誰でしょうか。男性でしょうか、女性でしょうか。その第一原因的な存在を神様と呼ぼうと、あるいはどのような名で呼んでもいいのですが、その原因的な存在がなければならないのです。きょう、ここには、「世界的に我こそは」と思われる著名な方々がお集まりになっています。皆様は「神様がどこにいるのか。見せてくれれば私が信じよう!」とおっしゃるかもしれませんが、少なくとも、その原因的な存在がなければならないということを否定してはならないと、まず私は指摘するものです。


 きょう、私は「宇宙の根本を探して」というテーマでお話しいたします。


 私たちが宇宙の根本を探していけば神様に帰着しますが、そのお方は男性格と女性格の二つの性品を所有していらっしゃるということを知らなければなりません。宇宙の出発の原因はどのようになっているでしょうか。神様に対してはまだ分からないとしても、私たち人間は男性と女性、そして主体と対象から成っています。


 鉱物界の分子を見れば、陽イオンと陰イオンから構成されており、植物界は雄しべと雌しべから、動物界は雄と雌から、そして人間は男性と女性から成っていることを見ることができます。


 存在界を調べれば、鉱物界、植物界、動物界、どの世界を問わず、次元がより高い陽性と陰性が、より低い陽性と陰性を吸収して、存在、発展していることを知ることができます。なぜこのような現象が生じるのでしょうか。このすべての存在世界は、万物の霊長である人間を完成させるべき責任があるからです。鉱物界を見ても陽性と陰性、すなわち主体と対象が愛という概念のもとに、互いに一体となって存在しており、植物界も同様に、すべて雄しべと雌しべとがあり、主体と対象が愛を中心として、一つに結合して存続するのです。最近、医学界では病原菌までも陽性と陰性があると言っています。


 主体と対象、すなわち陽性と陰性が一つになるのに何を中心として一つになるのでしょうか。キスすることによってでしょうか。愛は、概念であると同時に実在なのです。その愛が定着することのできる実在とは何でしょうか。ここに各界の指導者の方々、フォード元大統領、ブッシュ前大統領、皆様が集っていらっしゃいますが、自信があれば答えてみてください。皆様方にも知らないことがあるということです。男性が男性になり、女性が女性になるようにするものが何であるかを知らなかったというのです。それがまさしく生殖器です。それを卑しく思う人がいますか。貴く思うとすれば、どのくらい貴く思うでしょうか。今まではそれが善くないものと考えたとしても、今からは貴く思わなければなりません。


変わらない宇宙の鉄則


 未来の世界はどのような世界でしょうか。生殖器を絶対的に貴く思う世界になるなら、その世界は善い世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。冗談で言っているのではありません。神様が人間を創造なさる時、最も重要視して、精魂を込めておつくりになった箇所とはどこでしょうか。目ですか、鼻ですか。心臓でしょうか。でなければ頭脳でしょうか。これらは全部、死んでなくなってしまうのです。実際、そうではないでしょうか。


 世界平和のための家庭連合の目的は何でしょうか。道徳と宗教など、すべての分野を完全に超越し、夫婦が完全に一つとなって、神様までも拍手で歓迎することのできる人が暮らす世界があるなら、どのような世の中になるでしょうか。男性と女性が生まれる時、彼らの生殖器の主人は誰でしょうか。夫の生殖器の主人は妻であり、妻のものの主人は夫です。今日まで、人類は生殖器の主人が互いに取り替えられていることを知りませんでした。明快な真理です。これを否定できないというのです。千年、万年、歴史がいくら流れても、この真理は変わりません。


 あらゆる男性たちはそれが自分のものだと考え、またあらゆる女性たちもそれが自分たちの所有だと考えたために、世の中がこのように滅びつつあるのです。互いが主人を間違えているという話です。すべての人たちは、愛は絶対的であり、永遠なるものだといいながら、夢のようなものとだけ考えていますが、その永遠の愛の主人がひっくり返っているということをはっきり知るなら、世の中がこれほどまでにはならなかったはずです。


 博士や学者は数多くいますが、これ一つ考え抜いた人がいないというのです。皆様はこの真理を否定できますか。皆様の父母、祖父母、曾祖父母、そして人類の先祖たるお方と、さらには宇宙の根本であられる神様に尋ねても、全部、同意するようになっているのです。これが鉄則なのです。この真理こそ、宇宙が億万年過ぎても原理原則として残るので鉄則です。そして、この鉄則によって、神様の前に出ていけば、正しい人と間違った人の判定を受けるようになるのは当然なのです。旧約聖書に出てくるアダムとエバの堕落も知ってみれば、正にこの鉄則に背いたところに由来しているのです。


 アダムやエバは、自分たちの生殖器が自分たちの所有だと錯覚したのです。考えてみてください。神様が善悪を知る木の実を取って食べたからといって、アダムとエバを追い出しますか。神様は、それほどいい加減な神様ではありません。アダムとエバは、根本的な問題を誤って、宇宙のどこからも公認を受けられなくなったので、追放されてしまったのです。鉱物界や、植物界や動物界の雄と雌もすべて、愛の相対のために自分の生殖器を保管しているということを、アダムとエバが知らなかったというのです。では、生殖器は何のために存在するのでしょうか。それは愛のためです。愛を探すために男性と女性として生まれたというのです。


 神様の属性は何でしょうか。神様は、絶対的、唯一、永遠不変であられるお方です。そうだとすれば、愛の主人は誰でしょうか。男性でもなく、女性でもありません。そのお方が正に神様であられます。愛を中心として愛を通してのみ、神様と人間が一つになるのです。なぜなら、神様にも人間にも愛が絶対に必要だからです。


神様と人間は父子の関係


 神様が必要とされる愛は、果たしてどのような愛でしょうか。絶対的愛を願われます。皆様はどうでしょうか。私たちも同じです。神様が絶対的愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も絶対、唯一、不変、永遠なる愛を必要とするのです。皆、神様に似なければならないのです。


 神様自身が男性格と女性格をもっていらっしゃるお方なので、そこから分立された実体対象として創造された人間も、男性と女性として創造されたのであり、彼らが結婚すれば、実体として神様に代わる陽性と陰性になるのです。このように結婚を通して縦的な神様の愛が、横的に完全統一されるように追求したものが神様のみ旨だったのです。

 

 人間の体は、この地を代表した横的なものです。すなわち、それが肉身です。それと反対に、良心はいつも縦的なものを愛し、縦的に高いものを求めるのです。したがって、人間は神様の縦的な基準と一つになり得る点を探していくのです。その点は、中心点でなければならず、正にこの点で男性と女性が出会わなければなりません。そうして、この中心点から出生した人間は、愛と共に幼児の成長過程を経て、兄弟姉妹の愛、そして夫婦の愛を経験しながら成長するのです。

 

 この時、肉身は地を代表して成長するようになり、心は神様を中心として成熟して、ついに体と心が縦的、横的に一つになって、幸福の基地を築くようになるのです。そのようなところであってこそ、絶対的な愛を中心として絶対的存在であられる神様も喜ばれ、その愛の対象体である夫婦も幸福になるのです。


 このように上下の関係である父子の関係、東西の関係である夫婦関係、前後関係である兄弟姉妹関係が一点を中心として完全に一つになる時、理想的な球形をつくるようになります。このような由縁で、父子の関係を東洋では一つの体だといいます。さらには夫婦関係も一つの体であり、兄弟姉妹も一つの体として考えています。何を中心として、このように言うことができるのでしょうか。真の愛を中心としてこのすべての関係が四方に球形をつくるとき、このすべてのことが可能になるのです。一点で出会って、球形をつくらなければならないのです。その点は一つです! 一つなので、統一が可能なのです。神様と人間も父子の関係なので、一つにならなければならないのです。それは真の愛を中心としてです。


人間と完全体であられる神様


 人間の欲望はどれほど高いでしょうか。皆様の心の欲望は、神様よりも高くなることを願ったりもします。いくら劣った人でも、神様よりも勝った世界の代表者になろう、という欲望はもつことができるのです。


 もし、皆様が神様の愛する息子なら、「お父様、いらしてください!」と言う時、神様はそれを拒まれるでしょうか。皆様の妻がいくら劣っているとしても、本当に愛するなら、妻が呼ぶ時、夫は従うのです。このように真の愛で一つになれば、妻が夫を呼んでもついていき、兄さんが呼べば弟がついていき、弟が呼べば兄さんがついていき、皆が絶対に離れたがらなくなるのです。神様も独りでいらっしゃれば寂しいでしょうか、寂しくないでしょうか。どうして分かりますか。


 紳士淑女の皆様、愛をもっていますか。生命をもっていますか。皆様の血統をつなぐことのできる精子と卵子をみな、もっているでしょう。良心ももっていますか。それなら、愛を見たことがあるでしょうか。生命、血統、良心を見ましたか。触ってみたことがありますか。その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないということを知らなければなりません。ただ心で感じてのみ知ることができるのです。同じ論理として、神様がいるか、いないかというとき、または神様を見たか、見なかったかと尋ねてみると、見なかったとはいえないのです。


 見えるものと見えないもの、どちらが重要でしょうか。見えないものがもっと貴いということを知らなければなりません。お金、地位、名誉は見ること、または触ることができますが、愛、生命、血統、良心は見ることも触ることもできないのです。みなもっているのに、なぜ見ることができないのでしょうか。それは一つになっているからです。体と心が絶対的にバランスを維持していれば感じないのです。


 皆様は自分の目が瞬きするのを感じながら暮らしているでしょうか。三時間だけ数え続けてごらんなさい。また、息をするのを数えながら暮らしているでしょうか。では、右手を挙げて、左側の胸の上にあててみてください。どういう音がしますか。鼓動の音、心臓の鼓動の音を感じます。その鼓動の音を皆様、一日に何度くらい聞いているでしょうか。聴診器で聞いてみれば、爆弾が爆発するような音が聞こえるのに、私たちは一週間、一カ月…‥。忙しい時は何カ月間もそれを感じないで暮らしているのです。考えてみてください! 小さい蝿が一匹だけ頭の上にとまっても、すぐに感じる私たちが、何百倍大きな鼓動の音を聞いても、なぜ感じられないかというのです。それは一つになっているからです。


 上品な壇上からこのような話をすれば「失礼だ」と思われるでしょうが、実感の出る話なので、一つ例を挙げてみましょう。皆様、毎日、朝起きてトイレに行くでしょう。大便をするとき、マスクを使って大便をするでしょうか。笑い事ではなく、真面目な話です! もし、ほかの人がそばで大便をして、そのようなにおいを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずなのに、なぜ自分の大便のにおいはそのままかいで、座って、平気なのでしょうか。自分の体と一つになっているから、自分の大便を汚く感じないのです。


 皆様、幼い時、鼻くそをほじくってなめてみたことがありますか。その味は甘かったでしょうか、塩辛かったでしょうか。辛いですって。その味を知っているのをみると、皆様、経験者ですね! なぜ、その鼻くそが汚く感じられなかったのでしょうか。それが正に私たちの体の一部分だったからです。この世の誰も知らなかったことをレバレンド・ムーンが初めて発見したのです。皆様、咳をして、痰が出れば、ごくっとのみ込んだりもするでしょう。ここに列席なさった大統領の皆様はいかがでしょうか。そのような経験はありませんか。気取らないで率直に答えてみてください。なぜ、汚く感じないのでしょうか。みな一つになっているからです。


 私たちはみな、朝、昼、晩、三食ずつ食べていますが、口から一尺だけ下りれば、肥料工場があります。毎日、三食ずつ食べて、その肥料工場に原料を供給しているのです。ワァー! それを知っても、箸とスプーンが口に入りますか。おなかの中に肥料工場があることを知りながらも、感じないで私たちは生活しています。なぜ、感じられませんか。一つになっているからです。

神様の創造目的


 愛、生命、血統、良心があっても一つになっていて、完全にバランスをとれば、感じられないのです。私たち人間がそうであるように、神様も愛、生命、血統、良心、みなもっていらっしゃいますが、独りではそれを感じられないのです。完全にバランスをとっているので、感じることができないのです。ですから、神様も相対が必要なのです。


 相対の必要性をここから見つけることができるのです。男性でも女性でも、独りの時は愛を感じられませんが、男性の前に女性が現れ、女性の前に男性が現れる時は、相対的に刺激的な愛と血統が雷と稲妻のように衝撃を受けて問題を起こすことを知らなければなりません。だから、しっかりしなければなりません。このような真理を知らずに生きてきたのです。神様も絶対的に愛の相対が必要だという論理を、人間が悟ることができなかったというのです。


 それなら、神様の愛の相対は誰でしょうか。猿でしょうか。人間が結果的存在であるならば、猿がその原因的存在、すなわち私たちの先祖になれるでしょうか。それではお話にならないというのです。アメーバから始まった生命体が人間に至るまでは、数千の段階の愛の門を通過しなければならないのです。

 ただ無条件に上がっていきますか。とんでもありません。あらゆる動物もみな、同じです。種の区別は厳格です。誰も占領できません。唯物論を信奉する共産主義者たちが猿を先祖として信じ、猿と人間を交配させたとして、新しい生命体(人間)が出てくると思いますか。百年、千年しても無駄骨です。なぜ、できないのでしょうか。考えてみるべき問題です。


 そうだとすれば、神様も何を必要とされるでしょうか。何か器官をもっと必要とされるでしょうか。目でしょうか、手でしょうか。必要とされるのは、私たちが考える五官ではありません。神様は男性格と女性格の二つの性品をすべて所有していらっしゃいますが、父としていらっしゃるために男性格主体として存在なさるお方です。


 このような基準で見るとき、神様も愛のパートナーが必要ではないでしょうか。被造世界の誰が果たして神様の愛のパートナーになるでしょうか。男性独りででしょうか。女性独りだけでパートナーになれますか。神様はどんなパートナーを願われるでしょうか。お金のパートナーですか。知識のパートナーですか。権力のパートナーですか。違います! 神様は愛のパートナーを願われるので、夫と妻が生殖器を通して一つになるその場を中心として顕現なさり、人間と出会うのです。

 なぜその場が、神様を中心として一つになる場なのでしょうか。愛は絶対的であり、男性と女性が絶対的に一つになることを願う所が正にその場だからです。横的に見れば、陽性である男性がその中心に向かって近づき、陰性である女性がまた近づき、神様も男性の性格である陽性と女性の性格である陰性が合わさって、大きく陽性的立場で、大きな陰性と合わさって一つになるのです。いつそのようになるかということが問題です。


 結婚とは何ですか。なぜ結婚が重要なのですか。結婚は愛を探していく道だからです。愛する道、生命を創造する道です。男性と女性の生命が一体になる道です。男性と女性の血統が混ざる所です。結婚を通して歴史が生じ、ここから国が生じ、理想世界が始まるのです。これがなければ個人もなく、国もなく、理想世界もありません。これが公式になっています。


 男性と女性は絶対的に一つにならなければならず、父母と子供たちは絶対的に神様と一つになり、神様を愛し、神様と共に生きてから、死んでそのまま霊界に行けば、そこが天国なのです。しかし、そのような人、そのような家庭、国家、世界、そのような理想的な人がいないので、神様が理想とする天国は空いているのです。今まで死んでいった人類はすべて、地獄に落ちています。天国に入れなかったという話です。


 このような観点から見るとき、イエス様も人類を救うための救世主として来られましたが、昇天したのち、天国には行けず、楽園に行っていらっしゃることを知らなければなりません。天国に行くためには、家庭を築いて入らなければならないので、イエス様も再臨なさることを願われるのです。イエス様も結婚して家庭を築き、その家庭と共に神様に侍って暮らしてから、共に天国に入るのであって、独りでは天国に入れないので、聖書でも「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ一八・一八)と書かれているのです。地上で解決しなければなりません。地上で病気になったので、その病気になった場所で治さなければなりません。


堕落世界を収拾できる思想


 今日、人類は堕落した後孫となって、堕落圏の下に落ちているので、この圏を突破して上がらない限りは、天国に入れないのです。堕落圏内にいる人間は、いかなる困難があっても、その圏を突破しなければならないのです。それゆえ、イエス様も「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」(マタイ一〇・三九)と言われたのです。この道を行くためには全生命を懸けて、突破して上がらなければならないのです。


 皆様の家庭は、堕落圏内の家庭です。氏族、国家も同様です。闘って勝たなければなりません。アダム家庭で覆されたのです。アダムとエバが赤ん坊を生んだのちに追い出されましたか、追い出されたのちに赤ん坊を生みましたか。彼らは追い出されたのち、神様と無関係な立場で子供を生んだのです。このようなことも知らずに天国に行くことができるのでしょうか。とんでもないことです! 無知からは理想も生まれず、完成もありません。しっかりしなければなりません! これが皆様方に対する私の警告です。

 

 レバレンド・ムーンの話が正しいか、正しくないか祈祷してみてください。私がこの道を見いだすためにどれほどの受難の道を歩んできたか、誰も知りません。罪なしに監獄に六回も入るほどの苦難に遭い、探し出してきた道です。ところが、他人の大切な息子、娘たちを連れていって、このような真理を教え、短時間に方向転換させるので、皆が洗脳したというのです。無神論者には、神の存在を詳しく科学的に理論的な基盤をもって証明してあげるので、無神論は崩れていくのです。


 それとは反対に、キリスト教徒たちは自分たちが信じている教理と違うといって、「異端だ」と責め立てながら、私たちを取り除こうと大騒ぎしているのです。しかし、彼らが唱える異端が正統なのです! 反対になることを知らなければなりません。サタンが嫌うものは神側であり、神様が嫌うものはサタン側だということを知らなければなりません。


 思想的空白期に置かれている旧ソ連の若い青年たちも、レバレンド・ムーンの思想を中心として出版された中学校、高等学校、大学校の教材を通して、そして甚だしきに至っては、刑務所の罪人までもその教材を通して、思想武装をしています。ロシアの三千六百の学校でレバレンド・ムーンの思想の教材を使っているのです。彼らは叫んでいます。「私たちはアメリカに勝らなければならない! レバレンド・ムーンに反対するアメリカに勝らなければならない!」と、西洋の腐敗した退廃風潮であるホモセクシュアル、フリー・セックスなどを収拾する道は、レバレンド・ムーンの思想だけだと彼らは信じ、急いでいるのです。アメリカより先にレバレンド・ムーンに従っていこうと、叫んでいます。


罪悪の根は「不倫なる性関係」


 皆様! 神様がお好きですか。レバレンド・ムーンがこのようなことを展開しているのを御覧になる神様は喜ばれるでしょうか。教皇庁の教えと今度の大会に列席したロバート・シューラー牧師の教えが同じであり得ますか。もちろん、大きく違います。そうだとすれば、誰の教えが正しいか神様に尋ねてみてください。


 イエス様と聖母マリヤに対する皆様の理解が間違ったものだと、いくら教えてあげても、それ自体が統一教会に利益になることがあるでしょうか。しかし、皆様が間違いなく知らなければならない一つのことは、「地上で解かなければ、天でも解くことができない」ということです。それを早くから知ったレバレンド・ムーンは、生涯を懸けてこの道を歩んできたのです。


 皆様、イエス様が結婚をしなければならないでしょうか。結婚をしなければなりませんでした。イエス様は女性ですか、男性ですか。聖女がいるなら、イエス様も彼女と結婚をしたくないでしょうか。神様はエデンの園にアダムとエバを創造なさりながら、彼らに生殖器をもつことを共に許されましたが、何のためにそうされたのでしょうか。彼らが成長すれば、神様が彼らを結婚させてくださるでしょうか、させてくださらないでしょうか。問題は彼らの堕落にあります。堕落ゆえに血統が変わったのです。それゆえ、神様は彼らをエデンの園から追い出されたのです。


 本来、神様の体となるべきアダムと、神様の夫人格に立つべきエバが堕落することによって、神様自身の体と理想を病気にかからせ、怨讐になったので、それを御覧になった神様の心情はどれほど大変だったでしょうか。堕落は、自らを埋葬する墓です。人のものを奪い取っていく行動です。言い換えれば、堕落はフリー・セックスの根になり、個人主義の先祖になりました。


 今日のアメリカは、どのような国ですか。極度の個人主義、過分なる私生活の追求、フリー・セックス…‥このようなものを神様が好まれるでしょうか。行き過ぎた個人主義が追求するものは何でしょうか。彼らの話のとおりであるなら、天と地、世界、国家、社会、家庭、甚だしきに至ってはおじいさん、おばあさんまでも全部ほうり投げてしまい、父母と兄弟も失ったまま、ジプシーやヒッピーになってさまよい、雨が降り、雪が降れば、行く所がないので、自殺して、一生を終えようという話ではないでしょうか。


 しかし、人間の本心は極度の個人主義や、過分なる私生活の保障を願ってはいません。宇宙と国家、町や村、そして父母の愛を受けて暮らしたいのが、私たちの本心が願うところです。しかし、そうすることができないで、反対の道を行くうちに、良心が燃え尽き、本心との相反を感じるようになって、むしろ薬でも飲んで自殺するのが良いと判断し、自ら命を絶つ現象がだんだん増えていくのです。


 「蒔いたとおりに刈り取る」(ガラテヤ六・七)という真理が的中するのを目撃するわけです。アダムとエバがエデンの園にどんな種を蒔いたでしょうか。フリー・セックスの種を蒔きました。それを否定できますか。


 そうしたために、彼らが下半身を覆ったのです。幼子たちも父母が隠しておいた大切なお菓子を盗み食いして、見つかれば隠すのが本性の作用ではないでしょうか。もし、善悪の実を取って食べたなら、その取って食べた手や口を覆うべきはずであるのに、なぜ下半身を覆ったのかというのです。堕落は淫乱によって引き起こされたということを否定することができません。


 アダムとエバが堕落して落ちたものを救ってあげるためには、堕落した方向と一八〇度違う逆の経路を通してこそ、救ってあげられるということは、この上なく理論的です。堕落によって地獄行きの血統を受け継いだので、メシヤが来なければならないのです。


再臨メシヤの使命と真の父母、真の家庭


 メシヤは堕落前、神様が創造したエデンの園の場で、家庭を築くことのできる主人として来られるお方です。それをはっきり知らなければなりません! 理論的に合わなければなりません。メシヤはまず、神様に侍る家庭を築き、その家庭を通して国家を立てなければならないのです。このように、家庭が問題です。メシヤの家庭を中心として、接ぎ木する摂理をしなければならなかったのです。この死亡の世界で、誰が自分を救ってくれるかが問題です。それゆえに反対を受けたのです。


 旧約時代は、「目には目、歯には歯」(出エジプト記二一・二四)という原則のもとに蕩減してきました。イサクの妻であったリベカを御覧なさい。長子であるエサウと夫までもだまし、次子であるヤコブに祝福を奪い与えた女性ではありませんか。そのような女性を神様はなぜ愛したのでしょうか。そのような神様をどうして信じることができるのでしょうか。今まで、このような疑問を誰も解決できませんでした。レバレンド・ムーンが初めて解いてあげているのです。レバレンド・ムーンだけが神様の秘密をみな、知っているからです。


 では、どこで天国と地獄が分かれるか調べてみましょう。空中ですか。どこでしょうか。正に皆様の生殖器です! 深刻なことです。これが天地をひっくり返しました。この事実を誰が否定できますか。レバレンド・ムーンが発表した「原理」の本の堕落論に説明がなされています。疑問に思えば神様に尋ねてごらんなさい。皆様としては夢にも想像できない内容と理論をもって、体系立てておいたレバレンド・ムーンの「原理」の本に誰しも反対することはできないのです。


 レバレンド・ムーンが天国に行くか、行かないか、気掛かりなら、死んで霊界に行ってみれば、分かることです。きょうの夕べ、私の話を聞いて気分が悪くなったのなら、割腹して死んでいただいても結構です。そうすれば、分かるでしょう! レバレンド・ムーンがこの道を探すために、死の道を何度も超えてきたことを、皆様は知らなければなりません。神様を数百回も泣かせた人がレバレンド・ムーンです。歴史始まって以来、誰もレバレンド・ムーンほど神様を愛した人はいません。それゆえ、いくら世の中がレバレンド・ムーンを滅ぼそうとしても、私は絶対に滅びません。神様が保護してくださるからです。皆様もレバレンド・ムーンが教える真理圏内に入ってくれば、神様が共に保護してくださいます。


 生殖器を、目がつぶれた盲人のように、方向を失ったまま使用すれば地獄行きであり、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば天国の高い所に行くのです。これは明白な結論です。今、青少年の問題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年期に日陰で淫乱によって堕落して、フリー・セックスを蒔いたので、取り入れの時期である終わりの日には、必ず世界的に青少年たちのフリー・セックスの風潮が蔓延するようになる現象が現れるのです。


 終わりの日には再臨主が神様の真の愛を中心として、堕落圏内に陥った人類を絶対愛圏内に引っ張り上げ、救われる戦略を、サタンは知っています。ですから、サタンはどこにも愛の基準を置くことができないので、アダムとエバを堕落させる時に天使長がそうしたように、全人類をフリー・セックスに押しやって、裸になって死んでいく方向に全世界を引っ張っていくのです。人類がすべて天使長の後裔たる末路に直面するようになるのです。


 エデンの園からサタンの支配圏内に陥ったアダムとエバの後孫が、今日の人類なので、サタンは堂々と神様の前でも、この世界のすべての男性と女性を引っ張っていき、自分のやりたいとおりにすることのできる権限を主張するというのです。神様はサタンが何を願うかを御存じなのです。サタンはフリー・セックスを通して、ただの一人も神様の前に帰れないように、言い換えれば、全人類を完全に駄目にしてしまい、地上地獄をつくろうとするのです。


 今日、私たちが生きているこの世界が、地上地獄となっていく世界でなくて何でしょうか。したがって、このように地上地獄になったこの世界と一八〇度異なる、正反対の道を求めていけば、天国に行く道があるのです。再臨主が来て、この世の中を救ってくれるのも、正にこのような一八〇度反対の道を教えてくれて、天国に導くことなのです。


 それでは、フリー・セックスの道と一八〇度異なった正反対の道とは、どのような道でしょうか。偽りの父母が現れて、つくっておいた道がフリー・セックスの道なので、真の父母が現れて、この間違った道を正してあげなければならないのです。神様は干渉なさることができません。その地の主権や軍事力、経済力、政治力でも手をつけることのできない問題です。偽りの父母によって引き起こされたことなので、真の父母がメスをもって手術しなければ、決して人類は救われる道がないのです。


 罪を犯した者がその罪を蕩減しなければならないのです。家庭で結婚を誤って、血統が一八〇度ねじれてしまったので、真の父母が来て、結婚させ、一八〇度原状に戻すことによって、天国に行く道を開いてあげるようになるのです。


純潔と真の家庭運動を通じた平和世界の実現


 神様がアダムとエバに期待したものとは何だったでしょうか。絶対愛を期待したのです。この場にお集まりの世界の指導者の皆様が、このような内容を知って、お帰りになって、皆様方の国で絶対愛を探す運動をお始めになれば、皆様の家庭と国は、そのまま天国に直行できるということを、御理解くださるようお願いいたします。絶対愛が存在する所には絶対相対が誕生するようになり、自動的にフリー・セックス、ホモ、レズビアンという言葉は消えるようになるのです。このような運動を世界的に広げるためにレバレンド・ムーンは一生を捧げて、受難の道を克服してきました。今は勝利のファンファーレを響かせ、世界に号令をかけ得る時が来たので、天の前に感謝をするものです。


 世界平和に向かっていくことのできる礎石を置くのも家庭であり、世界平和への道を破壊し得るのも家庭です。人類の希望と幸福の土台が破壊された所がアダム家庭でした。したがって、きょう、このように「世界平和家庭連合」を創設し、皆様の家庭も、今からはサタン世界と一八〇度異なる方向に行くことのできる道を開くようになったことを、天の前に感謝せざるを得ません。この道でなくては、自由も幸福も理想もありません!


 皆様は今、絶対、唯一、不変、永遠の生殖器を中心として、これを基盤にして神様をお求めになるようお願いします。この基盤が真の愛の基盤、真の生命の基盤、真の血統の基盤、良心の基盤にならなければならず、ここから正に地上天国と天上天国が生じることをお分かりにならなければなりません。


 すべての男女が自分たちに所属した生殖器が、実は、自分のものではなく、主人が自分の相対だということを認定するようになれば、私たちすべては頭を下げ、謙虚な姿勢で愛を受け入れるようになることでしょう。愛は相対なしには来ないのです。相対から来るということを知らなければなりません。「ため」に生きないところには、愛はあり得ないのです。絶対、「ため」に生きるところで絶対愛を見いだすことができるということを肝に銘じられ、皆様も今からお帰りになれば、サタン世界との一戦を覚悟なさるようにお願いいたします。


 どこに行かれても、テレビやその他、言論機関を通してレバレンド・ムーンの話を伝えてみてください。絶対に滅びません。地獄になったこの世界を、果たしてどんな力で変えることができるでしょうか。神様の愛、すなわち絶対、唯一、不変、永遠であられる神様の真の愛を中心として、私たちの生殖器も絶対、唯一、不変、永遠の基準に立て、生きていかなくては不可能なのです。私たちの生殖器の本来の主人は神様であられます。


 今、私たちすべてが共にこの目的のために前進しましょう。神様の真の愛を実践する前衛隊になりましょう。今から家にお帰りになられたら、夫と妻でもって、自分たちの生殖器が絶対、唯一、不変、永遠な器官であることを互いに確認し、それが正に自分のものではなく、あなたのものであり、あなたが今までよく保管してきたものが自分のものだと宣言し、互いのために生き、永遠に奉仕し、感謝しながら生きようと、お誓いください。


 そのような家庭であってこそ、永遠に神様がとどまるようになり、そのような家庭を中心として世界的な家庭編成がなされるのです。


 そうして、皆様共に次回三百六十万双の祝福結婚式に列席なさり、地上天国に入籍する真の家庭になるようお願いいたします。ありがとうございました。


第一章 宇宙の根本秩序

一、神様の二性性相の大展開

 一) 神様は二性性相の中和体


 宇宙を観察してみれば、すべての存在において、陽性と陰性の二性性相が相対的関係を結ぶことによって存在していることを知ることができます。これは、鉱物という次元から始まって、すべての場合に適用されています。分子は、陽イオンと陰イオンの結合を通して形成され、植物の場合、生存と繁殖は雌雄を代表する雌しべと雄しべの結合を通じて成されます。このような二性性相は、動物の場合より一層明らかです。魚類、鳥類、ほ乳動物等、すべての動物は雄と雌によって存在します。最後に、神様の最高の創造物である私たち人間も、男性と女性で区分されています。最初の男性アダムと最初の女性エバは、人類の始祖です。このような二性性相の存在目的は、何ですか。神様は、なぜこのような方式によって創造されたのでしょうか。

  

 神様が男性と女性を造られて何をしようとされたのでしょうか。見ようとされたのです。神様は、女性ですか、男性ですか。女性にもなり、男性にもなられます。男性性稟だけをもっているとするなら、女性だけを見つめられるようになるのです。アダムは、陰で生きなければなりません。そのように、女性も見つめて男性も見つめることができる二種類の性稟を、共に備えていらっしゃいます。ですから、結局縦的な立場に立ち、男性も好まれ女性も好まれる、二性性相をもった中和的主体だというのです。それが神様でいらっしゃいます。男性も必要であり、女性も必要であり、どこへでも行って迎え入れ、いつでも主体の位置にいらっしゃるので主体格です。それゆえに、格位では男性格位です。そして、横的というものは女性格位をいうのです。

  

 神様はお一人でしょうか、お二人でしょうか。お一人です。お一人なのに、どのようにして二人の人に入っていくのでしょうか。この人に入ってからあの人に入っていき、あの人に入ってからこの人に入っていってと、そのようにするのですか。また世界には数多くの人々がいますが、数多くの人々にどのように入ったり出たり、出たり入ったりされるのでしょうか。これが問題になるというのです。それで、私たち統一教会の「原理」で、神様は二性性相の中和体であるという話が出てきたのです。ここには規則があります。神様は二性性相でいらっしゃる中和的本体です。これは真に素晴らしい結論です。

  

 神様は、二性性相の男性的主体だというのです。それでは、その神様は、誰に似ているのでしょうか。私たちに似ていて、私に似ていて、皆さんに似ているというのです。同じなのです。それゆえに、「主体格」という言葉は、必ず相対格位を介在させて成立するのです。そのような概念が含まれています。相対格というものを必要とするために、「主体格」という言葉が出てくるというのです。

  

 原理講義をする時、創造原理で「神様は二性性相の中和的主体としていまし給い、中和的存在になっている」と簡単に言います。中和的主体になっているというのですが、それはどういうことですか。座ってそのまま神様が男性と女性の中和的存在になって、何がおもしろいでしょうか。何を中心として中和するのですか。愛を中心として中和的存在だということを知らなければなりません。

  

 神様は何を願うのでしょうか。創造をされて、創造理想を完成して何をしようというのですか。神様御自身も愛をなそうというのです。神様御自身が願うことは何でしょうか。神様は、「原理」でいえば二性性相の中和的存在です。主体的存在です。このように、ぱっと一言で定立します。男性格を備えた主体的存在だというのです。

  

 何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます。

  

 神様から造られた人間だという時、人間はどのようにしなければなりませんか。神様が愛の相対を造られた目的は、喜ぶためなのです。何を中心として喜ぶのでしょうか。愛を中心としてです。絶対者であられる神様も愛が必要だというのです。そうではないですか。

  

 神様が二性性相の主体としていらっしゃるといいましたが、二性性相の神様だとしても必ず愛の対象が必要なので、天地万物を創造されたのです。

  

 愛は、男性と女性だけではできません。男性と女性は、ただ二つの存在です。男性と女性だけを連結させては愛が成り立たないというのです。男性と女性を総合して、中心に立って動かすものが愛です。それでは、男性と女性が和合して愛を中心として動くことがどこから始まったのかといえば、神様の二性性相からなのです。男性性稟と女性性稟が和合したものを相対的に展開させたのです。それで神様は、自分の愛の相対が自分より優れていることを願われるのです。

  

 統一教会の文先生は知恵深い方なので、「神様は二性性相の中和的主体だ」と結論づけたのです。右側から見れば男性に見え、左側から見れば女性に見えるというのです。二性性相がそうではないですか。内外になっているので、上から見れば男性に見え、下から見れば女性に見えるというのです。それでこそ女性も「よし!」と言い、男性も「よし!」と言うのです。

  

 原因と過程と結果が明確な内容をもってくる、科学的論理のような論理をもってくる、そのような宗教人が出てこなければ、宗教世界を救うことができないのです。統一教会の「原理」がそうです。これこれこうだからこうだ、神様は二性性相で存在される、宇宙の存在が主体と対象である、ゆえにこの世界は、神様が愛の主体であり、人は愛のパートナーとして造られたという結論がぴたっと合うのです。それが歴史を超越して、愛によって、永遠の世界と結ぶことができる力の作用によって継続されるのです。その千年、万年続く愛の作用が始まったのですが、それが普通の力ならば弱くなるはずですが、弱くなりません。

  

 神様も愛を中心として一つになるのと同じように、統一教会もそのような観念をもっているために、世界を統一させることができるのです。キリスト教はそうではありません。「神様は絶対的な万能の神様だ。何でもすべてなさることができる」と考えています。しかし、それは誤りです。神様は何でもできますが、本来の原理原則においては、愛は二人で成すことができるようになっています。それゆえに、二性性相を成すようになっていて、愛もその条件の上で可能なのです。

  

 神様が二性性相の中和的存在としていらっしゃるならば、二性の中和的存在の中心は何ですか。愛です。神様も愛を中心として生きてきました。

  

 「原理」で論じている二性性相の主体としていらっしゃる神様は、いかなるお方ですか。二性性相の神様であると同時に、二性性相の中和的主体としていらっしゃるお方です。その主体の本質が愛です。絶対的愛だというのです。

  

 「原理」の総論は、神様に対してどのように表現しましたか。神様は、二性性相の中和的主体であると同時に愛的主体です。

 「愛」というこの言葉も入れなければなりません。それを必ず入れなければなりません。

  

 神様がアダムとエバを造って二性性相を分立して中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在でなければなりませんか。愛を中心として中和的存在でなければなりません。それとともに、格位においては男性的主体格でなければなりません。

  

 なぜ神様が人間を創造されたのですか。このような根本問題、私がなぜ生まれたのかという根本問題をはっきり知らなければなりません。神様は愛の主体です。「原理」を見れば、神様が二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在だという話はまだしていなかったのです。そこに、愛を中心として統一的存在だということを添付しなければなりません。

  

 男性の愛と生命の起源はどこですか。神様でしょう。二性性相の中和的主体であると同時に愛の根本であるお方が神様です。『原理講論』に「真の愛の起源」という言葉を入れなければなりません。「真の愛の起源が神様だ」という言葉を入れなければならないというのです。『原理講論』を修正することができる主人公は私しかいません。それを知っていますか。

  

 問題の出発点は、神様がいるかいないかということなのです。神様がいらっしゃるならば、人間とどのような関係にあるのですか。神様が人間と関係を結ぶためには、人格的神でなければなりません。人格的な神だということをはっきり悟ったのです。人格的神になろうとすれば人間のようでなければなりません。人間には心があって体があるように、このような素性があるので、人間を造られた神様も、人間と共に共同目的をもつことができるその本体ならば、人間に似ていなければなりません。二性性相という概念は、ここから出てくるのです。

  

 神様が人格的な神であるように、神様は誰に似ているのでしょうか。神様は、アダムとエバを一つにしたそのようなお方なのです。二性性相の主体は神様です。男性と女性を雑然と一つにしたようなものではありません。一つに合わせたものですが、主体格を備えたそのようなお方です。この主体格の無形の神様の前に、主体格を身代わりして男性と女性が一つになり、その無形の神様の前に相対格位を備えて結ばれることが神様の創造理想を完成することであり、私たち人間、アダムとエバの理想を完成することになるのです。それ以外にはありません。

  

 東洋哲学では人格的神を知らなかったのです。人格的神がいるということを知りませんでした。陰陽といいますが、漠然とした陰陽では人格的起源となることができないのです。それではいけないというのです。根のすべてのものを備えなければなりません。人がこのようになっているならば、男性と女性のすべての神性を備えることができるそのような根にならなければなりません。そのような意味で、統一教会で教える二性性相、この論理は偉大な論理です。


) 被造世界は神様の二性性相に似て出てきた


 宇宙の根本である神様がいらっしゃるなら、その神様は、主体と対象的な観念をもった存在だというイメージが出てきます。それゆえに、私たち統一教会の「原理」でいう二性性相は偉大な言葉だという結論に到達するのです。主体と対象が作用し始めるところから存続が展開するのです。生まれ始めるというのです。このような根本のもとでなされているので、すべての宇宙は二重的です。二重的になって、授け受ける相互作用をするのです。

  

 被造世界は神様の性相に似ています。すべての被造物は、二性性相の分立体として展開されているということを知っています。主体と対象の関係、それから上下関係、前後関係、左右関係の相対的関係によって連結しているということを私たちは知っています。そのような環境的制度の条件をもった目的とは何でしょうか。愛を目的として動くのです。

  

 主体と対象はどこから出てくるのですか。これが出てくることのできる基台がなければなりません。統一教会では、これを二性性相といいます。この主体と対象は、人間自体からつくられた主体と対象ではありません。ここにその基台が必要なのです。その基台が二性性相であり、二性性相の中には本性相と本形状がなければなりません。

  

 主体と対象があって、お互いに作用しなければ力が生じないのです。力は、一人で出てくるものではありません。力は、必ず主体と対象があって初めて生じるのです。私が対象である時、私が心に悪いと感じても主体がなければならず、良いと感じても良いと言うことのできる主体がなければなりません。それで、統一教会の「原理」に、「二性性相」という言葉があるのです。

  

 「原理」で見ると、神様は二性性相の中和的主体です。主体というものは、何を中心として成立するのですか。愛を中心として成立します。ですから、横的な基盤が必要なのです。刺激的な基盤を多方面にもちたいと思って拡大展開させたのが被造世界です。

  

 どのような種でも、二つのかけらで一つになっています。豆のようなものも二つのかけらです。神様が宇宙の根本なので、神様の形状に似なければ根本の種になり得ないのです。

  

 生命の種は必ず二つになっています。これは天地の道理です。神様は、二性性相としてお一人の人格になっています。種の根本を象徴するのです。種には胚芽があるのですが、胚芽には、根になる部分、芽になる部分があります。自らが存続することができる内容をすべてもっているのです。そのまま置いておいても、完成した実体を構成できるようになっているのです。

  

 神様が二性性相になっているので、私たち人間も二性性相になっているというのです。万物もプラス・マイナスの二性性相になっています。神様と人間と万物を合わせて連結させれば七数になります。これは、段階で見れば三段階であり、広げれば四位基台です。この三数と四数が調和をなして統一されれば七数になります。七数は、創造目的完成数です。

  

 宇宙は、すべてプラス・マイナスになっています。分子を見ても、プラスイオンとマイナスイオンになっています。すべて相対圏になっているというのです。原子を見ても、陽子と電子になっています。宇宙構成の根本がそのようになっているのです。植物は雄しべと雌しべ、動物は雄と雌、人は男性と女性になっています。すべてが相対的になっています。そのように相対的になり、一つの体制圏に収拾されなければなりません。神様が主体なので、神様を中心として収拾されなければなりません。その創造の意志に一体化した相対圏がつくられなければ、神様の創造の喜びはあり得ないのです。

  

 統一教会で神様を二性性相の主体としていらっしゃるお方だというのは、すべて科学的な分析結果によって、間違いなくそのようにいらっしゃるという事実を知っていうのです。ですから、主体と対象が完全に一つになれば、神様の力がそこに永遠に存在するのです。主体がなく対象がないところには力は存在しません。それでは、神様はどのように存在するのでしょうか。神様自体内にある主体と対象の力が授け受けすることによって永存します。

  

 「原理」は二性性相を言っています。二性性相は、なぜ必要ですか。二性性相がなければ創造の調和をつくり出すことができないのです。二性性相があるのでお互いに授け受けできるのであり、その一つは骨と同じで、一つは肉と同じなので、授け受けすることによって新しい形態が展開できるのです。神様が二性性相それ自体なので、神様を中心としてその相対世界が生まれざるを得ないというのです。このように二性性相は、創造的妙味を成し遂げるために必要なのです。

  

 「原理」でいえば、全体を連結するものが万有原力です。すべてのものに神様の二性性相が入っていって、それがすべて万有原力になっているのです。核心は同じです。

  

 男性には女性の性相があります。女性も男性の二性性相の要素をもっているために、男性が暮らすことのできる場所があるのです。神様は二性性相なので、女性とも男性とも暮らすことができます。それと同じように、一つの相をもった夫も、女性が二性性相の要素をもっているために夫人の胸の中にとどまることができます。女性も男性の心の中にとどまることができます。一つです。離れることができないのです。

  

 アダムとエバ、男性の先祖、女性の先祖です。男性の種、女性の種です。半分の種なのです。すべてのものが一つの殻の中で二つになっています。それで、神様と宇宙を象徴するのです。神様が統一された中には二性性相があるのですが、その二性性相には胚芽があります。種があって核があるのです。

  

 神様も無形の主体でいらっしゃるために、実体相対圏、絶対的な有形の実体を必要とせざるを得ないということが理論的な結論です。それゆえに、神様も二性性相をもっているのです。それは、無形の性相を有形の実体として展開する創造のためのものです。それを中心として宇宙の被造世界を考えてみれば、鉱物世界もすべて主体と対象の関係をもって運動をしています。分子で見るときはプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象の観念であり、原子で見るときは陽子と電子が主体と対象の観念です。

  

 神様は、女性性稟もあって男性の性稟ももっている二性性相によって成されています。神様は、神様の中にある男性の性稟を集めて男性を造られ、女性の性稟を集めて女性を造られたのです。このようになれば自然に主体と対象に分かれ、この主体と対象がお互いに授受作用をすれば、これが再び一つになって作用するようになります。これが正に統一教会の「原理」でいう正分合作用だというのです。この偉大な統一教会の「原理」が、今後哲学において、宗教において問題になるはずです。

  

 愛のみ旨を成していくためのものですが、愛を成すことができる存在は誰ですか。神様の中にあるものをそのまま表したような、一つ残らず自分に似た同じ姿の息子と娘を造られたのです。それゆえに、統一教会でいう「二性性相」という言葉は、この地球上で初めて聞く驚くべき内容だというのです。二性性相の中和的主体、これはどういうことでしょうか。天地の道理がすべて入っている言葉です。

  

 愛といっても、一人でいる所には通じません。二つが和合する基準を中心として、より高い次元に引き上げるために作動するのです。これが愛の力です。愛が作動する時は、相対という橋がなくてはならないので、万有のものは愛の理想に和合することができるようになっているのです。神様がさらに愛の理想を実践するためには、相対になるようにせざるを得なかったという事実を知らなければなりません。それで、「二性性相」という名前をつけたのではないですか。

  

 全体を糾合して一つの原則的な基本を明らかにしてみれば、主体と対象の関係、ここから存在と作用を起こすのです。主体と対象によって存在し作用すると見るのです。私たち統一教会は、これを中心として二性性相という概念をキャッチしました。それでは、二性性相がただそのままいるのでしょうか。ストップしているのでしょうか、動いているのでしょうか。ではどうして動くのでしょうか。なぜ動くのかというのです。損をするために動くのでしょうか、利益を得るために動くのでしょうか。作用して運動するのに、損をするために運動するという法則があるならば、私たちの理想の作用や希望に向かって前進する作用はあり得ないのです。損をするならば、これがますます小さくなっていくというのです。小さくなってストップしてしまうというのです。しかし、この小さいものが利益のために動くならば、ますます大きくなっていきます。

  

 神様御自身は一つの体です。二性性相の主体としていらっしゃるために自体内で愛するといいますが、思考では「男性的主体の位置だ、女性的対象だ」といって愛を感じることができるのかもしれませんが、男性と女性が分立された立場では刺激的な衝撃を感じることができないというのです。

 したがって、アダムとエバが神様御自身をさて置いて、自分たちの間でもっと衝撃的に愛するのを見る時、愛の主体であられる神様は悪く思われないというのです。なぜですか。その二人が一つになったその場を相対として喜びを感じることができる主体者でいらっしゃるために、その相対がより価値的な愛を感じるようになる時、神様も幸福を感じられるようになるというのです。それが神様の人間創造を中心とした愛の第一法度ではないかというのです。したがって、そのような愛の教育を受けることなくしては、その場に行くことができないのです。

  

 本来力とは、作用すれば減少するのですが、愛の力だけは作用すれば強くなります。無限に拡散したものは、その中に無限に集約された力があるために引き寄せるのです。

 ですから、循環作用の内的力を自分自体がもっているということを知らなければなりません。そのような論理を適用しようとするので、私たち統一教会では二性性相の論理がどこにでも適用されるのです。文先生に知恵があるので、それをすべてキャッチしておきました。

  

 真の愛がどれほど良いかというのです。神様も愛ゆえに生まれました。愛ゆえに生まれました。気分が良いでしょう? 「ああ、文総裁が言うには、神様は愛ゆえに生まれたそうだ!」。神様を捕まえて分析してみてください。神様の二性性相まで先生が分析しました。その二性性相にも、また二性性相があるでしょう? 皆さんもすべて男性ホルモンと女性ホルモンが出てきますね。分からなければ病院に行って診察してもらってください。それゆえに、すべて通じるようになっています。

  

 創造原理の二性性相がなぜなければならないか、どのようなものが主体でどのようなものが対象かという問題を根本的に解いて、解いて、これ以上解くことができない時、戻ってくるというのです。いくら掘り下げても戻ってくるというのです。これが千年、万年そのようになるので、仕方なく「ああ、この道しかないな。これ以上探す必要はない」という時、「原理」という言葉が成立するのです。それで、原理というものは変わらないのです。


 三) 神様の宇宙創造の動機は愛


 天と地自体も、自ら存在したくて存在するようになったのではなく、ある力の源泉に立脚して生まれたということを考える時、ここよりも一段階上がって、中心的な主体を備えて天地を動かすか、あるいはここに創造をするという力の作用体、根本の作用体が必ずなければなりません。このような立場にいるそのお方を私たちは「神様」と言いますが、民族が違い、言語が違うことによって異なった表現をします。しかし、その名詞が問題ではありません。この宇宙の中心がなければならないというのです。その中心は、この存在世界全体の前において、存在が作用して移動してもその移動するところについていって移動せず、動く相対的な世界の中心において億千万年動かない中心的な本体がないといけないというのです。

  

 宇宙の根本を掘り返してみた時、神様はなぜ生まれたのかという問題は根本に入ります。神様はなぜ生まれたのか、何のために生まれたのか、神様は何をするのか、このようなことが問題なのです。今日、キリスト教の盲目的な信仰時代は過ぎました。むやみに神様を信じる時代は過ぎました。このような推理的な結論に続いて、適切な神様に対する内在的性稟、外向的なみ旨に対する世界との関係、神様における内外との関係、この関係というものが問題です。

  

 人間が第一の存在になることはできないのです。いくら優秀だとしても原因的存在になることはできないというのです。私たちは、あくまでも第二の存在です。結果的存在です。それでは、この宇宙の原因的存在とは何ですか。神様がいるならば、神様自体が原因的存在であり絶対者です。そのような絶対者がいるとするなら、絶対者自身が何を必要とするでしょうか。何を中心として人間や被造物と関係を結ぼうとされるでしょうか。これが根本問題です。神学で取り扱わなければならず、哲学で取り扱わなければならない重要な問題です。神様と人間、原因と結果を連結できる内容は何なのかというのです。

  

 神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本はどのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。皆さんと同じです。父母の愛によって受けた皆さんの生命の種、一つの細胞が大きくなって今の皆さんが生まれてきたのと同じように、神様もそのように大きくなったというのです。神様も、目が生じ、鼻が生じてこのように生まれました。全く同じだというのです。

  

 真の愛というものは、最も深いところから出発します。では、真の愛の起源は何ですか。神様、ゴッド(God)です。「ゴッド」という発音を韓国語で言えば、昔の人々が使った帽子のことを表します。帽子は、てっぺんに使うものを言います。同じ意味だというのです。ここにおいて、性相と形状がなぜ分かれるのでしょうか。問題になります。宇宙の根本とはどこでしょうか。宇宙の根本はどのように生まれたのでしょうか。これが問題です。神様がどのように生まれたのかというのです。神様を見ましたか。それはどのように生まれましたか。皆さんはどのようにして生まれたのですか。宇宙のすべての要素の津液を取って、総合して生まれたのが正に「私」です。

  

 愛の中心は神様なのです。宇宙生成以前からいらっしゃる、唯一的であり、永遠的であり、不変的な存在なのです。ところで、愛は心情の流れです。内的な心情が外的に流れるものが愛です。ゆえに神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。この根本原因からの宇宙の生成が、正に神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。

 それでは、神様は、どうして宇宙と人間を創造することができたのでしょうか。それは、神様が心情をもっていらっしゃるからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところに発展運動(創造)が展開するためです。ところが、その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来心情というものは目的を指向するものだからです。ですから、創造目的は、心情を充足させる喜びであるといわざるを得ません。そして、この喜びは、被造物、特に人間が神様に似た時に訪れるのです。

 ゆえに神様の愛と創造性に似た人間と国家が、神様が創造しようとされた目標だったのです。これは、人間の理想がそれを追及することを見ても知ることができます。理想とは、当然享有するようになっている世界を追及する熱望なのです。

  

 宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。

  

 神様は、なぜ創造をされたのでしょうか。愛のためにされました。愛は、一人ではできないのです。相対がいなければなりません。一人でいる愛は縦的な愛なので、環境的条件がありません。

  

 神様は絶対者ですが、何が慕わしくて人を創造されたのでしょうか。黄金も何の知識も必要ない全知全能の神様が、もっていないものは一つもない神様が、何が必要で人を造られたのですか。

 すなわち、創造の根本動機は何ですか。それは権力でもなく、知識でもなく、所有でもないのです。神様には愛の基盤がなかったのです。神様も一人では愛を成し遂げることができないのです。それゆえに、天地創造の動機が愛だというのです。

  

 神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。その全知全能の絶対者が、何がなくて人を創造されたのでしょうか。愛のために創造されました。愛は相対がなくては現れません。相対がいないのに作用するようになれば損をします。すべて自分を保護するようになっています。損をするところでは絶対に動きません。愛は、相対が現れれば、ないようですが、飛び出してきます。

 神様にも愛がありますが、男性的な神様が静かに一人でいる時には、その愛が現れません。これを現してみせることのできる相対が、正に人です。

  

 全知全能の神様、遍在する神様が、何が不足で人を造られたのでしょうか。神様にお金が必要で、金の塊が必要で、ダイヤモンドが必要ですか。そのようなものはいくらでもあります。それでは、知識が必要ですか。神様は知識の王なので、知識はいくらでもあります。それならば権力が必要ですか。権力とは、神様にとってあってもよく、なくてもよいものです。神様に不足だったのは愛です。愛というものは相対的関係においてのみ成立するものだからです。神様も、愛を必要とする神様にならずしては、この創造世界と人間世界が関係を結ぶことができないのです。ですから、愛をもって訪ねてこなければ存在世界とは関係ないという結論が出てくるので、神様は愛を標準として定めてこられたのです。

  

 神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。いくら絶対者だといっても一人では喜びを感じることができず、仮にうれしいと思っても喜びの刺激を感じることができないので創造されたのです。絶対者がいくら、「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができませんし、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。

  

 神様が自分自身だけを考えたとするなら天地創造をされたでしょうか。創造とは、力の投入をいうのです。芸術家は、最高の傑作品をつくることが願いです。芸術家は、傑作品をつくるためにあらゆる精誠を投入します。すべてを投入するところにおいてのみ完全な傑作品が出てきます。これ以上できないという時に、初めて傑作品が生まれます。

 創造は、投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入しなくてはいかなるものも生まれません。完全な投入をするところから完全な対象が成立するという原則をおいて見る時、神様は主体として対象を造るために完全に投入されました。神様御自身が、自分自身のためにではなく、対象のために生きるといって運動を始めたのが創造です。

  

 創造するということは、力の投入をいうのです。投入をしたのですが、どれほど投入したのでしょうか。神様がみ言によって造られる時、「このようになれ、あのようになれ」といたずらに創造したかのように理解しています。違います。そうではありません。ここには真の生命を完全に投入して、真の愛を完全に投入して、真の理想を完全に投入しました。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。

 それゆえに、創造する前と創造したあとが違います。創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。

  

 神様が人間を創造される時、自分よりももっと立派な愛の相対を造ろうとされたので、神様のすべての要素、見えない無形の要素を一〇〇パーセント実体化させるために投入しても、もっと投入しようとされたのです。そのことが意味するのは、投入して忘れてしまうことができるその場においてのみ、真の愛の起源を発見することができるというのです。簡単な内容です。正にこれが、宇宙の根本原理です。

  

 愛を占領しようとするなら、投入して忘れ、投入して忘れてしまわなければなりません。なぜそのような愛をもたなければならないのですか。愛は、動けば動くほど小さくなるのではなく、大きくなっていくものだからです。力学世界での自然現象は、動けば動くほど、作用すれば作用するほど小さくなるでしょう? 自然世界は、動けば動くほど小さくなるのですが、真の愛の世界は、動けば動くほど大きくなっていきます。神様がそれを御存じだったので、真の愛を中心として創造を始めることができたのです。

  

 宇宙はどのように出発したのですか。神様をおいて見る時、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自分を消耗するところから始まります。それでは、自分を消耗して相対をつくって何をしようというのでしょうか。二つとも消耗するのですが、消耗して得るものが愛です。愛さえもてば、いくら消耗しても良いというのです。そのような概念が愛なので、愛を中心として神様が創造を始められたのです。

 神様が損することをされたのではありません。投入することは損害ですが、なぜ神様がそのようにされたのでしょうか。愛はすべてのものを満たしても余りある力があるので、消耗させて投入しましたが、その代わりに愛を取り戻してくるのです。真の愛は、投入するほどますます小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていきます。そうでなくて、真の愛が小さくなるという原理ならば、神様自体が投入して消耗してしまうのです。反対になります。真の愛は、投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。

  

 愛には創造能力があるので疲れません。愛の心をもてば、いくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつも補充し得る愛の力があるので疲れないのです。それで、難しくて苦痛でも嫌ではないのです。それが嫌ならば行くことができません。愛ゆえに生きる道には、「嫌だ」という心を永遠にもつことはできません。真の愛ゆえに生きる道には、永遠に「嫌だ」という心はあり得ないというのです。神様の本質には怨讐の概念がありません。悪の概念がないのです。それは、真の愛の中にいらっしゃるからです。

  

 神様の創造理想を中心として、投入、投入、投入しなければなりません。投入をすれば巡り巡るのです。空気を例に挙げて、絶対低気圧と高気圧があるならば、その中間の気圧が生じます。誰が呼ばなくても天が降りてくるのです。それゆえに、一〇〇パーセント以上投入したいと思う人は、常に天が満たしてくれるのです。宇宙の原則がそうです。完全に投入して忘れてしまうところには永遠の運動が連結するので、その基準において永生の論理が出てくるようになるのです。永生、永遠の生命、そうでなければ、統一原則をどこから引き出すことができますか。「ため」に生きるようになればぐるぐる回るでしょう? ぐるぐる回ってどこに行きますか。どんどん小さくなって上がっていきます。上がっていくのです。くるくる回って広がれば下がっていきますが、徐々にすーっと上がっていくために、神様は、自動的にアダムとエバの肩の上に両足を載せざるを得ないのです。

  

 なぜ神様がいらっしゃるのでしょうか。何のためにいようとされるのですか。愛のためにいようとされるのです。それで、愛の相対が必要なのです。そのようにして全知全能の神様は、愛の相対を創造しなければならなかったのです。

 創造の本質的理想が愛を中心として創造を始めたということを、これまで私たちが全く知らなかったというのです。愛を中心として、すべての被造世界が創造されたというのです。

  

 神様の願いは、真に与えることができる世界的な踏み台をもつことです。神様は、与えることにおいても誰も讒訴することができず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を願われます。そのような場を世界的に広めて、万民がそこで暮らせるようにすることが神様の収めようとする所期の目的です。

  

 愛が先ですか、生命が先ですか。愛が先です。地球が神様の生命から出てきたからといって、生命が一番だとはいえません。愛が一番だというのです。神様は、天地創造を生命からしたとしても、その生命の発源地、動機は愛です。生命が生まれたのは愛のためです。

  

 世界の一番になるものは何ですか。神様が一番です。その位置に上がっていくのです。上がっていって何をしようというのですか。神様の愛を中心として、宇宙を自分のものにしようというのです。そうです、皆さんも全員欲心があるでしょう? その欲心、欲望のすべてを完成するには、お金をもって、自分の知識、自分の権力をもってはできません。唯一、愛です。これが統一教会の「原理」の真髄であり、人生哲学の根本です。今までこれを知りませんでした。簡単な内容です。


二、宇宙は主体と対象でできている

 一) ペア・システムが宇宙存在の原則


 万物は、鉱物世界でも植物世界でも、愛を基台として、愛の主体と対象関係の因縁を通じて理想的分母をもって生まれました。万物は結果の存在なのです。そして、結果の存在は、原因的内容なくしては生まれることができません。それで、私たちは、その原因的存在を神様といいます。それで、神様を中心とした愛の圏内で、東西南北、上下、前後左右を問わず、いつも和合して和動するためにすべての鉱物世界もペア・システム、主体と対象の関係にあるのです。このようにペア・システムで構成されているというのです。鉱物世界も動物世界も植物世界も人間世界も、同じです。

  

 創造をするにおいては、人間を中心に、人間をモデルとして東西四方に広げて橋を架けてつくったのです。それで、すべての万物、鉱物、植物、動物界、すべてが相対になっています。すべて相対につくったというのです。そのように縦的な道と横的な道をペアでつづりながら行くのです。ジグザグに行くもの、このように運動するもの、様々な形態の作用を経ながら、ペア・システムを中心とした万物は、理想的愛を訪ねていくことができる人間の教材です。

  

 すべての被造物は、主体と対象のペア・システムになっています。なぜそのようになっているのでしょうか。すべての被造物、存在世界は、それ自体の愛を絶対視する立場に立っているために、それを中心として授け受けして一つになるために、主体と対象関係、ペア・システムになっているのです。そのようになっていないものがありません。すべて愛ゆえに生まれたのです。

  

 宇宙には主体と対象の関係が必ず必要であり、存在するすべてのものは主体と対象の因縁に従って存在するようになっているので、この宇宙はペア・システムのコンセプトを中心として造られました。そのように生まれたのは、愛を中心として、愛を必要とするためにそのように生まれたという結論を下すことができるというのです。鉱物も同じです。プラスイオンとマイナスイオンが授け受けします。植物世界も必ず雌しべと雄しべを中心として、動物も雌と雄を中心としてすべて存在するのです。

  

 鉱物世界も陽イオンと陰イオン、すべて相対になっています。百七個にもなる元素も、どこにでも行ってくっつくわけではありません。実験室でいくら強制して付けても駄目です。しかし、自らの相対になると、一つになれないように無理にいろいろしても、神様が止めてもぴたっとくっつきます。それは知っているでしょう? すべてペア・システムになっています。鉱物もそうであり、動物も植物もそうです。すべてペア・システムになっています。すべて陰陽の道理に通じています。

  

 この世の中のすべての存在は、ペア・システムになっているというのです。ペア・システムになっているために、鉱物世界、植物世界、動物世界を問わず、彼らが連合するためには、必ず主体と対象が愛という概念を中心として連結するようになっているというのです。

  

 愛をもってする時は、通じないところがないのです。それゆえに、この宇宙はペア・システムになっています。鉱物世界もペア・システムです。植物もペアでしょう。動物もペアです。何を中心としてですか。級は違いますが、垂直の愛を中心として、次元は違いますが、この大宇宙に愛を中心として、どのような空間でもすべてそうだというのです。水平線上の位置に自分の存在を決定し、宇宙空間に浮いているのです。これらはすべて、愛ゆえにそのように生まれたのです。

  

 すべての被造世界は、ペアの組織体制で連結しています。鉱物世界もそうです。すべてのものがプラス・マイナス作用をするのです。重力をもった地球星上でも、強い引力関係をもっている磁石は、その引力が地球の重力よりも強いために作用が表向きに現れるだけであって、磁石以外のすべての要素もプラス・マイナス作用をするのです。意識化運動も電流を通したプラス・マイナス作用を通して展開するのです。ペア・システムの中心にあるものとは何ですか。その中央には、自分なりに二つを連結させて保護することのできる中心軸があるのですが、その軸が正に愛の軸です。ですから、鉱物世界の元素も相対基準になるもの同士では自ら一つになりますが、相反した元素同士では、いくら神様が命令して、またどのような実験室の主人が命令して、いくら千年精魂を込めても一つになることができないのです。

  

 宇宙は、愛を離れては生きることができないようになっています。ペア・システムになっているのです。昆虫たちも、見れば雄と雌がいるでしょう? ある時は、庭のような所に行って土を一度掘ってみます。多くの虫がいます。見えない多くの虫がいるのですが、それにも雄と雌がいます。それらも子供を産んで、おっぱいを飲ませます。それらも話をするというのです。話を感じとったり、雄と雌がこのように喜んだりしていますが、どのような力でそのような調和を起こすのですか。昆虫世界にも愛があるでしょう? 雄が雌に従っていき、雌は絶対に雄についていきます。

  

 鉱物世界もペアになっています。陽イオンと陰イオンを中心として作用するのです。それゆえに、真の愛を中心としてこのつまみさえぱっと抜けば、神様も引っ張られ、真の父母からすべての世界人類が、すべて神経の筋に引っ掛かって引っ張られてくるのです。すべてがペア・システムになっています。級は低いのですが、愛の天理に従って生きるのです。

  

 神様から造られたすべてのものはペア・システムです。鉱物世界もペア・システムであり、級は低いのですが陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史始まって以来初めて発表するのです。神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。

  

 小さな虫もそれなりの愛を中心として、この宇宙のペア・システムという創造理想圏内で同じ位置、同じ要素をもっていることを誇るのです。あなたは大きくて私は小さいけれど、二つが一つになって分けてあげることさえできれば、億千万世たっても分けてあげることができると誇っているというのです。人と違うのです。元素世界が一つになる時は、プラス・マイナスが自分の相対についていって一つになるのです。ところが、人の取るに足らない姿は何ですか。ですから、本質に一致できていないので、これは事故です。

  

 世上万事を見ると、すべてペア・システムになっているというのです。それを抱えて生きています。神様が御覧になる時、「やあ! あなたも私に似ているなあ。あなたも一人では寂しいだろう」、そのようにおっしゃるのです。それで、この宇宙は、級は低いのですが、すべて理想的ペア・システムによって展開した、充満した自然博物館だというのです。自然博物館であると同時に、愛の博物館です。どうですか。過ぎゆく道端の松やそのポプラの木をいつも見ているように無心に見たでしょう? これを見つめる時、「あなたも私のように主体と対象が授け受けできる愛の相対的な因縁をもって生きているのだなあ! あなたと私を比較する時、今日私は一人で生きていて、このように堕落した生活をしているのであなたに恥ずかしい」と言うことができなければなりません。そのような世界に至るようになれば、落伍した人間でも価値がいくらでもあるというのです。それを見て尊敬することができる人間になれば、どれほど美化された世界になるでしょうか。見る世界がどれほど美しいでしょうか。神様が愛の心をもっていらっしゃるので、そのように造らざるを得ないのです。それゆえに、存在世界はペア・システムになっているというのです

  

 この宇宙は、すべてペア・システムでできています。鉱物世界においてもプラスイオン、マイナスイオンになっています。元素が違うものは、いくら科学者が研究して何をしても一つになりません。しかし、自分と相対性をなすようになれば、いくら離しておこうとしても一つになるのです。ペア・システムになっているのですが、そのペア・システムの中心は何でしょうか。愛です。植物も、すべて男性と女性のような性稟を中心として和合し、種を結ぶようになります。このようにして本然へ帰るのです。二つが一つになってこそ本然へ帰るのです。分かれたものだからです。それで正分合です。

  

 皆さんが環境圏をつくらなければなりません。神様も環境圏として太陽、地球、空気、水を造られたのです。環境圏には、いつも主体と対象があります。公式です。すべての被造万物はペア・システムになっているのです。鉱物世界もそうであり、動物世界もそうであり、人間世界もそうです。なぜ主体と対象になっているのですか。真の愛の完成のためです。主体なくしては愛を中心として完成できません。公式です。そのように完成した先祖が、今まではこの地球上にいなかったのです。

  

 雄と雌が一つになってこそ、すべての天地の調和をつくり出すことができるのです。雄と雌が一つにならなくては天地の調和が成せず、ペア・システムになっている宇宙世界に和動することができないのです。そこでは除去されてしまうのです。

  

 一人では存在できません。一人で存在する道理はないのです。それゆえに、すべての存在世界はペアで存在するというのです。なぜペア・システムになっているのでしょうか。愛のためです。どのような愛のためですか。本然の神様が喜ぶことができる本然の愛、真の愛のために存続するのです。

  

 万物は、一人でいるものがありません。万物は、必ず主体と対象になっています。すべてペア・システムになっているというのです。これを今日の人間たちは知りません。相対で宇宙を創造したところには絶対信仰観が出てくるのです。ペア・システムが生まれたのは愛のゆえだというのです。

  

 この世の中をよく見てみると、ペア・システムになっているでしょう。環境圏内には必ずペアがいます。そのペアの、主体と対象はバランスをとっているのです。バランスをとらなければ滑り落ちてしまいます。四方に滑ってしまうのです。東西南北に滑ってしまうというのです。バランスがぴたっと合うようになれば、愛を追求することができるバランス基準さえできれば、世界のすべてのものが平衡となり、ぴたっと平面になるのです。宇宙に水平の表面が生じるのと同じです。ぴたっと一つになる時には、水平の表面が角張らないで丸い形態になるのです。

 その端は、ぐるぐる回るのに妨害となる作用の形態を自然に備えなくなるというのです。循環するにおいて、それが遠心力作用を一〇〇パーセント加重することができる円形に似て一つになるようになっているのです。どれほど素晴らしいでしょうか。

  

 ペア・システムは主体と対象の概念ですが、この主体と対象はいったい何をするのですか。これがあるのは愛のゆえです。愛の概念があって主体と対象があり、主体と対象があって作用し、作用があって力が出てくるのです。今日の科学者は、これしか見ることができませんでした。それゆえに、このような理論をすべて整理しておかなければなりません。「ああ! このようになって作用があり、作用がある前に主体と対象が、主体と対象がある前に愛がなければならない」、これを反対に話すと、力が存在するためには作用が必要であり、作用するためには主体と対象がなければならず、主体と対象は愛がなければならないというのです。

  

 環境には、必ず主体と対象があるようになっています。したがって、神様が造られたすべての世界はペア・システムになっています。簡単な内容です。鉱物世界も相対になっていて、植物世界も相対になっていて、動物世界も相対になっていて、人間世界も相対になっていますが、その相対とは何ですか。男性と女性です。

  

 力よりも作用が先です。作用は一人ではできないのです。必ず主体と対象がなければなりません。この宇宙は、ペア・システムの原則、公式に立っています。ペア・システムになっているというのです。結論がそうです。世界がどれほど簡単か見てください。鉱物世界も相対でできています。すべてそのようになっています。植物もペア・システム、動物もペア・システム、人間もペア・システムになっています。神様も二性性相です。それは、永遠の真理であり、公式です。

  

 すべての創造物は、ペア・システムになっています。それで、それを管理して、見て、聞いて、話すことができる五官も、すべて相対になっています。彼らを感知することができるようになっているのです。相対をもてないものは、この宇宙創造世界から追放されてなくなるのです。

  

 すべてのものは主体と対象、ペア・システムになっています。完全なものが相対なので、そこに従っていかなければなりません。心と体のうちで、どちらがより良心的で、より善に近いでしょうか。体よりも心が善の面に立っているので、心に絶対に従っていけば天国であり、体に従っていけば破壊、なくなる存在、地獄、破滅だというのです。


) 主体と対象は愛の関係


 この宇宙がなぜ生まれたかということが問題です。これは、宗教世界やすべての学問世界、あるいは哲学世界の根本問題なのです。宇宙の中心は人間ですが、人間がなぜ生まれたのかという問題さえもみな分からずにいます。また人間を中心として横的に鉱物世界、植物世界、動物世界の三段階に連結されたすべてのものがペア・システムになっています。なぜペア・システムになっているのか、今までは漠然としていましたが、そのすべてのものは愛ゆえに始まったのです。

  

 宇宙の根本は何かといえば、すべて愛ゆえに生まれたので、愛を求めるためには、愛をなすためには雄と雌がいなければならない、このようになるのです。動物では雄と雌ですが、植物では何ですか。雄しべと雌しべです。鉱物世界では、分子をおいてみればプラスイオンとマイナスイオンです。それが雄と雌です。すべてが雄と雌なのです。

  

 作用しようとするなら、どのようにしなければなりませんか。作用は、一人のままではできないのです。プラスとプラスが会ってはできないのです。必ずプラスとマイナスの相対的関係においてのみ作用が成立するのです。宇宙の現象の根本は、力によるものというよりも、ある作用が始まって調和の世界へ拡大していくものですが、作用の形成はプラスだけではできないのです。プラスとマイナスが授け受けすることから作用が始まるので、作用するところには必ず主体と対象がある、このように見るのです。それで、すべてのものは相対をもっているのです。

  

 このように小さいものにも雄と雌があるというのです。雄と雌、プラスとマイナスになっているというのです。分子もプラスイオンとマイナスイオン、すべて相対的に主体・対象関係になっています。神様は何を好まれるお方ですか。神様はどのようなお方ですか。プラス・マイナス、雄・雌をつくられたことを見ると、そのように行動することを好まれる神様です。宇宙の根本とは何ですか。「主体・対象であり、雄・雌である!」というのです。

  

 宇宙の根本に入っていけば、主体・対象関係においてすべての調和がなされるのです。もう少し入っていって見ると、主体と対象関係がなぜ必要なのでしょうか。作用するためです。作用は運動するためです。このようになります。この世に存在するものの中で運動をしないものはありません。皆さんも運動しているでしょう? 先生と皆さんも、必ずこの主体と対象を中心として何かが流れているのです。

  

 主体と対象が一つになることによって、電気でいえばプラスとマイナスが一つになることによって光が発するのと同じように、宇宙の光が発することができるというのです。電気と同じだというのです。この小さな電球の中にあるプラス・マイナスが連結されてです。ここだけで一つになっても駄目です。これが、もっと大きい変電所を通して発電所まで、結果的な立場ですが、根本的発電所と連絡することができるところにおいてのみ永遠の光を発することができるというのは常識的な結論です。

  

 宇宙の根本は、力よりは主体と対象の観念です。宇宙的根本は、主体と対象の観念で始まり、主体と対象には格位がなければなりません。主体的格位と相対的格位がなければなりません。その主体的格位が神様であり、相対的格位が人間です。神様は、なぜ人間を創造されたのでしょうか。神様は主体であられるので、相対がなければならないからです。相対がいることによって刺激を感じることができるためです。何によって。美と愛と真理によって刺激を感じるので人間を造られたというのです。

  

 宇宙の根本である力というものも、物質世界において授け受けする愛的因縁と同じ形態の作用によって生成されるのです。それゆえに、どのような存在でも、主体と対象の関係をもたなければこの宇宙に存在できないのです。

  

 宇宙の根本概念とは何でしょうか。哲学者たちも、宇宙の根本概念がどこから出てきたのかということを知りません。真の愛! 神様もなぜ存在するのかといえば、愛ゆえに存在するのです。愛ゆえに神様が必要であり、愛ゆえに神様がいらっしゃるのです。神様も愛のために生まれたのです。それゆえに、宇宙が存在する前に愛の概念があったというのです。この愛の概念の完成は何かというと、雄と雌、陽性と陰性がなければならないということです。存在するすべてのものは二種類の類型があります。

  

 人類のすべて、宇宙の根本が主体と対象、ここにすべて入っています。それゆえに、すべてが相対のために生まれたというのです。主体と対象をもたないものがありません。鉱物世界もそうではないですか。分子なら分子において、プラスイオンとマイナスイオンが主体と対象になっていて、植物の世界はすべて雄しべと雌しべ、動物世界は雄と雌、人間世界は男性と女性になっています。すべて相対的です。

  

 宇宙の根本は何ですか。宇宙は何から始まったのですか。愛です。科学者たちは、「宇宙は力でできている」と言います。作用するのを見て、力があることが分かるのです。力があれば作用をします。では、作用が先ですか、力が先ですか。男性が男性として成長する時は、愛の力は作用しないのです。

 男性として作用しながら大きくなるのです。心と体が作用しながら、だんだんと成年になっていくのです。そして、女性に会う時に横的な力が生じるのです。力が現れるには、必ず作用を経ていかなければなりません。力がある前に作用があるというのです。それでは、作用はどこから出てくるのでしょうか。主体と対象の関係です。人も心と体、すべてのものがペア・システムになっています。この目も二つの焦点を合わせなければなりませんし、鼻もまず焦点を合わせるのです。ペア・システムになっています。

  

 再創造の公式は何ですか。宇宙は、プラス・マイナスになっています。分子を見てもプラスイオンとマイナスイオンになっています。すべて相対圏になっているでしょう。原子を見ても陽子と電子になっています。すべてそのようになっています。宇宙構成の根本がそのようになっているのです。植物は雄しべと雌しべ、動物は雄と雌、人は男性と女性でしょう? すべて相対的になっています。そのように相対的になって、結局一つの体制圏に収拾されなければならないというのです。神様が主体なので、神様を中心として収拾されなければなりません。その創造の意志と一体化した相対圏がつくられなかったとすれば、神様の創造の喜びはあり得ないのです。

  

 真の愛には、垂直的な愛と水平的な愛の二種類があり、宇宙はこの原則によって動きます。宇宙の構成もそのようになっていて、植物世界、動物世界、鉱物の世界、このすべてが主体と対象の関係になっていて、垂直と客体の関係を中心として円形に似ているという事実は、級は低いのですが、すべてのものは愛をモデルにして宇宙の根本に従って伝送が始まったという事実を知らなければなりません。

  

 この世界、宇宙を見てください。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオン、植物世界も雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌になっています。近ごろは細菌まで雄と雌があるといっています。すべてのものは、愛を中心として、自分の級を中心として一つになるようになっています。このようなペア・システムの宇宙を見れば、これらは、人間の理想的愛が天地を代表して一つになる時、共に連結されて信奉するためにそのようになっているというのです。

 家を建てようとすれば、初めに基礎をつくるのと同じように、人のためにこのようなペア・システムですべてつくったのです。動物もそうではないですか。雄と雌とが歩いていて、雌が被害を受けるようになれば、雄が命を懸けて守るのを見たでしょう。子を見れば、子のために命を差し出すのです。愛の道理はそうなのです。それは本来、根本がそうであるがゆえにそうなのです。

  

 作用がある前に宇宙の主体と対象がなければならないので、神様御自身を中心として、宇宙の根本であるそのお方も、主体である心と対象である体が愛の概念を中心として永遠に共存しなければなりません。愛においてのみ永生があるのです。

  

 宇宙の構成体自体が盲目的になっているのではないのです。この膨大な宇宙が、相対的、主体と対象関係において対応しながら、授け受けする運動をしながら、永続的なその法度の軌道に従って永続するのです。法度の軌道に沿っていってこそ永続するというのです。法度の軌道に沿っていかなければ、永続するのではなく破壊が展開するのです。私たちも、御飯を食べて消化が正常にされ、栄養要素が正常に血管を通じて普及されてこそ永続が展開するように、正常に普及されなければなりません。良く授け良く受けてこそ永続が展開するのです。

  

 神様が天地をなぜ創造されたのですか。根本である愛ゆえに創造されました。それゆえに、すべての存在世界はペア・システムで造られています。ペアのないものがありません。ペア・システムでぎっしり満ちています。このように、人間を取り囲み、愛が宇宙の中心なので、この中心となる人間を中心とした愛の柱を打ち込み、そこに大木の根元のようにくっついて生きるようになっているのが、神様の愛を中心とした創造理想だったというのです。「神様の創造理想とは何か。神様のみ旨とは何か」という時、そのみ旨が権力に行けば滅びなければなりません。知識に行っても滅びなければなりません。神様の愛に行かなければなりません。愛が終着点にならなければならないというのです。

  

 与えるものがなぜ栄え、与えることによってなぜ大きくなるのかということが問題です。それは、神様が本来、この宇宙を創造された当時の根本と通じるためです。神様が創造しようというのは引き寄せることですか。与えることです。ギブ(give:与える)すれば、絶えず大きくなるのです。絶えず大きくなるのです。すべてのものがギビング(giving)です。すべてのものが与える概念に変われば、アメリカはますます大きくなります。絶えず受けていれば、すべてのものは小さくなるのです。なぜそうなのかというと、神様の創造原則に同伴することができるので宇宙が私を協助するのです。宇宙が私を協助するからです。

  

 宇宙の根本、九〇度の角度は真の愛です。これがすべてのものの測定基準になっています。動物世界もすべて雄と雌になっているでしょう? 左側にあるか右側にあるか、陽質か陰質か、そして、すべて自分の系列に従い、縦横を中心として愛するのです。それも、すべて愛するではないですか。ここに縦的垂直線と横的水平線があるとするならば、ここが自分の存在位置です。

 それゆえに、愛を中心として存在する博物館です。鳥も愛を中心としては命を懸けます。獣もそうです。すべてそうだというのです。植物もそうです。鉱物世界もそうです。元素にもプラスイオンとマイナスイオンがあります。元素もすべて自らの相対を中心として作用するというのです。

  

 宇宙の根本は、運動の起源はどこから始まったのですか。すべての天体世界も、太陽を中心として衛星が運動をします。それが一つの核になり、もう一つの相対的な相応世界と連結し、またこれを中心として大きくなればもう一つの大きな世界と連結するのです。このようにして、全宇宙はいったいどのように生じたのか、広大無辺なこの世界のすべての存在はどのように生じたのかというと、これが運動するのです。すべて運動しながら一つの球形のために動いていきます。そのようにしながら星が動くその世界が、ある時は大きくなり、ある時は小さくなったりするのです。息をするというのです。地も大きくなったり小さくなったりします。そのことを知っていますか。大きくなったり小さくなったりします。

  

 回るときには何を中心として回ってみたいですか。真の愛を中心として回りたいのです。これが宇宙の根本です。男性も「受ける」と言い、女性も「受ける」と言えば、どのようになりますか。お互いがそのように「受ける」と言えば、額を合わせてこのようにしていなければなりません。それは互いに主管しようとするためです。宇宙の存在は、授け受けするのです。授け受けすることが原則なので、先に与える側が主体です。先に与える人が主体だというのです。

  

 皆さん、体が重要ですか、心が重要ですか。心です。心の中心に真の心があり、その真の心が最も重要視するのが真の愛です。同じです。したがって、この宇宙の根本が真の愛なので、真の愛の心をもたない人はここから追放されます。宇宙から追放されないようにしようと、神様がそれをすべて教えてあげようと、男性も女性も愛することができる、真の愛を行うことができる訓練をするためのものが結婚だというのです。このようにして男性と女性が一つになり、神様の真の愛、すなわちプラスの前に相対にならなければなりません。これを完全に授け受けしようとするなら、人間が完全でなければなりません。

  

 私たちが宇宙の根本を求めていけば神様に帰着するのですが、そのお方は、男性格位と女性格位の二つの性稟を所有していらっしゃるお方であることを知らなければなりません。宇宙出発の原因はどのようになっていますか。神様に対してはまだ分からないとしても、人間は男性と女性、主体と対象になっています。鉱物界の分子を見れば陽イオンと陰イオンによって構成されていて、植物界は雄しべと雌しべに、動物界は雄と雌に、そして、人間は男性と女性になっていることを見ることができます。

 今まで数多くの博士、数多くの学者がいましたが、これ一つ考え出した人がいないのです。皆さんは否定することができますか。皆さんの父母、祖父母、またその祖父母、そして、人類の先祖である方とさらには宇宙の根本であられる神様に尋ねてみても、すべて同意するのです。これは鉄則です。この真理こそ宇宙が億万年過ぎても原理原則として残るための鉄則です。そして、神様の前に進んでいくようになれば、この鉄則によって正しい人と間違った人の判定を受けるようになるのは当然のことです。

  

 自分のものを主張するものは追放されます。宇宙万物を見る時、鉱物世界も主体・対象関係、植物世界もすべて雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌、人間世界もこのようになっていて、この根本の愛の主人が自分ではなく相対なのですが、この相対を否定したので、相対として認めるその世界には、存在することができないのです。ですから、追放してしまうのです。使用価値がないというのです。


三、宇宙の根本は愛である

 一) 宇宙の中心は愛である


 この宇宙全体、天国全体の中心軸は何ですか。愛です。愛は、生命の根本であり、血統の根本です。それは、愛を中心として成されているので、愛の軸に従って運動します。運動とは、ただするのではないのです。運動は、必ず主体と対象を中心とするので、それ自体の位置において、愛を中心として関係を結んで行動するのです。

 永遠の愛の実績として存続したいというのが、すべての運動するものの目的になっているというのです。作用とは、ただするのではないというのです。

  

 宇宙の根本は、愛から始まりました。神様はどのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。

  

 宇宙の根本の動機は、何を中心として動くのでしょうか。男性を中心として動くのではありません。女性を中心として動くのではありません。神様御自身を中心として動くのでもありません。神様が動くことができる動機は何かというと、愛です。

 それゆえに、愛は、始まりであり終わりだというのです。コリント人への第一の手紙第十三章を見れば、信仰と希望と愛はいつまでもあるが、このうちで一番は愛だ、といいました。それは、なぜそのようにいったのでしょうか。それを解くことができなかったのです。

  

 なぜ真の愛で愛さなければならないのでしょうか。宇宙の根本が真の愛の原則から生じたからです。したがって、それに通じれば、宇宙のすべてと関係を結ぶことができるのです。理論的なのです。それで、一つが上ならば一つは下であり、一つが右側ならば一つは左側になるのです。鉱物世界、植物世界、動物世界がすべてそうです。お互いに与えようとするそのような世界が起源となって出発したので、お互いに与えようとしながら暮らすのが宇宙です。

 このような論理で、より次元の高い大きな存在にすべて吸収されようとするのです。このように思う時に、宇宙存続の源泉はどこでしょうか。より高い愛を中心として与えようとする運動圏内で作用するものが宇宙的な存在です。

  

 宇宙の存続する原則とは、理想的な根本の愛と接続することができる環境的条件であり、縦的、横的、すべての球形的な全体方向性の運動圏内に所属した属性だったというのです。それでは、その父母の前に皆さんはどうでなければなりませんか。そこに報いなければなりません。相対にならなければならないでしょう? 一つになろうとするなら、父母のように相対にならなければならないという結論です。真の愛の相対になる時に統一が展開されるのです。真の愛がなくては完全に統一することができないのです。結論を出しました。

  

 神様を中心とした人間は、神様の体と同じであり、体と同様の実体を、象徴型として影のように送ってくださったものがこの宇宙万象です。この宇宙万象は、何を標榜して造られたのかといえば、神様御自身を標榜して造られたというのです。それが形象的、象徴的な位置にいるだけであって、その根本主体は神様を中心として造られたというのです。

  

 宇宙の根本は、どこから始まったのですか。進化論でもなく、創造論でもありません。進化より先に、創造の概念がある前に、雄と雌がいたということを知らなければなりません。では、雄と雌はなぜ生まれたのでしょうか。愛のゆえにです。愛、これが公式です。

  

 神様は、神様よりもっと立派な愛のパートナーを願われます。皆さんも、愛の相対が皆さんよりも優秀なことを願うでしょう? 同じです。神様御自身が主体と対象として完全に一つになっているのですが、それが創造の根本です。愛を中心として二つが完成するのです。そこで神様が解放されるのです。愛の位置で歌って踊ってごろごろ転がって、すべての被造世界が一つになるのです。そのような世界は、どれほど楽しい世界でしょうか。

 家を建てる時は、水平が合わなければならず、垂直が合わなければなりません。合わなければすべて倒れるでしょう? 宇宙がどのように存在するか、という根本問題に入っていくというのです。

 それで、神様御自身も愛が必要です。神様御自身が天の玉座において、「ああ! 私は愛が好きだ」と歌いますか。文総裁が一人で踊ってこのように汗を流すようになれば、狂った人ではないでしょうか。ハンカチ一枚見ながら踊ってこのようになれば、狂ったのではありません。これの十分の一、百分の一くらいのものを見て踊って笑ったとしても、それは気違いではありません。

  

 創造は、相対価値の絶対基準に該当する価値的内容をもっている、という事実を認めなければなりません。

  

 アダムとエバが完成すれば、神様が結婚させてあげることによって、アダムとエバの体の中に、性相と形状、男性と女性の形状をもった神様が入っていき、私たちの心の位置に創造主、お父様の体の位置に創造物、お父様が愛によって一つになるのです。他のものではないのです。知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。真の愛によってここで一つになることによって、真の愛を中心として形状が成され、家庭が成されるようになるというのです。真の愛が重要なのです。これがはっきり分からなければ宇宙の根本を知らないというのです。

  

 世の中の人たちが考えるのは、お金をもって世界で一番の代表者になる、権力をもって一番の代表者になる、知識をもって一番の代表者になる等の様々な考えをしています。

 しかし、宇宙の根本である神様から関係しているすべてのものは、真の愛を中心とした代表者になることを願うのです。それが、人間が願い、神様が願われる道だということを知らなければなりません。

  

 皆さんは、愛が良いと言うでしょう? 愛を求めていくでしょう? どのように求めていくことが、宇宙の根本であるその公式に合う愛の直線の道、近道なのかというのです。これが問題です。

  

 この宇宙の根本は何ですか。神様は絶対者です。力があります。力が根本ではありません。知識が根本ではありません。それでは、お金ですか。これは、あの世から見れば退廃的な何というのでしょうか。廃物を拾って歩き回るのです。廃品を回収して歩き回る人々は、お金を集めようという人です。私たちのような人は金があるといいますが、私はそのようなお金を使わないのです。

  

 神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは人しかいないのです。それで、自分を一〇〇パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは百二十になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。

 それで、絶えず押し込めばこちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則によってこのように展開されるのです。

  

 根本は個人です。個人で連結するのです。家庭も、氏族もすべてです。根本は、いくら小さくても同じです。角度は同じだというのです。九〇度です。それで、これを茎にして真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、このようになって地球星全体が真の愛で一つになり、宇宙でもどこでも真の愛でぎっしりいっぱいになるのです。そのようになれば、いつでも「良い! あなたは私と似ている!」と言うようになり、どこに行っても、縦的でも横的でも全く同じになるのです。

  

 人間は、歴史を通じて宇宙を越えていっても愛を必要とし、昼でも夜でもどこに行こうとも、若くても年老いても死んでも、いつでも愛の観念を離れることができない存在です。なぜそうなのでしょうか。根本がそのようになっているので仕方がないというのです。愛だけが今でも創造の能力を行使することができるのであって、愛がなくては行使することができないのです。発電所のような愛の原動力を中心として、すべて行くのです。

  

 愛も、もちろん神様がつくることができると思いますが、その愛を所有するということは一人ではできません。二人が所有しなければなりません。神様も愛を一人で探すことはできません。ですから、その基準の測定原器は何でしょうか。宇宙万象、存在世界、永遠世界で測定することができる絶対的に一つしかない原器、それは何でしょうか。根本問題です。それが愛だというのです。ですからこれは、春夏秋冬、季節の変化に影響を受けません。受けてはならないのです。

  

 なぜ愛のひもに結ばれて生きるようになっているのですか。神様の本物の愛に、神様も喜ばれ、宇宙も喜び、この世界も和合することができる愛のひもに人間が結ばれて生きるようになっているのですが、そのような愛のひもに結ばれずに幸福になり得る心の基台がないのに、生活が幸福になり得ますか。なり得ません。根本が違っているのに、結果が幸福であり得ますか。歴史はこのような関係になっています。

  

 心と体が一つになったその場に入っていくようになれば、その場は、釈迦が経験した位置です。「天上天下唯我独尊」というその境地に入っていきます。その中に入っていくようになれば、愛の球形内のすべての力は、この中心を通じることなしには作用することができないのです。これを通じない作用は存在できません。宇宙のすべての作用は、これを基本として定めて拡大しました。

 ところが、愛を中心とした軸が生まれなかったのです。それはすなわち、核心が生まれなかったのと同じです。人間だけではありません。今日、人間同士で連結された愛、家庭を中心とした愛、家庭を中心として拡大された氏族、民族、国家の愛、あるいは聖人が教えてくれた愛をもっては、その根本を悟ることができなかったというのです。

  

 宇宙根本において、生命が先ですか、愛が先ですか。このように思う時、それを突き詰めて入っていくようになると、生命が先にはなり得ないのです。神様は生命の源泉ですが、生命の源泉であられる神様が存続するには、どのような基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。何の基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。神様は、平和の基盤の上で暮らすことを願われるはずです。平和の基盤設定は何がするのですか。生命がするのか、他の何かがするのですか。それがまた問題です。それは、生命がするのではありません。主体と対象が高低を超越して、共通的価値を認めることができる秩序的段階を超越したその何かです。それは何ですか。真の愛です。

  

 皆さん、細胞繁殖というものを知っているでしょう。これ一つを取ってみても、その位置に再び目が出て鼻が出てくるのです。髪の毛も出てきて、足も出てきて、すべて出てきます。すべてのものが全く同じなのです。真の愛と連結した細胞は宇宙と同等な価値をもつことができるのです。なぜ真の愛がそうでなければならないのですか。真の愛は原因であると同時に結果であり、根本であると同時に目的だからです。

  

 愛は、宇宙をはじめ、どのような存在でも因縁をもたない存在がありません。小さな草一本でも、必ず愛を中心として生きているというのです。鉱物もプラスイオンとマイナスイオンを中心として生まれ、すべて愛ゆえに動いています。

  

 真の愛で成された心情圏は、いくら小さくても宇宙と連結され、その中で起きる出来事の波長は万象と霊界まで波及するのです。霊界を含む天宙は、すべて同じ神様の真の愛の原理のもとに存在するからです。神様と人間との間の縦横、前後的真の愛の関係は、人間相互間の理想的真の愛の関係の根本であり、その完成は四大心情圏を成した理想家庭においてのみなされます。

  

 愛の本質は何ですか。どのような愛ですか。愛とはどのような愛ですか。今日のアメリカに蔓延しているフリーセックス、一夜の愛が愛ですか。それは、根本の愛とは関係がありません。それでは、根本の愛、真の愛はどのようなものですか。愛とは、始めであり終わりです。この宇宙が生まれたのは何のために生まれたのかといえば、愛のために生まれたというのです。愛を訪ねていくというのです。神様に対して聖書には「私が最初であり最後である。始めであり終わりである」とありますが、それはどういうことですか。これは、愛をおいていう言葉です。

  

 なぜ「ため」に生きなければならないのですか。なぜそのようにしなければならないのですか。それを願わないのに、なぜそうでなければならないかというのです。愛のひもが結ばれているというのです。愛のひもが万物に連結しているといのです。愛のひもが私の体を結んでいるというのです。このような時、すべてが手を差し出して早く早く巻いてくれというというのです。早く早く大きくなろうというのです。愛の宇宙を占領しようというのです。愛の宇宙も宇宙であり、それはパートナーの世界ですが、愛の根本が神様まで占領しようとするのです。

  

 神様は、いつでもうれしいでしょうか。皆さんは、いつでもうれしいですか。うれしくありません。しかし、真の愛をもった時には、悲しみもその愛によってすべて消化されるのです。これを見る時、愛の絶対権限が、この宇宙のある個別的権力や知識や何かをもって第一主義を主張する、それ以上のものとして残したいのが人間の本性の欲求だったというのです。それがどこから来たのでしょうか。根本から来ました。その根本のどこからですか。神様の愛からです。神様もそのような愛を願うために、そこから来たのです。

  

 最初から私たち人間は、近ごろの共産主義のように闘争概念から始まったのでしょうか、融合概念から始まったのでしょうか。どちらなのですか。電気でいえば、プラスとマイナスが闘争するというのですか。それでは、どのようになっていたのでしょうか。調和と融合から始まったのです。それで、お母さんとお父さんの愛を通してお互いに調和して、融合して私が生まれたのです。それは否定できません。このように思う時に、宇宙の根本は、本性とは、調和にもなり融合される内容から出発した、ということを私たちは知ることができます。

  

 すべての宇宙の中で、借金だらけの人間にならずに借金を負わせて暮らすことができる方法とは何でしょうか。それでは、私の根本がないのでしょうか。違います。心にいくらでももっています。「ごめんなさい」、「ありがとう」と言うことのできる心、水を見て、山野を見つめて、野原を見つめて、三千里の山川、さらには大地球星を見つめて「ありがとう!」と言うことができる心、神様の前に有り難いと考え、環境に有り難いと考え、不平を言わないで侍って暮らすことができる、このような主人の心をもちなさいというのです。真の主人には、そのような人々がなるのです。


) 人間は万宇宙の愛の中心

(1) 神様の愛の対象として造られた


 人の価値は、どれほど大きいでしょうか。神様が杖をついて千年、万年慕うことのできる存在が人です。統一教会の文先生が見るとき、これが宇宙の根本だというのです。これが、内外関係になったので縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になるので、縦横の愛の世界観が展開されるのです。その中心には神様が臨在されるのです。

 心の深い谷間の位置に、一つにしっかりと結ぶことができるその場は、縦横の中心位置です。これを結んでおかなければ、縦横の基準が愛の理想型から出てこないのです。縦的なものがどんなにあるとしても、横的なものは出てこないのです。それで、人をこのように造らざるを得なかった、ということを皆さんは知らなければなりません。

  

 神様は、絶対的な創造の観を所有した絶対者なので、絶対的な対象価値の存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の中で、何をもってしても取り替えることができないものです。価値として見れば、相対的存在とは、神様を与えても取り替えることができない存在です。「相対的価値」という言葉は少し難しい言葉ですが、相対的価値というものは、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは、神様を与えても取り替えることができないのです。神様を与えてみれば、神様一人になるのです。神様が残るのです。それゆえに、神様御自身を投入して、神様御自身の力を、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をするのです。

 それで、神様を与えても、取り替えることができない対象の価値的存在として造られたものが人間です。このように、絶対的な価値の存在が人間であることを皆さんは知らなければなりません。神様がそのような観をもって、価値的な存在として人間を造ってくださったのです。

  

 神様は、人間を愛ゆえに造られました。人間はなぜ造られたのですか。愛ゆえに造られたのです。人間が万物と異なるのは、神様の息子、娘として造られたからです。神様の直系の愛を受けることができる対象者として造られたというのです。これが人間の特権です。

  

 人は、誰に似たのでしょうか。神様に似ました。ですから、神様が愛を願うのも、結局は人と同じだ、このように思うのです。愛を中心とした理想の創造世界というものは、実体を中心とした愛の表示が形状によって現れ、形状の表示が象徴として現れるというのです。

 統一教会の「原理」ではそのようにいっているのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。その実体が喜べば、その形状である存在が喜べば、象徴的なものも自動的に喜ぶことができるというのです。そのような作用を何がするのですか。愛だけがするというのです。

  

 「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴い)」と言いました。万物の中で人間が中心だというのです。何を中心として中心ですか。愛を中心としてです。知識とか、お金とか、権力というものは問題ではありません。

 神様は創造主なので、そのようなものはいつでも造ることができ、もつことができます。しかし、愛というものは、一人では探し出すことができません。愛は一人ではもつことができません。愛は、必ず相対を通して現れて成されるようになっているのであって、一人では神様でも成し遂げることができないというのです。

  

 神様が天地を創造される時、誰のために造られたのですか。神様のために造られたのではありません。愛の対象のためにです。それでは、神様の愛の対象とは誰ですか。「万物之衆 唯人最貴」と言いました。人だけが神様の愛の対象として造られたというのです。愛の本質的内容を分析してみる時、属性には相続権があり、同位権、同参権があるために、愛に接すれば、いくら気高い神様、いくら偉大な神様、いくら宇宙的な神様といっても愛に乗せられるというのです。

  

 今日の統一教会の教えは、神様も愛が必要だというものです。いくら全知全能で遍在する全権の神様でも、愛は相対的に訪ねてくるのが原則なので、愛の相対圏を備えなければなりません。その相対がアダムとエバです。

  

 神様がいくら立派で、絶対者で、全知全能の方であっても、一人では良いことがあり得ないのです。「幸福」という名詞は、あるいは「良い」という形容詞は、一人で設定される言葉ではありません。必ず相対的関係を備えた位置にいてこそ、「良い」、「幸福だ」という言葉があり得るのです。一人でいながら「幸福だ」と言う人はいないのです。

 したがって、いくら全知全能の神様でも、一人では幸福になることはできません。例を挙げれば、歌を上手に歌う音楽家がいて、一人で歌を歌ったとしましょう。幸福でしょうか。相対がいなければなりません。授け受けしてこそ良いのです。同じように神様も、「良い」と言うためには、必ず神様一人でいてはいけないのです。


(2) 人間成長の道は神様御自身の展開過程


 人間創造とは、神様御自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです。ここで神様が興味を感じられ、刺激を感じられるのです。人も同じです。画家が傑作品をつくるために絵を描くのは、自分の内的な素性をすべて実際に形状に展開させることです。自分の骨髄の奥深くまで絞り出して投入するのです。

  

 人間の完成はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。したがって、男性と女性が完全に一つになった愛を中心としてのみ完成するというのです。アダムが完成するには誰が絶対に必要でしょうか。神様が絶対に必要なのですが、神様は縦的に絶対必要です。アダムが完成しようとするなら、縦横の因縁をもたなければなりません。縦横の愛の因縁をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。それゆえに、横的にアダムに絶対必要とするのはエバです。同じように、エバにも絶対必要なのがアダムです。

  

 アダムとエバをおいて神様が愛したのは何ですか。アダムとエバが息子、娘として育ってきたということは、神様もそのように育ってきたということを意味します。神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。

 神様は、無形の神様です。無形の神様がそのように大きくなってこられたというのです。それで、兄弟のように、夫婦のように、また息子、娘のように創造してこられたというのです。

  

 アダムとエバを神様が造られたとすれば、どのような段階から造られたのでしょうか。アダムとエバを成人した人として造ったと考えることはできません。赤ん坊から造られたというのです。神様は、赤ん坊を身ごもった母が抱いて育てるのと同様の過程を経て造られたという論理を立てなくては、この三段階の秩序に通じた存在の形成ということを説明する道理がないのです。幼児期があったというのです。それから長成期があり、完成期がありました。これは天理の道理です。


 アダムとエバに幼児期があったのですが、その幼児期はどのような幼児期だったのでしょうか。無形の神様が無形の世界から有形への過程を経てくることができ、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。

 それでは、赤ん坊から生まれ育ち、成熟して結婚することができる位置まで、父母になることができる位置までどのようにして行くのでしょうか。神様が青年期、壮年期、老年期のような過程を経てきたという事実を、神様が育った無形の過程を実体として見るための存在が子女だというのです。このような論理が形成されてこそ、父子一身という論理が出てくるのです。一つは縦的で一つは横的なので、縦横一身の理論を立てることができます。

  

 愛する夫婦、アダムとエバが子女を生むということは、神様の無形実体の性相と形状が、愛をもって一つになって創造され、父母の立場に立ったのと同じです。第一の見えない神様が見える第二の創造主としてアダムとエバを造られ、実体の第二の神様の立場に立ったアダムとエバが、再び息子、娘を生むことによって父母の立場に上がっていくのです。そして、その幼い子女を通して、実体のアダムとエバの乳児時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代等、神様が経た過去を再び実体として展示するのです。それで、それを触ってみたいと思われ、愛してみたいと思われるのです。子女は第二の自分自身です。

  

 結婚した夫婦の立場は、途方もない立場です。歴史時代に人類が望んだ子女としての希望峰が花咲く立場であり、兄弟として花咲く立場であり、夫婦として花咲く立場です。このようにして夫婦として愛した神様が創造を始められたように、息子、娘を生んだそこからアダムとエバが創造するのです。実体的創造主の立場となり、自分を中心として平面的創造主の立場で息子、娘を生むのです。第三の創造主を造るのです。それが子女です。

 それゆえに、父母は、子女を神様の代身の実体父母の立場で神様の子女を養育するのです。そのようにしてこそ、見えない無形の神様が子女を養育したということを自分の実体で感じるのです。神様もそのように大きくなられたというのです。神様も子女時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代として発展してこられました。見えない神様の過去史を中心として、自分の息子、娘を生んで育てながら、神様の見えない赤ん坊時代の第一の創造主、無形の創造主の姿を見るのです。

 第二の創造主、見ることができる創造主の立場で赤ん坊を育て、兄弟として育て、夫婦を成すようにすることは、神様がアダムとエバを息子、娘として、兄弟として育てられたように、無形の内的要求の実相をすべて実体的にアダムとエバを通して平面途上から見るためなのです。これが息子、娘だというのです。

  

 神様が創造主として歴史的、内情的原則を中心として、存在の起源から今まで成長した過程を実体的に展開してくる過程がアダムとエバの創造過程です。それでは、どこから始まるのですか。完全に小さな細胞が一つとなって大きな細胞になるのと同じように、赤ん坊が十カ月間で育つ過程を経ていきながら、男性と女性の形態に分かれて出てくるのです。なぜそのようになるのでしょうか。そうでなければ、生命遺伝をどのようにするかという論理に対して解釈する方法がありません。遺伝的内容をどのように展開させるのかという論理を立てることができないというのです。それゆえに、一つの本質的な無形の形態と有形的な形態の本質が、一体的内容の因縁を中心として横的に展開することを必要とするのです。

 別の言い方をすれば、主体の前に相対圏が必要だというのです。内的性相は外的形状とすべての根源的な面において、一致することもでき、通じることもできる内縁があります。それゆえに、人が生まれて育つその過程は、見えない無形の神様が実体を見るためのものだったのです。ですから、神様の内的なすべての存在が表現されて現れるので愛さざるを得ないというのです。それが私であり、私が現れた実体だというのです。無形の実体が有形の実体として展開される以上、そこにすべてを投入しなければなりません。

  

 神様が愛を見いだす対象を造ろうとされる時、誰に似るように造られるでしょうか。神様に似るように造られます。その神様に似るように造られるなら、神様の中にあるように男性性稟がなければならず、女性性稟がなければなりません。自分に似ているのですが、自分の本性相からすべて抜いて、見えない性相、見えない思考の形態を実体として展開させたものが人間だというのです。それゆえに、聖書の創世記に出てくる、神様が自分の形に人間を創造されたというのは正しいというのです。

  

 神様と人間の拍子が合って和動することができる喜びの拍子の前に、すべてのものが自分の姿どおりに音律を合わせることができ、自分の姿どおりにすべてが象徴的、形状的に踊り、すべてがこのようにすることができる、そのような喜びの世界が本然の園です。そのようになれば、万物も「ああ、私が生まれたかいがあるなあ」と言うでしょう。例えば、神様と人間が愛の祝宴をするその日に同参することができる因縁をもって、その喜びをお互いに分かち合うことができる存在になったという事実が、被造世界の限りなく小さな万物が願う所願ではないだろうかというのです。

  

 いくら真理だとしても、真理の核心とは何でしょうか。お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛です。本質的愛は縦的なところにあるのであり、真理的愛は横的に連結しているのです。それゆえに、万物を見て神様を知り、アダムとエバが神様の形状なので、アダムとエバを見て神様を知るというのです。なぜですか。アダムとエバは、縦的な真の愛の対象的主体なので、これを二人とも完全にぴたっと男性と女性の愛を、東西南北を通して世界の軸に合わせるようになる時は、神様と霊界が通じて万世界がすべて通じるというのです。


(3) 人間は被造万物の中心


 神様は誰に似ているというのですか。私たち男性と女性に似ています。皆さんの心は見えないでしょう? 心を見たいですか、見たくないですか。神様も同じです。神様が霊的な立場で見れば同じなのです。神様には体がありません。今まで体がありませんでした。アダム完成が成されていないので、今まで体がなかったというのです。体がありません。心のような宇宙に心のような主人、心のような先生、あるいは管理者、心のような父母でいらっしゃいます。

  

 すべての万物は、神様の息子、娘を造ることができる土台だというのです。関係して連結することができる土台です。動物もそうであり、鉱物もそうです。鉱物世界にもプラス・マイナスがあります。植物世界もすべて雄しべと雌しべがあり、動物世界も雄と雌がいます。すべてに橋を架け、すべてのものが結集して創造された最高の傑作品が人間の内的形状と外的形状です。それを実体化させ、男性と女性の性相、そのすべてに形状を付与し、象徴的に、形象的に、実体的にすべて表して橋渡しするようにし、すべて連結するように、関係を結ぶようにしたのです。

  

 神様が被造物の中心である人間を必要とされるのは、お金のために必要とするのではなく、知識のために必要とするのでもなく、権力のために必要とするのでもありません。ただ愛ゆえに必要とされます。そうではなく、神様一人で愛を受けるという立場に立つようになれば、愛してくれる何の存在もありません。結論がそうなので、神様は、必ずこの世界に自分が愛することができるそのような対象者を造らないといけません。このように思う時、被造世界においてその愛の対象になることができる、そのような度胸の大きな存在とは誰ですか。全宇宙を創造された神様の前に相対的な条件を備えることができる存在は、人間しかいないのです。したがって、皆さんは、「私は宇宙の主人です。宇宙で第一である」と言うことができる度胸をもたなければなりません。

  

 神様は、喜びを加えて、喜びの刺激を連続させるために万物をつくられました。瞬間的な喜びを感じるためにつくられたのではなく、被造物に対するたびごとに胸深く入り込んでくる喜びの刺激と幸福を感じるために、最高の心情を注いでつくられたのです。神様は五日間万物をつくられたのち、六日目の日に喜びの心情で人間を造られました。自身の形状を型として造った私たち人類の先祖は、限りなく美しい存在であり、限りなく貴い存在であり、限りなく誇らしい存在であり、限りなくうれしい存在であり、限りなく光栄の存在であり、限りなく愛したい存在でした。

  

 神様は、全知全能の方であられるがゆえに、知識も必要なく、能力も権力も必要なく、金銭も必要ないのです。それでは、神様において必要なものとは何でしょうか。それは、神様が愛することができる一つの対象です。その対象は、被造万物の中で最も貴く、最も霊長である人間以外にはいません。「神様が最も好まれるものが人間だ」と言ったのですが、神様はなぜ人間を好まれるのでしょうか。神様も愛が必要なためです。愛というものは、一人では、あるのかないのか知ることができないのです。

  

 見えない神様の形状を、私たちの体に象徴的にすべて投入したというのです。目は誰に似たというのですか。神様です。それゆえに、顔の中で見れば、目は深い所にあるというのです。それで、すべてのものを観察するというのです。それから鼻は、アダムとエバを象徴します。これが中心でありセンターです。その次に、口は万物です。横的です。それゆえに、四掛ける八で三十二(四×八=三十二)、三十二の歯をもっているというのです。世の中の万物を中心として、四数を中心としてです。それから、耳は四方を象徴します。この首から上は天国です。天国の情報の場があります。

  

 皆さんの生命の根はどこにあるのですか。堕落していない父母にあります。それでは、堕落していない善の父母の位置は、どのような位置ですか。神様が二性性相の主体であられるので、神様が自らの二性性相を展開して、神様の形状どおりに万宇宙を造って人間を造られたのです。

 アダムは、神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは、神様の女性的性稟を展開させたものです。このように思う時、私たち一般の人々が普通「天のお父様!」というのは、一人のお方なのでそのように言うのですが、その一人のお方という概念の中には「天のお父様、お母様」という概念が含まれているのです。

  

 もし人間先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダムとエバは神様と一体となり、神様と同じ位置に立って、神様の創造の偉業を受け継ぎ、神様が創造後に喜ばれたのと同様の位置に立つようになっていたのです。神様と人間との間にそのような関係を結ぶようになるのです。堕落していない本然の人は、神様の聖殿になるのです。

  

 神様がお父様になり、人間は神様の息子になったとしても、お父様は上にいて息子は下にいる、上下関係のような気分がするというのです。その時に、私たち人間はどのように考えるのでしょうか。「お父様、お父様が座っていらっしゃるその席を私に一度下さい。私もお父様の位置に座ってみたいのです」という欲望が私たち人間にはあるというのです。

 ここで神様が「なんだこいつ、駄目だ」と言えば、すべて壊れるのです。しかし、神様は、そのようにはできないのです。むしろ神様は、私たち人間がそのような欲望をもっているということを知っているので、「早くそう言いなさい、早くそう言いなさい」と言われながら、その席までも私たち人間に下さるのです。その席まで人間に与えて、神様は、私たちの心に臨在なされ、私たちの心を聖殿として定めていらっしゃるというのです。

  

 心身一体になれば、宇宙の力が保護してくれます。宇宙の力が保護してくれる心と体になれば、父母も宇宙の因縁をもった父母、兄弟もそのような因縁をもった兄弟、このようにすべてが因縁を結んでいます。民族、国が因縁を結ばなければならないのです。素晴らしい結論です。ですから、国を越えて他の国に行っても、そのような一体圏を成すようになれば、そこでも通じるのです。どこにでも通じるのです。

 サッカーをする時、ボールが転がっていって途中で止まれば、どのようになりますか。その表面全体が一つになることができる所は、垂直線に通じるのです。それで、球形体を理想的な存在だといいます。表面のどのような所でもその垂直線が安着することができます。それで、転がり回るのです。どこでもすべて良いために、そうなるというのです。それで、心身一体圏、九〇度になれば、どこでもすべて合います。西洋人と東洋人、過去の人と現在の人、未来の人を問わず、どこでもすべて合うのです。

  

 本性の心が行くべき道を行けば、宇宙が一つになるのです。そのような何かがなければなりません。そのような位置に入っていけば、自分の心と話すようになるのです。そのような境地では心と話をします。何かをしようと考えれば、すぐに答えが出てきます。そのような境地まで行くのです。そのような境地にいる人が、自分の行くべき道を知らないでしょうか。既に行くべき道が明確で、宇宙のすべての作用の力が助けるようになります。手を引っ張っていって試験場に入っていくようになれば、すぐにすべてのものが協助します。それでこそ大きなことができるのです。

  

 私たちが自然を見て、「ああ、私には四季は必要ない。私は春だけが必要だ、夏や秋や冬は嫌いだ」と言うことができますが、神様に尋ねてみれば、「私は四季のすべてが好きだ」と答えるというのです。それゆえに、嫌いでも夏を好むことを学ばなければなりませんし、秋と冬を好むことを学ばなければなりません。雪が降る冬になれば、神様は、白い雪が世界的に積ったのを見る時に喜ばれるのです。「ああ、私も良い」と言うのです。そのように言わなければなりません。

  

 神様のような心で自然を見ることができなければなりません。そのような心をもたなければなりません。洪水が起き、雷が鳴る時は、「ああ、私はあれが嫌いだ」と言うなというのです。

 神様は、「ハハー、あれはキスして結婚しているのだなあ」とこのように考えるというのです。そして、嫌いだという人々に「ハハハハ、こいつめ! 悪いやつめ!」と言われるのです。

 知恵の王であられ、全体の中心であられる神様が、真の愛や、真の理想や、真の幸福や、真の平和の起源を、主体と対象、この両者の間のどちらに置かれるでしょうか。これが問題にならざるを得ないのです。主体がいる反面、対象がいるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、理想の要件をどこに置くのかということが、創造主であられる神様として問題にならざるを得ないのです。

 それで、真の理想、真の愛、真の平和において、主体を中心にして対象が主体のために生きるところに理想的起源を置くべきか、対象を中心にして主体が対象のために生きるところに理想的起源を置くべきかという問題を考えられた神様が、主体の前に対象が「ため」に生きなさいと言う立場にその理想的起源を立てるならば、神様がそのようにすると同時に、すべての人も、自分がある対象をもつことができる立場に立つならば、同じようにするというのです。それでは、一つになる道がふさがってしまいます。これを知らなければなりません。

  

 一つになることができ、平和の起源になることができるその道はどこにあるのでしょうか。神様御自身だけでなく、真の人間は、「ため」に生きる存在だという原則を立てざるを得なかったのです。それゆえに、真の愛は「ため」に生きるところから、真の理想も「ため」に生きるところから、真の平和、真の幸福も「ため」に生きる位置で成立するのであって、「ため」に生きる位置を離れては探すことができないのです。これが、天地創造の根本だということを私たち人間は知りませんでした。

 男性と女性が生まれたのは、男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれたのであり、女性は女性のために生まれたのではなく、男性のために生まれたのです。生まれたのは、自分のために生まれたのではないのです。自分のために生まれたのではないのに、自分を主張します。「私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば、統一の世界は展開するのです。

  

 自らの価値を自分から追及するよりも、相対から、すなわち相対的基準でその価値を追及できる道を探求する人は、不孝な人ではありません。いつでもどこでも、心情の基台は相対圏をもつので、孤独ではなく、幸福になることができるのです。

  

 調和というものは、一人で展開する道理がありません。楽しいということも、一人で展開する道理がありません。幸福もまた、一人で展開する道理がありません。絶対者だとしても、一人ではできないのです。必ず、自分に対応することができる相対的な条件がなければなりません。絶対者の前には絶対的な相対者がいなければならず、絶対的な主体の前には絶対的な対象がいてこそ、幸福や、調和や、喜びや、踊りや、歌というものがあるのです。

  

 今日の既成教徒たちは、「全知全能の神様は元から栄光の中の栄光の主体であり、幸福の中の幸福の主体であり、すべての愛と生命の主体なので、それによらないものがない」と大声を張り上げています。しかし、いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、仕方なく不幸になるのです。神様も絶対的な立場に立つことができる一つの対象を探せなければ、滅びるしかないのです。いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、やむを得ず不幸だというのです。したがって、神様が滅びないためには、仕方なく相対的な存在を造らなければなりません。


) 被造世界は人間のための愛の博物館

(1) 被造世界を造られた意味


 被造世界のすべてのものは、神様が愛する息子、娘が愛の理想を探し求めていくことができるように教材として造っておいたものです。それで、相対的構造なのです。鉱物も主体と対象の関係で作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないというのです。運動しなければ永続と存続はできません。それゆえに、宇宙は、人間を中心としてその中心点に到達することができるように創造された世界だというのです。

  

 神様は万物をつくられ、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造っておかれました。人間を造られる時は、神様が何かふざけて造られたのではありません。趣味で造られたのでもありません。人間を造られ、万物を代表する中心として立てるようになる時までの神様の苦労と精誠は、到底言い表すことができなかったという事実を私たちは知らなければなりません。

 神様が人間を造られる時、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血と御自身の生命の核心をすべて注いで造られ、ありったけの愛と愛情を降り注いで造られました。どのような力を用いて離そうとしても離すことができず、分けようとしても分けることのできない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、その人間を御覧になる神様には、平和が宿ることができ、すべての情と幸福は、その人間を通してこそ宿ることができるのです。

  

 神様は人間のお父様であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をありったけ施して造られた人間なので、このような人間が神様を引けば、引かれざるを得ないのであり、また神様が人間を引き寄せてくだされば、引き寄せられざるを得ないのです。  

 神様は、このような因縁の中で、内容と目的が一致する人間に造られたのです。もしそのように造っておかれた人間を御覧になって、神様が称賛することができるあるみ言や詩があるならば、それは世の中のどのような詩人も、文人も表現できない最高の作品になるはずです。その対象は、神様でもなく、万物でもない、唯一、万物を代表した人間なのです。

  

 宇宙は何ですか。神様の体と同じです。見える体と同じです。神様の分身です。それゆえに、私が本当に愛することができるという観念が成立します。宇宙を愛するということが実感できるというのです。自身の頭もこのようになでてあげたりします。服も何かがつけばはたきます。それは、なぜそのようにするのですか。私のものだからです。私と共にあるので、そのような観念があるというのです。皆さんが今後どのようにしなければならないかといえば、心の中に神様をお迎えして、心が一つになり、体が一つになり、万物が一つになって、このような統一の世界を成し遂げなければなりません。

  

 宇宙がどれほど大きいかというと何億光年です。光が一秒間に三十万キロメートル進むのですが、三十万キロメートルとは、地球を七周半回ることができる距離です。その距離を一秒間で走る光が一年かかって行く距離を天文学では一光年といいます。そのような光年を単位として出発した光が、何億光年になってもまだ到達できないほど大きいのです。グリニッジ天文台では、今まで百億光年向こうの世界の星まですべて発見したのですが、今ではもう百五十億光年向こうの世界の星も見ることができる時代が来て、それ以上の時代に入っていっているというのです。

 この宇宙がどれほど大きいかといえば百億、大体二百十億光年です。これは、原理的な数です。そのように大きいというのです。それがどういうことかというと、光がここから出発し、それが一日かかるのを一光日、一カ月ならが一光月、このように出発して一秒間で三億メートル、光の速度で三億メートル行きます。距離で言えば、地球を七周半回る距離です。七周半にもなる距離です。ぱっといったら、既に七周半を回るというのです。そのように早い光が一日でも腰が曲がって、考えが鈍って「私は分からない」というはずなのに、百年でもない百の何万倍にもなる一億光年です。出発してから一億光年たってもまだ進んでいるのですが、人が百歳生きるとすれば、合わせて百万人が死んでいきます。一億光年のうちにです。一億光年なので、人が生まれて百年生きて死んでいくのを続けて、百万人目が死ぬその時になっても、まだ進んでいるのです。

 では、二百十億光年といえばどのくらいですか。その人々が続いて生きて死んで、また生きて、百歳まで生きて、このように二億一千万人が生きて、それほどたっても、まだ進み続けるというのです。その遠い距離は、直線で行くのではありません。これがぐるぐると回っているのです。このような宇宙だというのです。


(2) 万物世界は人間のための愛の教材


 真の愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造られた愛の自然園を見ながら、学び成長するようになっていました。育ってどのようにしなければならないかということは、つくっておいた万物を見れば、すべて分かるようになっていました。万物が正に神様の博物館です。アダムとエバを教育する愛の博物館です。鳥も雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て育つようになっています。

 このように成熟して神様の愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナスを代表した愛の王女が女性であるということを悟るようになっていました。女性が考えるに、「あの男性が正に私に必要な男性なのだなあ!」と信じるようになり、男性もやはり女性に対して「本当に私に必要な女性だなあ!」と思うのです。

  

 真の愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造っておいた愛の自然の園を見ながら学び、成長するようになっていました。鳥も雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て、人間は成長するようになっています。

  

 少年時代から育って、青少年時代に行くのです。思春期になってここから学び始めるのです。皆さんもそうです。赤ん坊の時は何も分からないので、「お母さん、これは何ですか」「お父さん、これが何ですか」、このようにして知っていかなければなりません。そして、男性は男性に対してすべて知ってみると、世上万事がペア・システムになっています。「やあ、動物世界もペアがあって、昆虫世界もペアがあって、ああすべてがそうなのだな! 花の世界もそうで、鉱物世界もそうだ」。それをすべて学ぶのです。「そうだ、主体と対象になり、このようになって、このようになるのだなあ! 気がついてみると、私が行くべき道はこのように求めていかなければならないのだなあ! ああ、これではないな!」と知るようになるというのです。

  

 アダムとエバは、成長しながら世の中を学んでいきます。二人の息子、娘が大きくなりながらじっと見てみると、世の中はペア・システムで造られた博物館です。愛の博物館です。これを見ながら学ぶのです。「やあ! 彼らがあのように愛し合っている。はえも雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてペアが戯れている。それから、愛し合って繁殖している!」、それを学んだでしょうか、学ばなかったでしょうか。

  

 天地をペア・システムで造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です。それ以上に、あなたは鳥よりももっと幸福に、昆虫よりももっと幸福に、あなたはこの世の何よりももっと幸福に生きなさいというのです。

  

 この世の中のすべての被造物は、ペア・システムになっています。ペア・システムになっているこの環境は、人間のための理想的愛の博物館です。それゆえに、鉱物世界が作用するのもペアを求めてするのです。また、草木もペアを求めて運動するのです! 繁殖するのです! 鳥もそうで、昆虫の中でうまおいむしもそうです。うまおいむしも歌いますね。

  

 神様が万物世界を造られる時にペア・システムで造られたので、男性と女性を中心として、そこにすべての要素を抱いてもっています。自然は何ですか。男性と女性が愛することができるように、愛を教示するために造った博物館です。

 それゆえに、男性が愛する妻を慕わしく思いながら歌うようになる時、何の歌を歌うにしても罪ではありません。堕落すれば罪になるのです。愛の問題によって家庭が破綻して天理原則がすべて壊れていったがゆえに罪なのであって、天理原則の基盤の上でお互いに愛して、「私はあなたを真に愛する。永遠に愛する。あなたは私の永遠の相対である」と言うのは罪ではありません。これをはっきりと知らなければなりません。

  

 ペア・システムで造られたこの宇宙は、愛の神様が創造された博物館です。生きた博物館です。国立博物館にある骨董品のように死んでいる、主人のいない記念物ではありません。生きた記念物です。

  

 真の神様がいらっしゃるのですが、その方を通して造られたすべてのものは、理想的愛の条件を備えることができるように主体と対象関係になっているのです。それゆえに、この宇宙のすべての被造物は、ペア・システムになっています。鉱石も夫婦同士になっています。夫がいて妻がいます。

 それゆえに、二つがお互いに引き合うではないですか。そのような話を初めて聞いたでしょう? 実験室の先生が完全に暴君となり、自分に合わない元素をいくら激しくくっつけようとしてもくっつきません。神様が「しなさい」と言われてもしません。しかし、相対が合えば、「くっつかず一つになるな」と言ってもくっついてしまうというのです。ですから、すべてがペア・システムになっているというのは、神様の愛のためだというのです。

  

 小さな昆虫も、愛を中心としてペア・システムになっているということを知らなければなりません。鉱物世界も同じです。何のためにですか。愛ゆえにです。級が低ければ低いなりに愛を中心として繁殖し、この人間とこの宇宙が人を通して神様の理想を完成することができるように、すべての体制にギアが連動して回るようになっているのです。

  

 エデンの園に展開しているすべてがペア・システムになっているので、アダムも自然にそれを見て、「やあ! 私も雄のような男性だが、私も雄のようにできているが、雌のようなものがどこにいるのか」と探すと「エバだ!」、このようにして二人が結婚式をするのです。「雄、雌があのようにすれば子を産むのだなあ」というのです。女性は、嫁に行くことは嫌でも、赤ん坊は好きな女性が多いのです。

  

 エデンの園のすべてのものがペア・システムになっていたので、動物が繁殖して「雄と雌が楽しい環境をつくっているな」、このようにして愛というものを学んだというのです。ですから、アダムとエバも「二人が会わなければならないな」と考えるのです。昔、アダムとエバが育つ時、どれほど複雑ですか。男性はワイルドで山に登って飛び回るのに、女性は毎日座って見物して、おもちゃで遊んでいたのです。このように性格が違うのですが、このような環境から学んで自然的に相対を訪ねていくようになっています。

  

 気がついてみると、世の中がペア・システムになっているのですが、アダムとエバも一人ではいけないというのです。動物世界のしかも牛もすべて雄と雌がいて、お互いに好んで子を産むのを見るようになります。それで、アダムとエバも動物世界の昆虫から鳥と蜂と花までもそのことをしているので、教えてあげなくても知っているというのです。

  

 皆さん夫婦は、双子で生まれた兄と妹です。エデンの園のアダムとエバと同じです。そこでは妹一人しかいないのです。世の中に友人もいなくて一人娘です。エデンの園に女性一人しかいなくて、男性一人しかいないので、間違いなくアダムがエバの友達になってあげなければなりません。兄と妹だというのです。

 それで、大きくなって万物のすべてのペア・システムがどのように繁殖して育つのかということを知り、世上万事をすべて知るようになったので、自分たちも歴史の伝統を残すためにこのように愛を行わないといけないとして夫婦になるのです。歴史のために、人類のために夫婦になるのです。

  

 アダムとエバが生まれた時は、相対に、子女になっていましたが、兄弟の因縁の中には相対がいませんでした。相対がいないでしょう? 女性は女性一人で教育を受けて女性完成しなければならず、男性は男性一人で教育を受けて男性完成をしなければなりません。その教育を受ける材料は、天地間にいくらでもあります。すべてのものがペア・システムになっているので、男性はそれを見て、「あのように大きくならなければならないのだなあ!」ということを知り、女性もそれを見て、「あのように大きくならなければならないなあ!」と自ら知るようになるのです。愛に対するすべての教材を、すべての自然が博物館のようにそのまま見せてくれています。自然はすべてペアになっているというのです。

  

 縦的な基準には相対性が移されてこなければなりません。この縦的な基準には相対がいるのです。そして、この息子、娘が大きくならなければなりません。成熟しなければなりません。万物世界を見れば、すべてペア・システムになっています。鉱物世界も同じであり、植物世界も同じであり、動物世界も同じです。人間世界もすべて男性と女性のペア・システムになっています。自然世界というものは、級は低いのですが、ペア・システムになった愛の博物館です。それでは、愛の博物館をなぜ造りましたか。誰のために造ったのかというのです。人のために造り、神様のために造ったのです。それゆえに、神様は、万物のすべての愛の感触、鉱物世界や植物世界や動物世界の愛の感触というものをすべて感じることができるのです。

  

 男性と女性がこの道を行くにおいて、この時までは相対がいないのです。それで、男性として女性をもらわなければなりません。すべてペア・システムで子を産んで暮らすことを見るのです。春になれば、牛もそのようにし、豚もそのようにし、犬もそのようにし、猫もそのようにし、ねずみもそのようにし、いなごもそのようにするのをすべて見るのです。「ああ、そのようになるのだなあ! 一人はいけないのだなあ!」、このように目覚めることを目が開くといいます。その方向が、今までこのように四五度で、「ああ、私が必要なのはアダムだな!」と思い、「私が必要なのはエバだな!」と思うのです。そうですか、そうではありませんか。

  

 環境には、必ず主体と対象があり、ペア・システムになっています。この宇宙は、愛を核にした博物館です。ペアの博物館になるのです。それゆえに、二羽の鳥がお互いに喜びながら一生懸命に巣を作り、子を産んで、食べさせるのを見ながら学ばなければなりません。「自分の子のためにそれ以上、何百倍しないと」、このように思わなければなりません。虫たちも雄雌二匹が愛して子を産むのです。彼らも自分の命を懸けて子を育てようとします。教育です。

  

 アダムとエバが成熟するにしたがい、ここで横的に回ってアダムが自分の相対だと思い、エバが自分の相対と思うようになるのです。そうではないですか。女性として言うならばどうですか。アダムは、外交的に歩き回ろうとします。ハンティングもして、どこに行っても握ってつかまなければなりません。エバはどうですか。エバは、根本の性格が違います。このようにしながら大きくなり、女性として知るべきこと、男性として知るべきことを知るようになるのです。すべて世上万事全体がそのようになっています。鉱物世界も植物世界も動物世界も、すべてペア・システムになっているでしょう? それを学ぶのです。大きくなりながらじっと見てみると、何を見てもすべて相対的です。ですから、我知らず学ぶのです。

  

 誰が愛を教えてくれるのでしょうか。自然が教えてくれるのです。園に走る動物を見ても雄と雌、蝶々を見ても雄と雌、すべてペア・システムになっているというのです。花が咲けば、美しい園には鳥がピーチクパーチクしきりに鳴いています。鳥がなぜしきりに鳴きますか。雄の鳥と雌の鳥がしきりに鳴くのは何のためですか。何を呼ぶためなのですか。鳥がしきりに鳴くのには三つの理由があります。一つは空腹で鳴くのであり、一つは愛ゆえに鳴くのであり、一つは子を呼んでいるのです。その三つの理由です。それは愛ゆえにそうなのです。

  

 標準的なアダムとエバの相対圏に立つために、自分たちもその形態として準備されなければならないので、この宇宙の創造物はペア・システムになっているというのです。ペア・システムで存在しているというのです。アダムは大きなプラスであり、万物は東西南北に広がった小さなプラスです。それゆえに、すべて相対的になっているのは人間も万物も同じです。人間と万物が、共通した絶対的主体圏を中心とした基準において平面を成すようになれば、神様が垂直に臨在されるようになるのです。

  

 すずめがちゅんちゅん鳴いて目を覚まさせてくれることが、自分で起きるよりどれほど素晴らしいですか。どれほど詩的ですか。皆さんは、自分が歌うのが良いですか、歌を聞くのが良いですか。それは、またどれほど詩的ですか。自分がちゅんちゅん、ちゅんちゅん鳴くよりも、第三者がちゅんちゅん、自分で起きるより愛する人が目を覚まさせてくれるということです。そのように、調和の音律によって声を変えながら目を覚まさせてくれるのが理想的ではないかというのです。ですから、すずめも私の友人です。友人であるそれは、何がそのようにさせるのですか。ペア・システムから見る時、それが私の友人になるのです。男性と女性ともペアです。友人だと考える時、どれほど詩的ですか。

  

 世の中のすべてのものがペア・システムとして繁殖するようになっているのを見る時、アダムとエバも成熟すればそのようにしなければならないことを知るのです。成熟する前は、アダムとエバはそれを知りませんでした。アダムとエバが二人で暮らしているのですが、この二人の性格を見れば、アダムは男性的で外交的です。朝起きれば飛び出していき、山に行ってうさぎを捕まえたくて、きじを捕まえたくて、しかを捕まえたくて、蛇を捕まえて割いてみたいというのです。今後、主人となり管理しようとするなら、すべて管理できる責任者になるためにはすべて知らなければならないというのです。山に何がいるのか知りたくて、動物は何がいるのか知りたくて、水にはどのような魚がいるのかすべて調べてみようとするのです。男性なので、主人になろうとすれば、何でも調べなければならないというのです。

  

 今日、歴史を開拓した人々は男性たちです。くまなく探して、ときめくためです。男性は神様の代身なので、すべての自然万物の博物館の館長です。男性は、愛を中心として展開したペア・システムの世界、博物館の館長です。館長なので、すべてくまなく探さなければなりません。ですから、女性が嫌うのです。「ああ、兄さん! 私を捨ててどうして。私を連れていってちょうだい。私は脚が痛くていけない!」と言って、ついていきながら、エバがどれほどアダムの心をめいらせたでしょうか。そのように、エバに黙って歩き回るので事故が生じたのです。

 主人が子犬にひもを付けて連れて歩き回るように、エバをそうしなければならないのに、あまりにも泣くので投げ飛ばしたのです。その時、孤独だったので、天使が来て慰労したのです。「あのアダムは暴れん坊だ。何が楽しくて一緒に暮らしているのか。私と遊ぼう!」、このようにして問題が生じたのです。

  

 神様が喜びを感じながら創造されました。それは、どれほど楽しかったでしょうか。ペア・システムをつくったので、細胞までもペアになって喜んでいるのを見る時、どれほど楽しかったでしょうか。写真に撮ったものだけでも、よく写っていればのぞき込んで「良い」と言うのに、写真がしゃべって踊っているのですから、どれほど良いだろうかというのです。

  

 男性と女性を神様が造られ、抱いて育てていくにおいて、僕である天使長をつくって彼らを保護して育てるようにしました。それで、彼らがすべて育って成熟すれば、神様が結婚させてあげようとしたのです。その時までは成熟しなければなりません。

 そのために、生まれてから分かれて、男性は男性として育ち、女性は女性として大きくなっていくのです。大きくなって成熟した男性と女性になり、世の中をじっと見てみると、鉱物世界も動物世界も植物世界も、すべて相対理想、ペア・システムになっているというのです。「あ! 動物たちも二つが一つになってあのように子を産んで幸福に生きている。やあ、お母さんは子を育てるために自分の命を捧げてでも保護する。私たちもあのようにしなければならない」、このようにすべて見て学ぶのです。それで、アダムとエバの理想的発達のための展示的博物館だというのです。

  

 真の愛圏の深い境地に入っていくようになれば万物と通じるのです。岩にも通じるのです。真の愛の世界は、通じないものがないのです。なぜですか。ペア・システムになっているのは、神様に属することができる愛と因縁をもって、一つになるための作用をするためです。

 真の愛は共鳴するようになっています。そのような真の愛圏内に入っていくようになれば、神様の内的な世界と外的な世界を感じることができるのです。それゆえに、誰が教えてくれなくても霊界を知ることができ、神様が分かって、この地で父母にどのように侍らなければならなくて、また国にいかに仕えなければならないかということなど、すべてのことを自然に知るようになるのです。愛が行く道は、いい加減に行くようにはなっていません。公式になっています。愛が行く道は一つの道しかありません。真の愛が行く道には、二つの道はないのです。人間として行く真の愛の道や天の世界、神様として訪ねてくる真の愛の道は、いつも一つの道です。天が降りてくる時は、人間が上がっていってこのようになります。

 それでは、これがどこで会わなければならないのですか。ここでしか会うことができないのです。最高に成人した位置がこの位置です。この位置は同じ位置です。この二人が一つになろうとするなら、どこで会わなければならないのですか。この位置で会わなければなりません。この位置しかないのです。この点で会わなければなりません。

  

 愛の理論を話してみると、それが解けない理論がありません。知識の中の王の知識です。愛を探してみると、このすべての被造世界がペア・システムになっていることを知りました。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオンによって成っているでしょう。ペアです。それは何のための相対ですか。その級に該当する愛を中心として、愛ゆえにそのように生まれるのです。それでこそ繁殖が展開するのです。

 動物世界もすべて雄と雌、人も男性と女性です。それはなぜ生まれたのですか。女性のために愛が生まれたのでもなく、男性のために生まれたのでもありません。「男性と女性が愛ゆえに生まれた!」このようにならなければなりません。その命題を否定する邪悪な者たちは、地獄の一族であり、破壊の一族です。


四 進化論か創造論か

 一) 進化論の根本的な誤り

(1) 種の区分は厳格、第三者の介入を絶対排斥


 歴史はいつからですか。進化を始めてからですか、その前からですか。進化とは何ですか。すずめとほおじろはいとこです。全く同じです。骨なども全く同じだというのです。色が少し違うだけであって、生殖器と目も全く同じです。だからといって、すずめの子とほおじろの子と、雌と雄を取り替えて、愛して子供を産みなさいといって子供を産むことができますか。千年、万年すれば子を産むでしょうか、産まないでしょうか。猿とチンパンジーとで子供を産むことができるか、千年、万年試してみなさいというのです。

  

 すずめとほおじろとは兄弟です。どうですか。猿と人間に比較すれば一〇〇パーセント理にかなった話です。

 それでは、すずめとほおじろをペアにすれば新しいものが生まれますか。全く、学者という人々が考えるには、雄と雌が愛して子を産んで発展したという論理を否定して、外形的形態の構成が同じだから進化したというのですか。皆さん、生殖器官がどれほど複雑ですか。魚は雌と雄がくっつきません。陸地に出てきて変わるのです。

  

 この太陽系の地球が何億年になったでしょうか。何億年も回っているのに寸分の違いがありますか。毎日そのようにぴたっ、ぴたっと合います。同じです。また、アメリカのすずめと韓国のすずめと巣を作るのが同じですか、違いますか。答えてみてください。同じですか、違いますか。同じです。これは進化論的に見るならば、すずめが巣を作るのも発展しなければならないのではないですか。学んでいないのに、どのように何千年、何万年そのようにするのかというのです。それはどのようにして知るのですか。つばめはつばめで違い、すずめはすずめなりに、うぐいすはぴたっと枝にぶら下げます。それもみな知らないでしょう? 鳥の世界を知っていますか。皆さん。

  

 オランウータンの雄と愚かな女性を捕まえて結婚させて、万年祈祷をして精誠を尽したからといって人の子が生まれるでしょうか。赤ん坊が繁殖すると思いますか。答えてみてください。猿の子孫、共産党の者たち! オランウータンを人間の女性と結婚させて、共産党世界が祈祷して、あらゆる力を加えたからといって子が生まれると思いますか、生まれないと思いますか。分からないなら共産主義を主張するなというのです。進化論を主張するなというのです。明確にして暮らさなければなりません。

  

 アメーバから猿まで行こうとするなら、数千種の愛の門を通じて上がっていかなければなりません。進化論は、数多くの種の愛の門を通過して上がっていかなければならないことを省きました。そのように行くことができますか。種を通じなくても思いのままに上がっていくことができますか。鳥が昆虫と通じることができますか。鳥が動物世界に通じないで上がっていくことができますか。愛の門、愛の関係を通して大きくならなければならないという事実はすべて抜いてしまって、骨が同じだからといってそのようなことをいうとは話にもなりません。産むほど、より良いものが出てくることができますか。より悪いものが出てこなければなりません。ここで問題になるのが何かというと、彼らが愛の関係を知らなかったということです。

  

 種の区分は厳格だというのです。アメーバから猿まで数千種がいるのです。進化論は、数千種の段階をすべて無視して、そのままこれを通ろうとするなら、すべてその種の雄、雌の門を通じて何千回も産んで子が出てくるのに、一度にすっと出てきたと考えるので、「これは間違っている」と言うのです。愛の門を通過しなければならない、ということを否定したのです。数千種の愛の門を、アメーバがどのようにすべて通過して人になることができるのかというのです。骨が同じだから同じなのですか。同じような骨はいくらでもあります。狂った話はやめなさいというのです。

  

 今日、この進化論を考えてみる時、種の起源を話せば、一つの種が生まれるにはそのまま生まれるのではありません。必ず雄と雌がいなければなりません。これは、鉱物世界も同じです。プラスイオンとマイナスイオンが一つになって、一つの物質を造成するようになっているのです。必す雄と雌の陽陰になっているのです。

  

 再創造は、環境の創造、主体と対象の創造、その次には対応的な発展、このようになるのです。進化論もこのように発展しなければなりません。ただ発展するのではないのです。主体と対象が一つになり、より大きなものに吸収され、必ず愛の門を通らなければならないというのです。このような原則によれば、愛のないアメーバからこの人間世界までは数千段階を経て行かなければならないのに、そのような愛の門をただ越えていくことはできない、このように思うのです。

  

 今日、進化論がいうには、アメーバが発展して、進化して人になったといいます。ここで考えなければならないこととは何ですか。雄雌が人間にまで到達するためには、数千段階の愛の道を通らなければならないということです。それを知らずにいます。種別の限界は厳格です。ところが、それがそのまま進んでいって進化するのですか。

  

 皆さんの中で、愛する妻の前に他の男性が来て介入することを喜ぶ人がいますか。動物もそうであり、植物も同じです。いないというのが普通ですか、絶対的ですか。絶対的だというそこには、他のものが入ってくる場所がありません。種においては、そのレベルが完全に違うというのです。ところが、アメーバは雌と雄の愛の門を通じて出てきたのですが、どのように違う種類を連結させて出てくることができたのですか。そのまま上がっていったのですか。必ず愛の門を通らなければなりません。それを無視して進化ですか。西洋の人たちは猿のような姿なので、進化論を主張したのです。そうなのです! 頭の色もそうで、毛もすべて狼のように褐色ではないですか。

  

 愛は絶対的です。二人だけです。第三者の介入を願いません。このように思う時に、アメーバから人にまでなるとすれば、何千段階の愛の過程を通して連結するのです。存続するのです。愛がなければすべて壊れるでしょう。一年しか生きることができません。そのようなものですが、愛というその部分を通して、これが、連続的な系列的存在が残されるのです。その愛の門に第三者が介入して、まだらなアメーバを願いますか。猿と人と結婚式をして、千年くらい生きれば子供が生まれるでしょうか。生まれないでしょうか。千年ではなく万年たってもできません。話にもならないたわ言はやめなさいというのです。

  

 昆虫の世界もそうです。このようなことが原則ならば、進化論は成立しません。相対圏、対象の路程を通したアメーバから猿まで、何千、何万回の愛の門を通じた雄雌の関係を無視すれば、連結されないというのです。すずめもそうです。冬のような時は、相対のようなのが分からないので、いたずらをしてそれぞれ他のプラスになっていますが、春になって巣を作り、相対圈をつくった時には絶対的です。第三者であるすずめに対しては、雄と雌が共に絶対的に排斥するのです。雌が来れば雄が排斥し、雄が来れば雌が排斥します。なぜですか。自分の相対圏を壊し、宇宙法圏の侵略者になるために、それを排斥するようになっているのです。

  

 植物の花を見れば、自分の種があるのに違ったものを中心として他の種子には変わりません。変わらないのです。それを見れば種の区別が厳格だというのです。それゆえに、アメーバから猿に進化したという進化論の論理は、形成することができないというのです。種の区別が厳格なのに、どのようにして数千種類の種の協助を受ける体制において連結させて発展したかというのです。進化論では愛の力を認めません。その愛の力を通して繁殖が可能なのです。愛の力がなければ、どのようなものも繁殖は不可能だというのです。どのように、アメーバから猿まで愛の力が正常に通じることができますか。そのようなことは、いかなる場合でもあり得ないのです。

  

 アメーバから猿まで進化したとするなら、アメーバから猿までそのまま行くことができますか。数多くの異なる種を越えていくためには、どのようにしなければならないのでしょうか。愛の峠を通らなければ越えていく道がありません。新しい大きな種が出てくることはできないのです。数千、数万の雄と雌の愛の過程を通してこそ越えていくことができるのです。種の世界において、原則的なプラス・マイナスの概念が愛を中心として第三者の侵犯を容認しないなら、アメーバの世界からより高い一段階に越えていくことはできないのです。

  

 進化は別種が出てくることだといいますが、愛の関係を中心としないでは他のものが出てくる道理がないのです。種の区別は厳格です。

  

 進化論は、一度に壊してしまわなければなりません。自分勝手に理論をくっつけて進化論を議論したのです。人が猿の子供ですか。この者たち! 人間は、千年、万年天に侍るようになっています。猿なら何の猿ですか。猿と人は四十七の種類が進うのです。質的変化は起こり得ないのです。種の変化はあり得ません。だからといって、今日でも猿と人が暮らして人が生まれますか。猿が生まれますか。生まれません。種の起源というものは絶対的です。

 宇宙は、なぜペア・システムになっているのでしょうか。自然にできた、あるいは進化論でもいいです。進化論の前に散在している事実は何ですか。男性と女性の生殖器、繁殖器官があります。そこに進化があるのですか。進化があるなら、男性と女性の愛する方法が変わらなければなりません。昔の人と今日の人とでは、それが発展していなければならないというのです。昆虫世界においても、虫が愛する方法が昔と今日とでは変わらなければなりません。鳥もすべて変わらなければならないというのです。そのような内容を中心として論ずることができるのです。生命の起源である愛の器官を中心として、その本拠地が進化的内容によって発展するようになっているのですか。狂っているというのです。

  

 愛の世界の種別区分の厳格さは、天宙のいかなるものも犯すことができないのです。春になってすずめの雄と雌がカップルとなり、これから卵を産もうと巣を作り始める時には、第三者としてどのような鳥の種類も、どのような獣の種類も絶対に介入を許諾しないのです。皆さんの中で、結婚初夜に自分が最も愛する友人をそこに参加させたいと考える男性と女性がいますか。進化論は真理ではないというのです。嫁に行く女性が、母親以上にこの世で近い人がいないので、「死んでもお母さん、生きてもお母さん! どんなことがあってもお母さんと一緒に暮らしたい」と考えますが、それでもそのようにはならないというのです。そのような女性でも、夫を迎える初夜には、「お母さん、今夜お願いだから一緒にいてください」とは言わないのです。そのような女性がいますか。第三者の介入は絶対に必要ありません。それが本来、人間が迎えなければならない愛の伝統的で公式的な基準だったのです。

  

 皆さん! 生殖器官がどれほど複雑ですか。そのような構造的発達形態……。それを言えば、すずめとほおじろとせきれいは、その形がぴたっと同じです。では、すずめとせきれいとくっつければ何が生まれますか。それは可能ですか。この者たち、すべて訳が分からないのに言っているのでしょう。私が問い詰めれば、いくらも語らないうちに返事もできなくて、うんうんうめくのです。この者たち! 雌、雄! アメーバからこのように生まれたとするならば、どのようにしてこのような雌と雄、凸凹が生じたのですか。なぜそれを通って授け受けして初めて子供が繁殖するようになっているのですか。それは誰が設定しましたか。進化論者がそのようなことを設定しましたか。

 内的な力、生命の起源とは、偉大な宇宙観でも包括できない生命の連合基盤を通して生成が展開するという内容を知らずにいます。猿と人とは四十七箇所が違うそうですね。この二つが結婚すれば子供を産めますか、産めませんか。昔、学生の時に共産党の者たちに尋ねてみると、全員答えることができなかったのです! このようなことは、きょうも数百種類の話をすることができますが、時間がありません。そのようなでたらめではいけないというのです。

  

 進化が構造的形態の同位性によってできるのですか。違います。なぜですか。アメーバのような場合においても、より高い次元のものになるためには、雄と雌の愛の道を通じることなくしては不可能だということを知らなければなりません。ほおじろとすずめは、姿が同じです。しかし、それらが進化することができますか。足も同じで、くちばしも同じです。姿が同じです。見ても区分することができません。だからといって、ほおじろの雌とすずめの雄をペアにすれば発展しますか。白人男性とオランウータンの雌を結婚させれば何が出てきますか。子供が出てきますか、出てきませんか。進化論者、答えてみなさいというのです! 生殖器を通らないでは発展するものがないということを知らなければなりません。今晩、帰ってから研究してみてください。生殖器がどれほど複雑か知っていますか。すべての構成に必要な神経要素が、すべて集中しています。

  

 今日の世の中の人たちは、人間が進化、発展したと信じていますが、アメーバに対する例だけ挙げても、それらも雄一つだけで発展し始めたのではなく、雄と雌が共に作用して初めて、より発展したものが出てくるのです。この進化論が大きな問題です。低級なものからより高い級に発展するためには、雄と雌の愛の過程を通らなければならないというのです。多くの愛の過程を通って出てこなければならないというのです。そうでなくては発展があり得ません。皆さん、すずめとほおじろとは似ています。毛色が若干違うだけであって、彼らの骨をおいて見れば完全に同じです。だからといって、すずめとほおじろとペアをつくっておけば子供が出てきますか。進化論者、答えてみてください。一度してみなさいというのです。出てきません。また西洋の人々を見れば、比較的毛がたくさんはえているのですが、だからといってゴリラの雌と西洋の男性とを結婚させておけば人が生まれますか。とんでもない話です!

  

 種の区別は厳格なのです。したがって、進化論者たちの話のように、猿が人間の先祖ではありません。アメーバから人まで出てくるには、そのまま出てくるのではありません。数万種類の愛の過程を通します。愛の法度は動物世界でも同じです。第三者が介入することを絶対容認しないのです。ところが、どのように段階的に進化することができるのかというのです。力の作用においては、入力より出力が小さいのです。作用すればマイナスになるのに、どのように大きいものが出てくることができますか。そうではありませんか。だからといって、大きくなることができる第三の力に自分が加入することができる能力をもった存在でもないのです。

  

 アメーバのそばに他の者が来て、見つめるのを喜ぶでしょうか。それゆえに、連結性をもつことができないという論理を否定できません。進化という意味を話す前に、雄と雌の生殖器を除去する時には、進化論が根本的に壊れていくのです。進化する前に雄と雌がいたので、進化することができる相対的要因の運動が展開したのです。

  

 雄と雌の愛の器官が進化して、そのように合うようになっているのですか。この進化論が問題です。それが連結してアメーバのペアと、それから中間のペアと接触できる道ができていますか。横的にだけでなく、すべてに、どこでも接することができるかというのです。とんでもない話です。雌雄の世界は、既に愛という概念を中心として生じたので、進化とは関係ない次元なのです。

  

 愛の世界では、自分の相対以外には第三存在を絶対容認しないのが天理原則です。すずめも虫も、すべてそうです。それでは、進化論を中心として見る時、アメーバから人まで行こうとするなら、その愛の系列が何千段階ですか。昆虫だけでも数千種ではないですか。植物から動物までも数千種です。

 ところが、その数千種がアメーバからそのままさっと人になったと考えているというのです。とんでもないことです! 数千段階を経なければなりません。種の区別は厳格です。アメーバから進化して人になったというのですか。でたらめな者たち!

  

 すべての存在物は、すべてペア・システムになっています。進化論者に、「雄がなぜ生まれましたか」と尋ねれば、何というのですか。「自然に生まれたのでしょう」と言うのですが、それは狂った者たちです。自然に生まれたのですか。すべての雄、雌は、自分の系列を存続させるために生まれたのです。他の系列ではありません。猿が人になって、蛇がかえるになるのではありません。それは正しいですか、正しくありませんか。雄と雌が愛の門を通るという事実を知らずにいる、全く無知な人々がその人たちです。では、あなた方は雄と雌を知っているでしょう。それがそのまま生まれたのですか。

  

 環境には必ず主体と対象がありますが、一つになって対応的な主体・対象関係をもたなければなりません。環境の主体・対象から対応的な主体・対象関係に発展していくのです。ですから、一人では生きることができません。それゆえに、心と体は主体・対象関係です。主体が対象を見分けられなければ因縁がないのです。元素世界において、これが相対的に合わなければ、いくら実験室でくっつけようとしてもできません。ペアであれば、きちっとくっつきます。置いておくだけでもくっつきます。

  

 種の区別は厳格です。かえるに似た鳥がかえるの世界に行って、「あなた、私とペアになろう」と言う時、「そうしよう」と言うのですか。逃げますか、闘いますか。あり得ないのです。進化論は、アメーバから猿まで行くときに何を否定したのかといえば、愛の門を経ることなくしては新しいものが生まれることができないという事実を否定しています。数千代の愛の門をすべてアメーバが経てきたというのです。そのようなことができますか。気が抜けるにしてもほどがあります。それゆえに、文総裁の前に共産主義が壊れていくのです。事由が先か、存在が先か、このような問題も気になることは気になるというのです。精神が先ですか、物質が先ですか。皆さんは学校で進化論を学んだでしょう? それは間違いでした。進化論は間違っているというのです。今から私が革命をするのです。

  

 再創造の環境では、プラス・マイナスの対応世界で発展する過程があって、雄と雌の概念が進化論よりも先だということを知ることができたでしょう? 愛の種の区別は厳格で、第三者が介入できないのです。進化論によれば、アメーバから猿まで行こうとすれば数千段階を一度に跳躍しなければならないのですが、そのようにすることができる道理はありません。千万種類の愛の門を通過してこそ、発展的なその種を連結させることができるのに、一度に跳躍して猿が出てくることができるというのですか。絶対不可能です。これだけ知っておいてください。

  

 もし進化論を認めるならば、アメーバから人まで何千段階を越えていかなければなりません。段階が同じだといって、そのまま通過できません。ここは、何千種類の愛の門を通じて連結しているというのです。愛には、第三者の侵入を許す法がありますか。ありません。嫁に行った初夜に「お母さん、頼むからここで一緒に寝ましょう!」と言う新婦を見ましたか。夫もそうです。「お父さんがいなければ嫌だ!」と言っていた男性でも、初夜に「お父さん、ここで一緒に寝ましょう!」と言う男性はいないというのです。愛は第三者の介入を願いません。動物界でも同じであり、昆虫世界も同じです。このように思う時、猿は猿を産むのであって、猿のような種類から人間のようなものが出てくる道理はありません。

  

 化学実験室で元素を研究する教授が、「やあ! こいつ、この元素とあの元素と一つになりなさい」といくら命令してもできません。自分の相対圈が成されなければ絶対に一つにならないというのです。作用しません。自分が相対の主体になってこそ一つになるというのです。このようなことが原則なのに、無責任に進化論をこの宇宙形成に当てはめたのですが、それはでたらめです。ここで私たちは、「すべての存在に内的作用の力を起こすことができる本然の宇宙力がある」ということを認めていくべきだというのです。

 猿と人は種子が違います。猿が文化的な生活をしますか。人は、生命が始まった時から宗教が付いて回りました。しかし、猿が「文化をもって世界を統一しよう」と言いますか。他の国を占領して自分の国にしたり、国境線をつくって「お前の国だ、私の国だ」と言いますか。そうですか、そうではありませんか。人とは種類が違うというのです。猿が神様を賛美しますか。猿は、ただ食べることを喜び、食べて繁殖すればそれで終わりです。人と狼では全く違います。進化論を主張する学博士という人々は、猿が人として進化したと意地を張って詐欺を働いているのです。統一教会では、彼らの主張が誤っていたことを明らかにして正さなければなりません。


(2) 力の作用法則と進化論の虚構


 今日、進化論を適用しているのですが、アメーバならアメーバが繁殖していくにおいて、アメーバよりも大きなものが生まれるためには、現在のものよりも大きくなるためには、他の力が加えられなければならないというのです。力がプラスされなければならないというのです。アメーバ自体が、自分で力をプラスさせながら発展することができますか。自分自体がそのような力を加入させることができるのかというのです。そのような能力があるのかというのです。

 もう少し上がっていって、より大きなものになることができるならば、ここにもっと大きな力をプラスしなければなりません。それでは、自分自体で力を創造してプラスさせることができる能力はないのに、どこからどのように来るのですか。そのような論理が成立しますか。ミスター金ならばミスター金、ミスター朴ならばミスター朴がいる時、「私は、モハメド・アリのようなものは問題なく握って片づける」、そのようなことができますか。そのようにしようとすれば、ここにより大きな力が加えられるか何かすべきで、そうでなければいくらやっても限界線を越えることはあり得ないのです。ミスター朴が「突然変異によって私の力が大きくなればアリをたたきのめすことができる」と言ってそのようになることができるでしょうか。そのようなことができますか。

  

 力の公式的な原則を見れば、人間において入ってくる力と出ていく力とを同じにすることができますか。力が入ってきてこのように作用したのに、作用しようとして入ってくる力と作用したあとの力とが同じになることができますか。ここには消耗が生じます。そうではないですか。運動をすれば消耗が生じるでしょう? ですから、入ってくる力と同じにはなり得ないのです。作用したあとには、常に力が小さくなるものです。進化論者たちは、作用したあとに力がもっと大きくなるというのです。そのような公式はありません。そのようになれば、この世はひっくり返ります。それゆえに、第二の力が必要です。

  

 進化論者たちは、アメーバが順次進化して高等動物である猿になり、その猿が進化して人になったといいます。ところが、皆さん考えてみてください。人が人以上の力を発揮しようとするなら、その力をどこからか補充されなければなりません。力の原則がそうです。力が作用するようになれば必ず消耗します。ここに力を補充してあげてこそ、再び作用するようになるのです。

 主体と対象が作用して現在よりも劣るようになれば作用しないのであり、より良くなり得るお互いの目的を発見すれば作用するのが原則になっているというのです。この問題を中心として進化論を見れば、進化するところにおいても、より良くなり得る目的的なその何かをもつことができないときには発展できないということを考えることができます。発展するためには、横的により強い力が加重されなければなりません。そうでなくては発展できません。その力は、作用することができる目的と対象がなくては絶対にできないのです。

  

 進化論の矛盾は何ですか。アメーバが進化、発展するためには力が必要です。どんどんと大きくなっていくためには第三の力が必要です。「私は上の段階、高い段階の物に生まれる!」とするなら、ある何かをそこにプラスしなければなりません。力が加えられなければ大きくなることはできないのです。第三の力が必要だというのです。アメーバがより大きくなっていくことができる力を創造していきながら育つことができるのか、生きていくことができるのかというのです。そのようなことはあり得ません。

  

 進化論では、どのように発展するというのですか。進化論は、入力と出力の法則と反対です。世の中にこのような原則がどこにありますか。進化論は絶対に大きくなることでしょう? 進化とは小さくなるということですか。進化論では、アメーバが自然発生してどんどん大きくなって上がっていき、猿に進化発展して人に進化発展したといいます。進化論によれば、それが大きくなるのですか、小さくなるのですか。しかし、力の原則においては、入力と出力が同じ時、絶対に大きくなることはできません。小さくなるのです。力の消耗が起きるというのです。

  

 力学の世界では、入力・出力圏を中心として作動すれば、必ずロス(損失)が生じることになっています。落ちていくようになっています。ところが、進んでいくことができるという論理がどこから出てくるのかというのです。「進化」ということ自体が、進んでいきながら変わるということ自体がプラスするという言葉ですが、それがどこでプラスされたのかというのです。投入した入力よりも出力が大きくならなければならないという論理をどこから探し出すのですか。作用すればロスが生じるので、入力は出力より大きいのです。このような立揚では、進化という論理は形成されないのです。

 三点加入をそれ自体が投入できず、それから運動する世界では、入力よりも大きい出力を自分自体で発生することはできないのです。このようになれば、無限の動力が出てくるのです。その次の問題とは何でしょうか。今日、進化論を考える人々が、性関係を、プラスとマイナス、男性と女性、雄しべと雌しべ、プラスイオンとマイナスイオンが一つになり、その運動を通して出てきたということを忘れてしまいました。アメーバから人まで来ようとするならば、何千段階の愛の門を通らなければなりません。ところが、これがただ自然になったと考えています。突然変異が起きてそのようになったと考えますか。でたらめな者たち! すべての種の原則は厳格なのです。第三者の介入を許す存在はありません。

  

 進化論を主張しようとするなら、進化できるようにする力をどこからか補充することができなければなりません。そうでなければ、核の変革形態を自分自体に成し遂げて連合できる自制力がないというのです。それゆえに、進化は不可能だという結論です。

  

 主体と対象があれば、必す目的があって方向性があります。ところが、進化にどうして方向性と目的があり得るのかというのです。進化論では、このような理論を適用できないのです。それゆえに、この目的観、方向性によって共産主義を壊してしまわなければなりません。このでたらめな理論をもって世界を蹂躙してしまおうとしたのです。アメーバが作用すれば、入ってくる力よりも作用が小さいはずですが、どのようにして大きくなるのかというのです。どのようにして大きいものが出てくるのですか。アメーバにおいて、入力より出力が小さいので、大きいものが出てくることができるようにするためには、第三の力が投入されなければなりません。そうでなくては進化論の根拠が壊れていくのです。アメーバ自身が第三の力を投入できる能力がありますか。このでたらめな者たち!

  

 進化論を語る時、進化するアメーバ自体が進化の出発である三点をつくり出せるでしょうか。作用しようとするなら、運動しようとするなら、三点で回っていきながら、回転することができる四点基準を経ていかなければなりません。三点から四点を経なければなりません。円形で授け受けして運動しようとするなら、三点から四点を経なければなりません。ところが、アメーバ自体が再び自己の位置に戻ってくることができ、三六〇度に循環させることができる力をもつことができるのですか。もてません。

 それでは、三点の力は誰が加えたのでしょうか。それは、理論的に、他の違う力が含まれなければならない、という事実を知らなければなりません。ですから、進化する時、進化の方向がどのようになるのですか。その方向性を誰が決定するのかというのです。進化するアメーバ自体は、方向性を備えることはできません。それを思うとき、突然変異というものは気違いのたわ言です。それを誰が受け入れますか。最近では、進化論というものは、既にごみ箱に入ってすべて腐ってしまったというのです。何というのでしょうか、肥料の山のように考えているのです。

  

 今日では、物理学が発達し、すべての原子にも意識があるという二元論を主張しています。この論理は、統一教会の二性性相原理のみ言と同じです。次元は違っても、すべての万物が聞き分けるというのです。そうではないですか。それでこそ細菌のようなものも生きるのです。そうではないですか。細菌のように見えもしない、何千万分の一にしかならない大きさで生きている細菌に耳がありますか、ありませんか。目がありますか、ありませんか。鼻がありますか、ありませんか。口がありますか、ありませんか。そこに生殖器がありますか、ありませんか。すべて備えているというのです。

  

 神様もこの世界を創造される時、三点から始めました。このように思う時、進化論というもの、「進化」という言葉を私たちが認めることはできません。アメーバが作用するならば、作用するところにおいて三点基準を自分自ら選ぶことはできないのです。その三点基準は、もう一つ別の力によって形成されるのです。このようにして運動すればするほど、そこには必ず円形を経て運動したその点数を加えて球形運動を経ていくのです。

  

 進化論を信じる絶滅分子たち、ここに進化論を信じる者たちがいますか。教授という安物がそのようなものをよく信じるでしょう? それがなぜそうなのでしょうか。ペアにならないものを、いくら力を通してやっても、神様だとしても、和合作用もしないのはもちろん、一つにもなりません! なぜですか。これが宇宙の法です! なぜですか。愛の理想を中心としてつくられ、相対性を分け与えたために、宇宙はペア・システムになっています。アメーバから人になりますか。

 直線上では調和がありません。このようなことを理論的に話そうとすれば、時間がたくさんかかります。直線世界でどのようにして三点をつくり出すのですか。三点、四点、四角形をどのようにつくるのかという問題、ここから調和が成されます。円形はどこから出てくるのですか。直線からは出てきません! アメーバが三点自体を策定して、それを形成することのできる自力がありますか。ありません! 運動すれば直線でするのです。

  

 アメーバを中心として、数千階段が愛の法ですべて積まれているのに、それがどのように愛の門、男性と女性の愛の門をすべて越えていくことができますか。できません。進化論の問題とは何かといえば、第三はどこから来たのかということです。愛の峠を越えてのみ種の繁殖が可能なのに、その門を通っていったのか、そのまま越えていって猿になったのかというのです。その次には、進化論というものが、雌と雄、このすべての鉱物において、元素世界においてもプラス・マイナスがあるのですが、プラス・マイナスの相対的概念より先にあったのかという時、それはあとだったというのが事実です。それでは、この宇宙の主体・対象関係を認めざるを得ないというのです。これは、自分の正道以上に越えていくことができないということです。

  

 直線上には調和が成されません。直線は何かというと、二点を連結したものです。創造されるためには、三点四点、スペースが必要です。この三点を誰がつくっておいたのですか。直線自体が知ることができるのかというのです。答えてみてください。上の三点に下の三点を誰がもってきて置いたのかというのです。それとともに、宇宙のすべての発展をするのです。その話は、運動というものは主体と対象がなければならないということです。それゆえに、主体・対象がなくてはなりません。また、それからもう一つは何ですか。力学の世界では入力が出力より大きいのです。それでは、アメーバが運動するところにおいて出力が大きいという論理がどこにありますか。上がっていくのではなく、落ちていかなければなりません。そのような意味で、進化論はすべて整理しなければなりません。

  

 直線上には調和がありません。三点からすべての球形世界の調和基準が展開するのです。進化論には、三点を提示することのできる能力がありません。それゆえに、創造を無視することはできない伝統的な内容があることを知らなければなりません。直線上の点にはそのようなものはないのです。

 宇宙の創造から見るとき、直線世界でどのようにして三点の基準を立てるようになったのかと考えてみるならば、進化論の観点で宇宙が始まったという結論を下すことはできないということを知ることができます。三点を中心として始まったというのです。三つの点があるというのは、必ず相対を中心として見るとき、それを連結させてあげる核があるということを意味するのです。

  

 進化論は、既に過ぎた廃論です。方向性がありません。このようなことを中心として見るとき、方向性が設定されたということは、プラスとマイナスの二つに、相対圏にすべて共同的な利益をもたらすことのできる道が決定したのです。中道であると同時に正道の道を行くのです。二つとも喜ぶことができる道を行くのです。進化論者たちは、入力と出力の関係に対する論拠に解答できませんでした。しかも、方向性を提示できませんでした。第三の力を加えて、より大きいものを引き込むことができる内容的力を、アメーバ自体が介在させる自主力をもったのかというとき、もっていないのです。話もするなというのです。その方向性は愛の方向性です。

  

 進化論を結論づけて越えていこうとするなら、進化することができるためには、アメーバが大きくなれる第三の力を自分で創造しますか、補給されますか。アメーバが進化して大きくなるためには、現在の状態から大きくなろうとすれば第三の力が加えられなければなりませんが、自分が創造しながら大きくなりますか、他人の力を受けて大きくなりますか。創造することができなければ、力を受けたという論理を否定することはできません。また、そして、無条件に骨が同じだからといって進化するのですか。そのような狂った者たちは、いてはいけないというのです。精神病者です。

 アメーバから猿まで行くときには、数千種の階級があるということを知らなければなりません。種の区別があるということです。それは何かというと、すべての種は、男性と女性、雄と雌の愛の門を通じてのみ出てくるようになっているというのです。ところが、数千種の愛の門を通過するということを忘れてしまって、骨が同じだ、似ているといって進化したということができますか。その数千の門の、階級の愛の峠をすべて越えていって発展したのかという話です。

  

 生まれる時に、目を閉じて生まれますか、目を開いて生まれますか。では、私がいつ目を開けると思って開けましたか、自然に開けましたか。また、お母さんのおっぱいを飲むという教育を受けましたか、受けませんでしたか。ところが、どのようにしてそのようになりましたか。そこには見えない磁石のひもがあります。作用するすべてのものに、原則的な道があるというのです。このように思うとき、すべての作用というものは、偶然に展開するのではないということを私たちはここで知らなければなりません。今日、進化論者たちは、「宇宙が発展した、自然発生だ」とこのように言うのです。ところが、どのように自然発生するのかというのです。どのようにしてそのまま自然発生することができるのかというのです。原因もなく、動機もなく、過程もなく、結果もなく発生することができるのかというのです。

 動機が最初であり、原因が最初であり、その次が方向です。それでは、なぜ方向が出てきたのかというのです。存在それ自体が、「私はこのように行くべきだ」ということを意識していきますか。目はなぜ開かれるのですか。目を開ければ、開けるや否や中を見つめますか、外を見通しますか。なぜそのように見なければならないのかというのです。そのような方向性がどこから出てくるのですか。どのようにしてそのようになるのかというのです。存在するものは、方向に従っていくために存在するということを私たちは知ることができます。

  

 私たちは、目一つにしても答えることができないのです。今日の弁証法や進化論をもってこのことを話すことはできないというのです。皆さんは、今後共産主義者と闘わなければなりません。今から進化論と弁証法を壊さなければなりません。進化論さえ壊してしまえば弁証法は壊れるというのです。今の闘いは何ですか。意識が先か、物質が先かという問題です。共産世界は「物質が第一である、物質が最初である」と言い、民主世界では「意識が先だ」と言います。目がどのように生まれたのかという時、目がただ生まれたいと思って生まれた、と考える者は狂った者です。鼻はじっとしているのに、なぜ目は動くのですか。「なぜ目が動くのですか」と言う時に、「動きたいから動く」と言うのが進化論式であり、弁証法式です。

 目の目的は見ることです。見ることに目的があるので動くのです。目的を達成するために動くのです。鼻はほこりがくっついてもじっとしているのに、目はなぜこのように絶えずぱちぱち瞬きするのかというのです。なぜですか。なぜそうなのかというと、水分が蒸発して乾くので、水蒸気をまいてあげるためにそのようにするのです。まゆ毛はなぜ生えているのですか。ほこりを防ぐために生えています。「なぜそのようになっているのか」と言う時、「そのようになってみたいと思うからそのようになるのだ」と言うのが進化論式であり、弁証法式なのです。それは、そのように簡単ではありません。それが「ただそのようになった」と言う者がいれば、「この者たち、狂った者め! たわ言を言うな!」と、このように言うのです。


(3) 愛の論理から見るとき、進化論は間違っている


 進化論を解決しなければなりません。進化論が問題です。進化論のコンセプトと実在は、共産主義が問題とするのです。見えないものが貴いのです。神様が見えますか。良心が見えますか。愛が見えますか。人間に最も貴いのはこの三つです。見えない三つの貴重なものが神様、良心、愛です。良心があることはみな知っているでしょう? 「良心はない」と言う人がいますか。「愛はない」と言う人がいますか。しかし、目には見えません。見えないのでどのようにするのですか。どこにでも入っていくことができて、どこにも一つになることができるのです。見えたら入っていくことができますか。見えないので細胞の中にも入っていくことができるのです。通じない所がないということです。それは論理の根源を探すことができます。愛だけは誰も制止できないのです。真の愛は、宇宙が制止できず、妨げることができないのです。

  

 進化論が先ですか、雄雌の概念が先ですか。どちらが先ですか。実在が先ですか、愛に対するコンセプトが先ですか。これは深刻な問題です。共産党を押し倒すためには、進化論を克服することができる論理をはっきりと知らなければなりません。アメーバが現象世界以前にいたでしょうか、その以後にいたでしょうか。アメーバから人間までの発展の連結体制を成すにおいては、どのようになっているのですか。愛によって実体が発展するという概念は無視して、そのまま進化によってアメーバから人になったという、そのようなばかな論理が世の中のどこにありますか。

  

 中世時代から今まで、歴史を経てきたキリスト教文化圏が最も混乱したものとは何かというと、人本主義思想です。人本主義思想を中心として出てきたチャールズ・ダーウィンの進化論が、キリスト教を滅ぼすことにおいて、首を締めてつるし上げるのに主導的な役割をしたのです。「神様はいない」と言ったのです。環境圏内において、主体と対象になるのが雄と雌の相対概念です。雄と雌、人でいえば男性と女性のコンセプトですが、このコンセプトが先でしょうか、進化論が先でしょうか。環境には主体と対象があるのですが、そこには進化がありません。環境の中には必ず主体と対象があります。鉱物世界でも電子が陽子を中心として回っているのです。分子なら、プラスイオンとマイナスイオンが一つになって運動しているのですが、それらが進化論よりも先にあったでしょうか、あとにあったでしょうか。先です。先にあったというのです。

  

 進化論が先ですか、宇宙の雄、雌の概念が先ですか。主体と対象が先ですか。鉱物世界にもプラスイオンとマイナスイオンがあり、主体と対象によってすべてペア・システムになっているでしょう? 植物世界もそうでしょう? 雌しべと雄しべがあり、主体と対象の相対的関係です。動物世界はどうですか。雄と雌になっています。宇宙の天理です。不変の天理です。これを人間の力、ある自為的な力をもって種別に対する雄、雌を変更させることができるものは、この地上に永遠に誰もいません。いれば大変なことになるのです。

 進化論を片づけてしまいなさいというのです。進化論がある前に、そのような雄、雌の思想があったということを知らなければなりません。宇宙の神秘な秘密の中に隠された秘密、そのような秘密であり、今まで人間が知らずにいたのが雄、雌の概念であり、この概念が宇宙を形成したという、主体・対象関係で宇宙を形成したということを知らなければなりません。進化論が先ですか、雄、雌の概念が先ですか。雄、雌の概念です。イエス様がこの地に来て雄、雌の概念を革命しようと言いましたか、言いませんでしたか。

  

 進化論を中心として見るとき、どのように進化したのですか。自分だけがいて、アメーバだけで進化したというのはでたらめです。あなたがなければ発展がないというのですか。自分だけがいれば発展するのですか。あなたと私とで喜ぶことができるその内容を中心として発展するのです。発展は、あなたと私の間の相関関係において、理想的な授受をすることによってより次元の高い発展が展開されるのです。

  

 進化論では、アメーバから人まで発展したと見ます。発展がどれほど複雑ですか。一段階より高い生物がそのまま環境に適応して発展してくるのではありません。一段階高い存在の位置に上がっていくためには、必ず雄と雌、プラスとマイナスの愛の過程を通してこそ成されるのです。ところが、進化論では、このような問題を無視しているというのです。雄から雄に行って再び雌に行き、また雌に行って、このように生きることができるのかというのです。その方向性を見れば、必ず愛の門を通じて次元の高い存在になるのです。ところが、進化論者たちはそれを知らずにいるというのです。進化するためには愛の門を通過しなければなりません。

  

 進化して男性と女性になったという言葉が問題です。愛という観念が進化する前にあったのでしょうか、進化したあとに生じたのでしょうか。どうですか。前ですか、あとですか。前です。今では、細菌までも夫婦があるというでしょう? アメーバではなく細菌です。何十万倍、何百万倍に拡大して見ることができる細菌の世界にも夫婦というものがあるというのです。その細菌は、アメーバがいる前にいたのでしょうか。どうですか。おもしろいでしょう? 万物がペア・システム、相対になっているということ自体は、愛を中心として成されたものです。このことを考えてみれば、愛の感性とは進化する前からあったという話になります。それならば、アメーバから人間まで進化するのに、何億段階の雄雌交流の等級をどのようにして越えることができるのですか。これは、既に理論に合わないのです。そのような理論は、今ではもう古くなりました。進化論は大変なことをしでかしているのです。これは、歴史上「神様はいない!」といって神様を否定する共産主義が発展した基台になったのです。

  

 宇宙は、どの方向に向かっていますか。その方向性をつかむことができなければ目的観が出てこないのです。共産主義者たちは、進化論を語るので目的観がありません。しかし、すべての存在物は、既に主体と対象になっていれば、必ず愛というものを中心として作用します。ですから、それを連結させていく道が愛の道です。愛の道を訪ねていくのです。

  

 今日、進化論もこのような原則で発展するものとして説明しなければなりません。二つの心が合って、お互いにより大きな目的によって刺激を受けなければなりません。刺激を起こし、その目的を中心として二つが追求してこそ、より高い所に行くことができるというのです。ですから、必ず主体と対象がなければなりません。その二つの間に起きる刺激とは何かといえば、愛だというのです。

  

 進化論に愛の論理がありますか。なぜ凹凸が生まれたのかという理論的な根拠を語っているのかというのです。それでは、進化論が先ですか、雄、雌の概念が先ですか。どちらですか。雄、雌が先です。雄、雌が先ですか、愛の概念が先ですか。どちらですか。愛ゆえに雄、雌が生まれたのです。

  

 宇宙の根本がどこから始まったのですか。進化論ではありません。それを知らなければなりません。進化よりも先に、創造の概念がある前に雄と雌がいたということを知らなければなりません。雄、雌はなぜ生じましたか。愛ゆえにです。愛、これが公式です。

  

 すべての存在物は、すべてペア・システムになっているというのです。進化論者に「雄がなぜ生まれましたか」と尋ねれば、何と言うのですか。「自然に生まれたのでしょう」と、また「雌がなぜ生まれましたか」と言えば、「自然に生まれたのでしょう」と言うのですが、それは狂った人です。自然に生まれたのですか。すべての雄、雌は、自分の系列を存続させるために生まれたのです。他の系列ではありません。猿が人になって、蛇がかえるになるのではありません。それは正しいですか、正しくありませんか。雄、雌が愛の門を通るという事実を知らずにいる、全く無知な人々がその人々です。そうです、あなた方は雄、雌を知っているでしょう? それがただ生まれたのですか。

  

 主体と対象の相対圏は宇宙が保護します。このような理知で進化論を見れば、どのようになりますか。アメーバからそのまま行くことはできません。必ずプラスとマイナスが一つにならなければなりません。この一つになったものは、また一つの大きなプラスになるかマイナスになるのです。このようになり、ある存在は上に上がっていって、ある存在は下に下りていくのです。このようにしてその全体的な一つの主体的性格の基準の前に、自分に合う相対的主体性に該当するプラス的対象存在ならばプラスに行ってくっつき、その大きい主体に対してマイナス的対象存在ならばマイナスに行ってくっついて、もう一つの大きなプラスになるかマイナスになるかして、より大きな世界に向かって発展していくというのです。

  

 進化論をどのように撃破しますか。学者を中心としてその進化論が問題です。進化する前、猿の雄、雌も進化してそのようになりましたか。どうですか。雄、雌は進化してできましたか。すべてのものが、鉱物世界はプラスイオンとマイナスイオンであり、植物世界は雄しべと雌しべであり、あの昆虫世界の小さな虫もすべて雄、雌ですが、この雄、雌は、進化して生まれたのですか。

 進化論者に雄、雌が生まれた起源とは何かと尋ねてみてください。それを何だと答えますか。繁殖するためであり、愛するためだということを否定できません。

  

 進化は、どこから始まったのですか。これが問題です。今日の若い知性人たちは、この問題に引っ掛かり、このわなから抜け出すことができずに、すべて地獄に行っているのです。進化はどこから始まったのかといえば、アメーバから始まったというのです。進化なのか、神様が創造した調和なのか、この二大論理が文総裁によってきれいに整理されます。進化論は、神様を否定する共産党の無神論が作り出したものです。進化論は、科学世界に途方もない被害をもたらした怪物です。それは処断しなければなりません。進化がアメーバから始まったとするなら、それより何十万倍、何百万倍も小さなそのような世界を顕微鏡で見ることができますが、そこにいる菌の雄、雌は、アメーバがいる前にいたのでしょうか、あとにいたのでしょうか。

  

 一つ知らなければならないことは何ですか。進化論よりも愛というものを中心として雄、雌が先にあったのでしょう? この進化論が問題です。進化して雄、雌が生じましたか、進化する前に雄、雌が生じましたか。愛という内容を中心として実体が生まれたのです。愛ゆえに生まれました。男性と女性、雄と雌が一つになるのは愛のためです。進化というものはあり得ないというのです。進化する前に愛のコンセプトがあって実体が生まれたので、進化という言葉は、男性と女性、雄と雌にはふさわしくないというのです。愛ゆえに生まれました。

  

 進化論を主張する前に雄、雌、愛の概念が最初にありました。それは、進化論以前にありました。男性と女性は、愛ゆえに結婚して一つにならなければなりません。一つになるのは何のためですか。それは愛の目的を得るためなのです。ここには進化論の内容も何もないのです。

 創造の公式的な一致観を認めることはできますが、進化して雄自身がどのようにして雌になるのかという観念、また雌自体が、女性である私が男性になるという観念をどのようにもつのかというのです。そのようにはならないというのです。自分自体ではなりませんが、そのようになった結果論から見れば、その動機は愛という観念であるということを否定できません。雄、雌を考える時、進化論は絶対に成立しません。結局、雄、雌は何のために生まれたのでしょうか。愛ゆえに生まれたというのです。

  

 宇宙には進化という観念がなかったというのです。増加するという観念は、本来愛を中心にして始まったのです。愛の観念から進展の編成を展開させるのが神様の創造理想です。進化論に先立つ愛の観念を考えてみても、そこに連結する雄、雌の内容をどのように進化論によって理解させることができますか。愛の感情は進化する前からありました。それは自分とは関係ないのです。男性と女性が生まれる前から、存在前からあったのです。したがって、観念が先だというのです。愛の本宮とは何ですか。本宮が何か分かりますか。

  

 進化論という言葉が出てきたので、一言話して次に行きましょう。鉱物世界にプラス・マイナスの概念があります。動物世界にも雄と雌がいて、植物世界は雄しべと雌しべがあります。すべて雌雄関係です。それから人間世界は男性と女性です。

 ところが、男性と女性がいたずらに生まれたのですか。それは、何のために生まれたのでしょうか。これは、すべて主体・対象関係です。授け受けするために、運動するためだというのです。それ自体の愛を中心としてこのようになったのです。

  

 進化論がキリスト教を破壊させるのに、どれほど貢献したか分かりません。しかし、今、進化論を私の手で握りつぶすことのできる時代が来たというのです。進化論を信じますか、信じませんか。文総裁の話を信じますか、進化論を信じますか。今、整理して越えていかなければなりません。これはうそだというのです。愛の力は何千万代を経るのに、アメーバがそのまま何千段階の愛の門を通って人になることができますか。アメーバ自体がそのような能力、飛翔天することができるそのような資質をもつことができますか。

) 進化論は既に時代後れの思想


 今、世界の主流思想から見るとき、概念と実在が哲学世界の二大主流になり、有神論と唯物論、左翼と右翼の闘争によって世界に及ぼしたその被害は莫大なものです。左翼思想というものは、進化論によって世界的に覇権をもつようになりました。男性と女性という概念が先ですか、愛が先ですか。男性と女性がいる前に、愛という概念が先にありました。愛が先にあったので、男性と女性もそこに準備してその愛の概念に一致するようになっているというのです。それゆえに、概念と実在は分かれるものではありません。このように、概念と実在が愛によって一つになることができる、ということを共産主義は分かりませんでした。

  

 今まで世の中の学者において進化論が先か、神様の創造が先かということが問題でした。愛の概念がある前に、先に進化の概念がありましたか。どちらが先ですか。進化論が先ではなく、この愛の概念が先にあったあとにそれがあったというのです。ペア・システムの宇宙が先に生じて、その中で形体的な構造が合うものが進化論形態として合うだけであって、それで根本がそのようになったのではないということを知らなければなりません。

 すべての鳥の種類は、形態がすべて同じです。しかし、種の区別は違います。すずめとほおしろが夫婦になって子を産むことができますか。それはできないというのです。アメーバから人までは何千段階の種の区別があるのですが、これを無視して一度にさっと人が出てくることができますか。とんでもありません。種の区分は絶対的です。

 共産主義も「神様がいる」と言って帰ることができる、そのような思想的概念をどこで取り戻すのかというのです。絶対的に唯物論を、絶対的に進化論を否定することができるように確定しなければならず、心と体が一つになることができるように確定しなければならず、理想的出発を自分から始めなければならないという、このような基準をどのようにしてつくるのか、統一するのかという問題が世界史的問題です。

 共産ブロックが進化論を主張して、創造論は宗教圏が主張して、この二つが闘いました。それで、世界的ブロックが主張したことが、すべて失敗しました。ですから、どこからこれが出発しなければならないのかといえば、世界的基準ではないのです。個人に入っていかなければなりません。個人で誤ってこのような結果になったのですから、個人から唯心、唯物を中心として判定しなければなりません。

 進化論を取り除いてしまい、絶対的神様を中心とした創造論を中心として、絶対的神様を中心とした絶対価値の核を立てなくては、世の中が行ったり来たりするというのです。

  

 今日、進化論や唯物弁証法、認識論、唯心論、唯物論等によって、世界の思想界は矛盾と混乱に陥ってしまったので、絶対真理を樹立してこそ絶対的価値世界の形成が可能なのです。絶対価値的存在は、永遠、不変、唯一の存在です。それでは、宇宙の中で永遠、不変、絶対の原理が何かというと、原因と結果、主体と対象の関係だという結論になります。

  

 今日、進化論が事実か、調和の創造が事実か、ということが大きな問題になっているのです。その進化論の方向性は誰が決定するのですか。自分が決定するのですか。発展するその物質が決定することができますか。また問題は、それ自体が理想圏と関係を結ぶことができる力をどのように育てることができるか、もっと抱くことができるか、プラスさせることができるかということが問題です。

 それは神様によって可能なのです。そのような問題は、科学も解明することができません。それゆえに、物質にもやはり人の欲望のようなものがあるのですが、その欲望的方向は神様と一つになることです。それが目的です。同じです。ここにおいて宇宙のすべての元素の総合的代表、この物質世界の代表が人間だというのです。

  

 思考の根拠地はどこですか。ある人は頭にあるといい、ある人は胸にあるといいます。それでは、自分が胸にいるのですか、頭にいるのですか。それだけではないのです。このように見ると、自分が存在するのは結果的なことなので、どのようにして生まれたのでしょうか。すなわち、起源がどのようになっているのでしょうか。これが問題です。自分はどこから始まったのですか。

 一般的に人々は、人間が動物界から進化したと考えます。それは、仕方なく作った方便的な理論です。論理的に連結させるために仕方なく方便的にくっつけたものであって、本当に進化したかということは知ることができないというのです。私たちの精神的底辺がアメーバから始まったのですか。精神的先祖がアメーバなのかというのです。進化論では、アメーバから出発してすべて発展したというのです。

  

 今日の哲学思想、その哲学思想とは何かというのです。これは、すべて一番下から探求していくのです。ところが、これが、「どのようになっているか」と理論的な追求をしてきましたが、「人間とは何か。真の人間とは何か」ということに対してまだ結論が出ていません。すべての学者、すべての有名な哲学者が人間の問題を中心として考えましたが、この結論がまだ出ていないのです。「人間とは何か。人間の起源とは何か」ということに対して、進化論や創造説による様々な学説を通しても、まだ解決されていないというのです。「こうだ」と言える決定が出ていないというのです。

  

 すべての経典を見れば、孔子もあいまいです。人格的神を知らなかったのです。お父様を知らなかったのです。生まれた私たち人間の根本であるお父様がいるはずですが、お父様を知らなかったのです。また仏教も万象帰一の法を論じますが、人格的神を知らないのです。

 もしも誤れば、唯物論に陥りやすいのです。進化論に陥りやすいのです。進化論的見地の発展的信仰基準に立つために、これは唯物論に接近しやすいのです。

  

 フランス革命以後、人本主義思想を中心として啓蒙思想を経て、今の共産主義まで出てくるその過程において、このチャールズ・ダーウィンの進化論を中心として共産主義が一つにつづられ、今までキリスト教を完全に破壊のくぼみに陥れたのです。

  

 今日の科学者たちは、「この宇宙は力でできている」と言います。しかし、力がある前に作用が先だという事実を知らずにいます。作用があるがゆえに主体と対象があるという事実を知らないので、混乱が生じるのです。主体・対象の概念によって事物を判断するときには、進化論が根本的に壊れていくのです。

  

 最近、進化論のようなものは、アメリカの大きな大学では講義しない所が多くなったといいます。それは当然のことです。「自然にできた!」と言いますが、皆さんが自然にできたと考えれば、それはどれほどむなしいでしょうか! 「自然にできるのですか。自然も主体的な自然がありますか」と言えば、「それは私には分かりません」と言います。

 このような話がどこにありますか。どのようにして主体的な自然があるのですか。「それはそのようになっている。生理作用がそのように、発展現象はそうなるようになっている」と言うというのです。「そのようにですか? なぜそのようになるのですか」と言えば、「それは誰も分かりません。それはそのようになったのでそうなのです」と言うのです。そのような論法は、あり得ないのです。原因がない結果は、あり得ません。因果法則を否定する科学論理というものは、あり得ないのです。

  

 今、進化論は、流れていった一つの歴史的遺物になっていますが、進化して発展するというでしょう? 進化すれば、なぜ逆にはならなかったのですか。逆さまになることもあり得るのではないかというのです。東にも行くことができて、西にも行くことができて。進化することができる方向を誰が定めてあげたのですか。自分で育ちながら方向を定めるのですか。アメーバから発展して人になる時まで、数多くの高次元の段階を経ていくのに、その方向を、高次元に向かって発展することができる方向を誰が定めてあげたのかというのです。なぜそのように高次元に向かうのかというのです。

  

 各宗教の経典の欠点とは何かといえば、創造説がないというのです。神様が創造されたプログラムがないというのです。それで、あらゆる論理を中心として論告を書くのです。創造説がないので、創造の方向と創造目的を知らないのです。これだから世の中が自分勝手になり、進化論だ、何論だというものを掲げてきて自分の思いどおりにやってしまい、自分の思いどおりに行動してきたというのです。

 ですから、創造説がどうだということをはっきり知らなければなりません。その次には、方向性と目的性があって、これがこうなのですが、なぜこのような悪なる世界になっているのかという、その理由を糾明しなければなりません。

 その原因を糾明し、聖書とか歴史的な過程において、人類歴史の中で滅びた国がなぜ滅びたのかという、そのすべての起源を解決していかなければなりません。一般常識的な立場で、誰でも妥当性があると公認することができる論理的体制を整えた歴史観がなければならないというのです。

  

 絶対的な愛の前には、第三の相対者を絶対に付与しません。このような論理が本物ならば進化論はあり得ないのです。アメーバも、それだけでは発展できません。陽性、陰性の内容を通して、愛の門を通じて新しい次元を経ていかなければなりません。すべての宗教の教理は、愛の門を通るという論理、またここには第三者の介入が不可能だという天理を考える時、進化論はあり得ないという結論が出てくるのです。


第二章 人間創造と愛の理想の完成

一、愛の絶対価値

 一) 人間の男性と女性


 宇宙の根本を考える時、何を考えて造ったのかといえば、男性と女性の概念を通じて、それに合うように相対的理想として造ったというのです。今まで、これが分かりませんでした。

  

 宇宙の根本とは何かというのです。人間だとすれば、男性と女性がいます。その人間はなぜ生まれたのかというのです。人間はなぜ生まれましたか。これが問題です。宇宙の最も根本になる中心とは何かという問題、宇宙の最も貴いものは何かという問題を、私たちは扱わなければならないというのです。

  

 宇宙の根本を探し求めていくと、主体と対象の概念が生まれてきます。ここにいる小柄な女性たちも、力をもっているでしょう? では、この小さい女性の力が願うものは、小さい男性の弱い力ですか、大きい男性の強い力ですか。男性も同じです。男性も小さい男性ならば、大きい女性の力を願うのです。それは、なぜそうなっているのでしょうか。バランスをとるためです。バランスが問題です。水平、または垂直にならなければならないのです。それゆえに、相対的理想というものがそこから出てきます。そこから、相対的理想が出てくるというのです。

 人間の中には何がいますか。男性と女性がいます。それでは、男性と女性とは何ですか。種の中の種、焦点は、男性と女性を中心として、誰が焦点となるのかということが問題です。この男性と女性も、プラス・マイナスでできているというのです。

 必ず、プラス・マイナスがあるというのです。何かの種を見ても、二つのかけらがぴたっと一つにかぶせられています。一つの殻の中に、二つが入っています。これは宇宙の根本を表しているのです。宇宙の根本が、すべてこのようになっているというのです。

  

 宇宙の根本は、どのようになっていますか。原因なくして生まれたものはありません。必ず原因があって、初めて結果が現れます。このように見るとき、男性と女性が生まれた原因とは何かというのです。女性が生まれたのは男性を捕まえて食べるためですか。男性が生まれたのは女性を捕まえて食べるためですか。愛のためです。愛のために生まれたとすれば、女性も愛のために生まれ、男性も愛のために生まれたというのです。愛が原因なのです。

  

 女性はなぜ生まれたのでしょうか。愛のために生まれたのですが、男性のために生まれたというのです。男性のために生まれました。男性はなぜ生まれたのですか。女性のためです。宇宙の根本は簡単です。それが天理であり、真理です。これを変えることができる他のものはありません。この簡単な真理が今まで分からなかったのです。

  

 女性は、生まれてどこへ行きますか。いったい女性がなぜ生まれたのでしょうか。これが問題です。女性は、女性に生まれたことを嘆いたことがあるでしょう? なぜ女性に生まれたのかというのです。簡単です。

 哲学の最も根本となるこのことを知らなかったので、そのように思うのですが、簡単なのです。男性のために生まれたのです。簡単です。宇宙の真理です。

  

 根本問題において、この宇宙は、ペア・システムでできていますが、それは共鳴するためです。何を中心として共鳴が起きるのかといえば、愛というものを中心として起きるのです。それゆえに、神様が創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたでしょうか、それとも、愛を中心として男性と女性を立てられたでしょうか。どちらが先でしょうか。

 「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ」と思われたでしょうか、「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と思われたでしょうか。ですから、見えないものが貴いのです。

  

 人はなぜ生まれたのでしょうか。生まれるときに、自分のために生まれた人はいないというのです。人がこのように生まれたとすれば、生きるのも自分のために生きる人は、生まれてきた本来の根本原則に背くのです。そのような人は、脱線者であり、落伍者であり、堕落者であり、破壊者だというのです。学校でこのようなことを習いましたか。「自分のために生まれた」と言う人は、この宇宙が要求しないのです。

  

 女性のものは、女性のためのものではありません。男性のためです。そうではないと否定できる人がいますか。それゆえに、何ももっているものがありません。「な(名)」しかない「おんな(御名=女)」だからといって、それが恥ずかしいことではないというのです。どこでも調和が可能です。おばあさんとも、お母さんとも、おじいさんとも、親戚のおばさん、おじさんとも調和することができます。女性という中心性を大きくしないので、その相対圏の幅がどんどん広くなるのです。これは、宇宙の創造原則に根本をおいた公式的な基盤に連結されるものなので、それは確定されていくのです。

  

 種が一度一つになれば、その二つが一つとなった種は、その二つ自体に他の種がありません。それを壊すことは、宇宙を根本的に破綻させる立場、再創造過程をすべて破綻させる立場に立つのです。それはサタンです。それゆえに、自分の妻は自分の妹です。そして、神様の子女として見れば双子です。生まれたのは、男性のために生まれて、女性のために生まれたのです。女性は、女性のために生まれたのではありません。女性は男性のために、男性は女性のために生まれたのです。ですから、人が生まれたのは、自分自ら生まれたのではありません。それゆえに、男性のような人を好むのは男性ではないのです。女性です。女性のような人を好むのは、女性ではなく男性だというのです。そうでしょう?

  

 真の愛を中心として私が完成するには、相対がいなくてはならないのです。相対がどれほど貴いかということを知らなければなりません。皆さん、真の愛がある前に相対が先です。相対が先であることを知らなければなりません。それを打つということは、宇宙の根本を打つことと同じです。神様を打つことであり、神様の体を否定することです。それを知らなければなりません。

 それゆえに、すべての真の愛が安着し得るところは、男性だけではなく、女性だけではなく、二人が、男性と女性が一つになるところにあるということを知らなければなりません。このような観点から、夫婦を中心として自分の家庭を中心に、「宇宙は、私に似ている」というのです。

  

 男性と女性が、全く同じでもよいでしょうか。男性と女性は違うのです。根本的に違います。男性が東側ならば女性は西側であり、男性が南側ならば女性は北側です。女性が「なぜ男性は、私と同じではないのか」と言ってはいけません。女性が弱ければ男性が強くなければならず、女性がおとなしければ男性は大胆でなければなりません。また、男性は肩を振って進み、女性はおしりを振って進まなければなりません。このように違います。肩を振ることは、すべてを揺さぶることです。それが宇宙のトーン(tone)です。宇宙に拍子を合わせるのです。

  

 男性は女性のために生まれて、女性は男性のために生まれました。では、男性と女性はなぜ生まれたのですか。これは根本問題です。なぜ男性と女性が生まれたのですか。神様の愛のためです。これが問題だというのです。男性と女性、二人がなぜ一つにならなければならず、お互いに出会って何をしようとするのかということです。水平となって球形の中央に到着するためです。宇宙は、すべて球形に似ています。地球も丸くて、ぷかぷか浮いているでしょう? 宇宙も、太陽もすべて浮いているのです。

  

 なぜ男性が生まれたのですか。男性が生まれた目的は簡単です。女性のために生まれました。女性はなぜ生まれたのですか。男性のために生まれました。女性は男性がいなければならず、男性は女性がいなければなりません。アダムとエバは何のために生まれたのですか。愛のためです。人間は何のために生まれたのですか。愛のために生まれたのです。それはなぜですか。神様が愛を必要とされるからです。愛のスープを飲んでこそ神様が喜ばれます。朝食、昼食、夕食を食べながらも、「ああ、気分がいいなあ!」と言われます。神様がお金のふろしき包みをもらったとすれば、喜ばれますか。知識のふろしき包み、権力のふろしき包みを必要とされますか。しかし、人間が最も貴いと思う愛のふろしき包みには、神様も一目でとりこになってしまうのです。「家和万事成(いえわしてばんじなる)」とはよく言ったものです。「家和万事成」という言葉は、宇宙の根本をいっているのです。それがなぜそうなのかということは、統一教会に来てみれば明らかでしょう?

  

 女性はなぜ生まれましたか。男性はなぜ生まれましたか。自分が生きるために生まれたのではないのです。この宇宙と共に、神様の本性の根本と結果のすべてを保護して、そのような価値的存在として生きるために生まれたのです。それゆえに、万物のすべての特性を、捕まえて食べようとするなら自分と似たものを捕まえて食べ、愛することができなければなりません。昆虫たちも雄と雌で喜んでいるでしょう。それを知っていますか。虫たちもそうです。蝶々たちも、雄花と雌花が開いて香りを振りまく所を好むでしょう? 雄と雌が愛する運動圏内に行って、動き、暮らし、食べようとするのです。

  

 堕落せずに本来どおりになっていれば、教えられなくても分かります。では、男性と女性はなぜ生まれたのですか。それが問題です。愛のためです。その愛は、なぜ必要なのですか。愛で何をするのですか。愛のために死ぬとか生きるとか言うでしょう? そうではないですか。なぜ命を懸けて死ぬとか生きるとか大騒ぎするのですか。それが命の根源だからです。根本が絶対的愛、一つの愛を訪ねていこうとするのであって、二つの愛を訪ねていこうとはしません。宇宙の大道、天理です。億千万世がたっても、この法はなくなりません。天上世界に行っても、この法が審判の基準になっています。

  

 母親の生命、父親の生命を何によって血筋に連結させることができますか。愛を中心として血筋が連結されるのです。宇宙の根本に踏み込んで入っていくと、このようになります。私たちのような人は、深刻な人です。深刻な人です。宇宙の根本とは何かという問題、これは深刻な問題です。  

 宇宙の根本は、愛、生命、そして血統です。それが「私」として結実しているというのです。それで、私は、愛の中心をもっているのです。生命の保護体です。それで、血統により歴史性、伝統性を連結するのです。皆さん、この三つが必要です。皆さんもこの三つをもっているでしょう? 愛をもっているでしょう? 生命ももっているでしょう? 血統ももっているでしょう? この三つを一つに合わせて、新しい人が誕生します。

  

 神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です。これが歴史的な問題であり、宇宙創造以降の重大な問題です。これが解決されない限り、宇宙の根本が解決されない限り、絶対に結果が解けないのです。真の愛を中心としては、神様は核の位置に立たなければなりません。それでは、アダムとエバは何でしょうか。アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう? それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。

  

 男性と女性の二人が出会うのはなぜかといえば、愛のために会うのです。男性がなぜ生まれたのかといえば、愛のために生まれ、女性がなぜ生まれたのかといえば、愛のために生まれたのです。その愛を行って何をするのかといえば、神様を占領するためなのです。神様を占領して、宇宙の根本を占領するためなのです。原因と結果が一体となって和合するのです。結実というものは、原因と結果が一つになった位置で、すべてのものを一致化、合致化させたものです。実がなったので、ここから芽が出てくるのです。子が出てきて広がっていくのです。それゆえに、二人の父母の血肉を受けて生まれるのです。

  

 「私」が生まれたのは、愛のために生まれたというのです。愛です! このことが分かりますか。宇宙の根本がこれです。愛、真の愛です! 男性も女性も同じです。

 二人が一つになるには、何を中心として一つになるのですか。神様を中心として一つになるのではありません、男性を中心として一つになるのではなく、女性を中心として一つになるのではありません。神様とアダムとエバが真の愛を、絶対的愛を中心として統一が展開するのです。これが宇宙の根本です。簡単です。神様も、愛がなければ孤独な神様です。

  

 かぼちゃの葉は、何のために呼吸しますか。生命を維持するためですか。生命は、何のために生きているのですか。愛のためです。女性は、何のために生きているのですか。男性は、何のために生きているのですか。お金のために生きているのでしょうか。愛のために生きているというのです。

  

 愛する妻を百億、千億のお金と取り替えますか。深刻な問題です。本物の愛が貴いということを知れば…‥。この愛は、宇宙の根本と通じるのです。これがなければ、すべての根源が損傷するということをはっきり知っている立場にいるとすれば、これを何と取り替えますか。国と取り替えますか。

  

 共産党を支持しますか、民主世界を支持しますか。民主世界は有神論です。「精神が先だ」と言います。私たち統一教会は、「精神と物質は一つだ」と言うのです。これが統一論です。主体と対象を論じています。宇宙の根本は、原則として一人で存続できないというのです、二つの存在ですが、それが愛を中心として、絶対に一つに帰結されるのです。男性と女性、プラスとマイナスなら二つですが、一つになることができなければ唯一論になりません。すべて二元論になるので、二つの世界が生じて闘争の世界が展開するという論理が形成されるのです。ですから、男性と女性は二人ですが、一つにならなければならないのです。真の愛を中心として一つになるようになっているのが原則だというのです。


) 男性と女性を完成させるものは生殖器


 宇宙の根本は何かというと、男性と女性です。プラスとマイナス、男性と女性の愛を中心として成り立っているのです。それが生殖器原論です。すべてそのようになっているでしょう? カンガルーなど、何の動物であれ、見てみれば、産まれるとすぐに、まずおっぱいを探していきます。生殖器を見てみても、羽の付け根の中にあるものもいて、ありとあらゆるものがいるのですが、それをどうやって探していきますか。それは、超音波のようなものがあるのです。それを連結させる宇宙の根源が万有原力です。万有原力は、神様の本質的力をいうのです。

  

 男性と女性は、何ゆえに違うのですか。目が違うから違うのではありません。五官が違うから違うのではないのです。何が違うために男性と女性は違うというのですか。生殖器が違うために違うのです。それ一つのために違うようになったのです。

  

 男性と女性は、なぜ生まれたのですか。男性という言葉は、女性のために生じたのです。男性という言葉は、先有条件として女性を認めるのです。男性は体が大きいのですが、体の小さな女性のために生まれたのです。女性は何のために生まれましたか。その男性と女性において、違うものとは何ですか。何が違いますか。手が違い、目が違い、鼻が違い、口が違うのですか。何が違いますか。一つだけ違うものは何ですか。一つは凹で、一つは凸です。それが生殖器です。

  

 男性に絶対必要なものは、女性の真理です。女性に絶対必要なものは、男性の真理です。男性の真理とは何ですか。女性の真理とは何ですか。それは生殖器ではないですか。そうです、生殖器を合わせるために男性と女性が生まれました。その生殖器をなぜ合わせるのですか。何のためにですか。愛のためです。生命を結合して、血筋を結合するためです。三元素をすべて混ぜるためです。  

 男性と女性を完成させるものは生殖器です。考えてみてください。皆さんもそうではないですか。目は一つですか、二つですか。なぜ二つですか。鼻の穴は二つですか、一つですか。なぜ二つですか。唇は二つですか、一つですか。なぜ二つですか。耳は一つですか、二つですか。なぜ二つですか。手は一つですか、二つですか。なぜ二つですか。足は一つですか、二つですか。なぜ二つですか。女性の生殖器と男性の生殖器も二つですか。それも同じですか。違います。それは別個になっています。

  

 この違うものをどのようにすれば良いのかということが問題です。すべてが相対的になっているのに、男性のそれと女性のそれは別個でしょう? 生殖器というのは、いったい何をするものですか。それが何をするのですか。その目的は何ですか。生殖器というのは、いったい何をするものですか。それで何をするのですか。その目的は何ですか。おなかがすいた時に御飯を食べるためにそれがあるのですか。その使用目的は、いったいどこにあるのかというのです。自分一人では使用目的を絶対に果たすことができません。男性と女性が一つにならなければ、永遠に無用の長物になるというのです。考えてみてください。それが何のためにあるのですか。誰が女性を呼びますか。目が呼びますか、頭が呼びますか、体が呼びますか、心情が呼びますか。誰が呼びますか。また、女性は何のために男性を呼びますか。誰が、どちらが呼びますか。口が呼びますか。使用目的を成し遂げるために、生殖器は相対が必要なのです。それで、女性は、絶対的に男性を呼ばないといけないというのです。また、男性は、絶対的に女性を呼ばないといけません。これが絶対的ですか、相対的ですか。絶対的です。歴史を超越し、環境を超越します。それゆえに、いかなることがあっても、いかなる出来事があっても、これは成し遂げなければなりません。

  

 男性と女性は、お互いに何が違いますか。性器官を含んだその体がまず違います。それでは、男性の性器官は誰に絶対必要なのですか。男性の性器官は、女性のためにあるのです。人間の性器官は、一つは凹で一つは凸ですが、なぜそのようになっていますか。二つともとがっているものにするか、二つとも平たくすることもできるのに、なぜそのようにできていますか。すべて相対のためです。男性のものは女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願います。女性のものが絶対に男性のものであり、男性のものが女性のものだという事実を知らなかったのです。それを占領することによって愛を知るというのです。

  

 平和の基地もそうであり、地上天国・天上天国、すべてのものが愛から生じてくるのです。どのような愛ですか。男性の愛です。女性の愛です。男性と女性が一つとなった愛です。その男女の愛がどこで一つになりますか。顔で一つになりますか、指先で一つになりますか。凹凸で一つになるのです。

  

 心と体は、何を中心として統一するのですか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、真の愛だけが心と体を統一するのです。それは何を見て知ることができますか。存在世界をすべて知ってみると、男性と女性に生まれたのですが、哲学に入門する人々にとって、なぜ人が生まれたのかということが疑問でしょう? それは簡単なのです。この世に人がなぜ生まれたのですか。人といえば男性と女性です。この男性と女性がなぜ生まれたのかという問題を見るときに、女性という動物と男性という動物がいるのに、生殖器がそのようにできているのは一つになるためのものです。

 何を中心としてですか。愛を中心としてそのように生まれました。本来の神様が愛であるという概念を考えた時、愛のために男性と女性が生まれたということは否定できません。これが、何を中心として一つになるのですか。愛のために一つになるので、愛を中心として造ったということを否定できないのです。それゆえに、宇宙の最大の神秘、最大の興味、最大の趣味、最大の関心、最大の魅惑、すべて最大が入ります。それから何がありますか。最大の滅びる運命。反対もあります。いくらでもそのようなことを思いのままにこうすることもでき、ああすることもできる内容をもった化け物のようなもの、それが何かというと愛です。愛の化け物だというのです。

  

 生殖器は神聖なものです。それは正しいですか、正しくありませんか。なぜおかしな目で見るのですか。「統一教会の教主が生殖器の話をする」という目で見ていますか。牧師がそのような生殖器の話をすることができますか。皆、つばを吐きます。生殖器に対してつばを吐く男性、女性がいますか。男性が女性の生殖器につばを吐き、女性が男性の生殖器につばを吐きますか。

  

 生殖器は神聖なものです。それは神聖で、神聖で、神聖な生殖器です。神聖なものです。堕落していない、完成したアダムの位置です。神聖な場所であり、神聖な宮殿です。最高の宮殿です。生命の本神殿が生殖器であり、愛の本神殿が生殖器です。

  

 男性と女性の生殖器は、何をするためのものですか。愛するためのものでしょう? それゆえに、その愛が現れるためには、男性と女性が必要なのです。男性と女性は真の愛のために生まれたのです。それは否定できないことです。

  

 いくら凸があっても、凹がなければ大変なことになるのです。それでは、神様が人を造られる時、凹凸、男性と女性の概念が先だったでしょうか、人という概念が先だったでしょうか。それを考えて、はっきり答えてみてください。男性と女性、人の概念が先ですか、男性の性、女性の性の概念が先ですか。根本はそれです。いかなるものよりも重要だというのです。女性としてもっているその生殖器官が、宇宙創造の先祖だったという事実を知らなければならず、男性の生殖器が創造の先祖だったという事実を知らなければなりません。これを知らなかったのです。

 生殖器が人間創造の先祖だったのです。第一の先祖が生殖器だというのです。この生殖器から男性と女性が現れたのです。事実です。生殖器から男性と女性に分かれました。分かれるという概念は、本来の概念の次だというのです。本来の概念から分かれて、男性、女性と呼ぶようになったのです。はっきり分かりますか。

  

 雌と雄が生まれる時に、体が先に生まれたでしょうか、生殖器というものが先に考えられて生まれ始めたでしょうか。途中で雌、雄が決定しますか、雌、雄が決定されてから育ち始めますか。どうですか、尹博士? 決定されてから育ち始めるのでしょう? そうだというのです。その雌、雄を誰が決定しましたか。アメーバが、「私が雄になる」と思って雄になれますか。雌のアメーバは絶対的に雌のアメーバであり、雄のアメーバは絶対的に雄のアメーバです。行ったり来たりできないのです。

 文総裁がお母様のように「女性になる」と思ってなることができますか。既に、生まれる時に決定されるのです。精子と卵子が一つになる時、既に決定されているのです。男性、女性が現れる前に、生殖器が決定されるのです。男性になるところだったのに女性になったのではありません。男性は男性として絶対的であり、女性は女性として絶対的です。

  

 結論として、神様が人間を造られる時、最も苦労してつくられたところはどこでしょうか。目ですか、口ですか、鼻ですか、手ですか。人間たちは、そのことを考えてもいないというのです。それが愛の本拠地です、愛の本拠地。愛の本拠地とはどこですか。男性と女性のそれをいうのです。それが愛の本宮だったというのです。そこから、男性の愛を知り、女性の愛を知るようになるのです。それがなければ愛が分かりません。愛の主人が現れることができません。男性の愛の主人は女性であり、女性の愛の主人は男性です。愛の主人になることができる資格をつくるのが愛の器官です。

  

 純金という二十四金は、韓国の地から出てきたものも、景色の良い所から出てきたものも、水中から出てきたものも、どこかの山の谷間、人とかかわりのない地から出てきたものも、価値は同じです。自分が愛そうとする相対に対して、生殖器の愛というものが、「ああ、あなたは顔が悪いから私は嫌だ」と言いますか。愛の関係を結べば、そのあばたがかわいくなるのです。白人と黒人の夫婦が愛するようになれば、その白人女性は、黒人男性を黒人と考えることはできません。そのようなことが展開するのです。

  

 自分勝手にまゆ毛が生えてきたり、勝手に涙が出てきたりしますか。狂ったことを言うなというのです。この宇宙の根本となる主人が存在し、その考えがなければなりません。私たちのこの体がどれほど神秘的ですか。この体は、ただ生まれたのですか。生殖器がどれほど神秘的でしょうか。それは想像できないくらい神秘的なのに、それがただそのようになっているのですか。生命が連結されているものは、簡単ではないというのです。

 男性は、男性の生殖器を千年、万年きちんと守る主人にならなければならず、女性は、その生殖器を千年、万年きちんと守る女性になりなさいと教えるのが文総裁です。そのようにこれを間違いなく守るようにして、そのようにさせる責任を負った人が、「真の父母」の名前をもった父母だというのです。真の父母は簡単です。浮気者の女性と男性を連れてきて、浮気をせず絶対的に節操を守る男性と女性にすることができる力をもった人が真の父母です。希望がありますか、ありませんか。


) 生殖器は根本問題解決の出発点と終着点


 皆さん、勝手におしりを汚してはいけません! 女性のものは誰が主人なのですか。笑うなというのです、宇宙の根本を明らかにしているのです。そうか、そうでないか、考えてみなさい。私がこれを知るために、骨髄が溶け出すくらい、それほど苦労したのを知っていますか。言葉は簡単だというのです。しかし、内容がどれほど途方もないか知っているのですか。天下が分かれて、世界が二つに分かれて、悪なる人、善なる人がここで分かれるのです。

  

 愛の王宮はどこですか。このような話をするからといって、おかしく思わないでください。それを正すことができなければ、世の中がすべてずれていくのです。前後関係が合わなければ、全天下によこしまなものが生じてくるのです。文総裁が今まで苦心して宇宙の根本を追求した結果、ぴたっと到着したところが生殖器でした。生殖器に至ってじっと考えてみると、天地の調和がここで渦を巻いていたというのです。驚くべき事実です。

  

 先生がすべての複雑な世界の真理を探求したでしょう? すべて知り尽くそうとすると、神様がすべて許してくださいました。そのように苦労して、苦労してきてみると、座っているその場で自分がもっていて、知っているものだったというのです。ですから、もちろん驚き、感謝しましたが、むなしいことこの上なかったのです。

  

 今まで人間が悩んだ根本問題がこれほど簡単で、これほど易しいとは、私は本当に分かりませんでした。ひどく苦労しました。全く、このようになっていることを知らずに、私が泣いたりわめいたり、霊界に入っていって、ろくでなしまでひっくり返してみて、ありとあらゆることをすべてしました。ところが、気づいてみると、私がすべてもっていたのです。「ああ、これを知らなかったのだなあ!」と思いました。私にすべてあります。宇宙がすべて私の中にあります。宇宙がすべて私に入ってきています。気分が良いでしょう?

  

 先生は、宇宙の根本が何かという問題をおいて九年間も苦闘して解決しました。明らかになってみると簡単な道理でした。「やあ、こんなに簡単なことを知らなかったのだなあ。すべてもっていたのに、分からなかったのだなあ!」と思いました。そうではないですか。

 山人参を掘るおじいさんが、太白山のような深い山中に入っていき、山人参を掘ろうと歩き回っていたのですが、「あ、ここは朝出てきて、小便をして一休みした場所、しりに敷いた場所が人参畑だった」というのです。分からなかったのです。帰ってくる途中で、出発した時、小便をしてタバコの吸殻を捨てた所に行って、またそれを拾って吸おうとして見ると、なんと人参畑だったというのです。そのようなことがあるのです。そのような時は、タバコの吸殻を探して吸うことも「幸福だ」と言うことができるというのです。

  

 文総裁は、与太者式ではありません。宇宙の根本を追求してみると、それです。これをすべて知って見てみると、全くこんなにも苦労をして、一生の間どれほど苦労をしましたか。あぜんとします。すべてもっていました。すべてもっていたというのです。それゆえに、霊界の神霊な場所に入っていくようになり、「神様、どこにいますか」と尋ねる時には、神様が私の中で、「どうした、ここにいる」と言われるのです。それで、「人すなわち天」という言葉が出てきたのです。

  

 宇宙の根本が何であり、どのようになっているのかという問題を解くために、千辛万苦、苦労したその背後を皆さんは知りません。

 それは、通りすがりに何かの笛の音を聞くようにして、歌の調べによって探し出したのではありません。血涙ですべての五感神経の感覚を一つの焦点に集めて、身もだえしながら奪ってきたのです。それを奪ってきても保管できる能力がなければ、天が許諾しないのです。

  

 今までこのように生き残ったのは、誰が保護したから生き残ったのだと思いますか。文総裁が保護したからですか。滅びたい人がどこにいて、栄えたくない人がどこにいますか。しかし、天運の保護を受けようとするなら、栄えない道を行かなければなりません。その道は、どのような道ですか。この地上に、自分のために生きなさいという歴史の教訓を広げておいたのが悪魔ですが、これを越えて本然郷においての、神様の思想的基盤においての、根本思想においての「ため」に生きる創造の遺業を通して、「ため」に生きつつ理想を求めていこうとしていた創造主の本意に一致することができる行動をする人は、この宇宙が保護します。「宇宙が保護する」ということを実感できるように一言話しましょう。

  

 私が、誰も知らないこの道を探すために、どれほど大変だったでしょうか。人生問題の根本を解決するためには歴史を解決しなければならず、宇宙を解決しなければならず、神様の苦衷まで解決しなければ解決できないということを知った時の、暗中模索していたその若い時期の苦痛を皆さんは知らないでしょう。しかし、そのようなことができる組織をすべてつくって、言葉だけでなく実践途上において、それが証された世界の版図をすべて得ました。これからは、誰でも走ってきて旗を受け取って後ろにつけば、すべて天国に入ることのできる時代が来たというのです。

  

 最も根本の問題は、心と体が闘うことから始まって、宇宙的な宝石を埋蔵した基地を失ってしまったということを知らなかったのです。内的な面において自分を統一する道は、自分を完成させる愛を発見する道であることを誰も知りませんでした。それを発見するためには、宇宙すべてを解読してから、それを知ることができなければならないのです。それが分からない以上、答えは出てきません。先生の話を聞いて、どう思いますか。不幸だと思いますか、幸せだと思いますか。どの程度幸せだと思いますか。

  

 この宇宙の存続、歴史の存続、国家の存続や理想の継承等、すべては何を中心としているのですか。様々な関係世界を支えることのできる、その根源的な根本要素は何か、全体を代表することができるその中心要素は何かというのです。これが、重要な問題です。私たち統一教会の食口関係において、統一教会に入ってくる時と、今まで十年、数十年たった時と比べると、だんだん習慣化されていって、昔、教会に入ってくる時に情熱を尽くして全体を考えていた、そのようなすべての関係はだんだん消えて、あとからは自分の利益だけを取ろうとして悪魔の網に包まれ始めるのです。それは滅び始めるということです。

  

 なぜ原理ですか。根本の理論だというのです。原理というのは、根源の道理、理論を言うのです。人生の根本問題、宇宙の根本問題、そういったものが、原理を解きほぐすことによってすべて明らかにされるので、地上に行っても天上に行っても、その原理の行く道を妨げるものは何もないのです。それで、平和、安定、安息の生涯路程が見いだされるのです。一つになれば感じないというのは重大なのです。

  

 宇宙の根本とは何かというこの問題に対して、祈祷して、神様にすがって大騒ぎをしても、教えてあげることができないのです。誰にも教えてあげることができない内容であることを知らなければなりません。それはおかしいでしょう? 神様が教えてあげれば、天下に一日統一が起きるはずですが、人間が誤ったので、人間自体が罪を犯したので、罪を清算しなければなりません。未知の立場に落ちたので、この未知の立場を克服して、この線を越えた人でなければなりません。病気が治った人でなければ病院から退院できないのと同じです。

 根本に入っていけば、神様と人間との関係は何かという問題が台頭しますが、答えは簡単です。「宇宙の根本は何ですか」という問題を中心として、誰よりも苦心した人がここにいる、この人です。そのような問題を解決したので、「統一教会」という言葉を掲げてきたのです。それは、人間世界ではできません。霊界に行って、すべて、公判廷に入っていって競売の入札をするようにしなければなりません。このような話は、初めて聞いたでしょう?

  

 万一、宇宙の根本であられる神様がいらっしゃらないとするなら、この世に絶対価値の基準はあり得ないのです。そうなれば、人間の道徳と倫理の基準が成立せず、その社会は、人間が万物の霊長になることができる、いかなる哲学的根拠ももてないのです。

  

 私は科学を勉強した人です。このような理論的な基準で、宇宙のすべての根本を洗い出して、間違いないという自信があるがゆえに出発したのであって、一生の間、監獄を出入りし、むち打たれ、悪口を言われて、あらゆることをすべてしながら、一言も反対できず、このように黙って世界を征服してきたのです。真の愛の中心である神様、すべての力の根本である神様が倒れますか。

 神様の愛のパートナーが倒れますか。打てば、それが壊れるようになっていますか。神様はどうですか。「神様、あなたは、あなたの愛の対象が御自身より劣っていることを願いますか、優れていることを願いますか」と尋ねれば、「お前たちと同じだ!」という答えです。

 この驚くべき事実、この宇宙の根本がこのようになっているという驚くべき事実です! その次には「あなたも息子、娘がいれば、息子、娘が御自身より立派であることを願うでしょう?」と尋ねれば、「同じだ」と言われるのです。人間がもつべき権威的価値、これを失ってしまいました。  

 文総裁がすべての真理を探究して、霊界、肉界を探査し、すべての経典を探査しても、これを解決する道がないのです。神様がいるか、いないか。神様がいらっしゃるならば、世界をこのように造られた神様を私が抱えて放しません。勝負を決定するための闘いをしたのです。

 人間が生まれた根本原則は何であり、なぜ生まれたのですか。男性は女性のためです。それが全体真理の中の最高の真理です。女性の前に理想的な男性は、最高の真理です。宇宙全体が完成した理想の真理の本体だということを知らなければなりません。男性の前にそのような女性も、宇宙の真理の本体の中の本体です。絶対的な真理体です。


二、生殖器は三大本宮、天の至聖所

 一) 愛と生命と血統の本宮


 男性と女性はなぜ生まれたのですか。男性と女性の違うものは何ですか。男性と女性がどのように一つになるのですか。男性と女性が何を中心として一つになるのですか。生殖器を中心として一つになるのです。これは調和の箱です。この場で、愛の完成が展開するのです。真の愛が初めて完成するのです。それから、男性と女性の生命が一つになる所も、その場です。男性と女性の血筋が交流して植えつけられる所も、その場です。その場が理想的な愛の本宮であり、血統の本宮なのです。絶対的な本然の所を本宮といいますが、誰もその価値を変えることはできません。

  

 アダムとエバの生殖器、その場所が偉大だというのです。それゆえに、その生殖器は愛の本宮といいます。驚くべき言葉です。天地創造のすべてを、神様まで完成させて安息させることができる王宮であり、本宮です。天国も一番目ではなく、地上国も一番目ではありません。家庭から始まるのです。これが本宮です。驚くべき言葉です。またその場は、真の愛を中心とした本宮ですが、真の生命を中心とした本宮でもあります。その次には、血統を中心とした本宮であり、地上天国の出発地であり、天上天国の出発地なのです。

  

 人間の生殖器が真の愛の場所です。そこで愛の行為が連結されるでしょう? ほかの所でそのようになるのではありません。そこが男性と女性の生命が連結され、一つになる宮殿です。そして、男性と女性が一つになれば、その血統から息子、娘が出てくるのです。ですから、血統の宮殿です。それほど重要なのです。

  

 男性と女性の生殖器は、愛の宮です。愛の王宮です。子宮が貴いですか、男性と女性のそれが貴いですか。言ってみなさい。子宮のために生殖器ができましたか、生殖器のために子宮ができましたか。深刻な話です。笑う話ではありません。男性がいるために子宮ができたのです。女性のそれは、男性のためにできたのです。なぜおかしな表情をするのですか。男性と女性の生殖器は、愛の王宮です。それがなくては愛がありません。愛を探せません。それを通らなくては、生命が連結されません。男性と女性がいても、何になりますか。生命が連結されないのです。それを通らなくては、歴史を連結させる血統が連結されないのです。

  

 生殖器とは何ですか。それは、真の愛を中心とした王宮であり、真の生命を中心とした王宮であり、真の血統を中心とした王宮です。最も貴いものです。これがなくなれば天地がなくなり、これがなければ神様の理想、神様の家庭、神様のみ旨を成し遂げることができないのです。これは、全体の完成を成すことができる一つの起源です。

  

 女性の生殖器が宇宙的な本源です。愛の関係をするその位置が愛の本宮になっています。本然の宮中だというのです。愛はそこから始まります。結婚初夜の愛が愛の本宮の出発です。女性の生命、男性の生命が初めて一つになるのです。それゆえに、理想的な生命の本宮がその場所であり、血統がそこから始まるので、血統の本宮がその場所だというのです。そして、天国がそこから始まるので、そこが地上天国の本宮であり、天上天国の本宮であり、人間完成の本宮であり、神様完成の本宮です。

  

 男性完成、女性完成、神様まで完成させることができる、その本拠地はどこですか。どこで神様の愛を完成させることができ、どこで男性と女性を完成させることができるのですか。その中心定着地はどこですか。これが問題です。これが分からなければ、地上に愛の理想天国を拡張、拡大できません。それは、目ですか、鼻ですか、手ですか、足ですか、どこですか。凹凸です。

  

 生命が出発する本拠地とはどこですか。愛の本郷の地とはどこですか。血統の本郷の地とはどこですか。男女の生殖器です。男性と女性が何によって一つになるのですか。愛を中心として一つになります。それを中心として始まるのです。生命がそこから出発します。血統もそこから連結されます。その貴重な三大基地を失ってしまってはいけません。天下をもらっても取り替えることはできません。

  

 愛の本宮が生殖器であり、生命の本宮が生殖器であり、血統の本宮が生殖器です。神様が最高に探し求めていた真の愛の起源地であり定着地は、男性と女性の生殖器です。そこから男女の生命が結合するのです。そこから血筋が受け継がれ、歴史性をもった人類というものは、すべての血族が関係をもっているのです。それゆえに、最も貴いのです。

  

 頭よりも、それがもっと重要です。頭には真の愛の起源がありません。頭には真の生命の起源がありません。頭には真の血統の起源がありません。その起源は生殖器にあります。それは間違いないでしょう? 生殖器にすべてのものがあります。そこに生命があり、愛があり、血統があります。そこが愛の本宮なのです。生命の根もそこにあります。血統も同じです。人間の体だけでなく、人間世界と人類歴史を通じて最も貴いところです。それがなければ人類の繁殖が不可能です。

  

 私の生殖器は愛の本宮です。「私の生殖器は生命の本宮だ、王宮だ」というのです。私の生殖器は血統の王宮です。このようになってこそ、神様が臨在なさることができる王宮になることができるのです。神様は、王の王でいらっしゃるので、本宮を訪ねていってお住みになる方なのです。それゆえに、神様に侍るために愛の本宮になり、生命の本宮になり、血統の本宮になり、良心の本宮にならなければなりません。

  

 生殖器は、愛の王宮です。今、その愛の王宮は、どのようになっていますか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮であるもの、そのように貴いものが人間の生殖器です。神聖なのです。最も貴いのです。生命、愛、血統がここに連結されています。このように神聖なものをサタンが汚しました。

  

 男性と女性が愛する本宮、生殖器とは何ですか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮です。おじいさん、おばあさんもそれを中心として生き、父と母もそれを中心として生き、自分たち夫婦もそれを中心として生き、将来生まれる息子、娘もみなそれを中心として生きるのでしょう? それを中心としないで生きる女性がいて、男性がいますか。種がありません。ところが、それがなぜ悪いものになりましたか。下品な言葉だというでしょう? なぜ下品な言葉なのですか。神聖な言葉です。神聖な言葉として受け止めなければなりません。ここで永遠の愛が連結され、永遠の生命、永遠の血統が出てきます。最も貴いのです。

  

 女性、男性の生殖器は、生命の王宮です。生命の最初の出発地です。永遠に変わらない本然地です。生命の王宮であり、変わらない愛の王宮です。良心が理想を中心として定着することができる基地です。血統の基地です。そこから生命が芽生えるのです。そこから愛が一つになります。そこから男性と女性が一体になるのです。そのような生殖器が堕落して天地を破綻させた怪物になってしまったので、今日これを悪いものとして扱っているのです。

 神様が精誠を尽くしてつくられたものがそれです。すべての被造万物の核心的な骨髄を絞り出して連結させたのです。ここに愛の本質が一〇〇パーセント連結され、生命の本質が一〇〇パーセント、歴史の本質がここから芽生えるのです。そこから初めて希望があり、そこから初めて幸福があり、そこから初めて愛を中心とした自由圏が始まるのです。

  

 生命の根源地、愛の根源地、血統の根源地はどこですか。それはどこですか。生殖器です。それをひっくり返して打ち込んだので、世の中で最も下品な言葉になったのです。それが誤らなければ、下品な言葉ではなく王の言葉です。神聖な言葉です。「下品な言葉」の反対語は「神聖な言葉」でしょう? 「真の言葉」よりもう少し高いものは何ですか。「真の言葉」というのは相対的関係で成されますが、「神聖な言葉」は縦的、球形的圏をいうのです。

 人間が堕落していなければ、男性の生殖器が愛の王宮です。愛の王宮なのです! それをいい加減には使用できません。そして、生命の王宮です。そこから生命が生まれるでしょう? 生命がどこから出てきますか。生命の王宮です。血統の王宮です。そこから、自分の命が血統を受け継いで生まれるのです。私の生命の根源地であり、私の血統の根源地であり、私の愛の根源地です。それゆえに、先祖がそれを通じ、貴く思い、「ため」に生きなければならなかったのです。

  

 神様が、どれほど喜んでつくられたでしょうか。最も喜んでつくられ、最も精誠を尽くしてつくられたものが、男性と女性の体の中のどこだろうか、何だろうかを考えてみてください。それが生殖器だというのです。生食する米を入れる器(生食器)ではありません。生殖器といえば、「生きるものを植えることができる器だ(生植器)」だというのです。生命の生殖です。生命を植えることができる器だというのです。その場がなければ、千年、万年たっても生命が生まれないので、国もなく、世の中は暗黒天地、砂漠天地になるのです。それを知らなければなりません。

  

 真の愛がどこから生まれるのかといえば、息子、娘、神様の息子、娘を生むその局面から生まれるのです。それが生殖器です。これが最も冷遇されました。天地がひっくり返ったために最も卑しいものとして扱われましたが、復帰された天下では、これが愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮であり、良心の本宮だというのです。これがなければ国も生まれず、理想世界の発展も、起源もなくなるという事実を知らなかったというのです。

  

 生殖器がなぜできたのかというのです。愛のために、生命のために、血統のために、良心のためにできました。そこを通らなければ、愛もなく、生命もなく、血統もなく、良心もありません。神様が人を造られる時、目や鼻等、五官をつくるのが大変だったでしょうか、生殖器をつくるのが大変だったでしょうか。五官が愛をアピールするところですか。それが、愛と生命と血統と良心が集まっているところですか。違います。絶対に違います! ただ一つ、そのような箇所があるならば、生殖器です。そこで愛、生命、血統、良心の第二の実が結実するのですが、それを私たちは、息子、娘というのです。

 それがなければ何も存在できません。すべての被造世界がストップするのです。今まで人類はこのように貴い生殖器を知らなかったのです。「私が世界で一番だ!」と誇らしく思ったかもしれませんが、生殖器がなければなんでもないのです。その生殖器は、真の生殖器をいうのです。

  

 生命の王宮とは、どこだといいましたか。愛の王宮とは、どこだといいましたか。血統の王宮とは、どこだといいましたか。家庭でしょう? 夫婦でしょう? 夫婦の愛の基地ではないですか。男性の生殖器、女性の生殖器がそれをしなければなりません。皆さん、王孫を生まなければなりません。神様の愛を中心として、天国の真の王子、王女を生まなければなりません。それが真の生命でしょう。真の血統を残さなければなりません。後世を残さなければなりません。

 生殖器は生命の王宮です。王宮とは、第一に全体を代表した根源的な家です。王とは何でしょうか。蘇生、長成、完成の中心です。三段階の中心が王です。それを見れば、漢字も啓示を受けて作ったと考えるのです。愛の王宮をもっていますか。男性と女性、愛の王宮をもっていますか。それなのに、愛の王宮をもっている人たちがなぜ心配するのですか。不幸という言葉がどこにありますか。簡単なのです。

  

 なぜ皆さんは、歴史的伝統と関係を結ばなければならないのですか。愛と生命と血統、この三つが最高の伝統であり核心だからです。そうです。生殖器官は、その三つを同時に連結させてくれるものです。接ぎ木をするところです。愛を接ぎ木し、生命を接ぎ木し、血統を接ぎ木するところです。

  

 愛する夫婦二人が関係を結ぶ生殖器は、愛の王宮だというのです。そこから愛が始まるのです。真の愛の王宮です。最初の出発をする場所なのです。そうか、そうでないか考えてみてください。生殖器は、愛の王宮です。堕落する前の観念で見るならば、生殖器は、愛の王宮だというのです。生命の王宮、血統の王宮です。愛を中心として男性と女性が一つになる、そこに生命が連結して血統が受け継がれるのです。

  

 皆さん、男性と女性が、堕落していない復帰された神様の息子、娘を生むことができる生殖器に向かって、全存在世界は、自らの生命全体を投入して自分より高い次元に吸収されるのです。鉱物は植物に、植物は動物に、動物はより大きい動物に、大きい動物を経て、人間は、すべてのものを吸収して消化することができる主人の資格を備えなければならないというのです。

 それゆえに、愛して食べなければならないのです。愛しましたか。そこがどのようなところですか。生殖器だというのです。生殖器は、生きた食器です。生命を食べる食器だというのです。それが愛の王宮です。それがないのに男性と女性が愛を感じることができますか。できないというのです。

  

 全万物世界の最終理想的吸収の終着点がどこかといえば、男性と女性の生殖器だというのです。それは事実です。なぜですか。どうしてですか。神様の愛と人間の愛と宇宙の愛が結合するのです。愛と生命が一つになる位置がその場です。

 そして、血統を通じて縦的に後孫が連結する位置がその場です。そのように縦的に引き継がれて、横的に数え切れないほど多くの民族が連結されるのです。それによって地上天国が形成されるというのです。そのような価値をもつのが生殖器です。どれほど重要ですか。

  

 自分がもっている生殖器は、生命の本宮です。愛の本宮です。皆さんが父母だとして、皆さんを中心とした一代の一族を中心として、愛の本宮が偽りとならず、皆さんの息子、娘が純潔な本宮から周辺三六〇度になる王宮の場所を築き、神様が夜も昼もいつもここに来られ、自分の家を中心として周辺に関係している一族の前に自由自在に来臨され、いつも苦楽を共にすることができる環境的宮殿にならなければならない、ということを知らなければなりません。

 何がそのようにならなければならないのですか。「私の生殖器は愛の本宮である!」。一度、言ってみてください。「私の生殖器は生命の本宮である」と言ってみてください。私の生殖器は、血統の王宮であるというのです。このようになってこそ、神様が臨在なさることができる王の基地に、王宮になることができるのです。

  

 本然の人間の先祖がどこから始まったのでしょうか。目ではなく、鼻ではなく、口ではなく、手でもありません。どこからですか。その神聖なところとはどこですか。皆さんの生殖器です。そうではありませんか。そこに血統が連結されているのです。それゆえに、救援するということは容易ではないのです。

  

 るつぼという言葉があるでしょう? 溶鉱炉とは何ですか。男性と女性の血がるつぼで溶けて混ざる場所はどこですか。生殖器です。生命を載せる器を生殖器というのです。それは愛の本宮です。神様の愛が芽生えることができる出発の園であることを知らなければなりません。

  

 皆さんの生殖器もそうです。「やあ、この生殖器を通して子供が創造される」、このことを考えてみましたか。重大な内容です。

  

 生殖器は、生じるの「生」の字に、食事の「食」の字でも、植えるの「植」の字でも良いのです。生命を植える器だというのです。その次には、繁殖するの「殖」の字でもかまいません。生殖器が生植器だというのです。そのように解釈します。分かりますか。生命を植える器です。それを知らなければなりません。

  

 創造主と被造物が何を中心として一つになるのですか。愛です。これを知らなければなりません。ですから、先ほど話した、神様が愛をもって創造されたという答えがどうして出てくるのでしょうか。生殖器を中心として創造されたという事実は、愛という表題を中心として創造されたという事実を証するのです。

  

 歴史上のすべての人がそれに従っていったのです。とてつもない力をもっています。文化や経済を超越します。堕落した世界でもそうならば、堕落以前の世界ではどうだったでしょうか。考えてみれば、それが最も貴いものです。それが宮殿です。宮殿の中でも本宮です。また生命の宮殿にもなり、血統の宮殿にもなるのです。この三宮殿の基礎が生殖器です。一番重要なところです。神様もそれを訪ねてこられるのです。神様がこの三大王宮を占領したならば、この世は神様の一族になっていたでしょう。

  

 人間世界において最も貴いものが愛の本宮です。愛の根源地、生命の根源地、血統の根源地です。それがどこですか。堕落していなければ、これが神聖な至聖所です。男性の生殖器と女性の生殖器は、愛の王宮の根源的本宮です。このことを知らなければなりません。堕落したために汚れたものになったのであって、本来は生命の根源地であり、血統の根源地です。ところが、私たち全体の最も貴い根源地を破綻させてしまいました。これが、最も悪いものになりました。ですから、これをひっくり返して打ち込まなければなりません。

  

 男性と女性にある生殖器官とは、愛の器官であり、生命の器官であり、歴史的血統の器官です。これが分からなかったというのです。それは、最も貴いものです。神様と共に、私たちの模範的で理想的な先祖と共に、理想の国と共に、理想の文化と共に共存することができるものであるにもかかわらず、これをすべて世俗的な人本主義によって破綻させてしまったというのです。悪魔は、神様がこのような国を取り戻しに来られることを知って、これを完全に破綻させるための計略の形態として成しておいたもの、それが現在のアメリカの世俗的人本主義だというのです。

 それは動物的な世界です。生殖器とは何かというと、愛の王宮であり、永生の生命が誕生する王宮であり、永遠に変わらない天の伝統を受け継ぎ、血統を受け継ぐ王宮だというのです。真の生命の王宮であり、真の愛の王宮であり、真の血統の王宮なのです。最も貴いところです。好き勝手にはできません。神様の公認がなければ、開くことができないのです。神様と宇宙に公認された自分の夫、自分の妻以外にはタッチできないのです。ところが、アメリカの愛はそうですか。

  

 神様が理想とした本然の、アダム以降、堕落していないその生殖器が、真の愛を中心として神様と共に一つになり、血統と生命を連結させるべき本拠地となって本宮にならなければなりません。これは、本然の愛の王宮です。愛の本宮です。分かりますか。

  

 統一教会の教主が性教主になった、という話が出てくるかもしれません。性というものが堕落していなければ、それが愛の本宮です。いつも王が定住することのできる、生活することのできる本宮だというのです。愛の本宮であることを知らなければなりません。生殖器が本部であり愛の宮殿だというのです。


) 神様の創造目的を完成させる器官


 皆さんの生殖器は、愛のための器官です。いかなる独裁者が現れてその愛の器官を革命したいと思っても、不可能だというのです。歴史上に数多くの変化がありましたが、生殖器だけは永遠に変わらないのです。全宇宙を与えても取り替えることができません。人間がそのようなコンセプトをもっていないということが問題になるのです。人間のすべての諸問題は、男性と女性から発生します。男性と女性が完全に一つになれば、すぐに平和の世界が目の前に展開するのです。

  

 人間において、生理学的に神経と血管が最も集中しているのが生殖器です。それゆえに、自分と同じ者を再創造することができる器官になるのです。最も苦労してつくったものです。そうですか、そうではありませんか。それが肥おけになってしまっているのです。

  

 神様が創造される時、男性と女性の生殖器を中心として造られたのですが、そこには霊的な要素、肉身的な要素、血の要素、すべての要素が連結できる、連合器官になっているのです。皆さんの目の要素もそこにすべてかかっているでしょう? 歯の要素もすべて父母に似るでしょう? 似ないところがどこかありますか。心もすべて似ます。ですから、その器官にすべて集約して、すべての神経器官、血統器官全体がそこにかかっているというのです。根です。それが根っこです。人間の根は頭ではありません。根がそこにあるというのです。

  

 宇宙は、愛から始まりました。それはどのような愛ですか。縦的な愛と横的な愛です。それは球形の愛をいうのです。上下、左右、前後を連結する中心は家庭です。神様に、「神様、どこにいらっしゃいますか」と尋ねれば、「愛の中心にいる」と言われるのです。「愛の中心とはどこですか」と尋ねれば、「愛の定着地だ」と言われるのです。「愛の定着地とはどこですか」と尋ねれば、「生殖器だ!」と言われるのです。

  

 男性にとって最も刺激的で、神経的で、敏感なところとはどこですか。舌ですか。味を見るのにいくら敏感だとしても、生殖器以上に敏感なものはありません。それでは、舌を満足させるために、一度食べればその翌日また食べたいと思いますが、生殖器を満足させられる相対がいれば、考えただけでもその満足を感じることができる世界になるというのです。味を見るのは食べなければ感じることができませんが、愛の相対は考えるだけで感じることができるのです。千里、万里、無限空間世界を超えて喜びを感じることができるのは、死んでもまた生き返って愛したいのは、愛する妻、夫の愛しかない、そうですか、そうではありませんか。

  

 人間世界において、愛の起源地はどこですか。生命の起源地はどこですか。血統の起源地はどこですか。口ですか、頭ですか。どこですか。生殖器です。生殖器を汚した、天地を破壊した堕落によって、これが凶悪な宮殿になりました。本源地になりました。ここに偽りの愛を植え、ここに偽りの生命を植え、ここに偽りの血統を植えました。そのように天地を掘り返した一番の悪党なので、それが下品なのです。その話をするのは下品な話になるのです。

  

 生殖器という器官は、何か魔法を使う器官かというのです。愛というものを連結させる器官であり、男性の生命と女性の生命を連結させる器官であり、男性の血と女性の血を混ぜ合わせて連結させる器官が自分の体の中にあり、それが生殖器です。そのとおりですか。この根本を追求してみれば、神様がなぜ創造されたのかという問題に入っていきます。

 なぜ創造されたのですか。何を中心として創造されましたか。今日、そのようなことを考える人はいません。これは、世界の図書館に行ってみても、文先生が最初に提唱したことです。それが貴いものです。知ってみると、それがすべての結末です。なぜ創造されたのでしょうか。愛によってされたのだということを何で証明するのかといえば、生殖器を中心として男性と女性が一つになることです。それは、神様の理想的な愛の根源になっています。

  

 男性と女性が九〇度で一つになるところはどこだといいましたか。生殖器です。笑うことではありません。神聖なことです。そこが愛の本宮です。目でもなく、頭でもありません。男性と女性が愛する時は、どこが動きますか。目が動きますか。頭が動きますか。何が動きますか。生殖器なのです。悪いものだと考えるなというのです。堕落したために悪いものとして扱われているのです。  

 サタンがこの世を滅亡させる本宮にしています。それが愛の本宮であり、生命の本宮でしょう? 生命がどこから出てきますか。そこから出てくるでしょう? その次に、血統がどこで連結されますか。頭で連結されますか、手の甲で連結されますか。

  

 すべての物質の元素が願う本宮とは何ですか。人間において最高に精密な、理想的感覚を備えた男女の生殖器官が最高の希望峰だというのです。このような話、初めて聞いたでしょう? それゆえに、それを訪ねていくためにはお互いが投入しようとするのです。生命を捨てながらも行くことができる道は、愛の道しかありません。虫の世界から鉱物の世界、植物の世界、動物の世界、宇宙のすべてのものがそうだというのです。

  

 主流に従っていくべきなのに、主流に従うことができずに中間でとどまって退化するものもあるかもしれませんが、最高の目的とは何ですか。すべての万物の願いは何ですか。神様を愛することができる、その場を訪ねていくことです。神様の立場で、創造物の中で最も精誠を尽くしてつくったものとは何ですか。男性と女性の生殖器官だというのです。全精力をすべて尽くして創造されたのが人間の生殖器です。人間のすべての要素を合わせて、再度つくることができる起源としてつくったのです。そこは細胞の王宮です。細胞は元素で構成されているのです。

  

 男性と女性の生殖器が一つになるところにおいて、愛の本宮が生まれます。歴史的な愛の宮殿が生まれます。安息の場になります。これは、誰も移すことができないのです。永遠です。絶対的なのです。その愛のすみかで、男性の生命と女性の生命が同化するのです。同化して沸きたって爆発するのです。その中から新しい生命が発生します。発生する爆発力によって、新しい生命が続いて出てくるのです。ですから、愛し合う時は、はともクウクウ鳴いて爆発するのです! 男性と女性が愛し合う時、姑、舅がいたとしても、大声をあげて叫ぶのは恥ずかしいことではないというのです。

  

 左右の中心になるものとは何ですか。女性の生殖器と男性の生殖器です。これが一つに出会って天宙が回り、宇宙が回るのです。そのように貴重なものです。男性と女性自体が貴重なのではありません。

  

 愛という観念があり、その愛と一つになることができるように分立されて生まれたのが、女性であり男性だというのです。その男性と女性が、何を中心として一つになりますか。愛を中心として一つになるというのです。男性と女性の生殖器は、愛を中心に一体化させる武器なのです。

 それゆえに、凹凸になっているというのです。形がそのようになっているのは、一つになるためなのです。それは恥ずかしいことではありません。それを中心として合体し、一つになるのです。愛を中心に一つの体になるのです。心身一体になるのです。男性と女性の心身一体は、何によって成されるのですか。キスではありません。手を結ぶことでもありません。そこを完全に合わせることによって完全に一体化するのです。

  

 神様も愛を中心として天地万物を創造されました。それを何によって証すのですか。その宿題が重要です。愛のために創造されたということを何によって証すのですか。男性と女性ではありません。それでは何でしょうか。露骨な話をするようですが、男性の生殖器、女性の生殖器を見れば分かるというのです。

 神様が何を標準として人を造られたのか、男性は何を標準として造られたのかという時、「男性の顔を中心として造り始めた」と言われれば、理にかなった話ですか。女性を造るのに、「女性はこうあるべきなので、女性の顔を見て造った。ひげが生えず、このようにすべすべしていて、身長が小さく、そのように造った」と言われるとき、そうなのでしょうか。違います。生殖器を中心として造られたということを知らなければなりません。男性がそのようになっているのは、生殖器に似てそのようになったのです。女性がそのようになったのは、生殖器に似てそのようになったのです。このような言葉は文総裁から始まるのです。誰もそのような話をしませんでした。図書館にはありません。人類歴史にない新しい言葉です。

  

 神様が創造される時に、生殖器をかたどって男性と女性を造り始めました。それゆえに、生殖器を動かすところには、人間全体のすべての構成要素が入っているというのです。それで、男性と女性が愛し合って、その二人が一つになり、赤ん坊を生むようになるのです。一つになって生めば何ですか。女性に似て生まれ、男性に似て生まれるのですが、何に似るのですか。神経系統がすべてつながっているので、つながってきます。根がないのに、枝が出てくることができますか。それは否定できません。それゆえに、愛が激動する時は、心と体が一つになるのが原則です。それは理論的です。

 それでは、愛を連続的に連結させることができるところ、その生命を連続的に連結させることができるところ、自らの血代を自分の子供に連続的に連結させることができる器官とは何ですか。頭ですか。それは男性と女性の生殖器官です。

 それでは、愛が先か、生命が先か、これが問題になります。最近、心が先か体が先か、唯物理論の哲学思潮が入っていき、世界で問題になっているのと同じように、愛が貴いか、生命が貴いか、これが問題です。どちらが先でしょうか。これは先後を分けなければなりません。愛が先です。神様が創造理想を立てられる時、神様を中心として立てたのではありません。愛を中心として立てたので、相対世界を創造し始めたというのです。これは理論的に正しい話です。

  

 生殖器、それは何をしようというのですか。愛を探し出そうというのです。女性を探し出すことによって愛が生じ、男性を探し出すことによって愛が生じるのです。それが結婚です。これは、宇宙の何をもらっても取り替えることができないのです。男性がこのように生まれたのは、自分の生殖器に似てこのように生まれたというのです。女性は、女性の生殖器に似てそのように生まれました。女性が女性になり、男性が男性になったのは、生殖器によってそのようになったということを知らずに生きていたというのです。それは本当でしょうか、うそでしょうか。

  

 愛を成し遂げることができる器官とはどこかという問題が、今まで重要な問題だったのですが、これが分からずに、これを最も悪いものとして扱ったというのです。それが何ですか。今まで生殖器を悪者扱いしました。愛をなす器官はどこですか。生殖器とは何ですか。凹凸、それではないですか。凹は何をするところですか。凸は何をするところですか。それを合わせることによって、愛が連結されるのです。それを合わせなければ愛が分かりません。完全な愛が現れて、絶対的に一つになるところが生殖器です。他の道はありません。

  

 男性、女性の相対として必要な器官とは何ですか。キスするところですか。体を触ることですか。何の器官ですか。生殖器です。これは韓国語で言えば、「生命を植えておいた器」という意味です。

 それが正に生殖器です。女性の生殖器は、男性を占領することができる武器です。それは、愛を求めるために使用することができる武器ですが、その武器の主人は自分ではありません。その武器を通して自分が愛の主人の資格をもつのです。女性も男性も同じです。

  

 存在するものは、すべて愛のために生まれたので、愛のための存在は、自分のために生殖器をもっていてはいけないのです。相対のためにもっているのです。相対と連結しなくては真の愛を完成することができません。これが天法です。絶対、唯一、不変、永遠の主人になるのです。男性一人で愛の主人になることはできないのです。生殖器を中心として相対と連結される時に完成が展開するのです。真の愛に連結してこそ女性が完成するのですが、男性の生殖器を完全に占領するその場で、完成が展開するというのです。男性も同じです。それで、そこを中心として暮らすのです。

  

 女性は、耳と口が王にならなければなりません。それは、聖人の「聖」なのです。誰かが「聖女になりたいか、悪女になりたいか」と尋ねれば、「聖女になりたい」と言うのがすべての女性の返事です。それが「聖」の字です。男女間の性欲の性ではありません。それも性の字ですが、この聖の字は耳と口が王だというのです。それを女性の生殖器だと考えればよいのです。事実です。これが王ではないですか。それを守れば聖人になるのです。いいことを学ぶでしょう? そのようなことは辞典にも、どこにもありません。日本の教科書でも見たことがないでしょう?

  

 神様の愛の世界、神様の愛の根源地を訪ねていくのです。万物は、男性と女性の生殖器をもつために行くのです。人間は、神様の愛の相対になるために行くのです。それは間違いない原理観でしょう? 先生が勝手に立てた理論ではありません。天地の大道の原則なのです。


 三) 生殖器は天が臨在する至聖所


 男性、女性の愛の器官の細胞が最も精密です。心と体が一つになり、すべての愛の道が通じるその細胞の感情、その世界に元素としてどのように入っていくのかということが、万物、被造世界の目的だというのです。では、男性と女性が統一されるところとはどこですか。生殖器です。そこでは、直接男性と女性が一つになり、神様と一つになることができるところです。堕落したために、それが最も悪いものになりましたが、本来は限りなく神聖なものです。男性と女性がその門を開けた時、世界が開き、門が閉まれば世界が閉められて、それが幸福な時、世界が幸福であり全宇宙が幸福なのです。

 神様の息子になろうとすれば、その器官を通じて一つになった、その場から生まれなければなりません。その場でなければ、神様の息子、娘がどこから生まれますか。それゆえに、男性と女性が愛する時はもちろん、すべての細胞の願いが生殖器の細胞になることなのですが、愛の場所に入っていくようになれば全身が同感するのです。体全体が一つになるのです。

  

 愛のすべてのものがバランスよく完成して成熟したのちに、そこから成されなければなりません。世の中で最も高いアンテナとは何でしょうか。何が最も高いアンテナですか。それは、愛のアンテナです。人間において愛のアンテナとは何でしょうか。男性と女性の生殖器官です。電波はただアンテナを通して流れるようになっています。それで円形を成すのです。アンテナを通して円形を成します。人間が神様のアンテナです。神様を中心としたアンテナです。人間世界のアンテナに神様の垂直愛がつながる日には、世界を包括し、全宇宙を包括して余りある圏に入っていくようになるのです。それは、人間世界と霊界に雷鳴がして稲妻が走るようにする装置のようなものです。

  

 神様は、その中心に住みたいと思われるのです。理想的な家庭、国家、世界は、その根に連結されたいと思うのです。ところが、堕落によってすべてのものを失ってしまいました。悲惨な立場です。男性の生殖器とは何ですか。永遠の愛の王国です。皆さん一代においてだけそうなのですか。違います! 永遠です。永遠の王宮の位置、永遠の生命の王宮です。そこから、愛を中心として、男性の生命と女性の生命を初めて一つに結ぶのです。生殖器とは何でしょうか。第一に愛の王宮、第二に生命の王宮です。第三に血統の王国です。これが最も貴いものです。皆さん、それをもって、「幸福だ」と言うでしょう?

  

 夫婦の愛と父母の愛が永遠に定着する時は、結婚して愛する時です。愛する時、どこで愛しますか。口、目、耳でもって愛しますか。私は分かりませんが、皆さんはよく知っているでしょう。どのようなものですか。今まで人間は、生殖器を悪いものだと思ってきたのですが、今レバレンド・ムーンがそれを神聖な本宮だと教えています。どれほど驚くべき男性と女性の生殖器でしょうか。生殖器がなければ、真の愛、真の生命、真の血統、真の良心を連結できないのです。それなくして天国が出発できますか。できません! そこを通ってこそ、自由、幸福、平和の統一世界が可能なのです。そうではありませんか。

  

 絶対信仰、絶対愛、絶対服従、それは何ですか。それは、生殖器をおいていう言葉です。神様と人間の生殖器が一つになることができなかったのです。合徳ができなかったのです。それを絶対信じなければなりません。私の家庭歴史の柱であり、私の一族歴史の柱であり、私の血筋歴史の柱だというのです。

  

 神様と人間がどこで出会うのですか。男性と女性が一つになって愛する時間、生殖器を中心として一つになる時間に会うのです。これが堕落したために、世の中を滅ぼし、天地を滅ぼしたのです。それゆえに悪いものになりました。男性と女性が愛する時、神様を迎えにいくのだと考えなければならないというのです。下半身を見る時、「どうやってこの器官を、愛を中心として連結させようか。どのように奉仕して歓迎しようか。どうすれば真の愛を中心とした夫婦生活をすることができるだろうか」と毎日考えなさいというのです。私の体がそのような位置にいるのです。

  

 神様のように永遠不変でなければなりません。神様のように、絶対的にユニークで永遠不変の内容をもって愛が定着するところは、生殖器です。今まで誰もそれを知りませんでした。それほど貴い生殖器だというのです。祖父母、父母、夫婦、将来の皆さんの息子、娘もみな、生殖器が一つになるところで幸福な家庭が成されるのです。それが壊れれば、家庭全体が壊れるのです。おばあさんもおじいさんの生殖器をつかんで永遠に放そうとせず、おじいさんもおばあさんの生殖器を占領して永遠に失うまいとするのです。生殖器から愛、幸福、自由等、すべてのものが出発します。それは否定できません。

  

 アダムとエバの位置は、本宮です。そのアダムとエバの子孫はそのまま宮になるはずですが、本宮の基台を失ってしまいました。男性と女性の生殖器は、そのように驚くべきものです。三大愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮であると同時に、その場から地上天国、天上天国が出発する基地になっているという事実を知らなければなりません。驚くべき事実です。

  

 地球世界の被造物は、男性と女性の生殖器の細胞になるために総動員されるようになっているのです。なぜですか。このような価値があるので犠牲になる価値があるのです。それは何かというと、アダムとエバが愛の相対になれば、神様が臨在され、縦的愛と横的愛がここで竜巻のようになるので、地を削ることもでき、山を造ることもできるのです。愛だけが世の中の悪なるものを占領することができ、愛だけが気高い神様を占領することができるのです。

  

 皆さんは、男性と女性の生殖器を最も汚らわしいものだと思っています。しかし、そうではありません。最も神聖なものです。神様が真の愛を中心として、そこから理想天国を拡大させようとされたのです。限りなく神聖な聖所です。それゆえに、愛の対象は絶対的です。一度結婚するようになっているのであって、二度結婚するようにはなっていません。

  

 女性の愛の生殖器、男性の愛の生殖器が正にそれです。女性のものは愛の女性の宮殿であり、男性のものは愛の男性の宮殿だというのです。それらが出会うことが、最高のクイーン、キングになる理想です。それを愛といいます。そのように愛を行った人は、神様のように、神様の息子、娘となって、一つの同等な理想的生活圏に同参することができます。そのような価値ある人間として造られました。

 自分にとって最も貴いものとは何ですか。自分の国よりも、自分の理想的家庭よりもこれが貴いのです。これがなければ、自らの家庭も成立せず、民族も成立せず、国も成立しないのです。これが一つにならなくては、絶対に永遠の生命にならないのです。地上世界の版図を越えていける、天上世界、無限な世界へ越えていける生命圏は、生まれることができないのです。地上にも天国がなく、天上にも天国がないというのです。

  

 「教主の先生があのようなことを教えるなんて、統一教会は下品なやつらだ」と悪口を言っているでしょう? 下品なやつだと言ってもいいのです。偽物のメダルをもらうより、本物の金メダルをもらうほうが良いではないですか。それで、男性と女性の愛というものを中心として、男女の生殖器官は、創造主から受け継ぎ、先祖から受け継いだ、変わらない、ただそのまま連結された礼物です。神様も侵犯しない、貴い礼物です。先代たちもこれに背けない、貴い礼物です。これを侵犯する時は、天理の大道の中心となる愛の本宮を破綻させる悪魔の血肉となるのです。純粋な本質として、永遠の真の愛を中心とした、その基台から生まれたのが生命の本宮です。そして、新しい血統の本源地です。

 この者たち、しっかりしなければなりません。私が教主の先生ですが、しっかりしなければならないというのです。どこがですか。生殖器です! その生殖器は、何のために生まれたのですか。金なにがしのために生まれたのではありません。天地の大道のために、天地の大摂理的経綸のために私に下さったのです。

 将来、人間世界に、理想世界がどのようにして訪れるのでしょうか。生殖器官を正しく使うことができる道理を明らかにしてあげない限り、世の中は滅びます。平和の世界を取り戻すことはできません。ローマを見てみなさい。アメリカを見てみなさい。アメリカは、お金がなくて滅びるのではありません。

 今までサタンのために生殖器官の主人が誰かを知らず、どのような由来で創造されたのかということを知らなかったのですが、それを明らかにするために、天地の邪悪でよこしまなサタンの乱闘場をすべて掃除するために、私が旗を掲げて立ち上がったのです。


三、神人一体と愛の理想完成

 一) 神様と人間が出会う愛の決着点


 宇宙の愛の根本はどこでしょうか。神様です。神様の愛がどこに行って結合するかというときには、ここで論理的整理をどのようにするのかが問題です。神様がアダムとエバを造られて、二性性相を分立し、中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在になるのでしょうか。愛を中心として中和的存在になるのです。格位においては、男性的主体格をもったというのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。それを知らなければなりません。

 それでは、神様はどのようになっていますか。アダムとエバは、二性性相の主体なので、体は蘇生であり、心は長成です。そして、この心の中に神様が臨在しようとされます。それでは、アダムとエバの体と体が一つになり、心と心が一つになり、そうなれば心の一番底にあるものが一つになるでしょうか、ならないでしょうか。それは何ですか。神様が一つになるでしょうか、ならないでしょうか。神様は、どこで一つになるのですか。愛のために造られたのなら、神様がどこで人間と共に結合されるのですか。その場はどこですか。愛の場所だというのです。

  

 統一教会の「原理」では、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だといいます。二性性相でいらっしゃる神様御自身の分性的実体としてアダムとエバを造っておかれ、彼らが成人して愛を中心として横的に連結するようになる時、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何の話かといえば、アダムとエバが成熟すれば、神様の男性性稟はアダムの心の中に、神様の女性性稟はエバの心の中に入っていくというのです。かといって、神様が分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるというのです。

  

 成熟したアダムとエバが、お互いに愛の因縁を結ぶことができるその時になれば、神様は二性性相になっているために、男性性相はアダムに臨在し、女性性相はエバに臨在するのです。神様が私たちの心と体の中に臨まれ、神様が結婚式をするのです。

  

 中央線は、その距離がすべて同じであり、角度がすべて同じです。長さがすべて同じです。そのようになれる中央の水平線は一つしかないのです。二つではありません。垂直も一つであり、垂直の中心点も一つであり、水平線が交差する中心点も一つです。その一つの位置に初めて神様の愛、軸の愛が連結するのです。

 そこで一つになってぶつかる日には、三六〇度、四方に行くすべての力の作用がこの点を経るのです。このような愛の力が爆発すれば、男性と女性は完全に一つとなり、その中に神様が入っていかれるのです。神様は二性性相になっているでしょう? 「原理」で論じている二性性相の主体としていらっしゃる神様は、どのような方ですか。二性性相の神様であると同時に、二性性相の中和的主体としていらっしゃいます。その主体の本質は何ですか。愛だというのです。絶対的愛だというのです。

  

 二性性相の実体圏は、真の愛により、神様の相対として立って神様に帰るのです。正、分、合です。一つだった性相と形状が分かれたのち、実体として再び会う、それがアダムとエバの祝福です。ここに神様も来て一つとなり、男性と女性も一つとなって、ここですべて統一されるのです。これが先生の偉大なみ言です。

 神様がこのように近いというのです。自分の心の底にいた神様を知るようになった、それ以上のことはありません。何の話か分かりますか。神様のその命令に従って、生涯、間違いない勝利の道を行かなければなりません。

  

 神様は、二性性相なので、神様の男性性相がアダムの心に入ってくるのです。それで、神様が内的な父になられるのです。神様が内的な父の位置に入ってこられるのです。コリント人への手紙を見れば、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ三・一六)とあります。私たちの体は「神の宮」と言っています。私たちの体は神様が臨在することのできる「神の宮」だと言ったのです。その「神の宮」という言葉は正しいというのです。神様が二性性相の主体としていらっしゃるために、アダムは神様の男性性格、見えない性格を見える性格として現した存在です。ですから、アダムは実体として現れた神様の体です。無形の実体が有形に実体化して、人類の父として立っているアダムの背後で、内的な父の立場に立つべき方が神様でした。何の話か分かりますか。

  

 本来、堕落していなければ、神様はアダムとエバの中に臨在することができたのです。二性性相の形状と性相の本体であられる神様は、その性相と形状の相対がアダムとエバなので、その心の中に入っていくようになっていたのです。入っていって、神様とアダムとエバが心身一体圏を成すのです。神様が、堕落せずに完成した人間の心のような立場になり、人間は神様の完成した体のような立場になって心身一体圏に立ち、アダムとエバと共に結婚式をするのです。その結婚式は、実体的、平面的で、横的にはアダムとエバの結婚式ですが、それが縦的には神様の結婚式になるのです。

  

 アダムとエバは、いったい誰ですか。その位置が私たち人類の横的な理想の愛を中心として和合する位置であり、九〇度を合わせる位置であり、焦点を設定する位置です。その位置もまた、この前後、左右、上下、どこに合わせても合います。そのことは何を意味するのでしょうか。神様は、二性性相の主体であられるので、その愛の焦点を合わせたアダムとエバの心の中に神様が入ってこられ、堕落していない人間の先祖の結婚式が神様の結婚式になるのです。

  

 アダムとエバは、見えない神様の二性性相として来たのです。見えないお二人が、一人の方のような位置に立っているのです。真の愛を中心として一つになっているというのです。そのようになっているものが男性格位と同じようになっているので、その男性格位に対して相対的立場に立った息子、娘を再現させて、彼らが成長し、愛を中心として夫婦になる時、上にいらっしゃった神様がその位置に共に降りてこられるのです。それは、一つは見えない父母の位置に立ち、一つは見える父母の位置に立って、愛して一つになるためなのです。

  

 神様は何をもっているかといえば、男性的性稟と女性的性稟をもっていらっしゃるというのです。二性性相の主体という言葉が出てくるのです。それで、統一教会は、「二性性相の主体が神様である」という素晴らしい結論を下すのです。見えないものがプラスであり、見えるものがマイナス的父母です。見えない父母が原因的であり、見える父母は結果的です。ゆえに、愛を中心として一つになるのが父母の位置ですが、神様は見えない父母であり、これは見える父母です。これは何かというと横的父母であり、これは縦的父母です。

  

 一つになった男性と女性は、神様の愛と和して一つになった統一的な立場であり、一つは東方、一つは西方です。この宇宙を代表した一人の男性と女性は、二性性相の総性です。それは避けられないのです。彼らが統合するという事実は、この宇宙に神様の愛が結合できる中心軸が生まれるということです。

  

 神様を発見できるところとはどこでしょうか。今日、祈祷をして修行に励み、いくら宗教を信じてみたところで、神様を発見することはできません。真の神様の愛を発見できないというのです。神様なら神様も、男性なら男性も二性性相になっています。内的・外的、二性性相だというのです。プラス・マイナスになっているのです。そのような意味で、ここには完成した男性と神様が関係しているのであって、それ以外には、息子もなく、何もないというのです。

  

 エバは、霊的な面において神様の妻です。アダムの中に入っていき、エバの中に入っていって神様が愛そうとされるというのです。二性性相に分立し、愛を中心として一つにして、四方をすべて愛だけが連結させることができるのです。神様と人間関係は、そのようになっています。神様は、内的な私です。ところが、二性性相の分立的な立場にいるために別々の存在だというのです。それは、なぜ分立したのでしょうか。愛をより刺激的に感じるためなのです。刺激的でありながら、位置を移動するためであり、また環境を変更させるためなのです。位置を変化させるので、繁殖が展開するのです。縦的な神様だけでは繁殖することができません。縦的な位置は一箇所であって、二箇所あり得るでしょうか。

  

 女性をよく見れば、そこに新郎が一緒に存在します。一体となるというのです。神様がそうでしょう? すべてのものは、二性性相をもっているのと同様に、二性性相が成されるのと同じように、結局は神様に帰るのです。真の愛を中心に一体になれば、神様の友達になります。神様が彼らの中へ入っていくのです。女性の中心は男性です。女性は男性の相対圏に立っているために、男性を中心に回るのです。女性が男性を中心に回るというのです。女性を中心に回るのではありません。男性が中心に立つようになれば、女性は自然に男性を中心とするようになるのです。

  

 神様が父になるためには、血筋が関係しなければならず、生命が関係しなければならず、愛が関係しなければなりません。二性性相の神様が、愛を中心として一人で心で喜んでいたことを別々に分け、東西南北、自然全体がペアで和動する世界において中心的主人の形態を備えるために展開したものがこの世界です。それで統一教会では、「正反合」ではなく「正分合」だというのです。

  

 神様は二性性相になっているでしょう? 結婚式をすればどのようになるのかといえば、神様の女性性相はエバに入ってき、男性性相はアダムに入っていって一つになるのです。別の言い方をすれば、アダムとエバは実体をもった神様の体であるということを知らなければなりません。そのようになれば、神様は、アダムとエバの内的な二性性相に入っていかれて愛で一つになるのです。そのようになれば、そこから神様の血統を受けるようになります。

  

 神様は、どこに入っていかれるのですか。神様は、アダムの心の中に入っていき、エバの心の中に入っていかれるのです。二性性相でしょう? この二つが一つの根を中心として入っていって打ち込まれるのです。そして、息子、娘で連結されるのです。愛で連結して、心と体を中心として、霊を中心として根を合わせて、ここから生まれた愛の息子、娘が地獄に行くでしょうか。誰かが勝手にできません。絶対的な体、絶対的な心、絶対的な霊、絶対的な男性、絶対的な女性が、絶対的な神様の愛を中心として、生命の起源であり、愛の起源であり、血筋の起源である生殖器を中心として統一が展開するのです。

  

 神様とアダムとエバは、いったい何でしょうか。アダムは何であり、エバは何でしょうか。堕落せずにアダムが完成すれば、神様がアダムの中に入られ、エバが完成すれば、神様がエバの中に入られ、神様の二性性相が分立された分立実体相に入っていかれて、分かれたものを再び一つにするのです。何を中心として一つになりますか。力をもって一つになるのではありません。愛をもって一つになるのです。そこから刺激が起き、そこから繁殖が展開されるのです。理想世界の繁殖が展開されるのです。

  

 はっきりと知らなければなりません。このようなことは図書館にもない話です。これは、初めて文総裁によって天国の図書館に記録されて保管されるというのです。うそではありません。妄想的な話ではありません。神様は誰かといえば、縦的な父です。堕落していないアダムとエバは横的な父母です。神様は、二性性相で存在するすべてのものの縦的な父母です。そして、アダムとエバは横的な父母になるのです。それでは、彼らはどこで出会うべきでしょうか。真の愛は直短距離を通るのです。


 二) 神人愛理想の根本原理

(1) 神人一体をどのように解明するのか


 先生が最も苦心したこととは何でしょうか。神人一体をどのように形成するのかという問題です。理論的にどのように説明するのかというのです。これが解明されなければ、理論的体制が定着できません。人間の愛の根本的位置が設定されなければ、すべてのものがずれていくのです。

  

 神様の愛と人間の愛が問題になります。神様の愛と人間の愛は、色が同じか違うかという問題です。大きな問題です。神様の愛と人間の愛がどこで結びつくのでしょうか。これが結びつかなければ、神人愛一体の拠点を見いださなければ、神様も人間も共に定着できないのです。神様が喜ばれるので人間も愛を通じて喜ぶ、そのような場が異なる場合には大変なことになるというのです。

  

 先生が根本問題を追及する時、神人一体圏はいったいどこなのかを、ずーっと考えました。これは重大な問題です。これを解決せずには、出発点と終結点が合わないのです。そのような中で、雷のようにぴかっと悟りがありました。真の愛は直短距離を通るというのです。その一声がすべてを解決しました。天地が真の愛で連結するならば、直短距離を通るというのです。言い換えれば、垂直は一つです。水平に対して九〇度以外にはありません。これは最高の直短距離です。

  

 結婚は、なぜするのですか。愛を完成するためにするのです。横的に左右、東側と西側を男性と女性だとすれば、その男性と女性の真の理想というものは直短距離を通るので、直面に対して横的な愛の直短距離というものは中央に一点しかありません。これは、九〇度以外にはありません。これがこのように横になれば、楕円形になるのでいけません。すべて同じではありません。平等な位置にすべてが同じ基準として立つのは、九〇度以外にはありません。神人一体にする愛の結集場所というものは、九〇度以外にはないのです。

  

 「神様は縦的な父」という言葉が出てきます。真の愛を中心として神様は縦的な父であり、アダムとエバは真の愛を中心として横的な父母です。縦横が九〇度で定着するのです。これが宇宙の根本です。結局は、神様が結婚式をするために人間を造られたというのです。神様の愛のために創造されたというのです。このように解明することによって、すべての根本的な難問題が解決されるのです。

  

 文総裁が宇宙の根本を追求していくときに最も苦心したのは、愛がどのように動き、どのように定着するのか、という問題でした。愛は直短距離を通るという、この一点を解明することによって、すべてのことが解決されるのです。愛が上から来るとすれば、天が高くて地が低いので、真の愛が天から地に訪ねてくる時にどのような道を通ってくるでしょうか。最大の直短距離なので垂直です。これは垂直一つしかありません。直短距離です。愛が一番早く、直短距離を通るという時に、天上世界と地上世界の接着地は、完全水平の中の一点しかないというのです。二つではありません。絶対的に一つです。

  

 アダムとエバは、見えない神様の二性性相として来たのです。見えない二人が一人の方のような位置に立っているのです。真の愛を中心として一つになっているというのです。そのようになっているものが男性格位と同じようになっているので、その男性格位に対して相対的立場に立った息子、娘を再現させて、彼らが成長し、愛を中心として夫婦になる時、上にいらっしゃった神様がその位置に共に降りてこられるのです。それは、一つは見えない父母の位置に立ち、一つは見える父母の位置に立って、愛して一つになるためなのです。

  

 人間が完成すれば神性をなして、天のお父様が完全なように完全で、神様的価値をもつのです。神様は絶対者ですが、真の愛の理想は一人で成し遂げることはできません。愛の理想は必ず相対を要求するためです。

 私たちはここで、神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が、お互いにどのような関連をもっているのかを知らなければなりません。万一、神様が真の愛の絶対的な対象体として人間を立てず、ほかの方法を通じて御自分の真の愛の出発と完成をなそうとされたなら、どうなるでしょうか。神様と人間の真の愛の理想は、各々動機が異なるようになり、二つの愛の方向と目的は異ならざるを得なくなります。

  

 アダムとエバは、いったい誰ですか。その位置は、人類の横的な理想の愛を中心として和合する位置であり、九〇度を合わせる位置であり、焦点を設定する位置です。その位置もまた、この前後、左右、上下、どこに合わせても合います。それは何を意味するのでしょうか。神様は、二性性相の主体であられるので、その愛の焦点を合わせたアダムとエバの心の中に神様が入ってこられ、堕落していない人間の先祖の結婚式は、神様の結婚式になるのです。

  

 人間完成の出発点はどこですか。これは、神様にも最も貴く、人間にも最も貴く、この宇宙のすべての存続の根源になることができるのです。創造当時のあらゆる要因の根本になることができるのです。それは愛です。愛のために生まれたというのです。その愛はどのような愛ですか。真の愛です。その真の愛には、目や口や五官が離れることはできないのです。それを中心として回るようになっていて、それに従って往来し、上がっていくにもそれに従って上がっていき、降りてくるにもそれに続いて降りてくるようになっているというのです。

 それゆえに、私たちの五官を一つの焦点に結びつけることができるのです。その力とは何ですか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもないのです。それはただ愛しかありません。そうではないですか。

  

 縦横がどこで一つにならなければなりませんか。天地合徳がどこで展開するのでしょうか。縦的な基準の前で展開するのです。愛が行く道は直短距離を通ります。これがどこで定着するのかという問題が、非常に苦心した問題でした。宇宙の根本を解明するときに、縦的な愛と横的な愛があるということを知りました。

 なぜ知ったのでしょうか。垂直にさっと上がっていくことができません。そのようになれば、私が全く身動きせずにぴたっとここに立たなければなりません。そこを離れて縦的に愛すれば、私がぴたっとこのようにならなければなりません。これがどこに行って回るのかというのです。回ることができないのです。このような問題、どのように連結させるのかという問題、天地の愛があれば、その愛はどのように合徳するのかという問題が、大きな問題でした。しかし、一つ知ったこととは何かというと、愛は直短距離を通るということでした。

  

 神様が願われることも、真の愛による神人一体です。神人一体、神様と人との一体圏です。神様が喜ばれる理想の基準と人間が願う基準がずれれば、大変なことになるのです。真正面で一体にならなければなりません。水平に一体になり、垂直に一体にならなければなりません。これを前後左右九〇度に合わせれば、上弦と下弦と右弦と左弦、十二箇所をすべて九〇度の角度で、どこに合わせてもぴったり合うのです。

  

 神様の愛と人間の愛がどこで一つになるのかという論理を、今まで誰も分かりませんでした。これが分からなくては、天のお父様という言葉は荒唐無稽です。関係ない言葉です。アダムとエバは神様の何ですか。体です。それゆえに、アダムとエバが名づけるとおりになるというのは、どのような意味ですか。その体に神様が入っていってつけられるのです。完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。霊界に行ってみれば、それをはっきりと知ることができます。知ることができないこのような理論が、すべてあてはまるのです。それゆえに、皆さんが神様の愛を占領してこそ、その欲心がいっぱいに満たされ、「もう、いっぱいだ」と言うのです。

  

 神様は、愛の根であり、生命の根であり、血統の根であり、地上天国と天上天国の根です。アダムとエバが結婚する時には、神様がアダムとエバの心に入っていって一体的愛をなすのです。神様は縦的な真の父母であり、アダムとエバは横的な真の父母です。そのような二つの父母の血肉を受けて生まれたので、心は縦的な私になり、体は横的な私になるのです。

 このようにして神人愛一体圏を形成するので、心身一体愛を完成した者は、神様の息子、娘になるのです。神様の王子、王女になれば、神様と父子の関係になって、神様のすべてを相続することができるのです。このような子女が真の愛を中心とした夫婦一体を完成すれば、神様に侍って暮らす家庭になることができ、その家庭は、平和と理想の基地になるのです。半分である男性と女性は、一体となり、神様の相対として神様の理想の愛を完成させるようになるのです。すなわち神様は、真の愛を中心として、人間を無限の価値者として完成させることによって、神様も真の愛の完成をなし、永遠の理想の愛が宿る創造理想世界を完成されるのです。

  

 真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対者として人間を立てました。神様の愛の理想は、人間を通じてのみ完成するのです。神様の創造目的は、神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。

 人間は、神様の最高、最善の愛の対象として造られました。それゆえに、人間は、創造物の中で唯一神様の実体をもった対象です。無形の神様の前に見える体として生まれました。人間は、完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また安らかに、いつでも入ってきてお住みになることができる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の全体的理想は、人間を通じた父母と子女の縦的関係によって実現し、完成します。

  

 神様はどこに入っていかれるのですか。神様は、アダムの心の中に入っていき、エバの心の中に入っていかれるのです。二性性相でしょう? この二つが一つの根を中心として入っていって打ち込まれるのです。そして、息子、娘で連結されるのです。愛で連結して、心と体を中心として、霊を中心として根を合わせて、ここから生まれた愛の息子、娘が地獄に行くでしょうか。誰かが勝手にできません。絶対的な体、絶対的な心、絶対的な霊、絶対的な男性、絶対的な女性が、絶対的な神様の愛を中心として、生命の起源であり、愛の起源であり、血筋の起源である生殖器を中心として統一が展開するのです。


(2) 神人一体の拠点


 神様の愛と人間の愛がどこで会うのですか。その結着点は、愛の結着点、生命の結着点、血統の結着点になるのです。そこでなければ、愛と生命と血統を連結できる道がないのです。その場所はいったいどこですか。どのような生殖器で、どこに使う生殖器ですか。男性と女性の生命が連結されるところです。男性と女性の血統、血が交差するところです。神様の生命、神様の愛、神様の血統、そして男性と女性の生命、男性と女性の愛、男性と女性の血統が、この一点を中心として連結されるのです。これを中心として子孫が生まれるのです。

  

 神様の絶対愛と人間の絶対愛が出会う点とはどこでしょうか。一点です。それはどこですか。結婚して初夜、生殖器が一つになる場です。そうです、神様に会うと考えてみましたか。どこで一つになるのかというのです。絶対的な神様が定着できる一つの起点と、人間のアダムとエバが理想として願う愛の起点が、一つになることのできる点が、一点ではなく二つの点になる時には、愛の方向と目的が二つになり、永遠に神様の絶対愛とは関係を結べない人間になるので、愛のために造られたというのは偽りだということになります。

 そこから私が生まれるのではないですか。男性と女性がそこから生まれるのであって、キスするところから生まれるのですか。そこから男性と女性の生殖器が絶対的に一つになることを願うでしょう? 夫婦間で絶対的に一つになってみたいですか、適当に一つになってみたいですか。その場は何かというと、女性が愛を受けるためには、夫だけではなく、霊的に神様に侍る位置に立たなければならないのです。見えるアダムの生殖器は、内的には見えない神様の生殖器だというのです。女性の生殖器も、見えない神様の生殖器であり、見える生殖器はエバの生殖器です。見えないものは縦的であり、見えるものは横的に一つになるのです。それで、縦的な父母、横的な父母が一つになるのです。

 アダムとエバの結婚式の日が、その場を中心として神様の結婚式の日になるのです。一つの縦的な結婚式であり、一つの横的な結婚式になるというのです。すべて生殖器を中心として、男性と女性が絶対愛に着地すると同時に着地の中心に来るので、神様の愛を中心として一つになるのです。そのようになったならば、神様のように心を中心として統一がなされたはずです。

  

 絶対的に変わらない、そのような愛の位置に神様が臨在されるのです。神様が生殖器に臨在されるのです。神様が愛の根源であり、生命の起源です。男性の生命、女性の生命、血統の起源ですが、神様と人間は、どこで愛と生命と血統が結集しますか。この場所しかないのです。

  

 アダムとエバの結婚式は、内的には神様の結婚式です。二重の結婚式の場だというのです。それを結束させるものが、男性と女性の生殖器です。それがなければ、自分の生命も生まれないというのです。それによって一族も、人類の歴史も続いてきたというのです。神様の理想世界も、その門を通過した子供たちが、愛された子供たちが連結させていくのです。そのようにして神様の国もつくられていくのです。

  

 アダムとエバの結婚式とは何ですか。誰の結婚式なのですか。神様の結婚式です。もし、そのようにしていればどのようになりますか。そうなれば、どのような結果になったでしょうか。そのセクシュアル・オーガン(生殖器)が第一に何になるのかということです。

 神様の愛の王宮になるのです。愛の本宮になるのです。そうです、家庭は王宮だというのです。これが愛の本宮です。一般家庭は王宮であり、これは縦的な愛の本宮です。どれほど貴いところなのかというのです。

  

 アダムとは何でしょうか。堕落しないで完成していたならば、神様の体になるのです。エバも、やはり神様の体になるのです。神様の体になるのですが、男性はプラス側の体になり、女性はマイナス側の体になるのです。そして、二人が何を中心として結ばれますか。愛を中心として、生殖器を中心として結ばれるのです。内的な心の中に神様が入ってきているアダムとエバは神様の実体ですが、彼らが生殖器を中心として愛するようになれば、どのようになりますか。神様は誰を通じて愛するのですか。心は何を通じて愛しますか。体を通じて愛するでしょう? 同じように、神様が堕落していない完成したアダムに入られ、神様の家のようになったところで、神様が主人となった中で、二人が愛するのです。分かりますか。

  

 神様とは、いったい誰ですか。神様は創造主でありながら、縦的な真の愛の父母です。真の愛を中心とした、縦的な父母だというのです。完成したアダムとエバは、真の愛を中心として横的な父母です。その二つの父母が一体となるのです。愛するその場所で、縦横が一体になるのです。そこは愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮です。それが男女の生殖器です。

 それによって、神様御自身が神様の息子、娘を生むのです。神様の子女です。皆さんは、二つの父母から生まれたのです。その縦的な父母の相対的な立場に立ったのが良心です。そのような面から見るとき、良心は縦的な自分自身です。肉身は横的な自分自身です。縦横が何によって一つになりますか。真の父母の愛、創造主の真の愛によって一つになれば、心と体は絶対に闘わずに一つになるのです。

  

 神様を「お父様」と言う、それはいったい何のことかというのです。創造理想の根源を知らなければなりません。神様は誰ですか。お父様です。皆さんは誰ですか。子女です。皆さんは子女ですが、それでは、皆さんは神様に似ましたか、誰に似ましたか。神様に似ました。神様には目がありますか、ありませんか。鼻がありますか、ありませんか。口がありますか、ありませんか。耳がありますか、ありませんか。あります。その次には体がありますか、ありませんか。神様に生殖器がありますか、ありませんか。そのようなことがすべて問題になるのです。このようなことを、すべて理論的に解決しておかなければなりません。

  

 夫婦が愛する器官とは、どのようなものですか。神様の愛と人間の愛がどこで一つになるのですか。この一つになる出発点が二つになれば、方向も二つであり、目的も二つなので、神様と人間は喜ぶことができないという結論に到達します。神様が人間を愛の対象として造られたならば、神様の愛と人間の愛が接触できる出発点が同じでなければなりません。その同じ点とは、どこですか。心情ではありません。女性や男性に一番重要な器官とは何ですか。生殖器です。神様が創造される時、最も精誠を尽くしてつくられた器官です。

  

 アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式だというのです。そうあるべきではないですか。愛の対象を自分より高く造ろうとされた神様が、どこに行ってお会いになるのでしょうか。どこに行って一つになられるのでしょうか。鼻で一つになるのでしょうか。どこでしょうか。問題が大きいというのです。ですから、女性がもっていて、男性たちがもっている生殖器というものは、神様が臨在できる本然の園です。神様の愛が初めてそこで完成するというのです。凹凸が一つになるその場で人間完成、すなわち女性完成、男性完成と神様完成が、愛を中心として展開するというのです。

  

 心と体が一つになって、その生殖器を中心として一つにならなければなりません。出発地は一点であるべきであって、二点になれば方向も二つになります。人間の愛と神様の愛が接触して定着することができる寄着地(経由地)はどこかといえば、内的夫と外的夫が愛によって結ばれる生殖器だというのです。あの凹凸で結ばれるのです。

  

 人間が成熟して結婚するということは、神様の愛と人間の愛が関係を結ぶことを意味するのです。何を中心としてですか。愛の器官を中心としてです。霊的に見るとき、アダムの生殖器は神様の内的な生殖器であり、エバの生殖器も神様の内的な生殖器です。そして、相対的に女性の生殖器と一つになるのです。

  

 神様の結婚式が、アダムとエバの結婚式です。それゆえに、地上天国と天上天国が同時に生まれるのです。愛のすみかから出発するのです。男性と女性の生殖器を中心として、堕落しないで出会うその時間が、地上天国と天上天国出発の起源地です。三大王権を樹立すべき基地がそこです。その場でなければ、愛のすみかを成すことができません。

  

 アダムの結婚式は、神様の結婚式です。これが天の最大の秘密です。気がついてみると、統一教会の文教主が生殖器解剖学の代表者になりました。生殖器ですべて一つになるのです。それなくしては愛が分からないのです。それ以外には、男性の生命と女性の生命が結ばれる場所がありません。そこで女性の血と男性の血が出会います。そこから歴史が連結します。そこから良心が出発します。そのようになっているのです。

  

 神様が御覧になるときに、女性は本来誰でしょうか。女性は、神様とどのような関係ですか。神様は、愛のために人を造られたのです。愛のために造られたのに、その神様の愛と人間の愛が相反しなければならないでしょうか、一つにならなければならないでしょうか。それでは、一つになるとすれば、どこで一つにならなければなりませんか。どこですか、考えてみましたか。それを考えなければなりません。セクシュアル・パート(sexual part)だというのです。

  

 「絶対セックス」です! 絶対的に心と体が一つになっていない人が、絶対セックスになれますか。生殖器も二重です。絶対セックスなので、私の生殖器は神様の生殖器であり、完成したアダムの生殖器です。神様に生殖器があるでしょうか、ないでしょうか。なぜ笑うのですか! 分からなければ「分からない」と言い、あれば「ある」と言ってみなさい。あるでしょうか、ないでしょうか。動機がないのに結果が現れることはできません。人間は結果的存在なので、結果がそのようになるためには、動機的内容がなくてはならないのです。理論的です。

 神様も生殖器があります。その生殖器がどこかに行って、二重的人格である神様も二重的なものが必要なので、内的人格の神様の位置、外的人格の体の位置が必要です。体の立場は誰ですか。完成したアダムです。心の立場は誰ですか。神様です。結婚式をして二人が一つの家で爆発するのです。

 初愛のアダムとエバが生殖器を合わせる初夜に、精子と卵子が泳いでキスし始めるときは、神様とアダムとエバは別々でしょうか、同一でしょうか。

  

 神様と真の父母を中心とした愛の伝統が、すべての出発点であることを知らなければなりません。神様の愛と人間の愛のトゥルー・ラブが、どこで一つになって出発するのでしょうか。生殖器です。どのような種類の生殖器ですか。真の生殖器です。神様が願われる生殖器です。そのような結論が出てきます。

  

 神様と人間の愛が連結されるところを本郷の地にして帰ろうとするのです。そこがどこかといえば、男性と女性の生殖器です。神様の愛と人間の愛がどこで始まるのでしょうか。アダムとエバの生命と愛と良心と血統の根である神様は、間違いなく縦的な立場から横的な位置のアダムとエバ、彼らの性相と形状が一つになったその中にすっと入っていかれるのです。ですから、アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式なのです。男性と女性がもっている生殖器は、神様を解放して神様を完成させる器官です。ですから、神様がお父様になるのです。縦的なお父様、横的なお父様は完成したアダムです。

  

 皆さんがその長い棒をいい加減に扱ってはいけません。それに侍って生きなければなりません。それが最も貴いのです。神様が見下ろしているのです。神様がそこに臨むのです。そして、皆さんの妻のものは神様の夫人、女王のものであり、皆さんの夫のものは神様のスティック(棒)と言いましょうか。神様と一緒にぶらさがっていると考えなければならないのです。それは二重ではありません。心と体のように、神様が心ならば、皆さんは体になるのです。神様は見えませんが、その生殖器と一緒にいらっしゃるのです。私たちの体にそれがぶらさがっていますが、それは二つが一つになってぶらさがっているのだと考えなければなりません。

  

 夫の生殖器が神様の生殖器だと考えてみましたか。どれほど近づきますか。神様をどこか天のてっぺんに置いて信じるのではありません。自分の心の中に入ってきているのです。一つになっているから分からないのです。

 堕落することによって、男女の生殖器がこのよこしまな死亡の波、死亡の法、滅亡の地獄を開門させた本宮になったために、天道を破綻させた魔物になったために悪いものになりました。これが今まで歴史に隠された秘密でした。堕落していなければ、男性と女性の生殖器は、愛の根本であり、愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮になるのです。そこで縦的な神様の愛、横的な真の父母の愛が一つにならなければなりません。

  

 真の愛は直短距離を通るために、横的な人間、アダムとエバの愛も直短距離を通る道は、九〇度の道しかないのです。そして、ここで一つにならなければなりません。ここで爆発して、アダムとエバが神様と生命一体、愛一体、血統一体、このように和合した喜びとともに爆発して、蘇生するところから生まれるべきなのが私たち人類です。これがアダムとエバの子女になることであり、神様の孫になることです。そうなっていれば、なぜ地獄に行くのですか。宗教に何の必要性がありますか。そのままそのように生きれば、すべて天国に行くのです。

  

 神様は縦的な位置、中央なので縦的であり、アダムとエバは横的なので、二人がどこで一つになるのかといえば、生殖器という基準を中心として一つになるのです。それゆえに、愛の源泉である神様がその場に臨むことができ、生命の源泉である神様がその場に臨むことができ、血統的根源が神様なので、その場からすべてのものが始まるのです。

 それゆえに、生命の根源地であり、愛の根源地であり、血筋の根源地である、これをつかんで引っ張れば、すなわち血筋をつかんで引っ張れば、先祖の血筋がすべて出てくるのです。ここで生命をつかんで引っ張れば、先祖の生命がつられて出てきますか、出てきませんか。また、愛のひもをつかんで引っ張れば、つられて出てきますか、出てきませんか。そのように造化を集約させて、それを連結させることができる本部とはどこかといえば、最も貴いところだというのです。男性になれる性格、女性になれる性格、何がそれを分けるのかといえば、生殖器です。


 それでは、男性の生殖器と女性の生殖器を、誰が先にこれと因縁を結ぶためにつくったのでしょうか。アダムでもなく、エバでもありません。神様です。聖書に、悪魔は淫乱の神だとあります。なぜ神様がそこまで嫌ったのですか。自らの理想的本基台を完全に破壊させてしまったからです。ですから、これは全宇宙からの追放を予告しているのです。

  

 男性と女性の生殖器は、どれほど貴いでしょうか。これで堕落したために、この人類の全体の理想を破綻させてしまいました。その主人は二人ではありません。絶対的に一人です。女性が結婚して一人の夫に三角地帯を許すようになれば永遠です。それゆえに、男性の生殖器、女性の生殖器は貴いのです。神様の愛と人間の愛は、どこで会うのですか。

 神様が創造理想の愛のために天地を造られたのですが、その愛の対象が人間です。皆さんは、愛の対象が自分より優れていることを願うでしょう? そう願うでしょう? 何千倍ですか。「千倍を願うか、万倍を願うか」と尋ねれば、「万倍を願います」と言うのです。「万倍、十万倍か」と尋ねれば、「十万倍です。億万倍です」と答えるのです。

  

 神様も、被造世界の誰が愛のパートナーになると思いますか。そのパートナーとは何ですか。男性一人だけでパートナーになりますか。女性一人だけでパートナーになりますか。神様は何のパートナーを願われるのでしょうか。お金のパートナーではなく、知識のパートナーではなく、権力のパートナーではありません。愛のパートナーを願われるので、男性と女性の生殖器が一つになったその場を中心として神様に会うことができるのです。

(3) 真の血統の根は神様


 人間が堕落していなければ、神様は内的な父と母になり、アダムとエバは外的な父と母になります。内的な父母の息子、娘として愛の種を受けて生まれた人間になるはずだったのですが、悪魔の愛を中心として堕落することによって、悪魔の血筋を受け継ぎ、悪魔の愛、悪魔の生命、悪魔の血筋を受けた人間になりました。

  

 神様は、見えない内的なアダムの位置にいらっしゃり、また見えない内的なエバの位置にいらっしゃいます。アダムは、人類の前において、内的なお父様に侍る実体の父として立とうというのであり、またエバは、内的な母の神様に侍る実体の母として立とうというのです。このようにして縦的な基準から横的基盤へ拡大させようというのです。

  

 エバは、未来における神様の愛の夫人です。神様自体は縦的ですが、横的な相対がいません。縦横を結んで、もたなくては生産できないのです。神様は縦的にいらっしゃいます。縦は垂直で、垂直は一つしかありません。垂直の世界は生産できません。生産できる環境は横的な基盤です。ここには四方、三六〇度があるので、面積があって生産圏が展開されるのです。神様は、一人でいてはいけないので、天国を成す民族を生産するためにアダムとエバという体を造られたのです。

  

 本来、堕落していなければ、エバは神様の夫人になり、アダムは神様の体になるのです。神様の体になったアダムと神様の体になったエバが愛することによって、神様と人の天地合徳が展開し、男性と女性、陰陽の合徳が展開して初めて縦横に結びつき、愛によって新しい生命、新しい血筋が絡み合わなければなりませんでした。

  

 アダムとは誰ですか。神様が根ならば、アダムは新しく出てくる枝と同じであり、芽と同じです。神様とアダムは一つの体です。生命の根も神様であり、愛の根も神様であり、血統の根も神様であり、良心の根も神様なので、神様が先に愛を感じなければなりません。根が先に感じて、幹が愛を感じなければならないのが原理です。

 アダムとエバは相対的愛の位置にいて、主体は神様です。神様の愛は、アダムとエバが結婚して初日に愛するその時間、出発地から一つになっています。ところが、一つになると感じられないのです。一つになっているために感じられないだけであって、既に神様は、愛と生命と血統の因縁を中心として、創造理想の喜びを感じるというのです。その喜びに反応して男性と女性が愛しながら喜ぶのです。これは、アダムとエバが結婚して夫婦が合徳することをいうのです。

  

 神様は、愛の源泉であり、生命の源泉であり、血筋の源泉です。このように思うとき、男性の愛と女性の愛が合徳し、男性の生命と女性の生命が合徳し、男性の血と女性の血が合徳するところとはどこでしょうか。男性と女性の秘密の場所、生殖器です。それで、人間世界における大礼の中の大礼が結婚です。

  

 神様と私たち人類の始祖であるアダムとエバの関係について考えれば、私たちの生命の起源は神様です。私たちの愛の主体も神様で、私たち一切の生活的な標準も神様です。

  

 アダムとエバの結婚は、神様と人間が結婚することです。同じように、皆さんも人間として神様と結婚するようになっています。それでは、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。私の中にいらっしゃいます。

  

 アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式です。アダムは誰ですか。神様の長男です。平面の中の平面で横的です。神様は縦的です。その一家で横的に発展することができるのは、長男から始まります。神様とアダムは、愛を中心として父子一身です。それでは、愛はどこで一つになるのでしょうか。縦的なアダムとエバの結婚式で一つになります。成熟してお互いに思い慕うのは、縦的なものを取り戻すためなのです。

  

 愛を中心として、アダムとエバに神様が入ってこられて内的な父になり、アダムとエバは神様の体になって内外の神様になるのです。神様は、宇宙を創造された内的な神様であり、人間は外的な神様になるのです。彼らが夫婦になって天国の王宮を創設することが創造の遺業です。宇宙の王権を中心とした王宮を設定して、アダムとエバを中心とした皇族編成がなされれば、地獄はあり得ないのです。

  

 神様とアダムが内外に一つになれば、神様は内的な神様であり、アダムは外的な神様になります。内にいる神様は内的な神様であり、外にいるアダムは外的な神様になるのです。

  

 神様は創造主でありながら、縦的な真の愛の父母です。真の愛を中心とした縦的な父母だというのです。そして完成したアダムとエバは、真の愛を中心とした横的な父母です。この二つの父母が一体になるのです。愛するその場所で縦横が一体になるのです。そこは愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮です。そこが男性と女性の生殖器です。そのようにすることによって、神様自体が神様の息子、娘を生むのです。

 皆さんは二つの父母から生まれました。その縦的な父母の相対的な立場に立ったものが良心です。そのような面から見るとき、良心は縦的な自分自身であり、肉身は横的な自分自身です。それでは、縦横が何によって一つになるのでしょうか。真の父母の愛、創造主の真の愛によってです。真の父母の愛、創造主の真の愛によって一つになれば、心と体は絶対に闘いません。

  

 神様が創造当時、理想として願われた真の愛、偉大な真の愛を中心として、人間との真の愛の関係を結んで一つになることのできる、このような神人愛一体の家庭を築いたならば、今日私たちは、天国だ、地獄だと心配することもなく、そのまま天国にみな入っていくようになるのです。ここで問題になることは、神様の真の愛と真の人間の真の愛が、主体的真の愛と相対的真の愛で一つになって一点から出発しなくては、神様の真の愛と人間の真の愛が異なった二つの愛の出発になってしまうので、二つの愛の方向と目的地になるということです。このようになる時は、神様と人間が願う絶対的理想世界は探し出すことができないのです。

  

 既成教会と統一教会が違うのは、統一教会は、愛を中心として神人一体を定着させるということです。既成神学では、神様は神聖なもので人間は俗なるもの、罪なるものとして定義しています。そうであるなら、神様の愛と人間の愛がどのようにして一つになることができるでしょうか。それは話にならないというのです。絶対的な神様は何でもできると考えているのが問題です。したがってキリスト教の行く所には、たくさんの血が流れてきました。神様の命令を名目に侵略し、奪取したのです。独裁者を出したのです。世界はそのようにはなりません。神様の本性から見るとき、そのようにはならないのです。


) なぜ結婚が重要なのか

(1) 結婚の目的は神様に似ること


 宇宙の根本がそうです。神様の完成も、やはり同じです。アダムとエバが二性性相になって縦的に一つになるのです。それで、神様を完成させて解放させるのが人間だというのです。また、人間を完成させて解放させるのが神様だというのです。離れることができません。その場で生きなければなりません。

  

 アダムとエバは、神様の二性性相がそのまま出てきたので、一つのふろしきから出てきたのと同じです。双子で生まれた兄と妹のようなものです。その兄妹の双子がおっぱいを片方ずつ分けて飲み、お互いに触って、母親のおっぱいを飲む愛を中心として考えるのです。すべて母の懐に抱かれて愛するのです。

  

 神様が二性性相に分立されるので、その本性がそのように分立されるのではないですか。男性は何ですか。男性は性相的な神様であり、女性は形象的な神様です。この二人が一つになり、分立されたもの一つになることによって、愛を中心として愛の軸が生じるのです。愛の軸は誰もタッチできません。神様も愛の軸の前に絶対服従するという論理がここから展開するのです。すべて理論的です。

  

 統一的基準の内容があるところとはどこでしょうか。垂直線です。人間が堕落していなければ、神様と人間はどこで会いますか。なぜ結婚するのですか。神様に会おうとするのです。神様の愛の前に接ぎ木をするためなのです。愛のために生まれたので、その愛は宇宙と同参して、神様のような愛の理想相対を探さなければならないのです。それは一人ではできません。神様が二性性相に分立したのです。

  

 なぜ結婚するのですか。神様の姿に似るためです。神様は二性性相でいらっしゃる方として、各々の一性が合体化した一律的な存在であられ、その神様の分性的人格自体が男性と女性なので、彼らが合性一体化して種のようになり、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。その種を連結させるためには、愛の道理の道を通らなければならないので、生まれるときも愛を受け、育つときも愛を目標として育ち、生きるにも愛を中心として生きて、逝くときも愛に帰るために逝かなければならないのです。その道は、「ため」に生きる目標を中心として訪ねていかなければ、方向がずれるという事実を皆さんは知らなければなりません。「ため」に生きて愛するという心を先頭に立てれば、いくらこっちに行くといっても、南極と北極の方向を探し当てるように正しく行くというのです。

  

 私が結婚をするのは、私だけのためではなく、相対のためでもあります。結婚が自分自身より相対のために行われるということはどういうことでしょうか。天地間のすべての道理が主体と対象で成り立っているように、男性と女性が結婚するのも天地間の道理です。

 男性が右側ならば女性は左側になりますが、それは、宇宙間の横的な関係をなすためであり、男性が主体ならば女性はその対象になりますが、それは、神様との縦的な上下関係をなすためなのです。したがって、結婚とは男性だけのためではなく、また女性だけのためでもない、天理の法度を合わせるためにするのです。それゆえに、男性と女性がお互いに異なる形を備えています。天理法度に合わせられるようにできているのです。

  

 なぜ結婚するのですか。神様を愛するためです。神様を愛して何をするのですか。神様の軸と一致するためです。一致して何をしようとするのですか。一致すればどのようになるのですか。なぜ一致しようとしますか。絶対的な神様の愛を中心として、永遠であられる愛を中心として、永生が展開するのです。それだけではありません。そのように接触したところから宇宙の相続権が伝授される、ということを知らなければなりません。愛を中心として造られた被造世界は神様のものですが、私のものとして相続権を与えられるのです。

  

 なぜ結婚するのですか。アダムとエバが自らの愛を求めていくためではありません。縦的な神様の愛を核として、その核を中心として、客体として一つのバランスをなすためなのです。それが理想です、

 神様の創造理想もそのような愛を中心として結びつくことであり、人間の男性と女性も成熟してそこで愛の結着点が展開して、生命が連結されるのです。ですから、生命によって連結されるのではありません。愛によって連結されるのです。縦的な父の愛と横的な夫婦の愛を中心として、本然の愛の種が初めて連結されるというのです。

  

 結婚とは何かといえば、創造理想完成の場です。神様の子女完成の場であり、兄弟完成の場であり、男性と女性の理想的完成の場です。男性と女性が理想の場で一つになることは、創造前にアダムとエバが二性性相の性相と形状でいたものが実体として一つになることです。

  

 神様の無形の二性性相がアダムとエバの実体として分かれたのですが、これが再び縦的に会うのが結婚式です。結婚して一つになる瞬間は、未完成の半分が完成する瞬間であり、完成品として合格する瞬間であり、相対の世界を抱く瞬間です。愛の力以外にはそのようにできるものがありません。それだけではなく、神様を占領するのです。結婚は、相対を占領して神様を占領するのです。それが正に結婚です。でたらめにするのではありません

  

 結婚とは何ですか。男性は女性の世界を占領しようというのです。女性の世界を知りません。また、女性は男性の世界を占領しようというのです。結婚する前は、女性は男性が神秘的です。男性には女性が神秘的なのです。同じです。結婚して神秘的な男性・女性世界をお互いに占領して二つとも備えることによって、神様の二性性相の主体の前に一つになる、その姿を備えるのです。このようにして神様と一つになるのです。

  

 男性は女性のために生まれて、女性は男性のために生まれたのです。結婚は何かというと、片側の身分が完成することです。男性半分、女性半分が一つになることであり、その次には神様を占領するためです。二性性相の男性と女性が二性性相になったので、愛で一つになることによって、正から分かれたものが合わさっていくのです。

  

 アダムとエバの結婚は誰の結婚かといえば、神様の結婚式です。愛の根、生命の根、血統の根、良心の根であるその根が、先に愛を体恤しなければならないのです。結婚するその場には、神様をお迎えしておいて夫を迎えなければなりません。神様の二性性相がアダムの心とエバの心に入っていかなければなりません。正から分立して入っていくのです。これで正分合になるのです。したがって、プラスとマイナスがすべて一つになるのです。

 結婚はなぜするのですか。神様の姿に似るためです。神様は、二性性相でいらっしゃる方として各一性が合体化した一体的な存在であられ、その神様の分性的な人格自体が男性と女性なので、彼らが合性一体化して種のようになり、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。結婚は、神様と一つになることができる位置に行くということです。

  

 結婚とは何ですか。男性を通じて愛を結ぶことによって、半品存在である女性が完品存在になることです。男性も同じです。結婚を通じて完成するのです。何によってですか。愛で一つになることによってです。ですから、男性と女性の生殖器は絶対に必要なのです。ですから、男性の生殖器は女性のためにできたのであり、女性の生殖器は男性のためにできたのです。自分のものではありません。

  

 結婚初夜の愛というのは偉大なものです。初愛です。皆さんが女性として生まれて一生保護してきた自分の体、その一身を男性に捧げるのです。

 男性もそうです。自分一身を備えて純潔な体を女性に一〇〇パーセント捧げるのです。そのためのものが男性としての結婚前の生活です。

  

 男性と女性が出会って愛が芽生えれば、絶対的に一つにならなければならないといいますか、絶対的に分立されなければならないといいますか。絶対的に一つにするとは、どうなることですか。男性と女性がキスすることですか。どこが一つになりますか。何のために結婚するのかと言えば、生殖器理想の完成のためです。結婚とは何かといえば、生殖器官の理想を満たすためのものが結婚だというのです。それは間違っていますか、合っていますか。俗的な結論のようですが、俗的な結論ではないというのです。俗的な人間の世の中で話すので俗的なのであって、神様の創造本然の世界では神聖なのです。神様が願われる至聖所はどこかというのです。愛が永遠に宿ることができるところが至聖所だというのです。そのとおりでしょう?

  

 女性が男性を訪ねていく時は、「神様よりもっと貴いものを訪ねていきます。一生を大切に装って貴く思い、何よりも貴いものをもってあなたを訪ねていきます。あなたを愛します」こうでなければなりません。そのように女性が男性を慕えば、生殖器が息をします。

  

 結婚して男女が初めて愛する瞬間、関係する時間は、子女の愛の完成なのです。兄弟の心情の完成場、夫婦の心情の完成場、未来の父母の心情の完成の出発点です。それで、女性の生殖器というのは愛の本宮です。愛の根源です。そこから愛が始まるのです。空中から始まるのではありません。何ですか。愛の本宮です。

  

 男性と女性が完成するのは何ですか。それが結婚生活です。男性と女性の凹凸、これを一つにするのです。何を中心として一つにするのかというのです。男性と女性の凹凸が何のためにそのようになったのかといえば、愛のためにそのようになりました。愛で一つにすることを知らなければなりません。人間のすべてを構造的に見るとき、この生殖器のように全体の核的な内容をもって生まれたものはありません。神様が創造されたなら、ここにすべての精力を込めてつくられたという話になることを知らなければなりません。

  

 結婚とは何かといえば、半分の男性と女性が生殖器を一つにすることによってお互いに完成するのです。男性は、女性の愛を中心として完成するのです。男性は女性を完成させ、女性は男性を完成させるのです。それは、真の愛を中心として完成させるのであり、真の生命の結合が展開するのです。真の愛で一つになるのです。愛が中心になって生命が活性化され、二つが一つになる位置がその場です。男性の血、女性の血が一つのるつぼで一つになることのできる位置がその場だというのです。その場から息子、娘が生まれます。その場は、息子、娘より貴いということを知らなければなりません。夫よりも、神様よりも貴いということを知らなければなりません。

  

 男性と女性がお互いに愛して抱擁する、それ自体が、宇宙が一体をなす場になります。神様の理想の中でなされる創造本然の姿は、そうです。

  

 福の中で最も貴い福は、神様の愛です。その次には、神様の創造の権限を引き継ぐことです。神様がアダムとエバを創造されたように、創造的権限を与えられるのが子女なのです。皆さんは、なぜ子女を愛するのでしょうか。神様の創造の業績を横的に実体圏で受け継いだのと同じなので、アダムとエバを造って神様が喜ばれた、その喜びを代わりに感じるためです。

 その次には、神様が天地万物を主管されたように、万物を主管するために私たちに主管権を賦与されました。したがって、結婚するその時間には、神様の愛を相続して、再創造の権限と主管権を完成圏に立って受け継ぐようになる、ということを皆さんは知らなければなりません。それゆえに、結婚式というものは、愛の顕現を意味すると同時に、創造権と主管権を賦与されることです。

  

 世間で盛んに行っている自由結婚は、サタンが人々を堕落させて神様の前に出ていけないようにするためにつくっておいたわななのです。そのわなに引っ掛かれば死に、サタンの支配を受けてえじきになるしかないのです。今日、西欧社会、特にアメリカは、自由結婚が盛んに行われることによって、真なる家庭を築くことができなくなっており、家庭生活に失敗した人々が日増しに多くなって、いくらもたたないうちに家庭をもたない人が多数を占めるようになるでしょう。

 そのようになれば、アメリカ社会は愛が干からびた社会になり、不信によって不安と恐怖が支配する地獄のような社会になるだろうと、自信をもって確言することができるのです。このような時点に立っている皆さんには、このような社会風潮を一掃して、アメリカ社会に愛が満ちあふれ、神様の願われる社会を建設しなければならない義務と使命が賦与されていることを知らなければなりません。

  

 私たち統一教会は、結婚観が違います。結婚というのは根本に帰るためのものです。


(2) 夫婦の愛と絶対性


 夫婦が、神様を愛して人類を愛する心の基台の上で爆発するようにお互いに愛するならば、その家庭によって神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになるのです。その愛は、神様のための愛であり、人類のための愛です。その愛の根は、自分にあるのではありません。神様が愛の根源であり、人類の愛が根源なのです。

  

 結婚したなら、既に平面的ではありません。平面的な基盤しかありませんが、高いものが低いものと連結される時には、垂直的概念が生じます。平面的な歴史は宇宙を収拾し、天宙を収拾することができません。垂直と水平が出会って九〇度をなす時、それは天を地にしても、地を天にしても、前を後ろにしても、後ろを前にしても、右弦左弦、上弦下弦、前弦後弦、どの面をくっつけてもぴったり合うのです。地上完成基準は、霊界のすべての完成へ続くのです。

  

 結婚して夫婦が真の愛をなす位置は、神様と人間の愛と生命と血統の根源である王宮の位置であり、理想のための地上天国・天上天国の出発地なのです。このような真の愛によって結実した子女が真の愛を中心とした夫婦一体を完成し、神様に侍って暮らす家庭となり、平和と理想の出発基地になるのであり、半分である男性と女性は、一体となって、神様の相対として神の理想愛を完成させるようになるのです。

  

 男性と女性が祝福を受けて、完全な愛を授け受けして喜びを享受する時、神様が地上に咲いた花のように御覧になるというのです。また、彼らの愛によってなされるすべての調和万象は、神様にとって良い香りと同じです。このような美しい香りの中で神様は暮らしてみたいと思って訪ねてこられるというのです。神様の愛が訪ねてくることのできる基台が、すなわち夫婦の愛の場です。その場は、万物と宇宙が和動する場になるはずです。

  

 男性と女性の生殖器の主人とは誰ですか。縦的な神様です。どこで神様の理想的愛と人間の理想的愛が一つになりますか。生殖器です。神様に出会うために結婚するのです。驚くべき話です。神様がほかにいるのではありません。その場に入っていくようになれば、神様が生きていらっしゃいます。三大主体思想がどこで結合して根を打ち込むのですか。愛です。神様の愛と人間の愛が生殖器を中心として…‥。結婚は、神様の縦的な愛に接ぎ木をするためのものです。

 曇った日に陰電気と陽電気が合わさって雷が鳴ったり稲光がするのは、宇宙結婚の象徴です。大声で叫ぶでしょう? はとも愛する時、大声で叫ぶでしょう? 皆さんも愛する時、大声で叫びますか。声が出てきそうなのに両親に聞こえるかもしれないと思って、ただもう死ぬほど心配でしょう。率直であるべきです。なにもそのようなことを隠す必要はありません。これからは、窓ガラスが一度にガッシャーンと音がするくらい叫んでも罪ではありません。雷鳴がとどろき、稲光がするかのように、火が出なければなりません。聖女に侍って生き、聖男に侍って生き、神様に侍って生きる境地に入っていかなければならないのです。そのような愛の世界があります。ですから僧侶たちには、いくら修行に励んでもその世界を知るすべがないのです。

  

 皆さんが夫婦関係をするのを神様が見ないと思いますか。公開的なのです。これは宇宙的に公開するのです。それを知らないということは大きな間違いです。皆さんの先祖がすべて見ているというのです。霊界でも、すぐ目の前に見えます。手のひらに立ってするかのように、すべて見えるのです。ですから、それを恥ずかしいと考えれば大きな間違いです。

  

 愛は永遠です。そのような愛は二つではなくて一つです。男性と女性の間が愛によって結ばれれば、地上で偕老(共に年を取ること)しなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることによって一体になるのです。二つの体が一つになれば、神様と回るようになって愛の四位基台を成し遂げるようになりますが、それが正に理想世界なのです。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛だけが臨在するようになるのです。

  

 理想的夫婦とは、どのような夫婦ですか。最高の芸術を実体として展開させることができる夫婦、最高の文学を展開させることができる夫婦なのです。最高の理想、最高の文化世界に接する前に、最高の愛によって夫婦が授け受けする、その甘い愛が世界最高の芸術作品にならなければならないのです。夫婦生活自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体にならなければならないのです。

  

 家庭を芸術化させなければなりません。おもしろい夫、芸術的な夫にならなければなりません。何かの雑誌などに良いものがあれば、さっととっておいて、寝ようとする夫人の前で素晴らしい声で読んであげるのです。感動して寝る妻の姿を夢に描けば、それが再現されるのです。霊界と連結するのです。それはどれほど素晴らしいことでしょうか。そのように暮らしたいですか。でなければ、そのまま野暮な夫婦同士で暮らしたいですか。素晴らしく生きたければ、素晴らしくなれる姿勢から、素晴らしくなれる方向をとらなければなりません。それが第一条件です。

  

 赤ん坊を生む位置は、神様の上弦世界を占領するのです。神様の位置に上がっていくことによって、子女を愛することで、神様が創造以降に人間をどれほど愛されたのか、その内縁を体恤させるのです。

  

 このように、夫婦が息子、娘を生んで父母の立場に上がっていくことで、神様の立場で神様が人間を創造される時、どれほど喜ばれたかを体恤するようになるのです。天地の大主体であられる神様のすべての権限を相続できる立場に入っていくことができる体恤的環境において、体恤的内容として伝授させてあげるのが息子、娘の生産です。息子、娘を生産して大切に育てて結婚させるまでが父母の責任です。神様がアダムとエバを育てて結婚させるはずでしたが、できなかったのです。アダムとエバも、息子、娘を生んで結婚させることができませんでした。この恨を解かなければなりません。これが教育の原論になるのです。結論は簡単です。

  

 夫婦が一つになって息子、娘を生むことによって永続することができます。それで、創造した創造主の位置に上がっていき、息子、娘を生んでみることによって、神様が創造された喜びを平面世界で感じることができるのです。それゆえに、自分の妻は、息子、娘と同じでなければなりません。息子、娘と兄弟の位置を合わせたものです。ですから、別れることができないというのです。愛はいい加減になっていません。息子、娘を生もうとするなら、このようなすべての伝統を踏まえて経ていったのちに息子、娘を生んでこそ、神様が本来創造理想として願われた本然的基準に到達するのです。それゆえに、家庭が天国基盤です。

  

 神様を中心として一つになる時、千態万状に回るようになるのです。したがって、兄弟間で愛するのも、父母が子女を愛するのを見習って兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛しながら一元化した家庭は、家庭愛が花開くことができます。これはまた、社会愛になることができます。これがさらには、民族を愛する民族愛になります。このように愛すれば世界になるのです。ところが、今日これが漠然としているというのです。

 神様は、真の愛の本体なので、真の愛と連結すればすべてが同じ体になります。父母は、神様を身代わりした生きている神様であり、夫と妻は、お互いがもう片方の神様であり、息子、娘はもう一人の小さな神様です。

 このように、三代が真の愛を中心として成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を築かなければ、天国を成すことはできないのです。家庭とは宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎になるために、家庭で愛して宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。このような場合、神様は、全体宇宙の父母として愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。

  

 平和の立て札、碑石を立てるのが、女性の節操と男性の志操です。そのようになれば、男性でも女性でも絶対に信じます。これが水平にならなければなりません。永遠に水平になるのです。そうなれば幸福でしょう? なぜですか。自分たちの宝物の中の宝物が何かといえば、半分のかけらだった女性が夫を占領することです。夫も占領しましたが、天地が半分のかけらだったものが一つになるのです。上弦の神様側に下弦の息子、娘が生まれるのです。上下関係が生じるのです。

 その次には夫婦関係です。これを中心として四方に広がっていきます。そのようにして、前後を中心として初めて家庭が定着するのです。前後関係は兄弟です。兄弟をもたないといけません。上下関係、左右関係、前後関係です。その器官を完全に定着させなければなりません。

 それゆえに、唯一私にあるものは何ですか。男性には妻一人しかいません。財産でも何でも、全部捨てるとしても、これは取り替えることができないのです。ただ一つの宝物は妻だというのです。


四、生殖器は最高の神秘、最大の関心事

 一) 生殖器は最も精誠を尽くしてつくったところ


 宇宙は、なぜペア・システムになっているのでしょうか。独りでになっているのでしょうか。今日、進化論もいいのですが、進化論に先立って広がっている事実は何でしょうか。男性と女性の生殖器、繁殖器官があります。そこに進化がありますか。進化があるなら、男性と女性の愛する方法が変わらなければなりません。昔の人と今日の人と、それが発展していなければならないないというのです。昆虫世界においても、虫が愛するそれが、昔と今日と変わらなければなりません。鳥もみな、変わらなければならないというのです。そのような内容を中心として論じることができるのです。生命の起源である愛の器官を中心として、その本拠地が進化的内容で発展するようになっていますか。それが、ただそのまままゆ毛が生えたり、勝手に涙が出てきたりしますか。狂ったことを言うなというのです。

 この宇宙の根本になる主人がいて、考えがなければなりません。私たちのこの体は、どれほど神秘的ですか。この体が理由もなくできましたか。生殖器がどれほど神秘的ですか。それは、想像できないほど神秘的なのに、それがただそうなっているのですか。生命が連結しているものは簡単ではないのです。

  

 男性と女性の生殖器の細胞が、物質世界が最高に願う希望の終着地だというのです。そこに行くことによって、神様の愛に接することができる高貴なものになるというのです。それゆえに、男性と女性の生殖器は、宇宙のすべての精髄の核が、細胞が作動し、集まっているというのです。その力は、宇宙を動かすことのできる力が通過する愛だというのです。したがって、愛する人のためには自分が犠牲になろうとするのです。

  

 生理的感覚の集結地が生殖器です。神様が創造される時、最も精誠を尽くされたところです。それゆえに、歴史を連結して、生命を再び創造する器官になっています。皆さんは何も知らずに夫婦関係をして、息子、娘を生みますが、そのようになっていません。そのようにすることができるように造られた神様は、全体の要素がそこに連結されるようにされたのです。それゆえに、それが活動するようになれば、生命の根本要素がすべてそこに連結して、発電所のように爆発するのです。それを愛というのです。

  

 結婚しましたか。新郎がいますか。恋しい時は、動物が発情する時に見ないでにおいをかいで自分の相対を訪ねていくのと同じように、皆さんにも、生理的な大革命が起こらなければなりません。堕落したために、その基準に至らないというのです。動物が愛する時、どのようにしますか。きょう、さっき映画を見たでしょう? 江原道の東江にいるオルムチという魚を見れば、魚たちは生殖器がありません。魚がこのような形をしているとすれば、ここにひもがあります。これが生殖器です。雌が発情すれば、そこに行ってこするのです。電気が通じて精液を放射するのです。本当に真の神秘です。水中でどのように卵をかえすのかというのです。そのように、みな愛するのです。  

 進化論から考えれば、男性と女性の性を誰が区別しましたか。アメーバがしたのですか。このダーウィン、こいつめ、私が胸ぐらをつかまえて、首根っこを押さえつけておかなくてはいけません。「男性と女性の生殖器の構造が、私たちの骨格の構造よりも何次元もさらに神秘的で複雑だということを知っているのか」と尋ねるとしたら、尹博士はどのように答えるつもりですか。さあ、どのように答えますか。骨格の構造よりももっと複雑なものが生殖器の構造であるという時、これは正しいですか。生殖器の構造がより複雑ですか。私はよく分かりません。もっと複雑なのが生殖器の構造です。


) 生殖器の主人がお互いに入れ替わった


 男性の宝物は、男性自身はもっていません。男性の宝物は女性がもっていて、女性の宝物は男性がもっているというのです。取り替えてもっているのです。女性のセクシュアル・オーガン(生殖器)は女性のものではありません。男性のものだということを知らなければなりません。自分のものではありません。男性も同じです。したがって、自分の思いどおりにできないのです。米国の女性たちは、自分がもっている生理的五官が自分のものだと思って自由に行動して、ありとあらゆることをします。男性たちもありとあらゆる行動をします。皆さんは管理人です。管理人が主人のように振る舞っているというのです。

 女性に尋ねますが、皆さんがいつ、その主人に出会いましたか。主人は夫です。また、男性は、男性のものが自分のものですか。それでは、結婚とは何でしょうか。お互いに主人を訪ね求めていくためのものが結婚だというのです。陰電気と陽電気とが飛び交って、雷を落とすのが愛です。それと同じだというのです。女性が結婚するのは、男性の顔よりも、それのためです。男性が結婚するのは女性の手ではなく、それのために結婚するのです。男性や女性同士で結婚する男性同性愛者や女性同性愛者など、そのようなものがどこにありますか。それはなくなるのです。百年も続かず、一代ですべて終わるのです。このように見る時、結婚をすべきですか、すべきではありませんか。結婚はなぜするのですか。このようになっているので、結婚をしなければならないのです。絶対に結婚しなければなりません。

  

 女性の生殖器は、自分のものではありません。男性のものです。夫のものです。今まで自分のものだと思っていました、自分のものではありません。女性には必要ありません。これを必要とするのは男性です。男性のものをもっている、ということを知らなければなりません。男性のものです。夫のものだというのです。夫のものなのに、自分のものだと思っているので、世の中の万事をよこしまにすべて破壊してしまうのです。男性がいなければ、それを何に使いますか。何に使うのかというのです。重要な問題です。今まで、それが分からなかったのです。

  

 男性の愛の主人は女性です。女性がもっています。女性の愛の主人は男性です。男性がもっています。男性たちはみな知っている話です。男性たちがぶらさげているのは誰のものですか。今までは、このことを知りませんでした。自分のものだと考えたのが罪です。女性がもっている生殖器を自分のものだと思ったことが、大きな罪です。

  

 男性は何をもっていて、女性は何をもっていますか。早く答えてみなさい。生殖器です! その男性の生殖器は男性に絶対必要ですか、女性に絶対必要ですか。どのように思いますか。この時間に私たちは明確に定めなければなりません。生殖器は女性のためにあるのです。人間の生殖器の一つは凹で、一つは凸ですが、何をしようとそのようになっているのですか。二つともとがらせたり、二つとも平らにしないで、それはなぜそのようなかたちをしているのですか。それを知らなかったのです。

  

 真の男性は変わってはなりません。真の女性は変わりません。真の愛を中心として、絶対的に変わらない男性と絶対的に変わらない女性をどこで探し出すのですか。そのような人々が出てきたとすれば、宇宙全体がその前にすべてひざまずくようになります。そのようになるのです。神様は知恵の王であられるために、男性の宝物は女性がすべて大事に保管するようにし、女性の宝物は男性がすべて大事に保管するようにしました。生殖器官がそうです。

  

 人間が生まれた目的とは何ですか。愛の道を訪ねていくためです。それで、男性と女性がもっている生殖器官は自分のものではありません。男性についているものは男性のものではありません。ところが、これを自分のものだと思っていました。女性についている生殖器官の主人は女性ではありません。その主人は男性です。そして、男性についている生殖器の主人は誰かといえば、女性だというのです。このように、愛の主人を取り換えて配置したという驚くべき事実を知らなければなりません。

  

 女性と男性で違うものが一つあります。それは何ですか。生殖器でしょう? 女性の生殖器が自分のものですか。結婚したのちには自分のものですか。夫のものです。また、夫にぶらさがっているものは何ですか。それは誰のものですか。女性の万年所有です。真の愛を中心として、絶対的な愛の所有権が決定されます。サタン世界で夫が浮気をし、刃物を持って自分でこれを切るといって大騒ぎをしても、妻が駄目だといって手で阻むことで、「切ることができなかった」となってこそ許しを受けます。そうでなければなりません。

  

 男性と女性を統一するには、キスすることによって統一されますか。お互いに抱擁することで統一されますか。完全統一は、男性と女性が主人をお互いに取り換えて、主人を取り戻してあげる結婚生活から統一が展開するのです。ですから、男性の陰部は誰のものですか。女性のものですか。あそこの男、一度答えてみてください。男性のものの主人は誰ですか。女性のものです。あの人もたくさん浮気しましたね。どろぼうです! 主人の許しをもらう前に、他人のものをつかって自分のもののように振る舞う人はどろぼうです。どろぼうは、万国において存続できないのです。

  

 男性がいるのは、男性の相対である女性のためにいるのです。それゆえに、神様は知恵の王なので、けんかして離れることがないようにするために、最も貴いものの主人をお互いに入れ替えて装着したのが男性の生殖器と女性の生殖器です。これが貴いのです。これが愛の至聖所です。モーセの契約の箱のために建てたのが至聖所だと言ったでしょう? これに触れば、雷に打たれるようになっています。一代、万代に滅亡が訪れてくるのです。その主人である祭司長は、唯一夫です。

  

 神様が創造される時、男性と女性をでたらめに造ったのではありません。生殖器を中心として造られました。なぜでしょうか。神様は愛の先祖であり、生命の起源であり、血統の起源であるからです。ここで男性が理想的愛を伝達するのです。女性の生殖器は男性のもので、男性の生殖器は女性のものです。自分が主人ではないのです。それを開くことができるのは自分ではありません。女性が自分のものを開くことはできません。男性のものを男性が開くことはできません。女性だけが男性のものを開くことができ、女性のものは男性が開くことができるのです。愛の焦点がそこに結実するのです。そうですか、そうではありませんか。言ってみてください。そうですか、そうではありませんか。

 男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。それゆえに、男性の生殖器と女性の生殖器は自分のものではありません。神様は知恵深い方です。主人がお互いに入れ替わっているのです。この男性たちは浮気するでしょう? この雷に打たれる者たち! 統一教会では絶対に許せません。

  

 女性のへこんでいる生殖器は誰のものですか。それが女性に必要ですか、男性に必要ですか。女性に絶対必要ですか、男性に絶対必要ですか。男性に絶対必要なのです。また男性のものは女性に絶対必要なのです。その鍵を誰がもっているのかといえば、女性のものは男性が、男性のものは女性がもっています。それゆえに、それを開くことができる人は、ただ一人です。真の愛は一つなので、一つの真の愛を主管することができる人は、真の男性であり、真の女性だというのです。

  

 女性の生殖器は、誰が主人ですか。男性です。男性のものは女性に必要であり、女性のものは男性に必要になっています。そのように相対的になっています。主体が交差するのです。

  

 愛は絶対的であることを願うというのです。絶対というのは一つです。二つではありません。絶対的だというのは永遠に一つだという意味です。愛のパートナーは、一人の男性と一人の女性だけを許容するというのです。それゆえに、神様がアダムとエバを一人ずつ造られたのです。それをどのようにして否定することができますか。誰もそれを変えることはできません。

  

 女性のおっぱいは誰のためにあるのですか。自分自身のためのものですか。息子、娘のためのものです。自分自身のためのものではありません。ヒップが大きいのも誰のためですか。それも息子、娘のためです。そのおっぱいの主人は息子、娘です。生殖器はどうですか。相対のためのものです。なぜですか。相対のためにすべてのものが地上に現れるのです。女性の生殖器は誰のものですか。夫のものです。誰が主人ですか。夫が主人であって、女性が主人ではありません。男性のそれは誰が主人ですか。女性が主人です。神様は素晴らしい方です。主人をお互いに入れ替えて、どこにも逃げられないようにしておいたのです。

  

 女性のその顔は、自分のものではありません。夫が好む顔です。女性のものはありません。自分の正面の下にある生殖器は自分のものではありません。夫のものです。女性は、自分のために造られたものが一つもありません。夫と息子、娘のためのものしかありません。その道を行くのです。二つの世界を一人で抱くことができるのです。手を取り合わせなければなりません。縦横の地上世界を抱くことができる、そのような愛の器になることができるのが女性です。

  

 女性の体を見れば、胸とおしりは赤ん坊のために、顔とその隠すものは夫のために生まれたというのです。上下左右がすべてそうです。自分のものは一つもありません。その主人は誰ですか。何の主人ですか。女性の生殖器の主人をいうのです。それは自分のものではありません。男性のものです。男性のものを自分勝手にできないというのです。これだけ知っていても、世の中はこのようにみだらになりません。フリーセックスがどこにありますか。ホモがどこにいますか。他人のものを自分の思いどおりに使うのはどろぼうではないですか。どろぼうたちは地獄に行けば、逆さまに差し込まれます。

  

 きょう、ここに十カ国以上の大統領が来ていますが、その国の放送を通じて、これを通告してみてください。男性が男性のために生殖器をもったのか、女性のためにもったのかと尋ねてみてください。それが自分のものだという人は、どろぼうです。自分のものだと考える盗賊だというのです。笑うことではありません。歴史的な宣言です。このように生きれば、平和の世界が目の前に来ます。神様のみ旨の中の重要なみ旨が愛のみ旨です。この愛のみ旨を人間の前に伝授してあげるために、最も貴重な器官をつくられた、それが生殖器ですが、男性の生殖器は女性のものであり、女性の生殖器は男性のものなのです! アーメン! 「そうではない」と言いますか。それが間違っていると思いますか。

  

 男性と女性の生殖器官は、神様の愛を所有することができる極です。プラス極とマイナス極です。電池の充電点です。これがなければ、神様の愛が充電できません。人間のその器官を通じて愛を満たそうとすれば、人間は毎日のように愛を満たすことができます。しかし、動物はそれができません。一年に一度だけです。

  

 アメリカの家族制度は、いくらおじいさん、おばあさんがいても、孫の家に思いのままに訪問することができません。訪問したければ、先に電話をしなければなりません。そのような手順を踏んでから行くことができるというのです。考えてみてください。愛する間柄でも「今夜、愛しましょう」と許しを受けますか。妻であれ、夫であれ、「私たち愛しましょう」と言えば、いつでもOKしなければなりません。これが夫婦の道理なのです。そうです。「私は疲れています。嫌です」と答えることはできないというのです。自分の器官は自分のものではありません。女性の生殖器の主人は男性であり、男性の生殖器は女性が主人です。誰がそれを否定することができますか。

  

 女性たち、そのように胸が大きいのは、自分のために大きいのですか。ヒップが大きいのは、自分のためですか。自分のものは一つもありません。女性がもっているすべてのものは、自分のものではありません。「ため」にあるのです。子供のために、夫のためにあるのです。すべての生理生殖器官は自分のものではありません。男性のものの主人は誰ですか。主人は女性です。誰が鍵をもっているかといえば、夫人がもっているというのです。これを間違って使うことによって天罰を受けるのです。ソドムとゴモラがなぜ滅亡しましたか。アメリカがなぜ滅びるのですか。麻薬と淫乱を通して滅びるのです。

  

 男性が男性になり、女性が女性になるようにするものが何か分からなかったというのです。それが正に生殖器です。それを嫌う人がいますか。好きだというなら、どれほど好きですか。今まではそれが良くないものだと思っていたとしても、これからは貴く思わなければなりません。未来の世界はどのような世界でしょうか。生殖器を絶対的に貴く思う世界になるならば、その世界は良い世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。冗談ではありません。神様が人間を創造される時、最も大切に精誠を尽くして造られたところがどこでしょうか。目ですか。鼻ですか。心臓でしょうか。でなければ頭脳でしょうか。これらはすべて死んでなくなります。事実がそうではないですか。「世界平和家庭連合」の目的は何でしょうか。道徳と宗教等、あらゆる分野を完全に超越して、生殖器が一つになって神様までも拍手で歓迎できる人が生きる世界があれば、どのような世の中になるでしょうか。

 男性と女性が生まれる時、彼らの生殖器の主人は誰ですか。夫の生殖器の主人は妻であり、妻のものの主人は夫です。生殖器の主人がお互いに入れ替わっていることを知りませんでした。簡単な真理です。これを否定できないというのです。千年、万年、歴史がいくら流れても、この真理は変わりません。

  

 地上世界で神様の愛が宿るところはどこでしょうか。男性と女性の生殖器だということを知らなければなりません。堕落していない本然の愛、これが、至聖所だったということを知らなければなりません。堕落したために、最も貴い天国の皇子の系統を受け継ぐべきこのような王宮が、神様の怨讐であるサタンの一族の血統を受け継いだ、という驚くべき事実を知らなかったのです。

  

 男性と女性が愛することができる生殖器なのです。ところが、神様は、知恵があるので、この愛の器官を入れ替えておきました。離れようとしても離れることがないようにするためです。離れたとしても、再び戻ってきてそれを探さない限り、どこにも行く所がないというのです。どこかに行って安息する所がないというのです。それをもっていってこそ、天下のどこに行ってもみな和合して、歓迎するようになっています。


) 真の愛は汚いものも消化


 皆さん、神様が最も重要視して、最も精誠を尽くしてつくられたところがどこか知っていますか。生殖器です。生殖器は生殖する機械ではありません。それが最も貴いものなのに、最も汚いものとくっついています。それを知っていますか。小便の穴は、同じですか、違いますか。場所は同じです。男性も女性も同じです。なぜ、そのようにつくりましたか。いくら良い種でも、肥やしをかぶせて植えてこそよく育ちます。貴いものであるほど、良い肥やしをたくさん継続的に与えてあげなくてはならないというのです。

 人は継続的に育っています。神様を占領するように育ち続けているのに、肥やしも一生の間、共に降り注いでいます。それが汚いですか、有り難いですか。それを考えれば、すごいことでしょう? それがなぜ、そこにくっついているのかというのです。毎朝、生殖器はそのにおいを必ずかがなければならず、小便をしてそこに毎日のように水をまかなければならないというのですから、これはどういうことでしょうか。天地の道理がそうです。

  

 じっと考えてみれば、宝物は天国にあるものだと思っていました。ところが、気がついてみると、自分の体にもって歩いているものだったというのです。本宮がそこだということを知ったからです。神様に侍ることができる本宮は、愛ではないですか。愛の真の壺がどこにありますか。指にありますか。どこですか。男性の何ですか。女性の何ですか。男性の生殖器、女性の生殖器ですが、そこと同じところに最も悪いものがあります。小便がどこから出てきますか。生殖器から出てきます。女性も同じであり、男性も同じです。そのように出てくる汚い小便が愛と和するようになる時、汚いものになるでしょうか、きれいなものになるでしょうか。それでは、小便を真の愛にひたして冷茶を飲むように飲むならば、どれほど素晴らしいでしょうか。

  

 愛は調和も多いのです。においも、悪いものでも香水だと思わせます。ですから、愛には汚いものがありません。それゆえに、神様は真の知恵の王です。私たちの生殖器のようなものも、最も汚いところの近くにあります。これが和合する調和だと宣布して、配置したのが男性と女性の生殖器です。最も良くない、汚い部分に装置したのです。

  

 皆さん、男性と女性の生殖器がどこにありますか。そこは最も安全地域、最も安全地であると同時に、最も汚いところです。それを見れば、神様は真の知恵の王です。人間世界に、「愛はそのような汚いものも支配するのだ」ということを教えてくれているのです。肛門に近い位置にあります。小便が出てくる道と、もう一つの道と全く同じです。

  

 関係する時、男性の生殖器が入ってくることを願うでしょう? それは、考えればどれほど汚いですか。神聖な穴と汚い穴が一緒にあるというのです。そうではありませんか。汚くてにおいがする同じ場所で、永遠の生命が芽生えるのです。これは明確な概念です。いつでもトイレに行けば、それを考えなければなりません。お父様のみ言を考えて、「真の愛と連結された神聖なところだ。すべてのものが神聖だ」と思わなければならないのです。いつも忘れずに覚えていなければなりません。

  

 最も貴い生殖器が汚いところに連結されています。おしっこがどこから出てきますか。誰もこのように重要なことを一度も考えてみたことがありません。そのようなことを知らなければ完成は不可能です。春に種を蒔く時、その種を水で洗いますか、肥やしで覆いますか。肥やしで覆います。汚くてにおいがする肥料で覆います。地に埋めて踏むというのです。

  

 生殖器と小便や大便をするところとは、最も遠いですか、最も近いですか。偉大な人は、汚いところに行って尊敬されなければなりません。生命の場には肥やしが必要です。きれいなところはありません。砂浜にはないというのです。男性は、においがぷうーんと、何と言うのでしょうか。みそ汁の味がしなければなりません。女性は清潔でもかまいませんが、男性は少し不潔でなければなりません。出掛けて帰ってくれば、足のにおいがぷうーんとしなければなりません。あまりにも清潔だったら、はえも来ません。はえさえも訪問しません。そこにありの子がくっつきますか、何か鳥の子がくっつきますか。

  

 結婚とは何ですか。生殖器を合わせるための運動ではないですか。そうですか、そうではありませんか。これは下品な話ではありません、神聖な話です。人間の最も高貴なものが生殖器です。そこから生命が引き継がれ、理想が引き継がれるのです。限りなく貴いものなのに、便所に近いところにあります。男性と女性の生殖器は、毎日のように便座に座る時、どうなりますか。肛門だけが座るのですか。すべてが座るのでしょう? 私は男性ですから、女性のことは分かりませんね。女性もすべてが座りますか。答えてみなさい。

  

 人間にとって最も貴いものとは何だと言いましたか。生殖器です。生殖器は最も神聖なものでありながらも、生殖器に最も近いものが最も汚いものでもあります。男性の生殖器からは小便も出てきます。それは、なぜそうなのでしょうか。それが宇宙の神秘です。また女性の生殖器から最も近いものが何ですか。肛門があります。それは毎朝使用するでしょう? 小便もそうです。でも、おかしなところにあると考えてはいけません。それを讒訴する言葉を聞いたことがありますか。何も言わず、何でもないというのです。霊界に行けば高い位置に行きたいと思うのと同じように、最も卑しい所へも行って住みたいと思わなければなりません。

  

 女性の生殖器から何が出てきますか。生命が出てきて、その次に、何が出てきますか。小便が出てきます。糞のいとこです。私もそれが不思議なのです。全く、それがなぜ好きなのですか。おじいさんとおばあさんも、神様もそれをつかまえることができなかったと嘆息しています。気がついてみると、そうだというのです。あぜんとします。それが何だというのですか。

  

 愛は人間にとって貴いものです。人間の愛が貴いものなのに、その貴い愛の器官の前に、最も嫌っているのに近くにあるものとは何ですか。それは何ですか。小便をどこでしますか。女性も男性も、それが生殖器と連結していますか、していませんか。気分が悪くありませんか。

  

 最も良いものは何ですか,指が良いですか、頭が良いですか。何が良いのですか。男性にとって何が良いのですか。男性と女性において最も責いものとは、どこですか。生殖器ではないですか。どれほど貴くて、サムサルバン(三つの災いが重なった不吉な方向)の侵犯を受けず、保護するようにきちんとつくっておいたのでしょうか。通るたびにこれに触れるようになれば大変なことになるので、さっと保護してあげるのです。男性と女性、みなそうです。私が神様でも、ほかには取り付けるところがありません。それをつくって組み立てる時、これをどこにもっていって取り付けたでしょうか。ここにつけますか。ここにしておいたら、男性と女性が二人で歩く時、どうなりますか。


) 生殖器を中心に縦横のバランスをとらせなければならない


 建築する人たちは、三角定規一つで、すべて設計するでしょう? さっさっさっとすべて設計するでしょう? それと同じです。人を見てみれば、重要なものがどこにあるでしょうか。真ん中の垂直線形態に沿ってあるものが一番重要です。それが何ですか。生理的体の形態、この体においてそれは何ですか。鼻です。鼻をふさいでみてください。この鼻を通じて、生命の要素が通るのです。それからどこに下りていきますか。へそに下りていって、どこに行きますか。生殖器です。女性の生殖器は逆さまになっていますか。横的になっていますか。私には分かりません。女性がよく知っているでしょう。男性の生殖器は縦的になっていますか。それを知らなければなりません。縦的な基準を備えたすべてのものは神聖だというのです。生命の問題と直結されているのです。

  

 皆さんの顔で、この水平(口の線)とこの垂直(鼻の線)がまっすぐな人々は、良心が正しいのです。これが九〇度になる人々は、良心が正しいのです。一番重要なところです。へそが左によってもいけなくて、ぴたっとセンターラインになって、あごまでこのようになり、唇がここにありますが、この鼻がこのようになって、血管があるところまでこのようになっている人は、出世する人です。これが、おしりともぴたっと合わなければなりません。このようにして腰も九〇度、おしりも九〇度が合わなければなりません。このように考えるのです。

  

 目は横的になっていて、鼻は縦的になっているでしょう? この縦的な鼻を通じて口と食道を通じ、胃腸まで縦的に通じるのです。縦と横が調和をなさなければなりません。縦的な口や横的な目がゆがんでいたりすれば、既に人の性格が変わるのです。男性と女性の生殖器も、縦的な面に拍子を合わせているのです。男性たちの生殖器は縦的なものと横的なもの、二つがついているのです。それが宇宙を代表するのです。それゆえに、生命の種は男性から、生命の根源は男性から出てくるのです。米国の女性がいくら誇っても、赤ん坊の種はもてないでしょう? いくら有名な米国の女性だとしても、赤ん坊の種をもつことはできません。

  

 皆さん、このように垂直にまっすぐにして、これがどこに通じるのですか。生殖器と通じるのです。それが垂直の通過点です。それゆえに、神様の希望の場所です。体は、ここに九〇度で一つにならなければなりません。今まで人間は、心と体が正しくありませんでした。心は垂直的私です。体は水平的私です。どこからですか。垂直的父母、水平的父母、垂直的父母と水平的父母が一緒に私をつくったのです。彼らから真の愛、真の生命、さらには真の血統を受け継ぐようになったのです。自分がそのようになっているのです。真の愛で一つになって生まれたのが私です。私は宇宙の中心であり、愛を代表した存在だというのです。水平的愛と垂直的愛が合わさって一つとなった真の愛の中心存在です。それが正に私なのです。

  

 人は、縦的なことを考えるので立っています。頭がここにあり、生殖器が中心です。皆さんが脱いで鏡を見れば、男性たちは下の生殖器まで毛が生えているのですぐに分かります。これがゆがんではいけません。女性もおっぱいがありますが、これがすーっと合わなければなりません。おしりが大きくてもいけなくて、すべてが合わなければなりません。ああ、笑うことはありません。このようなことに感動することができなければなりません。

 なぜ私たちの体は相対的になっているのですか。焦点を合わせるためにそのようになっているのです。耳も目も、すべて焦点を合わせるのです。また、口も神経を中心に焦点を合わせているのです。そして、これが真ん中から下には、へそと生殖器が直線になっているというのです。それを恥ずかしく思うのは間違いです。

  

 目の焦点も中心を中心として一直線上にあります。これとこれが合っているでしょう? へそから生殖器まで、ぴったり合わなければなりません。それで、二つをくっつけました。それゆえに、共鳴するのです。なぜ、そこにくっつけたかといえば、共鳴しなければならないからです。共鳴してこそ意識をするのです。

  

 唇も焦点が合わなければならず、手と手も合わなければなりません。これがずれれば事故が起きます。口がいくら大きくても、すっと突き出て鼻筋と合い、へその緒と合い、あの下の重要な生殖器と合わなければなりません。鏡を見て、自分自体が合っているかを見て、私はどのように生きるべきかということもすべて知らなければなりません。子供の時から、こうなっているからこのようなことに注意すべきだ、と教育しなければなりません。それを教育できる教材がありません。そのような話をすれば、きりがありません。

  

 目を見る時、目がただあるのではありません。垂直に沿ってあるのです。人の目がゆがめば良くありません。垂直にならなければなりません。鼻は、アダムとエバを象徴します。目は神様の象徴です。歯は万物を象徴します。三十二本の歯は、四掛ける八で三十二(4×8=32)、すべて万物世界の表示的象徴です。このような視覚的なすべてのものが、どこに行って実を結ぶのかというと、頭ではありません。生殖器です。様々な神経の王宮が生殖器です。それは生理学を研究すれば分かります。

  

 男性は、なぜそれがとがっているのですか。女性も突き出るようになります。それは、山脈が途絶えるような形になっています。明堂地(ミョンダンチ:風水で墓地として使うのに非常に良いとされる所)はそうでなければなりません。左の青龍、右の白虎という言葉もすべてそのように展開されるのです。それゆえに、愛のひもを通じて父母の愛から連結され、愛の生殖器と共に垂直にならなければならないのです。

  

 すべてのものは球形に似ています。すべてのものは運動をしなければなりません。体の中で、人間の中で最も球形に似ているのが顔です。顔の中で最も球形に似ているのは目です。それから、男性においては生殖器の周囲にあるものです。私がそのことまで話をしなかったので、話さなくてもよいのです。それから、体の中に入っていって何がありますか。腎臓、それから膀胱、それはすべて重要な器官です。そのようなことを考えてみましたか。

  

 すべて種が流れ、これが結実できる、それが生殖器です。そこにすべて集まるようになっています。悪いもの、良いものがそこにすべて集まるようになっています。ですから、これを正しく使えば良い人になり、使えなければ最も悪い人になります。

 鼻先とこれが合わない人は、良心的な人になれません。これは常識的に知っておかなければならない問題です。これがへそを通って生殖器まで、ずーっと直線にならなければなりません。男性たちを見れば、毛があります。女性は毛がないでしょう? 女性たちの胸に毛がありますか。男性の毛はこのように二つの側がつながっているのです。それも主体と対象です。二つが一つにならなければなりません。

  

 鼻先と中央がすべて合わなければならず、へそと生殖器とすべて中心が合わなければなりません。それがゆがんでいれば、その人は星回りが悪いのです。人生は平坦ではありません。人をぱっと見れば、これを合わせてみて、目が平等になっているかをすべて見るのです。肩からすべてのものがどのようになっているかを見るのです。歩く時、このように歩く人はみな良くありません。ここに数百人が集まっていますが、この人たちの歩き方は、同じではありません。すべて違います。自分の性格を表すのです。ある人は、このように歩く人もいます。そのような人々は、すべて変えなければなりません。いつも定着することができないのです。

  

 頭が立っているのを見れば、まっすぐではないですか。ずーっとまっすぐです。人の重要な部分は頭と生殖器です。ここから直接下りてくるのです。ここで分かれました。頭で考えるすべてのことは、夫は妻を考え、妻は夫を考えます。愛を中心として考えますが、それが生殖器、そこで一つになるのです。

  

 おっぱいが一つになっていますか、垂直になっていますか。へそは中央にあるのですが、円形のへそになっていますか。その次に、これが生殖器までずーっと連結されているのです。水が流れればどこに行きますか。低い所を通ってどこに行くのですか。座って仕事をする時、一番たくさんぬれるのが下部の中央です。汗が途方もなくたくさん出ます。それで、毛がたくさんはえているのです。ここはみなそうでしょう? 水がそこにすべて集まるというのです。

  

 鼻が良い形であれば、金持ちになります。それが分かりますか。さっと見る時、あてはまらなければなりません。ここがすべて生殖器まで、へそまで線が合わなければなりません。これがずれれば相対が揺れます。結婚する時は、丸裸になってへそを合わせてみて、胸を合わせてみて、すべていったんぴったり合えば、夫婦間が理想的になるのです。生殖器もゆがんだ人がいるというのです。女性もどちらか片方に偏って、垂直にならなければ遊び人になるのです。未亡人になって死ぬようになるのです。創造の原則がすべてそうです。

  

 人体で最も貴いものが目です。目が最も貴いのです。それから心臓です。心臓も丸いのです。また、女性は子宮が丸いのです。男性は何ですか。男性の生殖器も丸くなっているでしょう? 丸いものは貴いものです。女性たちは骨ばっていません。肉体が丸いので、美術家たちは女性の裸体を描くのが好きなのです。

  

 顔を中心として、へそから生殖器まで、ぴったり合わなければなりません。一度、自分の体を病院に行って調べてみてください。そして、歩く時は、ぴたっと中央に伝達される重さが同じなので、くつ底が一定に擦り減らなければなりません。そうです、くつを見てゆがんでいる人は間違っています。正しい人は道人になるのです。そのようなことを考えてもみなかったでしょう?

  

 人の人相を見ようと思うなら、ここからどのように下りてくるかを見るのです。これがずーっと生殖器とぴたりと垂直になってこそ、良心的な人です。それがずれれば困るというのです。胸が片方に寄っていても駄目で、へそが寄っていても良くないというのです。きょう、そのような話を聞いて帰って、夕方鏡を見て、「私はこのようになっているからこうしなければならない」と言って引っ張るかもしれませんね。そのような運動はしなくてもかまいません。

  

 座るのも、まっすぐに座らなければなりません。歩くのも、まっすぐに歩かなければなりません。歩くのを見れば、ありとあらゆる人がたくさんいます。何千人がいたとしても、みな歩く姿が違います。それで、歩く時は、いつでもこのてっぺんとここ、生殖器をぴたっと垂直に合わせて歩かなければならないのです。縦的なものを中心として、すべての器官が動かなければなりません。そうすれば、神様がそれを見て、「やあ! 男性と女性が私の願ったとおりに歩いているなあ」と関心をもち、霊界が関心をもつのです。

  

 人を見る時、頭からすーっと下りてくれば、鼻があるでしょう? その鼻を過ぎて、唇を過ぎて、へそと生殖器に通じるのです。この縦的な線を中心として、目ですべてどのようになっているか、横的によく合わさっているかということを見るのです。耳も見て、肩も見て、歩くのも正しいか、すべて見るのです。それゆえに、歩くのもいい加減に歩いてはいけません。歩く姿は、その人の一生を象徴するのです。

  

 人間について考えてみるとき、人間の体の中で最も貴いものは何ですか。円形によく似たものが貴いのです。そのように見るとき、人の目と心臓、その次には、男性の生殖器です。男性の生殖器には、目のようなものが二つあります。男性にはありますが、女性にはそのようなものがありません。貴いものです。目が本当に貴いでしょう? 目は神様を象徴するのです。心臓は生命を象徴するものであり、生殖器は愛を象徴するものです。頭は神様を中心とした監視器官です。

  

 座って、ぴたっと広げて、このように力を入れるのです。空気を吸い込んで、目の玉が飛び出るように力を入れるのです。こうすれば、疲れがすべて吹き飛びます。ふさがっていた鼻の穴がすべて開くのです。これを一日に四回するのです。四回以上はしません。簡単でしょう? トイレに行ってするのです。トイレに行ってあとを見なければならないでしょう? あとを見る時、力を入れるのが呼吸です。それに合わせて、血管と共にすべてのものを授受作用させるのです。そうすれば、女性は生殖器が飛び出してきそうな気分になります。肛門が出てきそうな気分になるのです。鼻をぴたっとつまんで「フン!」とすれば、ぽんと飛び出てくるのです。一日に四回ずつ、してみてください。


) 愛は学んで知るものではない


 愛の表示を教えてくれないものはないというのです。動物を見ても、よく見えない昆虫のようなもの、手でつかまえればぴたっとくっついて消えそうなほど小さいものも、そこに目があり五官があります。ありますか。見たのですか。何を見たというのですか。このようなことを考える時、なければならないというのです。それにも生殖器がありますか、ありませんか。雄と雌がいるというのです。その雄と雌が何をもって一つになりますか。焦点が何ですか。愛でしょう? それは否定できないのです。

  

 教育は必要ありません。フリーセックスだの、性教育だのと言っていますが、この狂った者たち、やめなさいというのです。動物世界で性教育をしますか。そばにさえ行けば、自動的に合わせます。あるものは生殖器が羽の付け根の中にあるのですが、かかとでそれに合わせます。自然に合うようになっています。磁石が南北に通じるのは、「合わせろ」と言うから合うのですか、自動的に合うのですか。自動的に合うのです。神様の愛があり、真の愛に一致することができる心と体になれば、ほっておいても、自分で東西南北の方向を正しく探し当て、自動的に行って合わせるというのです。

 動物たちが愛する時、どのように生殖器を合わせますか。体よりも大きいのが生殖器ですか、小さいのが生殖器ですか。小さくても、体を引っ張っていって合わせるというのです。愛のために引かれていくのです。それは、強制的に引かれていくのですか、好きで引かれていくのですか。好きで引かれていくのです。自動的に天国に入っていくようになっているのです。

  

 すべての動物たちの雄、雌の生殖器は、羽の付け根にあったり、ありとあらゆるところにあるのですが、それをどのようにして合わせますか。教育が必要ですか。合わせるための教育が必要ですか。教育を受けなくても、擦り合わせているうちに、すべて合うようになっています。それを教育するといって性教育するのですが、それはサタンがつくったものです。教育は必要ありません。

  

 最近では、病原菌までもが夫婦で相対になっているといいます。顕微鏡で三百万倍に拡大して見るのですが、その雄の中にも目があるでしょうか、ないでしょうか。鼻は? 耳は? 口は? 生殖器は? そのような小さなものも、生殖器を合わせることができますか。いったい誰が教えてあげたのですか。皆さんが嫁に行く時、「おいおい、生殖器はこのように合わせなさい!」と心配しながら嫁がせる父母がいますか。自然に動かせば合わさるようになっています。自然合徳です。強制合徳ではありません。人は和合して和動が展開されるのです。一つになるのです。

  

 神様は、男性と女性の生殖器をなぜそのようにつくられたのでしょうか。天地がすべてその教材です。動物たちは、どのように愛するのかを見せてくれる愛の教材です。動物の中には人間が尊敬すべき動物が多いのです。

 学校に行ってみれば、最近は先生と学生とが闘うでしょう? それは「ため」に生きる愛を知らないからです。天理の根本を教えてあげることができませんでした。より「ため」に生きる人が偉大な愛を占領することができるのです。愛には相続権があり、同参権、同居権があるのです。愛はそうでしょう? 愛する妻の前に金の塊を置いておいて、「それは私のものだ」と言い、体だけゆだねてあげながら、「あなたが好むのは愛なので、私の生殖器だけを受けなさい」と言うのですか。それが愛ですか。そうではありません。万物を捧げ、息子、娘をすべて捧げて、自分の体、自分自身まですべて捧げようとするのが愛です。


五、生殖器を通して天国と地獄が分かれる


 生殖器が貴い生殖器になる時、天国に連結されることができるのです。間違いありません。小学校からそのような重要性を教えなければなりません。男性と女性が追求する目的は、愛の生殖器だというのです。凹と凸にできているのは愛のためだというのです。それは事実ですか。なぜ、この生殖器が異なっているのですか。愛のためです。どのような愛のためですか。真の愛のためだというのです。永遠の愛、不変の神様の愛のためにあるのです。

  

 生殖器が地獄と天国に分けてしまった、ということを知らなければなりません。これを間違って使えば地獄と連結し、正しく使えば自然に天国に至るのです。出発地は一つであって、二つではありません。愛の行為がどれほど重要かというのです。もう、皆さんも分かりましたね? はっきり分かりましたか。すべての女性と男性たちが家へ帰って、「今、真理が分かった。今から実践してみよう! これが、私たち家庭の希望の本拠地だ」と言うことができるようになれば、すべての解放が展開されるのです。結論は、宇宙的宣布と共に私たちは宇宙的宣布の内容を知って、生殖器を保護しなければならないということです。母が、エバが堕落しました。その次にカインが滅ぼしました。破壊しました。アベルがそれを助けて滅びました。それで、統一教会では、母の世界団体をつくったのです。

  

 地獄と天国がどこから出発したのか、それを考えてみてください。どこから出発しましたか。空中ですか。どこですか。生殖器です。深刻でなければなりません。ここが天地をひっくり返して打ち込みました。それを否定することができますか。レバレンド・ムーンの「原理」の本にある堕落論理を否定する道はありません。神様に尋ねてみてください。みな調べてみてください。そのような答えをもらえずに、自分たちは夢でも、聞くことも、知ることもできなかったことを、レバレンド・ムーンが理論的体系をつくっておいたので、反対する道、反対する道理がないのです。

  

 最も恐ろしい地獄に行くこととは何ですか。天理で決めた生殖器の反対の道を行けば地獄へ直行であり、これと反対に、正当な神様の絶対愛の道を行けば天国の高い所に行くというのです。すっきりとした結論です。

  

 堕落することによって、男女の生殖器がこのよこしまな死亡の波、死亡の法、滅亡の地獄を開門させた本宮になり、天道を破綻させた魔物になったがゆえに悪いものになりました。これが、今まで歴史に隠された秘密でした。

  

 生殖器が解放されなければならないというのです。それで、今フリーセックスの反対になるものが絶対セックスです。絶対セックス、唯一セックス、不変セックス、永遠セックスです。その四つのコンセプトがどれほど誇らしく、貴いでしょうか! その二人がただそのままでいれば、どのような変化もあり得ません。これが真の愛の根です。ここから真の愛が出発するのです。

  

 今、サタン世界では完全に生殖器がすべて壊れてしまいました。フリーセックス、レズビアン、麻薬がはびこっています。麻薬は精神を失わせるのです。人ではなく、動物と同じにさせるのです。動物のような考えしかできないのです。しかし、天国はこれと一八〇度正反対です。フリーセックスではなく、絶対愛のコンセプトなのです。永遠の愛のコンセプトなのです。不変、唯一の愛のコンセプトです。これは、一気に天国に連結されます。地上でそのような基盤を築けば、地上天国になるのです。否定できない理論的な結論です。皆さんの愛の基盤に気をつけなければなりません。

  

 生殖器を誤って使いました。それを革命しなければなりません。ですから父母です。母を立てて女性を動員するのです。「女性連合」を動員して、母の位置の定着です。そこに再臨主が来るのではないですか。メシヤは何をもってきますか。絶対セックスをもってくるのです。絶対、唯一、不変、永遠のセックス完成のために来るのです。

  

 女性は男性の体を見る時、目を見ますか、どこを見ますか。手を見ますか、どこを見ますか。男性を見る時、どこを見るかというのです。目ですか。その次はどこですか。顔、その次はどこですか。下りていってすべての五官がとどまる場所とはどこですか。どの器官が最も悪いものですか。歴史を通じて、生殖器が最も悪いものになりました。それを考えてみてください。地獄が出発したポイントと一八〇度異なる方向だというのです。真の生殖器は天国に入っていくものであり、偽りの生殖器は地獄に入っていく出発点だということを今まで知らなかったというのです。その基盤が生殖器だというのです。生殖器を誤って使用することは地獄に連結されることであり、愛を正しく行うことは天国に行くことです。簡単です。

  

 絶対愛はどこから探すことができますか。キスからですか。絶対愛をどこから探すことができるかということです。絶対生殖器から絶対愛がつくられるのです。それがなければ、絶対愛を探すことができません。どこで絶対愛を探すことができますか。キスすること、見ること、聞くこと、触ることですか。性的な関係からしか探すことができません。これを知らずにいるのです。永遠の愛、永遠のセックス、セックスが定着するところがどこなのか知りませんでした。どこから出発するのかを知りませんでした。生殖器をもっていない人、手を挙げてみてください。皆もっています。それは、何をするためにそのようになっているのですか。それを尋ねると、生殖器が答えて、「私は二つの生殖器が共にしっかりと結ばれて、絶対愛を成し遂げるのが最後の願いだ!」と言うのです。「ワンダフル!」と言いながら永遠に「ハハハ!」と笑うというのです。

 どのように思いますか。その言葉が好きですか、嫌いですか。私は分かりません。米国の女性たちが、私よりもっとよく知っているはずです。嫌いですか、好きですか。それでは、絶対生殖器を願いますか。唯一の生殖器を願いますか。不変の生殖器を願いますか。永遠の生殖器を願いますか。そのようなものをもっているかということが問題です。

  

 その生殖器は誰のものですか。自分のものですか。夫のものです。これを知りませんでした、簡単な真理です。この宇宙のすべての陰陽の道理は、雄、雌です。鉱物世界も主体・対象関係、最近ではバクテリアまでも雄、雌になっているといいます。宇宙がペア・システムになっているというのです。

 愛という概念をもって、主体は対象のために、対象は主体のために、「ため」に生まれたというのです。「ため」に生まれたのですが、何のためにですか。愛のためです。愛を完成させるためだというのです。神様がアダムとエバ、二人の男性と女性を造って成熟し結婚させようとされる時、その結婚式を中心として関係が結ばれる生殖器が絶対的な器官になっていて、その器官が絶対的な生命、絶対的な愛、絶対的な血統を植えるための本部だったということを知らなければなりません。

  

 堕落とは何ですか。根本問題、根本は何ですか。アダムとエバが生殖器を自分のものだと思って自由行動をしたということです。成熟すれば、神様を中心としてアダムのものはエバのものであり、エバのものはアダムのものとなって、永遠なる神様と絶対的な愛の基台をつくるためのものだったのですが、それを不信して自分のものにしたということです。それで、これが破壊されてしまったのです。自分のために生きる人は地獄に行くのであり、相対のために生きる人は天国に行くのです。ここから分かれるのです。この生殖器が地獄と天国の境界線です。それを知らなければなりません。

  

 神様の創造理想は絶対夫婦を立てることです。絶対生殖器を中心として、自分のために生きるのではなく、相対のために生きるところから立てられるのです。生まれたのは「ため」に生まれたのです。「ため」に生まれたのであって、「ため」に生きなさいとして生まれたのではありません。生殖器を与えたのは、男性は女性のためです。女性の生殖器は男性のためです。男性のために生まれました。その生殖器をサタンが願うとおりに使うようになり、勝手に原則的な道を行かなければ、地獄に行くのです。絶対愛を中心として「ため」に生きれば、神様の系列に入っていくのです。天国の皇族になることができるというのです。

  

 どこで天国と地獄が分かれるのか、調べてみましょう。空中ですか。どこでしょうか。正に皆さんの生殖器です! 深刻なことです。これが、天地をひっくり返してしまいました。いったい誰が否定することができますか。文先生が発表した『原理講論』の堕落論に説明されています。疑わしければ、神様に尋ねてもいいのです。皆さんとしては夢にも想像できない内容と理論をもって、体系を立てておいた文先生の『原理講論』に反対することはできないはずです。目の不自由な人のように、方向を失ったまま生殖器を使用すれば地獄行きであり、反対にこれを神様の絶対愛の基準に合わせて使うようになれば、天国の高い所に行くのです。すっきりとした結論です。

  

 悪なる先祖がいて、善の先祖がいますが、堕落することによって善の先祖が血族をもてませんでした。しかし、この天地の大主宰者であられる神様をサタンも無視することができません。自分の業を実行するためには、必ず善の神様の決裁を受けたのちに行動をするのです。その悪なることで神様の理想世界を破綻させるのです。愛の世界を破綻させる仕業をするのです。終わりの日には、神様の愛の理想のその本拠地である生殖器を完全に破壊させる仕業をするのです。

  

 サタンの血統は、どの部分から連結されたのでしょうか。キスを通じてですか。愛を通じてです。それがどこですか。その起点がどこですか。生殖器です。神様の視点から見るとき、この生殖器が恐ろしい器官だというのです。それを知らなければなりません。

  

 神様は、男性と女性の生殖器をなぜ凹凸につくられましたか。凸凸同士で結んで結婚しますか。凹凹同士で合わせて結婚しますか。全く、狂った者たちです。そんな者たちは一代も行かずにすべて滅亡するのです。独身生活を強調する人は、あの世に行けば、天国と反対の方向に立っています。

  

 ヤコブが母方のおじ、ラバンの家で二十一年間生活して帰ってくる時、ラバン家庭で最も愛する偶像を盗み出してきました。それが見つかれば雷が落ちます。それを砕いて飲み干しました。そのようなことを知っていますか。そうです、宗教圏は独身生活をしなさいといったでしょう? 男性と女性の生殖器を料理してしまったのと同様になれということです。同じことです。はっきり分かりましたか。ですから、堕落をすることができますか。その一瞬間の行動が、億千万世の天地大王陛下をフック(かぎ)に引っ掛けて、解放の日を迎えられないようにしました。それを逆にひっくり返して打ち込むための統一教会の食口(シック)が、祝福を受けて堕落をしますか。あり得ますか、あり得ませんか。

  

 南米に行って、十万教徒を率いた教団の道主に、生殖器に対する話を二時間しました。そして、目がこのように回ったと思ったら、結論として「生殖器の専門家ですね」と言いました。皆さん、おじいさんが生殖器の専門家になれなかったために痛哭が起きるのです。おばあさんが生殖器の専門家になれなかったために家庭が破綻するのです。父母が専門家になれなかったために家庭がめちゃくちゃになって、夫婦がその専門家になれなかったためにめちゃくちゃになるのです。専門家になれば、天地をそのポケットにすべて入れることができるというのです。

  

 皆さんの目は、絶対的なものを願うでしょう? 唯一的なものを願うでしょう? 鼻も唯一的なものをすべて願うでしょう? 他人の鼻と違うというのです。体も絶対、唯一、不変、永遠の体だというのです。生殖器も同じです。絶対的生殖器、唯一的生殖器、不変の生殖器、永遠の生殖器です。皆さんは、そのような生殖器をもっていますか。なぜ笑うのですか。深刻な瞬間に「ひひ」と笑うので、それを誰が信じるでしょうか。絶対家庭が必要です。絶対家庭、唯一家庭、不変家庭、永遠家庭であってこそ、天国に行くのです。

  

 愛の器官をいい加減に扱えば、罰を受けるようになっています。それが愛の王宮であり、愛の先祖の園です。愛は、そこから出発しました。地上天国の起源であり、天上天国の起源であり、神様の幸福の出発の起源がそこから形成されるというのです。神様の笑いの基台がそこから出発するのです。愛を探し当てて、神様が踊ることのできる場がその場です。その場を尋ね求めていかなければなりません。それは正しいですか、正しくありませんか。このように貴いのです。

  

 愛が中心となって、二人が生命の合一体となって合わさる場、男性の血と女性の血が一つのるつぼで一つになる、その場が生殖器です。その場は、息子、娘より貴く、夫より、神様よりも貴いということを知らなければなりません。子女より貴く、夫より貴く、父母より貴い位置だというのです。それがなければ父母も無価値であり、夫婦も無価値であり、息子、娘も無価値なのです。

 そのように貴いために、宝の中の宝として、世の中の誰にも見えないように一生の間、錠前を掛けてもっているのです。そして、その鍵は男性のものは女性がもち、女性のものは男性がもっていますが、それぞれ一つしかありません。一つのキーだけもたなければなりません。フリーセックスのように十個、二十個、もちたいですか。門を開け、主人がいない家のように、過ぎゆく人が全員出たり入ったりする、廃墟の家のようになりたいですか。

  

 生殖器を神様に侍るよりもっとよく侍って、神様よりもっと愛さなければなりません。それでこそ神様が喜ばれます。全く、そのような話がどこにありますか。宗教界で聞けば、びっくりして飛び上がってひっくり返るかもしれませんが、これは明らかな事実です。神様の理想の愛に侍ってこそ、神様が定着することのできる足場が生まれるのです。生命より大切であり、世の中を与え、天地を与え、神様まで与えても取り替えることができないものです。創造物全体を合わせた以上に妻の生殖器を崇拝して、それ以上に愛してその価値を認めてこそ、神様が自分の家に訪ねてこられるというのです。


第三章 人間堕落と復帰

一、人間堕落の内的意味

 一) 人間堕落は愛の事故だった


 私が糾明した原罪と堕落の曲折は、人間の最初の家庭で起こった天使長との不倫の事件でした。「統一原理」におけるサタンは、観念的存在や仮想の存在ではなく、霊的実体です。神様の愛の理想を破壊し、神様の血統をサタンを中心とした血統に変えた元凶です。イエス様も、ヨハネによる福音書第八章で、人類の父が悪魔であると明確に語られました。神様が、御自分の外的体であるアダムとエバを通して実現しようとされた愛の理想を剥奪した愛の姦夫が、すなわち悪魔サタンです。皆さんには聞き慣れない話かもしれませんが、私が霊界を開拓し、宇宙の根本の曲折を究明しようと血の涙の闘争をした結果として得た結論が、まさしくこれです。皆さんも真剣に祈祷してみれば、解答を得られるはずです。

  

 宇宙の根本には脱線があり得ません。しかし、この悪魔…‥。完全に成長する前の未成年の時、十五、十六歳の時に…‥。女性たちを見れば、十代の時に堕落するでしょう? ちょうどその時です。その時に、天使長ルーシェルをよくよく見れば、その語ることは、天地の道理をすべて知っているかのようだったのです。神様の使いもし、天地創造に対しても話すことができたのです。アダムは無口でむすっとしていて…‥。

 アダムのほうは鳥のひなを捕まえようと歩き回っていた時期です。子供の時には、みなそうでしょう? 鳥のひなでも捕まえに歩いたり、棒を持って蛇でも捕まえに歩いたり、かえるを捕まえに歩いたりして、このようにしながら自然から学んだすべてのものをもって、これから主管し、管理し、それらと親しくなろうとし、完全にそれらと同化した者になろうとしていたので、エバに対して関心などありますか。

  

 堕落とは何でしょうか。天理大道の基準、愛の元軸、天地の軸となるべき中心ポイントが、堕落によって破壊されました。女性が目覚め、天使長が自分に目覚めて因縁を結ぶことによって宇宙の根本を撃破し、恨みの地獄が生じたというこの悔しい事実を、人類は知らなかったのです。サタンが人類の血統的先祖になったということに対するこの恨を、誰が解いてあげなければならないのでしょうか。それは何かというと、王妃となり得る人を、その僕が支配したということです。ですから、宇宙の大道の原則となり得る根本基準が壊れてしまったのです。結局、その悪魔とは何ですか。愛の天国の王宮を根本的に破綻させた親玉です。

  

 なぜ、蕩減や父母権復帰や王権復帰というものが必要なのでしょうか。サタンの愛とサタンの生命とサタンの血統が問題なのです。本来は神様から出発しなければならないのに、悪魔から出発したというのです。ところで、悪魔は、愛という途方もないものを中心として出発しました。愛ゆえに宇宙が生まれました。創造は、愛ゆえに始まったのでしょう? すべての存在の起源となる愛を中心として、創造はなされてきたのです。その根本をサタンがひっくり返してしまったのです。ですから、そのひっくり返った根本を、再びひっくり返してしまわなければなりません。

  

 人類は闘争の歴史を経てきたのですが、なぜ闘争の歴史ですか。善悪の闘争歴史だというのです。悪なる悪魔が神様の理想世界の全権を奪い取っていきました。奪い取ったものはほかでもありません。この全宇宙の中心となる女性と息子、娘を強奪したのです。ですから、神様には女性がいません。女性を通して生んだ息子、娘がいません。本来、そのようなことはあり得ません。本来の女性は、神様の女性であり、女性を通して生んだ息子、娘は、神様の息子、娘にならなければならないのですが、悪魔がこれを奪っていったのです。未成年の時に堕落することによって、このようになったのです。このような論理がなければ、人間の根本を悟らせることはできません。

  

 愛ゆえに生まれたのですが、その価値をどのようにして失ってしまったのでしょうか。愛の反対行動以外には、それを失うことはありません。堕落の結果は何でしょうか。女性が男性のために生まれ、男性が女性のために生まれてお互いの愛を完成してあげるのではなく、その反対になったのです。私のために決着させたすべてのものが、堕落の結果をもたらしたというのです。一八〇度反対の方向に行ったのです。

 聖書には、善悪の実を取って食べて堕落したとあるのですが、根本的に愛ゆえに生まれた立場において、善悪の実を取って食べたというその事実だけでは、「ため」に生きる愛の基盤を破壊させることはできません。愛ゆえに生まれた根源を否定することはできないのです。男性と女性が引っ掛かるべき「ため」に生きる愛ではなく、「自分のために生きろ」という愛に二人とも引っ掛かったことが堕落です。神様が創造されたすべてのものはペア・システムになっていて、お互いが「ため」に生まれました。

  

 人間もこのような価値の世界へ入っていくようになっていたのですが、自分を中心として一八〇度反対になったことが堕落です。それは、何を中心としてなったのでしょうか。女性が一番重要に思い、男性が一番重要に思う、その愛の器官を中心として破壊の行動が起きたのです。

  

 神様とは誰であり、悪魔とは誰ですか。悪魔は神様の怨讐です。愛の姦夫です。「女」という字が三つ集まれば「姦」です。これが文総裁によって明らかになりました。人類始祖の堕落の根源となった善悪の実は、男性と女性の生殖器です。それを正しく使えば国が発展し、間違って使えば国が滅びるのです。それが善悪の実です。国王であっても、正しく使う時には国が発展するのですが、間違って使えば国が滅びるのです。それによって家庭が崩壊し、社会が崩壊し、すべてのものが地獄と天国に分かれます。善の実を結ばなければならない場所に、悪の実を結んだのです。

 善悪の実とは何ですか。それが善悪の実ではないのですか。みな善悪の実をもっていますか、いませんか。男性の生殖器と女性の生殖器が善悪の実なのです。毒蛇の頭です。イエス様は、なぜサタンを「毒蛇」と言いましたか。なぜサタンを「蛇」と言ったのですか。それが蛇の頭です。毒蛇の頭です。女性も男性もすべてそれをねらっているでしょう? 女性も男性も、みなそうではないですか。

  

 人間にとって最も貴い場所とはどこですか。男性や女性にとって、最も貴いものとは何ですか。女性が女性になったのは、一つのものを中心として女性となりました。一つのもののゆえに、女性が女性になったのです。その一つの場所とは、どの場所ですか。愛の器官である生殖器です。それは何かというと、生命を植える器官です。それは何と良い名前でしょうか! 生殖器ではないですか。「愛の器官」と言うよりも実感がわくのです。説明がなされました。生命を植える道具、それが生殖器です。生殖器を恥ずかしく思ってはいけません。生殖器を韓国語で何と言いますか。韓国語で何と言うのですか。性器を韓国語で何と言うのですか。それを言うのが恥ずかしければ、自分が恥ずかしさをもって生きているということです。韓国語自体が恥ずかしければ、韓国人としての資格はありません。誇らなければなりません!

  

 創造主である神様が、御自身の対象が御自身より何千万倍も立派になることを願ったのであれば、なぜ堕落するように人間を造られたのでしょうか。これが問題になるのです。神様が堕落するように造られたのではありません。堕落してはいけないと警告をしました。「善悪の実を取って食べるな」と警告したのです。その善悪の実とは何ですか。善悪の実とは女性の生殖器のことです。女性は弱いのです。私たちの先祖がエデンの園で暮らす時は、裸になって暮らしたのです。

  

 神様は「善悪の実を取って食べるな!」と命令されました。その善悪の実が何であるか知っていますか。それは女性の生殖器のことです。「全く、そのような話がどこにあるか」と言うかもしれませんが、エバはいつも「お兄さん、どこへ行ったの? 私は寂しい!」と言っていたのですが、このようなエバを天使長が犯したのです。天使長には、彼らが結婚する時まで保護し、育成すべき責任があるのです。

 それで、天使も裸になって暮らすのです。服というものは、堕落したのちに生まれたのです。動物が服を着て暮らしますか。生殖器に何をかぶせるのですか。夫婦間で、お互いに恥ずかしく思うのですか。一緒に暮らしている夫婦が裸になることが恥ずかしいことですか、恥ずかしくないことですか。

  

 堕落とは何ですか。生殖器を誤って使用したことです。誤って使用することによってどのようになったのかというと、新郎が変わり、愛する相対が変わりました。ですから、根本的な堕落です。これを犯すことによって、宇宙のどこにおいても、動物世界や植物世界や鉱物世界や人間世界のどこにおいても、ねずみの世界や何かの虫の世界においても、これを前面に立てることができないほど誤ったので、この宇宙から追い出してしまわなければならないのです。それで、エデンから追放したのです。

  

 アダムとエバの堕落も、知ってみれば、この鉄則に背いたことに由来しているのです。アダムとエバは、自分の生殖器が、自分のものだと錯覚したのです。考えてみてください。善悪の実を取って食べたからといって、アダムとエバを追い出したりしますか。神様は、それほどでたらめな神様ではありません。根本的な問題において誤り、宇宙のどこにおいても公認することができなくなったので追放してしまったのです。鉱物界、植物界、動物界の雄や雌においても、すべて愛の相対のために自らの性器を保管しているということを、アダムとエバは分からなかったのです。


 戒めに背いたのです。絶対生殖器をもって、絶対的に「ため」に生き、絶対服従しなければなりません。「ため」に生きる愛の基台を神様は願われたのですが、自分を中心として自分勝手に行動してしまったのです。それゆえに、宇宙が「ぺっ!」とつばを吐いてしまったのです。これを再び回復しなければなりません。それを回復しようとすれば、偽りの父母によって失ってしまったことなので、真の父母が来て回復しなければなりません。

  

 男性にとって最も恐ろしい恩讐は、女性です。開いた蛇の口のようになって「男性の生殖器が入ってくればかみついてやろう」と、このようにしているのです。このようなものが至る所に散在していて、これが次の世代に引き継がれているのです。ですから、最も恐ろしいものが生殖器です。

  

 エデンにおいて愛を失ってしまいました。悔い改めなければなりません。エデンにおいて、涙を流しながら神様とアダムとエバが惜別したその何十倍、何百倍の痛哭をしなければなりません。涙と鼻水とよだれの三つが流れ、これがへその線を通じ、あの生殖器を経て落ちなければなりません。これが罪を犯したのです。

 アダムにエバを造ってあげたのは、何を造ってあげたということですか。寂しいということで女性を造ってあげて良しとされたのですが、何を中心として良しとされたのでしょうか。女性の何ですか。生殖器です! 凸の前における凹です。凹をつくってあげたのです。アダムはアダムなのですが、エバを何のために造ってあげたのですか。目、鼻、顔ですか。何をつくりましたか。アダムのために、エバの何をつくったのかというのです。凸のために凹をつくったのです。アダムとエバのその場所には愛の源泉があるので、それをつくったのです。凸のために凹をつくりました。最も価値があるもの、愛の根本だということを知らなければなりません。

  

 今は、根本が出てこなければなりません。神様はどうで、天地創造はどうで、人間の始祖はどうだということや、人間が家庭から始めて社会、国家、世界がこのようになるということ、それがすべて堕落によって否定されたので、これを再現し、理論的にぶつかって「そうだ」と認定させることができる個人解放、家庭解放、氏族解放、民族解放、国家解放、天宙解放をなし、神様までも解放しなければならないのです。この途方もない問題がアダム家庭における愛の問題であり、男性と女性の二人が生殖器を誤って合わせたことがこの天宙を爆破させたのです。

 生殖器というものは何かというと、愛の本宮であり、王宮です。それがなければ愛は起こりません。それがなければ生命は生まれません。それがなければ血統の歴史性は生まれません。それを否定すれば、あらゆるものは一代ですべてなくなります。なくなるのを神様は認めることができないので、これを存在する立場に立てておき、私が創造に責任をもち、サタンまでも屈服させるのです。たたいて屈服させるのではありません。自然屈服させるのです。自然屈服です。

  

 先生のアダム完成の責任は、堕落のない解放された天宙的な愛の王の位置を復帰しなければならないということです。サタンの血統のすべてに責任をもつのです。恥ずかしさや自分の威信や体面が問題ではありません。自分が最も愛する生殖器を犬の糞の上にも突っ込まなければならないのです。千年、万年、そのような想像もできないことをしなくては、女性を生かすことはできません。それを見たくないので、「新しい天地を造ろう」と言うことができます。神様を迎えて新しい宇宙を造ることができるのです。そのような神様は、サタンである天使長の前に、愛の秩序を破壊させたことに対して着手することができないので、それはどれほど悲惨なことでしょうか。

 女性の生殖器を見れば、「これが、何千万年、神様までも監獄にほうり込んできた穴なのだなあ」と思わなければなりません。男性を見るときも、そうでなければなりません。男性の生殖器が、エバが「そうしよう」と言ったからといって、そのように天国をひっくり返してしまったという事実、そのことを思っただけでも、背筋が寒くならなければなりません。

  

 男性五人の中に女性が一人でいる場合、神様は安心されたでしょうか、不安だったでしょうか。皆さんが神様ならばどうですか。それならば、誰に警戒させるでしょうか。

 女性一人が最も近いのです。将来の神様の相対となり、御自身の体です。最も近い愛の相対です。戒めを与えるときは、近い人に与えるのです。家を出るとき、自分と最も近い人と最も遠い人がいれば、自分とは遠い人に命令しますか、近い人に命令しますか。近い人に命令をするので、エバに「善悪の実を取って食べてはならない!」と言われたのです。善悪の実とは何ですか。それは、女性の生殖器のことをいうのです。女性が善の男性と出会えば善の息子、娘を生むのであり、マフィアと出会えばマフィアの息子、娘を生むのです。結実がそこにあるのです。


 神様が愛を中心として投入して、投入してみると、この宇宙を包括しても余りあるほどになったのです。愛の動機である神様を中心として、この核を中心として、この宇宙の存在世界の末端まで愛の雰囲気で包括してしまうというのです。ですから、霊界に行っても愛の雰囲気であり、地上でもペア・システムを中心として、愛を歌いながら暮らすことができていたはずの私たちの人生行路が、堕落によってこのように悲惨になってしまったのです。このような事実を知らなければなりません。堕落を知らなければなりません。


) 善悪の実はエバの生殖器


 エバは女性ですが、女性の根本とは何ですか。「目には美しい」その存在の核心とは何かというのです。目ですか。顔ですか。手ですか。体ですか。違います。生殖器です。女性は凹であり、男性は凸です。神様は、凸であるアダムを造られ、アダムの前に凹のものを造ってくださったのですが、それが女性です。なぜアダムの前にエバを造られて「良し!」と言われたのでしょうか。神様の愛を中心として見るとき、その愛を完成させることができる道が生まれたのです。それゆえに、神様も良く、アダムも良く、エバも良いというのです。愛を中心として、そのように言われたのです。それは何を中心とした言葉ですか。生殖器を中心として言われた言葉です。おかしな話だと思ってはなりません。

  

 エデンの園において、神様は、アダムとエバに戒めを与えられました。「善悪の実を取って食べてはならない!」と言われたのです。その善悪の実とは、女性の生殖器のことです。女性が王と出会えば王子を生むのであり、マフィアと出会えばマフィアの息子、娘を生むのです。善悪の実を結ぶことができるのが女性です。女性は、夫が立つ位置に一緒に立つことができるのです。小学校すら出ていなくても大統領の夫人になって、愛の関係さえ結べば同じ位置に立つことができるのです。

  

 「取って食べてはならない」と言われたのですが、何を「取って食べてはならない」と言われたのですか。エデンの園の命の木と善悪を知る木は、アダムとエバのことをいうのです。命の木とはアダムのことではないですか。アダムの生殖器が命の木です。それは正しいですか、正しくないですか。善悪を知る木とは何ですか。エバの愛のことをいうのです。マフィアと愛をなせば、マフィアの息子、娘が実を結ぶのと同じです。王と愛をなせば、王の息子、娘が実を結ぶのです。ですから、血統的に悪魔の血統を受け継いだというのです。

  

 聖書を見ると、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない」とあります。兄弟の関係なので、手を握ったり、キスしたりしても構わず、すべての木の実を取って食べても構わないのですが、善悪の実と命の木、男性の生殖器と女性の生殖器は、触れることができないようにしたのです。そのように警告したのです。

  

 神様は、何ゆえに創造されたのでしょうか。「ペア・システムだ」と言ったでしょう? 何ゆえにですか。愛ゆえにです。神様の愛は、何の愛ですか。真の愛に対して知らなければなりません。真の愛とは何ですか。神様が天地を創造されるようになった動機は何ですか。善悪の実ゆえに堕落したのです。そのような狂ったたわごとはやめなさいというのです。善悪の実とは何ですか。善悪の実が何なのかを知りません。根源を知らず、罪の根が何なのか知らないのです。分からないで、どのようにして病気を治しますか。病人が天国に入っていくことができますか。できません! そのような論理は通じないというのです。

  

 エデンの園にいる者たちを見れば、女性は一人しかいないのです。女性は一人ですが、天使長は三人いて、アダムがいて、神様も男性的です。神様以外に四人の男性が一人の女性を取り囲んでいるので、警戒すべき問題は正にそれです。善悪の実は、女性の生殖器のことをいうのです。

  

 人間の堕落はどこから始まりましたか。生殖器です。この生殖器とは何かというと、愛の王宮です。生命の王宮です。そうではないですか。王の血統を相続するものが生殖器です。最も貴重なものです。それが、堕落してしまうことによって最も不潔な所になったのです。どの国でも同じです。そのような状況です。それが、神様を中心として神聖なものでしょうか、罪悪である卑しいものでしょうか。モーセが造った契約の箱ではありません。神様がつくられた至聖所です。

 神様が最高の至聖所としてつくられた場所が生殖器です。堕落する前は、その位置がその場所でした。人々は、堕落論に対してすべてを知ることはできません。それが原理ではないですか。

  

 エデンの園のアダムとエバに、「善悪の実を取って食べてはならない」という戒めを与えられたのです。善悪の実とは何ですか。それは誰の生殖器ですか。善悪を知る木です。女性の生殖器を意味するのです。女性がマフィアと一つになればマフィアの息子を生み、王と一つになれば王の王子を生みます。善の実も結ぶことができ、悪の実も結ぶことができるというのです。善悪の実です。それは、女性の生殖器について言っている言葉です。「善悪の実を取って食べてはならない」というのは、何のことか分かりますか。将来神様は、エバを愛の相対にしようとされたのですが、男性がたくさんいたのです。男性は何人いますか。御自身以外に四人います。

  

 ですから、どのような警告をしましたか。「愛してはならない!」とおっしゃったのです。「善悪の実を取って食べなさい」と言われたでしょうか、「取って食べてはならない」と言われたでしょうか。それは何ですか。女性の生殖器です。警告するようなものがどこにありますか。戒め、訓示するようなものがどこにありますか。善悪の実という果実があったのですか。園の中で関心をもつのは、善悪の実という果実でしょうか、それとも女性でしょうか。私には分かりません。皆さんは、私よりももっとよく知っているはずです。そうではありませんか。

  

 堕落したのですが、何ゆえに堕落しましたか。愛ゆえに堕落したのです。誤った愛が堕落です。ですから、誤った愛がどこから出発したのかというと、誤った生殖器の行動を通してなされたのです。これは公式です。アダムとエバに生殖器がなかったとすれば、人類が生まれることができますか。生殖器がなければ、地上天国が出発することができますか。完全な、真なる、善の生殖器を通して、真なる善の地上・天上天国が生まれるのです。このようになっているのです。真実でない生殖器を通しては、どのようになりますか。地獄が生まれるのです。

  

 堕落した愛を中心として一つになったので、「亡国の嘆き」になりました。最も下品な言葉になったのです。神様が最も精誠を尽くしてつくられた場所が生殖器です。最も精誠を尽くされた場所です。生命の根源がすべて集まった場所であり、理想的、感性的なすべてのものの総合地です。そして、愛の本宮です。愛の出発がそこから展開するはずだったのです。堕落していなければ、生命の起源地です。真の愛の本宮であり、真の生命の本宮であり、真の血統の本宮だというのです。王宮です。「子宮」という言葉があるでしょう? どこを通して子宮が生じたのですか。その場所を通してではありませんか。愛を通して、男性と女性の血肉が混ざり合うのです。男性の生命と女性の生命が、愛を通して一つになるのです。

  

 堕落したのちに、すべて壊れたのです。最も悪いものに変わりました。神様の懐の中ではありません。それを否定する人がいますか。最高の貴い王宮が、汚い愛の宮、汚い生命の宮、汚い血統の宮になってしまいました。私たちの生殖器の話です。

  

 人間堕落の根本が愛によって成立したので、人類は真の愛を失ってしまいました。神様は、アダムとエバが赤ん坊を生む前に追い出されたので、それは神様と関係がありません。私たち人類の堕落の始祖が生じたのです。その過ちを私たちは知らなければなりません。

  

 女性がどのような男性に抱かれるかによって、善にもなり、悪にもなります。どろぼうに抱かれればどろぼうの子女を生むのです。ですから、善悪を知る木だというのです。善にもなり、悪にもなるということを知るようになっている木だというのです。聖書は、人間を木に例えているのです。女性はみな、そのような性質をもっているでしょう? 注意しなければなりません。エデンの園で警告しましたが、今も同じです。

  

 善悪の実は、エバの生殖器のことをいうのです。女性は、対する夫によって種が変わるのです。そのような意味です。善の男性に対すれば善の実を結び、悪の男性に対すれば悪の実を結ぶのです。そのようにすることのできる本宮が女性の生殖器です。女性は畑でしょう? 盗賊が来て種を蒔けば、盗賊の子供が出てくるのであり、王子が来て蒔けば、王孫が出てくるのです。

  

 人間が罪を犯した場所は、男性と女性の生殖器です。男性と女性の生殖器というものは、本来、愛が出発する場所です。

  

 善悪の実とは何ですか。女性が良い夫と出会えば、良い赤ん坊を生みます。悪い夫と出会えば、悪い赤ん坊を生みます。私が知ってみると、善悪の実とは、女性のそれについていう言葉でした。女性のそれとは何ですか。若い娘の時期は、「それ」と言えば胸です。胸がどんどん大きくなっていくのを見て…‥。それは女性の生殖器についていう言葉です。しかし、男性においては、悪の女性が相対になっても悪になりません。善の女性が相対になれば、より一層善になるでしょう?

  

 男性よりも女性のほうが先に成長して堕落する素質が多いので、神様が「善悪の実を取って食べてはいけない!」と警告されたのです。女性の生殖器は、善の人を迎えれば善の実が出てくるのであり、悪の男性を迎えれば悪の実が出てくるのです。善悪の実とは、女性の生殖器について語っている言葉です。男性にそのようなことがありますか。男性にはそのようなことはありません。

  

 善悪の実とは何ですか。善悪の実は、善の男性と関係すれば善の実となり、王と結婚すれば王子を生み、マフィアのボスと結婚すればマフィアのボスを生むのです。善悪の実です。善と悪の実を結ぶことができるものとは何かというと、女性の生殖器です。女性の生殖器を犯してはならないというのです。韓国でも、若い女性を犯す場合、「取って食べる」と言うでしょう? 啓示的です。取って食べてはならないというのです。

  

 堕落がどこでなされたのでしょうか。目ですか、鼻ですか、口ですか。それとも、手ですか、耳ですか。違います。生殖器で堕落したのです。偽りの愛によって、偽りの愛と連結して偽りの父母となり、偽りの父母によって偽りの生命、偽りの愛、偽りの血統、偽りの良心が生まれました。すべてがサタンと一つとなっています。神様と一つになりませんでした。絶対的な神様と一つになりませんでした。神様の反対側と一つになったのです。

  

 善悪の実とは何ですか。愛を誤れば、永遠の悪の実を継承するのであり、愛を正しく行えば、永遠の善の実を継承するのです。その善悪の実は、何かの果物ですか。狂った者たち! 善悪の実というのは、男性と女性の生殖器のことをいうのです。

  

 堕落の根本は愛によって成立したので、失ってしまった真の愛をどのようにして復帰しなければならないかという問題は、淫乱によって堕落して真の愛を失い、生殖器を中心として誤ったがゆえに、その反対にまっすぐに行かなければならないのです。

  

 アダムとエバの堕落とは何かというと、それが自分のことだということが分かりました! 自分のことだということが分かったのです。今回、来て学んだはずです。愛を中心として誤ったというのです。なぜアダムとエバを追い出したのでしょうか。善悪の実を取って食べたからといって追い出したりするでしょうか。そのような無価値な神様ではありません。根本的な問題において誤り、宇宙のどこにおいても公認を受けることができないので、追放してしまわなければならないのです。

  

 宇宙の根本はどこにありますか。堕落していない宇宙の根本は、そこにあります。これが天地を破綻させた邪悪な根拠地になったということを知りました。ですから、自らの生活をいい加減にすることはできません。恐ろしくも、一日の失敗が千万年の歴史をひっくり返し、神様と真の父母と理想世界を完全に下敷きにしてしまったのです。そのように恐ろしい器官です。おしっこをするたびに、それを考えなければなりません。「こいつ、おしっこも正しく出さなければならない!」ということです。

  

 高貴な価値をもたなければならない人間の本然の姿が、堕落することによって逆さまになりました。このようなすべての基準を連結させることができる「宮」とはどこですか。生殖器官です。


) 悪魔サタンは淫乱によって堕落した


 サタンとは、いったいいかなる存在ですか。特にイエス様を信じる人々は、神様の前にサタンの正体をはっきりと明らかにしなければなりません。サタンとは何ですか。姦夫です。愛の姦夫です。そのサタンが父をたたき殺し、母を強奪して生んだ子女がまさしく皆さんです。気分が悪いでしょう? 本当だと信じることができなければ、先生のみ言が本当かうそか、命を懸けて神様の前に一度談判祈祷をしてみてください。

  

 サタンとは誰ですか。神様の夫人となるエバを強奪した姦夫です。エバは、アダムの夫人であると同時に、神様の夫人です。神様の夫人となるエバを強奪した姦夫です。サタンは愛の怨讐です。それゆえに、神様は怨讐を愛するのですが、愛するにおいては、姦夫であるサタンまで「愛しなさい」とはおっしゃいませんでした。サタンは許すことができません。サタンに属した人は愛するのですが、サタンは許すことができません。それは原理なので、皆さんはそれを知らなければなりません。

  

 私たちの先祖がサタンに讒訴され、蹂躙され、虐殺の祭物となってきた恨を解かなければならないのがキリスト教信徒であり、修養の道を行く人であるからには、このサタンの正体を解明しなければならず、歴史的な神様の心情と時代的な神様の心情、そして未来を心配される神様の心情を知らなければなりません。そのようにして、神様が涙を流しながら「おお! 私の息子、娘」とおっしゃることができてこそ、この世の中は戻っていくのです。

  

 本来の主人を追い出し、その妻を奪い、その息子、娘まですべて死の位置に引きずり込んでいく悪党の親玉の立場が悪魔サタンだというのです。このように見るとき、神様の怨讐であり、人類の怨讐である悪魔サタンを許す道がありますか。結局、悪魔サタンは、愛を中心として神様と姦夫の関係になってしまったのです。

 ですから、許すことができますか。そのようなサタンを許せば、世の中をすべて破綻させてしまうのです。ですから、皆さんがただそのまま神様の息子、娘となることができると考えることができますか。それゆえに、これを変える日まで、神様と人類は、呻吟と苦痛の道を避けることができない立場で歴史をつづっていくということを知らなければなりません。

  

 皆さんの愛の関係は、どこから始まりましたか。どこから出発しましたか。悪から始まりました。この悪の親玉が悪魔サタンです。どのような因縁をもった悪魔かというと、愛の姦夫だというのです。その姦夫の血肉を受け継いで人間が生まれたのです。そうであるならば、私たちが受けようとする愛は、姦夫の愛ですか。姦夫の血統を通して受け継がれてきた不正な血統の愛を受けようとしましたか。違います。ですから、これが問題なのです。

  

 神様は、希望にあふれた大業を夢見ながら、あらゆる最善を尽くして宇宙を創造されたのですが、その大業と生命と理念のすべての条件が一時に破綻して駄目になった時、天地が真っ暗になったというのです。ここに怨讐として登場したものが天使長ルーシェルでした。このルーシェルを打倒しなければなりませんか、打倒してはなりませんか。神様が最も愛された骨の中の骨であり、肉の中の肉である息子、娘を、ルーシェルが自分の息子、娘にしたのです。このような怨讐の首を切らなければなりませんか、そのままにしておかなければなりませんか。このような問題について、歴史始まって以来、初めて苦心されたお方が神様です。

  

 神様が願われた王子、王女の資格を破綻させ、王子、王女の家庭的愛を破綻させ、王子、王女以後の王孫を破綻させ、神様が理想とされる家庭と天国を破綻させた元凶が、悪魔サタンだということを知らなければなりません。この元凶は、神様の怨讐であるだけでなく、私たち人類の怨讐です。その怨讐の敵将にその国の王宮にいる王族、王族の王子、王女が捕らわれていき、僕の生活をしながら、その僕の世界の子供を繁殖させたというのと同じです。王子、王女を中心として、王権のもとで繁殖していかなければならなかったにもかかわらず、悪なる悪魔の王権のもとで繁殖した群れのようなもの、それが堕落した人類だというのです。

  

 聖書の内容を観察してみれば、人類始祖が不倫な愛をなすことによって、悪魔サタンを中心として父子の関係を結んだという事実を否定することができません。神様の血筋を受け、神様の絶対的な愛の中で神様の直系の息子、娘として生まれなければならない価値的な人間が、悪魔サタンの血統を受け、サタンの息子、娘として生まれたのです。

  

 ローマ人への手紙第八章に、「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分(実子でなく養子として)を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(二三節)と記録されています。養子は血統が異なるのです。これが、私たち人間の実情です。

  

 ローマ人への手紙第八章を見ると「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分(養子)を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(二三節)とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分(養子)を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」(一五節)とあります。養子にしかなることができないのです。

 今、キリスト教徒たちは養子です。養子は血統が異なります。ヨハネによる福音書第八章四十四節を見ると「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」とイエス様が語られました。ここで「父」と言っているので、血統、先祖は悪魔なのではないですか。それゆえに、割礼とは何ですか。陽部を裂くことです。このようになっています。善悪の実とは、何かの実のことですか。

  

 堕落によって、人間は偽りの父であるサタンに屈服せざるを得なくなりました。人間は、自分たちの父を取り替えてしまったのです。私たちは、真の父である神様を捨て、偽りの父である悪魔サタンと一つになったのです。このようにして、最初の男性と女性はサタンの息子、娘となってしまいました。

  

 本来、サタンとはどのような存在ですか。悪魔という存在がどのような存在かというと、神様の僕です。しかし、この僕が主人の娘を強奪したのです。これが堕落です。聖書に出てくるその堕落とは何かというと、エバが善悪の実を取って食べたことが堕落だというのですが、善悪の実は果物ではありません。僕が主人の娘を強奪したことです。将来、代を継ぐ息子と娘を生んで育て、神様の理想を成し遂げようとしたのですが、僕としてつくられた天使長という輩が、主人の娘を強奪したのです。それが人類の堕落の起源になりました。天地がそのようになったのです。このように複雑に絡んだ内容は、皆さんが「原理」を聞けば大概分かるはずです。

  

 聖書を見ると、善悪の実を取って食べて堕落したとあるのですが、下部を覆ったということはどういうことですか。既成教会において聖書をもう少し知性的に解析しようとする思いさえあれば、すぐに堕落の起源が分かるのです。なぜ下部が恥ずかしいのですか。口を覆い、手を覆わなければならないはずなのに、なぜ下部を覆ったのですか。下部だからといって科(とが)になるのではありません。しかし、下部で堕落することによって、そこが天の愛を蹂躙した恥ずかしい宮殿となったのです。真の愛の泉がわいてこなければならなかったのに、悪魔の愛を中心とした偽りの愛の泉が噴き出てきたというのです。ですから、これが愛の基台の中で、最も悪い愛の基台になったのです。

  

 アダムを追い出す時、息子、娘を生んだのちに追い出したのでしょうか、生む前に追い出したのでしょうか。見ることはできませんでしたが、息子、娘を連れていれば追い出すことができますか。涙をもっとたくさん見なければならないのです。「おばあさん、おじいさん、なぜこのように追い出すのですか」と、しがみついて痛哭するはずです。四人が両手両足にしがみついて大騒ぎすれば、それをすべて包丁で切って追い出してしまわなければならないのではありませんか。罪を犯したアダムとエバは分かりませんが、罪を犯していないアダムとエバの息子、娘はそれを見抜くのです。それを知っている神様は、息子、娘を生む前に追い出したのです。

 彼らは、追い出されたのちに任意で結婚して子供を生んだのでしょうか、神様が追い出される時、「あなた方は出ていって結婚し、息子、娘を生みなさい」と訓示して送り出したのでしょうか、それとも、そのような話はせずに追い出してしまったのでしょうか。答えてみてください。いずれにせよ、彼らは追い出されたのちに息子、娘を生んだのではないですか。

  

 終わりの日になれば、再びそれを編成して神様の恨を解き、天倫の恨を解くと同時に、人類の恨を解かなければなりません。このようになるのですが、これを知らないで「善悪の実を取って食べてどうで」と…‥。ここで言っている人の言葉が間違っていると思うならば、首をくくって四十日間祈祷してみなさい。そうすれば、統一教会の文先生がうそを言ったかどうかが分かるはずです。皆さんは、正常な血統を受けて生まれたのではありません。ですから、独身生活を強調してきたのです。子女を繁殖しては困るのです。

  

 神様は淫乱を憎悪します。なぜでしょうか。人間が不法な愛によって天地をひっくり返してしまったからです。この悪の血はどうすることもできません。ですから、修養の世界では独身生活を主張するのです。もし男性が神霊的祈祷の境地に入っていけば、必ず女性が現れて試験をします。必ずこのようなことが起こります。修養の道を妨げるのです。なぜそのようになっているのでしょうか。不法な愛によって歴史が結ばれたからです。善悪の実を取って食べて堕落したという教理をもって、二〇〇〇年まで残ったということはすごいことです。

  

 アダムとエバが堕落していなければ、神様を中心としたアダムの直系の初孫が生まれていたはずです。アダムは初孫であり、真の父であり、王です。地上の国と天上世界の王です。また、真の父母であり、真の長子です。それゆえに、アダム家庭は天国の王室です。

 それでは、アダム家庭のおじいさんは誰ですか。神様がおじいさんです。それから、お父さんとお母さんはアダムとエバです。そして、過去の立場を身代わりした観点から見ると、おじいさんとおばあさんは神様の代身であり、また神様は父母の代身です。縦的に見ると、神様が一代圏、二代圏、三代圏を中心として家庭に着陸がなされるのですが、一代圏が横的に展開したのがおじいさんであり、二代圏がお父さんであり、三代圏が私です。それで、息子、娘を中心として、万世一系の皇室の代を継ぐのです。

  

 なぜ神様がアダムとエバを造られたのか分かりますか。神様も、父母の立場で息子、娘を愛する愛を一度もちたいと思われたのです。それから、アダムとエバと共に、新郎と新婦が愛し合っている愛を一度体験してみたいと思われたのです。おじいさんの愛、それから国を愛することを一度してみたいと思われたのであり、すべてもちたいと思われたのです。すべてもちたいと思われたものを私たち人間世界に伝授され、それを受け継いだのが皆さんの一族であり、皆さんの民族であり、皆さんの国であり、この世界であり、この地であり、あの世の霊界であるということを知らなければなりません。

  

 堕落せずに完成の位置まで行っていれば、アダムとエバは個人完成だけではなく、宇宙史的な完成をしていたはずです。また、神様の愛を中心とした新しい家庭が出発していたはずです。このようにして、家庭から氏族、民族、国家、世界ができていれば、神様に侍る一つの大家族社会となっていたはずです。このような大家族社会の中心は、神様とアダムです。そして、その世界においては、神様を中心としたアダム家庭の生活や一生の路程が歴史的伝統として残されます。その生活様式、風習、慣習、そして生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは、神様の愛によって絡み合った伝統とならざるを得ません。

 神様の愛は生命の根源であり、すべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れることができず、離れたとしても再び戻ってくるしかありません。アダムとエバの堕落はアダムとエバだけの堕落ではなく、全般的な人類歴史を総合した立場における堕落です。言い換えれば、アダムとエバが堕落したということは、善の父母になることができずに悪の父母になったということを意味します。悪の父母によって悪の子女が生まれたのであり、悪の子女が生まれることによって悪の氏族、悪の国家、悪の世界が形成され、この世界圏内で五十億人類が存続しているのです。このような堕落圏内にいる今日の人類歴史は、喜びの歴史ではなく悲しみの歴史であり、人類も、喜びの人類ではなく悲しみの人類であるということに間違いありません。

 このような話を、お金を払って聞くことができますか。自分の家を売り、財産を売って、千年、万年、祭祀を捧げても教えてくれる人はいません。統一教会の文先生以外にはいません。これは宇宙の秘密です。聖書にもこのような内容はないでしょう? 聖書では、「善悪の実を取って食べて堕落した」と言っています。善悪の実とは何かの果実ですか。そのような幼稚園児にも及ばない実力をもって博士学位を検証し、博士学位の総会長になった文総裁を「異端である」と言うことができますか。「異端」という言葉は、端が異なっているということではなく、端が見えないという意味です。私の言っていることは正しいですか、正しくないですか。正しいのです。

  

 この世においても、自分の罪の実相を知っている人がいない場合は、罪を犯した者でも、どこに行っても罪を犯していない人として堂々と振る舞うことができるのです。しかし、とても幼い少年がその人の「罪を犯した現場を見た」と指摘するようになれば、その犯罪者はそこで屈服するのです。したがって、悪魔サタンを屈服させようとすれば、サタンの正体を暴き、罪状を暴露し、天上と地上において追放運動をすれば良いのです。

  

 神様は永遠の公法の主人公であられるので、神様の前にサタンを引っ張ってきて讒訴しなければなりません。サタンを告訴しなければならないのです。サタンが弁護するのを見て、検事の立場で論告し、どうすることもできないように厳しく締め上げてしまわなければなりません。そのようにして、堕落した天使長ではなく、堕落していない天使長たちが「正しい! やはり正しい! 正しい!」と言わなければなりません。


) 堕落によってサタンの血統を受けた


 アダムとエバは、堕落ゆえに血統が変わったのです。誰の愛によってですか。神様の怨讐であり、姦夫であるサタンの愛によって、サタンの生命体になったのです。男性の生命体と女性の生命体が、サタンの愛と混ざり合って一つになり、その二つによって結実したものが息子、娘です。したがって、その息子、娘は、サタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を継承しているのです。

  

 堕落人間は偽物になったので、接ぎ木しなければなりません。血統的に見れば、皆さんは先祖が違うというのです。なぜ養子にしかなることができなかったのかというと、父と母が違うからです。それゆえに、堕落が血統的になされたという論理が生まれたのです。堕落とは何ですか。血統を誤って受け継いだことです。誤った愛によって堕落したという論理を立てても理にかなっています。

それゆえに、統一教会で愛によって堕落したと主張している話を否定する道理がありません。聖書を見ると、善悪の実を取って食べて堕落したとなっているでしょう? 善悪の実が何なのか分かりますか。善悪の実が木の果実ですか。風が吹けば、落ちて、ころころ転がる木の果実ですか。違います。

  

 アダムとエバの心にサタンが入っていき、一つになったので、サタンの血統を受け継いだのです。愛の多い神様が、なぜサタンを許すことができないのですか。殺人者や強盗も許し「すべて許す」と言われ、イエス様を信じれば「許しを受ける」と言われたのに、なぜサタンを許してあげることができないのでしょうか。それは、人類の血統を汚したからです。それはどういうことですか。神様の立場から見るとき、サタンは姦夫です。愛の姦夫です。何の話か分かりますか。

  

 アダムとエバはサタンを中心として結婚式をしたので、サタンを中心とした愛、サタンを中心とした生命、サタンを中心とした血統を受けなかったと否定することはできません。もし善悪の実を取って食べずに堕落していなければ、神様を中心として結婚式をしていたのです。統一教会の真の御父母様が皆さんを祝福してあげたように、アダムとエバが成熟したのちには、神様が彼らを呼んで、神様を中心として祝福してあげたはずなのです。

 なぜ体を打つのですか。サタンの血、神様の怨讐の血を受けたからです。神様の怨讐が誰かというと姦夫です。神様の愛の怨讐です。姦夫です。姦夫の血を受けたというのです。天国の王権を受け継いで王妃になることができたエバが、悪魔の配偶者となって僕の相対になったのです。これは天地の秘密ですが、先生の時代になって初めて暴露されたので、サタン世界は退かなければなりません。

  

 なぜ神様は悪魔を憎むのですか。キリスト教の論理で言えば、キリスト教は「怨讐を愛しなさい」と言ったのですが、神様は怨讐であるサタンをなぜ愛することができないのですか。愛の怨讐を愛すれば、天地がなくなるというのです。統治法がなくなります。存在法がなくなるというのです。

  

 サタンが神様の理想的愛を破壊し、理想的生命、理想的血統を蹂躙したのです。そのようにして子供を生んだのですが、それが人間たちです。サタンの愛の表示、生命の表示、血統の表示であるその息子、娘を、神様は干渉することができません。

  

 なぜサタンが、今までの人類歴史で修養の道を行こうとする人々に間違いなく来て、うんざりするほどその首を押さえ、背中に乗って、犠牲にさせようとしたのでしょうか。そのサタンが何なのかというと、神様にとっては、神様の家族を強奪していった姦夫だというのです。本来、私たちの母が神様に侍り、平和の王国を成し、平和の天地を成し遂げなければならなかったのですが、父

と私たちを追い出してしまったのです。サタンが入ってきて、今日、人間をこのような姿にしてしまったのです。何かほかの罪を犯したのではありません。

  

 悪魔が堕落させたものとは何ですか。善悪の実を食べてどこを覆いましたか。口を覆いましたか、手を覆いましたか。下部を覆ったのでしょう? これが悪をまいた種になりました。ティーン・エイジャー時代、成熟していない時期に堕落したのです。この歴史的な人間世界の血統がそこから広がっていったので、それが人間の終末時代において盛んになるのです。

 全世界的に、青少年たちがアダムとエバのように、陰で独自的に愛の倫理を破壊させ、天地を恐ろしいとも思わない時になれば、サタンの全権時代が地上に到来するということを知らなければなりません。その時は、神様の撤退が目前に迫ってくるのです。

  

 血統を転換しなければなりません。その理由は、サタンの血統を受けて継承したからです。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。

  

 堕落とは、神様を中心としてアダムとエバが一つになるべきだったのに、神様の僕である天使長と一つになったことをいうのです。神様の血統を受け継がなければならない人間が、僕の血統を受け継いだというのです。ですから、堕落した人間がいくら神様を「父」と呼んでも、実感がわきません。

 これは、神様であろうと何であろうと構うことなく、すべてのことを自己中心的に転結させて考える堕落的本性が遺伝されているからです。それで、すべてが相克的な存在となって氏族と民族を形成しているので、少したてば、すべて分かれるようになるのです。このようにして立てられたものがサタン文化圏です。二つに分かれ、三つに分かれ、すべて分かれるものは、サタン圏に属しているのです。

  

 血統的に曲折が結ばれたので六千年かかるのであって、そうでなければすべて一日で復帰しています。能力多き神様が、血統的にこれが持病となっているので、こいつを一遍にすべて取り除くと死んでしまうのです。それゆえに、六千年かけてこられたのです。善悪の木の実を取って食べて堕落したのではありません。もしそうであったのならば、どれほど良いでしょうか。

  

 罪の基盤、堕落の基盤、悪の基盤、地獄の基盤、このようなものが、具体的にどのようにして生じるようになったのかということが問題です。アダムとエバに立ち戻って考えてみなければなりません。アダムとエバがなぜ堕落したのかという根源を掘り起こしてみれば、アダムとエバは、神様が命令した「善悪の実を取って食べてはならない」という言葉を不信して堕落しました。二番目は、自己中心的ということです。

 三番目は、自分を中心として愛そうとしたことです。これが、堕落した中心骨子の内容なので、この内容と同じようにすることはサタン側だという結論が出てきます。

 堕落した人々は、みな不信の愛と自己中心的愛を行った人々です。結局、自己中心的愛を主張しているのが、この世界の人だと思うのです。

  

 無知には完成はあり得ません。サタンとは誰ですか。神様の姦夫です。このような問題を整理してあげたのに、これにすべてふたをして天国に行くのですか。ふたをして救われるのですか。とんでもないことです。でたらめな者たち。そのように信じて救われるのであれば、私たちのような人は、既にみな救われて余りあるというのです。このような苦労はしません。

  

 先生の時代になって「堕落は愛によってもたらされた結果だ」という事実を明らかにしたということは、驚くべきことです。これは、歴史的背景を通して理論的に体系化されたものであり、否定することができない内容です。


) 蛇が誘惑したということの意味


 男性と女性のそれは何ですか。それは毒蛇です。毒蛇のわなです。「蛇が欺いた」と言うでしょう? 蛇が誘惑したということはどういうことですか。それは正に生殖器のことを言ったのです。女性の生殖器です。毒蛇よりも恐ろしい生殖器がどれほど多いですか。同様に男性の生殖器です。その毒蛇のような生殖器で誘惑して強奪しようとします。それを誤ってかみつけば、大変なことになるのです。国が滅び、世界が滅びます。天国、永生の道がふさがるのです。何の話か分かりますか。

  

 地球上に生存する男性と女性は、すべてサタンの生きた毒蛇です。女性の生殖器は、男性のそれに毒を吹き出す毒蛇です。失う日には一族が滅びるのです。それゆえに、蛇で比喩したのです。分かりますか。皆さんは生殖器をもっていますか、もっていませんか。怒った毒蛇が口を開いているのですが、そこに手を押し込みますか。その愛の生殖器を入れますか。

 血統を誤って使えば、大変なことになります。血統を使うというのはどういうことですか。愛するということです。ですから、男性と女性は、それを誤って使えば大変なことになるのです。正しい種を植えなければなりません。皆さん、エデンの園の毒蛇とは、何だと思いますか。男性の生殖器です。それを意味しているのです。女性のそれは、毒蛇の口です。口を広げた毒蛇です。毒をもっているというのです。一度連結されれば、すべてのものが終わるのです。天国が一度に破壊されます。生殖器は蛇の口であり、毒を含んだ開かれた口です。

 それゆえに、化粧品でよく整えた女性は、美しい蛇だというのです。蛇は、周りで静かに見ていて、近くに来れば、突然攻撃するのです。女性は、あまりにも恐ろしい存在です。蛇の口と、蛇の棒をもっているのです。それが生殖器です。本来は、そのような毒をもつ悪い血統ではなく、毒をもつそのような器官ではありません。しかし、それを誤って使えば国も滅び、家庭も滅び、権威も何もすべて滅びるのです。それはどれほど悪い毒でしょうか。毒を含んだ蛇の開いた口だというのです。

  

 蛇とは何ですか。男性の生殖器です。男性の生殖器が最も好むものとは何ですか。女性のそれです。そうですか、そうではありませんか。ですから、危険千万なのです。火薬の導火線に火を付け、ガソリンまでまいて、少したてば爆発するので警告したのです。男性の生殖器は蛇と同じです。妻たちは、行って夫のものを静かにのぞいて見てください。なぜ笑いますか。露骨な話のほうが理解しやすいので、このように話すのです。

 蛇は何だと言いましたか。天使長の生殖器です。実感がわくでしょう? 終わりの日が来たので、今回そのような面のことをすべて教えてあげるのです。女性のそれは何ですか。口を開くというのです。男性が興奮し、お互いが興奮すれば、それが開くでしょう? それがじっとしていますか。妻をめとるということは、それを合わせるということではありませんか。それを誤って合わせれば、国が滅びるのです。千年、万年、毒が抜けないのです。

  

 男性と女性は、みなとても素晴らしい人たちを願っています。人それぞれ多様に願っているのですが、それをこのような観念から一度考えてみれば、それは毒をもった蛇です。エイズよりもっと悪いのです。一度ここに連結されれば、すべてのものが滅亡するのです。生殖器を誤って使えば、すべてのものがきれいに滅亡するのです。繁栄するのではありません。そこが最も悪い場所になってしまいました。そして、最も恐ろしいものがそれです。とらよりも、ライオンよりも、もっと恐ろしいのです。一度でも誤って使えば滅亡です。地獄に落ちるのです。これは深刻な話です。

  

 蛇とは何かというと、男性の生殖器のことを言っているのです。男性の生殖器は、毒蛇の頭と似ているでしょう? 常に穴を求めて歩き回っているのです。女性の生殖器は、ちょうど口を広げた毒蛇の洞窟とも似ています。一度かんだり、かまれたりすれば、その毒が全身の血管に広がって永遠に死ぬのです。淫乱とは、個人はもちろん、家庭、氏族、国家が破綻する道です。蛇が善悪の実を取って食べたからです。そのことを意味しています。男性たちは、それをもって女性を誘い込もうとします。

  

 人類がこのように滅びるとは、誰も知りませんでした。最も恐ろしいものです。火薬の筒とすれば、それほどの火薬の筒はありません。それゆえに、三時間に一度トイレに行くとすれば、二十四時間なら、一日に八回はトイレに行くということができます。そのたびに「おい、蛇の頭、出てこい!」とそのように言いなさいというのです。それが、自分の本当の生殖器ならば、神聖な生殖器です。

 美人が来てありとあらゆる誘惑をしたとしても、そこに動じることなく越えていくことができるように、崇拝をしなさいというのです。敬拝ではありません。崇拝というのは、敬拝より以上のものです。服従より以上のものです。先生はそのような訓練を受けました。誰が誘惑してきても動じません。人に会って一時間見て、三時間ずっと見つめて、目をぱちぱちさせて…‥。そうでなくては神様の息子、娘になることは難しいのです。ですから、「宇宙主管を願う前に自己主管せよ」という言葉は、すなわち生殖器を主管しなさいということです。

  

 男性の生殖器は、堕落前の天使長と同じです。二つの舌をもって欺き、誘惑して、完全に地獄にほうり込んだように、そのような蛇の頭のようなものを中心として、再び堕落させる行為をしているのです。蛇がかむというのです。蛇に取って食べさせたというのです。男性にとって、女性を取って食べるということは、そのこと以外に何かありますか。食べるということは、それしかないでしょう。それは恐ろしい器官です。それが天使長、蛇の頭のような男性の生殖器なのです。

  

 根本はどこかというと、女性と男性の生殖器です。生殖器自体が毒蛇の歯と同じです。一度かまれれば、一つの家庭が崩壊していくのです。どれほど名門の家系であっても、それを誤って使えば、あっという間に崩壊してしまうのです。たとえ王族であったとしても、めちゃくちゃになってしまうのです。今日のエイズというものは、終わりの日における神様の審判です。


二、堕落の結果

 一) 堕落人間と堕落した世界の姿

(1) 青少年問題とフリーセックス


 アダムとエバが青少年、ティーン・エイジャーの時代に、木陰でそのように堕落したのと同じように、世界史的に実を結ぶ審判の終わりの日が来ることによって、今日、全世界の青少年がフリーセックスに陥ってしまったのです。フリーセックスとは何ですか。悪魔のソドムとゴモラのわなです。末梢神経を刺激し、そこでおしまいになるのです。すべて崖の下に落ちるのです。ディスコでどのような踊りを踊りますか。ツイストは蛇の踊りです。蛇は体をねじるでしょう? ツイストとは、ねじるという意味です。悪魔がまいたとおりに、世界でこれを流行させて、人類を誘惑するのです。

  

 淫行によって堕落したので、終わりの日にはそのとおりになります。青少年がすべて堕落してしまうのです。先祖がそのように種を蒔いたので、収穫期には、そのように青少年が世界をカバーし、世界を滅亡させるのです。それが今日です。それを否定できません。フリーセックス、フリーセックスというものがどこにありますか。誰がフリーセックスを主張しましたか。アダムとエバです。そうですか。そうではないですか。堕落したので、フリーセックスの先祖はアダムとエバです。

  

 エデンにおいて、フリーセックスによって堕落したのでしょう? アダムとエバがフリーセックスしたのではないですか。終わりの日にもフリーセックスです。これを救わなければ、すべて滅びなければなりません。それを救うためのものが、先生の生涯です。それを収拾し、渡っていくことができる橋を造っておかなければなりません。それをしなければ、すべて落ちます。男性と女性がすべてそこに落ちて死にました。ですから、太平洋を渡っていくこの橋を架けなければなりません。先生でなければ、橋を架けることはできません。そして、川を渡っていったのちには、その橋は必要ありません。蕩減というそのようなものは必要ないのです。絶対セックス、絶対愛の時代に移っていくのです。

  

 ディスコダンス、酒、タバコ、それらはすべて関係ありません。フリーセックスも関係ありません。ホモセクシュアル、レズビアン、独身主義者たちも必要ありません。いかなる風が吹こうと、泰然と自分自身の位置を守っていくのです。風が吹き、台風が吹き、地球星がどれほど移動したとしても、東西南北が変わらないのと同じように、統一教会の行く方向が変わることはないのです。ですから、ここで一度統一をしておけば、これが最後です。

 東西四方から押し寄せてくるこのフリーセックス、淫乱の波を、誰が防ぐのですか。享楽主義、末梢神経の享楽を求めていくこの波を、誰が防ぐのでしょうか。麻薬でも満足させることができません。愛も不足し、麻薬、幻覚剤を求めていく「人種の末」になりました。それが体です。

  

 今、アメリカにおいて皮肉なことは、青少年の間でフリーセックスが蔓延していても、自分の家を離れるということです。これは、一方では天側です。家を出るので、血族から抜け出すことができ、国から抜け出すことができるのです。アメリカの青少年には、世界がなく、国がなく、家庭がなく、父母がいません。フリーセックスを中心として「ホモセクシュアルだ」「レズビアンだ」と言って、男性と女性を否定しているのです。このようになれば、人類は一世紀以内ですべてなくなるのです。悪魔の魔法に引っ掛かってうめいているこの人類の惨状を御覧になる神様の心は、どれほど痛むだろうかというのです。

  

 ヒッピー、イッピーの運動や現実における淪落問題、麻薬問題等は、すべて共産主義者たちの世界戦略のある一面として現れた事実であるということを、私たちは知らなければなりません。フリーセックスやホモセクシュアル、レズビアン・ムーブメントなどのすべてのものは、人間の権利と人間の権威を破綻させる一つの行動にすぎません。このように見るとき、家庭基準を中心とした破綻、社会基盤と教会基盤を中心とした現在の破綻形態は、既に極に達し、誰も、いかなる神学者も、また国家のいかなる力をもっても防御することができない段階に達したと思うのです。

 私は、アメリカをよく知っています。このアメリカは「フリーセックスだ」「何だ」と言って、一晩楽しんでグッバイする愛を行っています。すべて個人主義であり、自己弁解主義であり、自分が中心でなければ嫌だというのです。あいさつするのも外交的あいさつであり、目を合わせながらも心は別の所に行っている外交的あいさつです。すべて適当主義による感情、生活風習です。

  

 サタンは、どのような武器を利用しましたか。空気の武器を利用しました。それがタバコです。次に液体の武器は酒です。それから個体の武器は何ですか。麻薬です。このようにして、精神まですべて腐らせるのです。体を腐らせ、精神を腐らせ、鼻の穴から肺をすべて腐らせるのです。ですから、私たちは酒を飲まないのです。タバコを吸わないのです。人類を滅亡させるためのサタンの武器です。神様と通じることができる精神を妨害する要素であるこの三つは、怨讐の最高の武器です。その次には何ですか。愛です。フリーセックスです。愛の秩序を破綻させるのです。そのようなものを私の手ですべて整備するのです。

  

 フリーセックス、ホモセクシュアル、レズビアン、このようなものはあり得ないのです。終末となり、人類の歴史上になかったものが、あからさまに太陽世界に現れるようになったのです。この宇宙においてあり得ないものがあからさまに現れるようになったのです。愛の秩序もすべて完全に破滅です。ですから、アメリカは地獄のどん底になっているということを知らなければなりません。愛の秩序を完全に破壊し、麻薬を中心として、男性と女性の生理的秩序を完全に破壊したのです。それは何かというと、生きた若い青年たちを破壊させることです。道義や秩序というものを破壊させることです。

  

 今日、「性解放だ」、「フリーセックスだ」と言って醜悪になったこの世界を、文総裁の手ですべて直して定着させようというのです。文総裁は、そのようにすることができる医者としての特許をもっている人です。それは、私しか直す人がいません。真の愛を教えてあげることによって直すことができるのです。今後、統一教会を信じざるを得なくなる時が来るはずです。皆さんが信じることができなくても、皆さんの息子、娘は間違いなくそのような道を行くことができるように、むちで追い立ててでも案内してあげるべき責任があるということを通告します。既成教会にそのような能力がありますか。注射する薬がありますか。

  

 神様に対して恥ずかしい愛を行ってはならず、人類に対して恥ずかしい愛を行ってはならず、この土の塊に対して恥ずかしい愛を行ってはなりません。今まで、ヒッピーやイッピーだというフリーセックスの輩には、すべてそのような過去の経験があり、ありとあらゆることを行っているのですが、それは自分のためのことですか。それが愛というものですか。人類を破綻させ、神様の顔に泥を塗り、地球星に愛の血を吐くことだということを知らなければなりません。それは、地の塊に血を吐くことと、人間本然の血をまくことと同じです。そこで踊りを踊って何かをして大騒ぎするのです。分かりましたか。

  

 終わりの日に神様が地上天国を形成し、収拾して天上天国に入っていこうとすることをサタンは知っているので、神様とは反対になるものを主張するのです。代表的には、フリーセックスを中心として一つしかない初愛をめちゃめちゃにしてしまいました。初愛は永遠なものです。それを全く価値のない愛にしてしまったのです。このような価値のない愛の天地になってしまったのです。

 サタンはそれを知っているので、男性は男性同士で結婚し、女性は女性同士で結婚するフリーセックスの世の中をつくってしまったのです。麻薬によってめちゃくちゃになり、歓楽だけを追求するのです。肉体的満足に酔っていれば、地獄直結の判決を受けるようになります。これを誰が清算するのですか。ほかならない文総裁です。真の父母が清算しなければならないのです。

  

 すべての被造物は、愛を中心としてペアとなって連結しています。その愛を除いてしまえば、砂粒のように散り散りばらばらになるのです。皆さんはどのような愛を願いますか。愛の世界には、個人主義の概念はありません。ペアの概念です。昆虫の世界においてもプラスとマイナス、主体と対象がなければなりません。これがすべての被造物の存在様相です。はっきりと分かりましたか。


(2) 性道徳の紊乱


 アメリカでは、どのようなことが起きているのかというと、高位層の人々が性解放というこのような命題のもとで、弁護士ならば弁護士協会に集まった人々が、会議したのちにどこかのホテルに入っていって、お互いに女性を交換しているのです。毎晩自分の友人の妻と寝て、一週間あれば、すべての友人の妻と寝ているのです。

  

 夫のいない女性が化粧しても良いのですか、良くないのですか。それは、街角の売春婦です。街角の売春婦たちはそうでしょう? 結婚していない若い娘がルージュを塗って歩いていますが、ルージュがどれほど汚いか知っていますか。若い人々の本然の自然色が美しいのです。千年見ても醜くなく、美しいのです。その色がどれほど美しいことでしょうか! それ以上の色を出すことはできません。ルージュではその色を出すことはできないのです。

  

 家庭が滅べば、根本的に滅ぶのです。青少年問題、家庭破綻です。完全な家庭が一つもないというのです。終わりの日においては、女性たちは二人の男性に対するのです。ですから、性解放という言葉も出てくるのです。それをすべて繕い、ぼろきれを繕って、絹の服以上にして神様に着せてさしあげなければならないのが真の父母の責任です。どれほど息が詰まることでしょうか。

  

 シカゴもロサンゼルスも、ニューヨークと同じです。アメリカの大都市は、すべて同じです。サタンは性紊乱、性解放を中心として、キリスト教の中心となる家庭を完全に破綻させてしまえば、今まで世界的に基盤を築いておいたものがすべて崩れると考えるのです。それで、すべてにフリーセックスという注射をするのです。そのようになれば、完全にサタンになるのです。

  

 現在のアメリカにおける青少年の淪落問題を、アメリカ政府が解決することはできますか。それは、軍事力でも、経済の力でも、科学技術でもできません。最近では「性解放だ」と言って、ありとあらゆる邪悪なことが起こっているでしょう? 愛とはそのようなものですか。永遠の生命をもつことができる真の愛がこのようになってしまっているので、ここに何の希望がありますか。絶望です。男性と出会っても絶望であり、息子と出会っても絶望であり、父母と会っても絶望であり、どこに行こうと、会えば絶望です。

  

 世の中が修羅場となったので、エイズという病気が生じました。「性解放だ」と言って、混乱が広がっています。真の愛を見つけることができません。人間の本心はそれを探して訴えているのですが、それを探すすべがありません。世の中は、行けば行くほど傷だらけになるのです。外的世界の愛というものは、すべてたたきつぶすのです。

  

 アダム一人から始まったことが、現在になると「性解放だ」「何だ」と言って、男性の混乱状態が起こるようになったのです。親族の相姦関係まで起きているのです。これは、動物世界でも見ることができない悲惨な現象です。このような家庭破壊と愛の現象は、天の前では許せないことであり、見ることもできない世の中になったというのです。

  

 夫婦が完全に一つになる時は、天運が保護するのです。滅ぼうとしても、滅ぶことができません。家庭の運、社会の運、国家の運、世界の運、天地の運、神様の愛の運勢が幾重にも重なり合って保護するのです。ところで、これ自体を壊すことを世の中がそっとしておきますか。その種子が絶滅するのです。天運の保護を受けたその位置を破綻させる離婚をすることができますか。浮気をすることができますか。今日、性解放を主張しているこの世界を、私の手ですべて整理しなければなりません。きれいに整理しなければなりません。今までそのようなことを整理してきたのであり、アメリカ社会も「文総裁以外にはそれを治めることができる博士はいない」と言っているのです。ドクター、医者がいないというのです。

  

 子女が父母を殺したといううわさや、父母が子女を殺したといううわさが聞こえてきます。甚だしきに至っては、どのようなうわさまで聞こえてくるでしょうか。子供が母と暮らすといううわさまで聞こえてくるのです。最後だというのです。そのようなうわさを聞いたことはないでしょう? 聞いたことがありますか、ありませんか。たくさんあるのですが、ここまでうわさは立ちませんでした。今、そのような時が来たというのです。これを性解放というのです。共産党の世界では、人間を動物と等しく扱っているので、このようなことは問題にもなりません。最後の時だというのです。いとこ、叔父、母を区別しますか。犬は、子と母が交尾してまた子を産みますか、産みませんか。人間世界にそのような時が来れば、終わりになるのです。

  

 最近では、独身生活を強調し、またホモセクシュアル(男性同性愛)やレズビアン(女性同性愛者)のようなものが問題になっていますが、ホモとか何とかいうものは、どうしてそのようになるのでしょうか。そのようにならざるを得ない内容とは何かというのです。近親相姦関係によってそのようになったのです。おじいさんが孫娘を蹂躙するのです。自ら進んで蹂躙するのです。父親が自分の娘を蹂躙するのです。なぜそのように近親相姦関係になるのかというと、結局性解放という時代、フリーセックスの時代が来たので、思いのままに接触しているのです。接触するのですが、それが遠くの町の知らない人ではありません。最も近い親戚関係において起きているのです。

  

 皆さんが知らなければならないことがあります。今、ニューヨークはどのようになっているのかというと、最高の裕福な人と最下級の人々だけが残っているのであって、背骨のような中流階級の人々は完全に荷物をまとめて逃げていきました。昨年一年だけでも六十万人が逃げていったのです。下流階級はすべてサタンの基盤になっているので、売春婦であり、性解放といって乱れています。ですから、「混乱したニューヨークで子女を教育させることはできない」と考えている人は、すべて逃げざるを得ないのです。今まで、ホテルというホテルは、すべて娼婦たちが売春をする市場になっていたというのです。


(3) 同性愛


 私たち統一教会の人たちは、サタンが喜ぶ世界の悪事をすべて消化しようと思っています。アメリカにおいて、ゲイ・ムーブメント(同性愛運動)といって「ホモセクシュアルだ」「何だ」という問題が起きていることを、私が消化します。フリーセックスというものを私が消化します。淪落問題、あらゆるならず者の巣窟、悪党、テロ、マフィアなどを私が消化します。世界で最も難しい問題に私が責任をもちます。それから、共産党を私が消化します。それはすてきなことですか、息が詰まることですか、絶望ですか。すてきなことですか。きまりの悪いことですか、すてきなことですか。誤れば、きまりの悪いものになります。それを知るには知りました。はっきりと知りましたか。

  

 アメリカでは、ゲイ・ムーブメントが多いでしょう? ホモセクシュアルが多いでしょう? そのような者たちは、みな創造原理を知らないからです。しかし、創造原理を知っている統一教会の食口たちは、「結婚しなければならない」と絶対的に教育を受けたので、ゲイ・ムーブメントは完全に壊れました。皆さんのお母さん、お父さんは、出ていって踊ってフリーセックスをして、すべて分解され、粉々に壊れて、家庭がすべて崩壊したのですが、皆さんは、いくら踊ったりしても堕落論を知っているので、フリーセックスになり得ますか。

  

 ホモセクシュアルをすることができる法を定めるというのですか。法を定めるのですか。それは、太陽を見ることも恥ずかしく、木を見ることも恥ずかしく、草木を見ることも恥ずかしく、犬を見ることも恥ずかしい話です。そのようなことをして、どうして人間と同じように服を着て暮らすことができますか。御飯を食べて暮らすことができますか。「ホモセクシュアリティーをする者たちはすべて異端者だ」と反対するようになっているのです。

  

 それで、今、アメリカでは何ですか。ホモセクシュアリティーやレズビアン、すべてこのようなものです。相対を否定する文化世界がアメリカで膨張しています。天使に相対がいますか。男性は、昔、神様を裏切ったエバに従っていきましたが、今からは、神様を支持するエバに従っていかなければなりません。それで、日本の女性とたくさん結婚させるのです。アメリカ人は女性の話をよく聞くようになっているのです。アメリカ人にとっては、女性は女王なのです。

  

 一人で暮らす女性が幸福でしょうか。ここにレズビアンの女性とホモセクシュアルの男性が集まったとすれば、先生のみ言を聞いてそれを継続しなければならないと考えますか、直さなければならないと考えますか。「それは間違っている」と、レバレンド・ムーンに反対できるのかというのです。全世界の若者たちは、そのようなものがあるということを知りませんでした。神様に会おうとすれば、永遠の属性をもった、唯一、不変の属性をもった愛をもたなければなりません。それをもたなければ、真の愛の主体に会うことはできず、真の愛の道に同参することはできないという事実をはっきりと知らなければなりません。

  

 ホモセクシュアル、レズビアンを誰の手によって? レバレンド・ムーン、私の手によってです。生きる屍となっていき、麻薬で病んで死んでいくこの若者たちを誰の手によって解放するのですか。私の手で解放するというのです。それから、フリーセックスを主張し、賭博場を好んでいる人々を、誰が解放してあげますか。アメリカのキリスト教に、誰かそれをする人がいますか。アメリカの教会の牧師の中に誰かいますか。それから、共産党を誰が防ぐのですか。レバレンド・ムーンが防ぐのです。

  

 アメリカのホモセクシュアルやレズビアンのような人々はどうですか。これは自分勝手な愛です。すればするほど破壊されていくのです。破壊をもたらすのです。人間破綻、家庭破綻、子女破綻、国家破綻、世界破綻、宇宙破綻をもたらすというのです。破壊されれば自然になくなります。人間がそうなる時は、この人類が滅亡するのです。

  

 今、アメリカで、レズビアンやホモセクシュアルやゲイのようなものが起きています。それは罪です。罰を受けなければなりません。彼らがもっている病気は、普通の男性と女性、正常な男性と女性が暮らす所にはないものです。彼らには、普通の夫婦にはない病気が蔓延しているのです。愛の原則を破壊させるそのような性病は、罰です。それで、センター・ラブが必要なのです。皆さんは、センター・ラブから生まれたのです。センター・ラブとは何ですか。父母の愛です。これは永遠に否定することができません。絶対に否定することができません。(板書されながら)これ自体を否定して補強することはできても、これは否定することができません。

  

 最近は、「ホモセクシュアルだ」「レズビアンだ」と言って大騒ぎだというのです。そのようなことをすれば滅びるのです。一世紀ももちません。いくらももちません。そのように生きていれば、すべて滅びるのです。アメリカの文化が何を根拠にしているのかというと、破壊的で、滅亡するサタンの愛の文化圏に立っているのです。サタンの愛の文化圏にあるので、それをほうり出さなければなりません。アメリカの文化は、サタンの愛の文化圏に立っています。統一文化は何ですか。これは神様の愛の文化圏に立っています。簡単です。ここでは、フリーセックス絶対反対です。ホモセクシュアル絶対反対です。麻薬も絶対反対です。すべて反対です。

  

 アメリカの女性たちは、「私たちには老いた父母は必要ありません」と言います。老いた父母とは誰ですか。父母、祖父母のことでしょう? 終わりの日において、サタンがそのようにしたのです。なぜですか。サタンは、神様の目的を知っているからです。神様がこの公式をつくりたいと思っていらっしゃるので、サタンはその基盤を壊そうとするのです。誰が攻撃しますか。サタンです。それを知らなければなりません。また、その次には「私たちは、夫は必要ない! 妻も必要ない!」と、このように言うのです。それは本当におかしな制度でしょう? 誰がこのようにしたのですか。サタンです。それがサタンの目標です。ホモセクシュアリティー、レズビアン、これらはすべてサタンによるものです。その次に、「私たちには、赤ん坊は必要ない!」と言うのです。

  

 麻薬を吸い、ホモセクシュアルやレズビアンといったそのようなことを体験した人々が、そこから抜け出すことは、どれほど大変なことでしょうか。人間の地獄です。そのような網に引っ掛かり、サタンのえじきとなっていくアメリカの若者たちを失ってしまうことはできないというのです。ムーニー以外に、誰が救ってあげますか。これをしなければ、アメリカはありません。

  

 男性と女性は横的です。水平です。縦的な愛という基盤を中心として、永遠の愛を中心として、一生の愛を中心として接ぎ木をするためのものが、男性と女性の結合です。東方の人、西方の人が中央線を失ってしまったので、訪ねて入っていってこれを接ぎ木しようとするので、結婚は絶対的にしなければなりません。結婚に反対する人がアメリカには多いでしょう? ホモセクシュアルやレズビアンのような者たちが多いというのです。息子、娘を生むことを嫌がっているのです。息子、娘をもつことができなかった人は、霊界に行けば不合格者です。それは宇宙の公式です。

  

 今に見ていなさい。邪悪なフリーセックスは一日でなくなります。ホモセクシュアルも一日でなくなります。レズビアン、女性が女性と結婚しているのです。全くそのようなことがどこにありますか! 動物世界の昆虫もそのようなことはしません。これが人間がですか。また、「神様はいない」と言う邪悪な者たちも、すべて消えてしまわなければなりません。唯物史観がすべて消えていくのです。

  

 男性は女性に疲れ、女性は男性に疲れて、毎日のように愛に飢えて回っているので、いつも孤独で、みなホモセクシュアルやレズビアンになって、ごみ箱に入っていくようになってしまうというのです。アヘンを吸って、すべて自滅の窮地に陥っていくのです。それに誰が責任をもつのでしょうか。アメリカの国務省や国防総省が責任をもちますか。大統領が責任をもちますか。皆さんが責任をもたなければなりません。

  

 アメリカは、終末に天使長の立場となり、天使長国家なので、女性が女性としての資格をもつことができないのです。それで、ホモセクシュアルやレズビアンが出てきて「女性同士で結婚しよう、男性同士で結婚しよう!」と言うのです。天使長はパートナーシップ(相対関係)を認めません。所有権を認めません。女性を認めません。それゆえに、すべてそのようになっているのです。一方では反対しながらも、一方では自らの道を率直に神様の前に提示しなければならないのが、今のアメリカの現実です。レズビアンやホモセクシュアル、家庭破壊というものをきれいに清算しなければなりません。

  

 アメリカ統計局の資料によると、急増する離婚率は、一九七〇年から一九九〇年までで三倍も跳ね上がり、六家庭に一家庭は離婚するという結論が出てきています。そして、全国的に三〇パーセントの子女が片親のもとで育っているという実情です。さらにその上、同性愛夫婦という世紀末的な奇現象まで広がっているのです。

  

 不道徳と淫乱、そして退廃風潮は、享楽主義とともに家庭を組織的に破綻させています。一部の現代人の間では、「伝統的な家庭以外に、同性愛の人々もまた別の類型の家庭を築くことができ、彼らは養子や人工受精を通じて子女をもつことができる」と考えるまでに至っているのです。

  

 今日、世界の問題は深刻です。アメリカのような所に行けば、男性が男性同士で結婚し、女性が女性同士で結婚する同性愛者がたくさんいるのです。全くそのような道理がどこにありますか。生理的に、そのようにならないようになっています。それは一代で全滅してしまいます。すべてなくなるというのです。天運が追放してしまいます。そうだからといって、彼らの心に幸福があるわけでもありません。苦痛は苦痛として受け、より複雑な問題が起きるというのです。それゆえに、環境には、必ず何があるのですか。主体と対象があるのです。皆さんは、これを知って社会生活をしなければなりません。

  

 フリーセックスこそ、この地球星から完全に根絶させなければならない邪悪な風潮です。このフリーセックスと関連した要素は、麻薬、暴力、同性愛、エイズなどのような人類を破滅に追い込む因子ばかりなのです。

  

 今日、ホモセクシュアルやゲイのような者たちが出てきて父母を否定し、夫たちもありとあらゆることを行い、妻たちもありとあらゆることを行っているのですが、これは宇宙の天法に背くことなので、宇宙の刑法による裁きをあの世に行って受けるのです。


(4) 近親相姦


 近親相姦関係を中心としたフリーセックス、ホモセクシュアル、レズビアンを中心として「亡国の種」となって滅亡の世界に至るので、これに対して、神様が最後の鉄槌を下したものがエイズです。エイズは、一年から八年の間、潜伏するのです。毎日のように病院に行っても分かりません。ですから、あなた方には、二世である息子、娘の嫁や婿を正しくもらう自信がありますか。しっかりしていなければなりません。一家一族がすべて滅びるのです。このようなものが韓国にまで押し寄せてきているのですが、無知蒙昧な韓国の青年たちが「それは良いな!」と言うようになれば、滅亡の底無し地獄へ真っ逆さまに落ちるようになるということを知らなければなりません。なぜ近親相姦関係をさせて家庭を破綻させ、国を滅ぼし、世界を滅ぼすようにしたのでしょうか。来られる再臨主は永遠不変の血族をつくるために、数千万代をすべて神様が創造される時に理想とされたその血族をつくるために来られるのですが、サタンがそれを完全に台無しにしてしまったのです。台無しにしてしまったのですが、レバレンド・ムーンがこれに着手したのです。それは、統一教会の文先生でなければ分からないことです。

  

 統一教会は、天のための主流です。主流の位置にいるので、汚された罪悪世界のすべてのものを追い出さなければなりません。ですから、フリーセックスやホモセクシュアルをしてめちゃくちゃになったものをすべて追い出さなければなりません。アメリカは四十年の間で、どうして近親相姦、フリーセックスの世の中になったのでしょうか。フリーセックスを防御することができる専門家は誰ですか。これを防御することができる人は、来られる再臨主です。再臨主を中心として、この終わりにすべてが転換されなければならないのですが、来られる主人公を追放してしまいました。再び戻ってくることをサタンは知っているので、サタンが四十年間でアメリカをめちゃくちゃにしたのです。

 それが近親相姦でしょう? 近親相姦と関係するのです。ですから、離婚するのも、本妻が伝統を継承できなかったので、妾が継承することができる時になったということです。その妾たちが被害を受けないようにするために、神様が離婚制度を許可されたのです。第二次大戦以後、女権運動とともに分裂が起きたのです。離婚もすることができる自由環境になったので、天国に帰っていくのに支障がないようになったのです。まさしくそのような時代相が現れたのです。

  

 近親相姦関係が来るということは、絶対的に近親相姦関係を否定する神様のみ旨の世界が来るということを意味します。なぜでしょうか。サタン世界は、神様のみ旨の時が来るのを台無しにするための世界なので、み旨に近い時が来れば来るほど、世の中にはそれと反対になる現象が現れるのです。

  

 終わりの日に離婚時代が到来し、アメリカは新婦国家であるにもかかわらず、このような混乱した立場に置かれるのです。近親相姦関係がここにあるのです。これは、イエス様の家庭で成されて解決するはずでしたが、イエス様の家庭、再臨主を追放してしまうことによって、アメリカ、エバ国家、自由世界が中心存在を追放したので、フリーセックス圏内に巻き込まれ、地獄に完全に落ちて滅びてしまうのです。再臨主が来てこの道を変えておきさえすれば解決するはずでしたが、再臨主を追放したので、そのまま地獄に落ちて近親相姦関係、フリーセックス、ホモセクシュアル、レズビアン、麻薬時代となり、地獄膨張世界になってしまったということを知らなければなりません。歴史はそのように蕩減を負っていくのです。

  

 終わりの日にはどのような時代が来ますか。近親相姦関係が起きるのです。なぜそのようになるのでしょうか。イエス様の父親は誰ですか。ザカリヤです。キリスト教では「聖霊によって身ごもった」と言いますが、うそです。無精卵を知っていますか。種がない卵です。卵は同じなのですが、種が入っていないのです。今日、堕落した人間は無精卵です。神様とは関係ないというのです。ですから、永生がありません。

  

 マリヤは自分のお姉さんの夫を盗んだのであり、その息子のイエス様は腹違いの妹と結婚するのです。これは近親相姦です。これが明らかになる日には、道人たちが刺激を受ける内容です。朝起きると、死ぬほど驚くようになっていたというのです。自分の妹を強奪するというのですから、死ぬほど驚くようになっています。

 ザカリヤ家庭は、うんうん苦しみながらもそのことを話すことができないというのです。終わりの日に現れるこのような現象は何ですか。近親相姦です。それが、新婦となったキリスト教の運命です。来られる主の前に、世界的家庭を中心として、新婦となったキリスト教を中心として、このような環境が展開するのです。分かりますか。入れ替えなければなりません。それゆえに、キリスト教では、妾が正妻になり、正妻が妾になる運動が起きるのです。

 このようなすべての問題を解決することができる秘密を知る人は、来られる再臨主以外にはいません。正妻から盗んでくるということが、蕩減現象として近親相姦関係というかたちで現れる環境になるのですが、それが今、本妻の位置に立ったということが事実ならば、そのままではくっついたまま落ちてしまうので、命令してあげなければなりません。ここで誰かが来られる再臨主を中心として、そこから逃避しなければなりません。しかし、真の御父母様を中心として元に戻っていけるように入れ替えることができなかったので、そのまま地獄のどん底に落ちたのです。

  

 ですから、母親も自分の姉の夫を奪ったのであり、また息子は自分の妹と結婚をするのです。その家庭に破綻が起きるのです。雷に打たれるのです。これは何ですか。このようなことから近親相姦関係が起きるのです。乱交事件やフリーセックスという観念がここにあるのです。

  

 マリヤがエバの使命を果たすことができなかったのです。復帰解放です! そのようなことも分からないキリスト教は、終わりの日には秋風に散る木の葉です。審判の時には、秋風に散る木の葉のように落ちます。世の中に不信の愛をすべて審判するための風が吹くので、すべて落ちるのです。そして、全世界ではフリーセックスや近親相姦が展開するのです。近親相姦とは何ですか。父が娘と暮らし、息子が母と暮らすことです。おじいさんが孫娘を連れて暮らし、母が息子と暮らすのです。ですから、動物よりも劣るのです。完全に勝手気ままです。

  

 父子関係、夫婦関係という最も近い愛の関係から混乱が起こるのです。サタン世界、悪のその世界の愛の痕跡で、残すことができるものは一つもありません。ですから、神様がすべて整理してしまうのです。近親相姦が起きるのです。おじいさんが孫娘と暮らすのです。父親が、妻がいるにもかかわらず、娘と愛を交わすのです。全くそのようなことがあり得ますか。お兄さんと妹と、兄弟同士で暮らしているというのです。そこまで下りていきます。

 サタンは、神様が最も貴く思っているものを破綻させようとするのです。神様が最も貴く思っているものは、近親相姦関係の相手ではありません。絶対理想的相対関係を近親相姦関係にしてしまったのです。サタンはそれを知っているので、神様が立つことができる足場を完全に破壊するために行動したのです。

  

 近親相姦は、神様と関係ありません。完全にサタンとペアになったのです。どのアメリカ人もそれを否認できないはずです。これは摂理観です。分かりますか。すべて人生観を一八〇度転換しなければなりません。そのようにしなければ希望がありません。そこには世界、国家、民族、氏族、家庭、個人、すべてありません。すべて堕落し、サタンとペアになってしまったのです。サタンが動けば、人類がすべて堕落と滅亡の地獄に落ちるのです。これがサタンの観点です。

  

 洗礼ヨハネも、イエス様がマリヤを通じて、その非法的な妾を通じて生まれたということをすべて知っていました。それで、ヨルダン川で「神様の息子だ」と証したのですが、よくよく考えてみると「全く、神様が伝統的メシヤを送るのに、妾の子供を送るとは!」と思ったのです。ここで見ると、イエス様は「自分の妹と結婚する」と言い、マリヤは自分のお姉さんの夫を奪ったのです。これは何かというと近親相姦関係です。これが明らかになれば、完全にザカリヤ家庭は滅亡するのです。

  

 なぜ四十年間で、このようにめちゃくちゃになったのですか。再臨主でなければ分かりません。近親相姦関係の解除方法、解決方法を教えてあげなければならないのであり、それは再臨主でなければ分からないのですが、そのお方を追い出してしまいました。それにより、近親相姦関係がこの地上における普通のことだと思うようになり、皆がそれに染まり、サタンと共に地獄拡張世界をつくってしまったのです。キリスト教文化も、本来は導いて回っていかなければならないのですが、キリスト教文化さえも排斥し、何もない貧しい統一教会を中心として回らなければならないのです。

 なぜこのような時代になったのでしょうか。離婚問題や近親相姦関係の問題は、このような蕩減復帰原則によって起こらざるを得なかったものだというのです。このような内容をはっきりと教えることによって、堂々と神様の所に戻っていくことができるようにするのです。はっきりと分かりましたか。そのような原則を中心として、早く日本の地に帰ってこの内容を教え、復帰を早めることがエバの使命です。エバが門を開かなければなりません。

  

 イエス様の当時、洗礼ヨハネの妹はイエス様の妹です。マリヤとエリサベツは姉妹、いとこの間柄です。お姉さんの夫であるザカリヤがマリヤを奪ったのです。このようなことが近親関係です。このような内容を知っている再臨主です。

  

 マリヤ自身が、自分のお姉さんの夫と関係を結びました。そして、イエス様は妹と関係しようとしたのです。このような近親相姦関係の基準を中心として結末、蕩減原則の結末を見なければならないという原則があるのですが、それを知っている人は誰もいません。唯一再臨主、真の父母しか知らないのです。しかし、そのお方を追い出してしまったので、それがそのまま伝統としてつながれることによって、アメリカは四十年間で、その近親相姦関係をサタン的に拡張して地獄世界をつくってしまったのです。分かりますか。それは神様が承諾なさったからなのです。

  

 エリサベツとマリヤが完全に一つになっていれば、イエス様と洗礼ヨハネが一つにならなくても、ザカリヤは反対できずにどうすることもできなかったのです。ザカリヤが反対していれば、あのような事件は起こり得ません。マリヤが自分の姉の夫とくっついて赤ん坊を生むということがあり得ますか。それに同調することができますか。近親相姦関係というものがここから出てきたのです。この世の終わりの日には、必ずこのようなことが起こります。近親相姦関係が出てきたのですが、ここにおいて、これを知って復帰していくことができる人はほかにはいません。来られる主しか分かりません。アメリカが先生に侍っていれば、あのようにはなっていません。

  

 ヨセフは、マリヤに対してどれほど疑ったことでしょうか。おなかの中にいる赤ん坊が誰々の赤ん坊だということをその時に話していれば、一族が滅亡するのです。全く、このような家があるかというのです。ですから、マリヤは口を開くことができませんでした。「聖霊によって妊娠しました」としか言えなかったのです。その当時、未婚の女性が赤ん坊をみごもれば、石で打ち殺したのでしょう? これは近親相姦関係です。一族が一気に処分されるのです。そのような立場をマリヤも、エリサベツも、ザカリヤも、洗礼ヨハネも、みな知っていたのです。

 そのような関係をもって生まれたイエス様だということを、洗礼ヨハネが知らなかったでしょうか。問題になるのです。「近親相姦関係によって余計なものとして生まれたイエス様がメシヤなのですか」と言ったのです。それは、あり得ないというのです。ヨルダン川の川岸で、天の門を開きながら、そのようにはっきりと教えてあげたとしても、それをすべて疑うことのできる内容が豊富にあるのです。

  

 蕩減復帰原則からそのようなことを知っていれば、イエス様は洗礼ヨハネの妹を嫁にすると考えなければならないでしょうか、考えてはならないでしょうか。このように見るとき、洗礼ヨハネの妹はイエス様にとっては誰ですか。自分の妹です。腹違いの妹です。ですから、復帰していかなければならない家庭において、最後に残された近親相姦関係をそのまま経なくては復帰することができないのです。

 今日、新婦国家であるアメリカと自由世界が、キリスト教を中心として新婦の基台を備え、来られる再臨主を迎えていれば、ここで復帰するすべが分かるのです。来られる新郎を追い出してしまったので、悪魔はこれに乗じて近親相姦関係を拡大したのです。それがフリーセックスになってしまいました。近親相姦関係になってしまったのでしょう? 近親相姦関係の位置に行って、すべて転換しなければならないのです。再臨主に侍り、新郎と一つになっていれば、天国へ戻っていく道が分かったのですが、来られる主を追い出し、神様を追い出したので、悪魔は自分の側を中心として、神様が理想とする家庭と国家と世界を滅亡のるつぼへ掃き捨ててしまいました。最近、全人類がエイズによって滅亡を予告された位置に来ているということを知らなければなりません。先生がその責任をもたなければなりません。

  

 エリサベツが、自分の夫にいとこのマリヤを紹介してあげたというこのような問題があるので、近親相姦関係が生まれるのです。先進国であるアメリカは、このような過程を最後まで行き、そこで転換しなければなりません。神様が承諾したのでこれが生じたのであって、ただ生じたのではありません。近親相姦関係がなぜ出てくるのでしょうか。自分のお姉さんの夫を、妹が強奪するのです。それを近親相姦関係というのです。ヤコブ家庭でレアを入れたのはなぜかというと、蕩減法において、堕落したエバがいなくては復帰時代がなくなるからです。女性世界においてもカインがいなくてはならないのです。同じ道理です。

  

 エリサベツが、聖霊や天の指示によって、自分の夫と自分の妹を関係させたのです。それは、普通のイスラエルの法ではすることができないことです。これが近親相姦です。このようなことがあるので、キリスト教の新婦の立場にいるアメリカが再臨主を迎えていれば、天に帰っていく道が分かったはずなのですが、再臨主を追い出したので、サタンが主人となって全く反対の方向に行くようになるので、近親相姦やフリーセックスでめちゃくちゃになってしまったのです。

  

 マリヤは、イエス様の父親が誰かということを知っていました。ザカリヤとエリサベツも知っていました。洗礼ヨハネも、イエス様が自分と同じ父親から生まれた兄弟だということを知っていたのです。これが問題です。イスラエルの法では、そのような関係は許すことができないようになっています。それは、近親相姦によって不倫したことです。マリヤは、ザカリヤの家庭でお姉さんの夫と性関係を結んだというのです。

  

 今日、終わりの日において、近親相姦を中心としてアメリカの家庭が破綻するということを知っていますか。このような中心存在を中心として、歴史がこれを軸として、すべてが別の世界へ戻っていかなければならないのですが、本妻を追放してなくしてしまいました。ただそのまま流れていくので、すべて敗亡する「亡国の種」になってしまいました。近親相姦、フリーセックス、ホモセクシュアル、アヘン王国時代となり、すべて腐ってしまいました。近親相姦関係によって、イエス様の根源的血族基準をこのように入れ替えなければならない運命があったということを、誰も知りませんでした。

 もしこれができていれば、ここで直系のイエス様を中心として、これが長子権のプラスとなり、これはマイナスとなって、これらが一つになって天国に入っていくのです。神様の懐へ戻っていくのです。それができなかったというのです。このようなことが国家的基準においてできなかったので、世界的終末時代にはそのような世界が展開するのです。


) 誤った性解放文化をどのように収拾すべきか

(1) 愛の秩序が乱れる終わりの日


 真の愛は貴いものなので、真の愛を蹂躙するということは宇宙的な犯罪になるのです。不倫、青少年たちの淪落、家庭破綻、近親相姦、同性愛、形容し難い性犯罪など、今日の現実は神様を悲しませています。創造理想は崇高で、永遠の愛を中心とした家庭理想の成就にあるのですが、なぜこのような結果を招来したのでしょうか。それは終末を迎え、人間始祖の堕落した結果がそのまま結実することによって、すなわち蒔いたとおりに収める世紀末的様相を呈するからだ、と言うことができます。

  

 アメリカの人々はこれを知りません。アメリカには真の愛の基盤がないというのです。最終的には愛によって滅亡するのです。カップルが破壊され、兄弟関係が破壊され、父子関係が破壊されるのです。近親相姦が繰り広げられ、地獄に落ちていくのです。すべて破壊されたというのです。完全にゼロポイント(零点)となり、新しくつくり直さなければなりません。「ワン・ワールド・アンダー・ゴッド!」です。そこには、いかなるカラーもなく、いかなる障壁もなく、いかなる習慣も、伝統もあってはなりません。家庭の父母主義だけが残るのです。それは、父母が子女を愛するように、投入して忘れてしまうことです。それが天国のコンセプトです。

  

 これが根源なので、サタンがこれを完全に破綻させたのです。フリーセックスからホモセクシュアル、近親相姦関係によって、すべて滅ぼしてしまったのです。私たちは、これを完全に克服しなければなりません。地上地獄になっているので、一八〇度反対の道へ行かなければなりません。私たちはこのような理想をもっているので、問題なく、一八〇度を中心として理想的家庭の土台の上に理想的国家ができ、理想的世界を成し遂げることができるのです。

  

 フリーセックスは悪魔です。神様の理想がこの地上から跡形もなくなるようにさせ、足を踏み入れることができなくなるようにする破壊的な作戦です。そして、麻薬を通して精神異常者をつくっておきました。このような所では、正常な立場の天理大道の原則、愛の花、愛の夫婦の理念を探し出すことはできません。このような状態で、神様の復帰の理想を成し遂げることができますか。四十年で、なぜアメリカがこのようになったのかというのです。先日、なぜフリーセックスになったのかということを話しましたね? 話しましたか、話しませんでしたか。どうして近親相姦関係が起きたのか、そのような話をすべてしたでしょう? 

  

 フリーセックスと近親相姦関係が勝手気ままに勢力を振るう世の中になりました。これは、どうしてこのようになったのでしょうか。イエス様の時に、このようなことを解決しなければならなかったのです。再び再臨主が来て、必ず近親相姦関係を解決しなければなりません。しかし、来られる主を追い出してしまったので、自由世界がそれを知らず、今、地獄に落ちていっているのです。みな列をつくって、がけから落ちていくのです。ここで転換するすべが分からないのです。私がいれば、あのようになりませんでした。自由世界が先生を追い出し、四十年間でめちゃくちゃになったのです。これを私が、四十年の間で地獄から再び上がってくる時まで…‥。そのようなことをすべて詳しく話そうとすれば、きりがありません。

  

 女性一人で完成することができますか。できません。アメリカの女性は、「私は嫌だ。私は結婚しない、結婚したくない、でも子供はもちたい!」とそのように言うでしょう? どうしてそのようになったのですか。「祖父母も必要なく、父母も必要なく、夫婦も必要なく、兄弟も必要なく、すべて必要ない」と言うのです。そして、一人では生きられないので男性同士くっつき、女性同士くっついて、それで慰労するのですか。それが慰労の方法ですか。どこから近親相姦が出発しましたか。その背後はフリーセックスです。

  

 この地上で暮らしている男性や女性は、動物的人間に転落してしまうのです。言い換えれば、性問題においては動物と同じだというのです。これがどのようになってしまったのかというと、おじいさんが孫娘を連れて暮らし、叔父が姪を連れて暮らすのです。このように、理想的愛の圏内では想像もできない破滅的環境を中心として、世の中は崩れていくというのです。母親と一つの家で暮らしながら、娘が父親と愛を行うのです。そのように暮らしながら、テレビに出てきてインタビューまでしています。アメリカには、このような近親相姦関係が二〇パーセント以上あるというのです。

  

 神様は、堕落した人類を干渉することができません。自分の愛していた恋人を奪って子供を生んだのです。そのような所に訪ねていき、その悪魔の隣で愛することができますか。これは空言ではありません。それゆえにローマも淫乱によって滅びたのであり、アメリカも今、淫乱によって滅びるのです。ポンペイのような所に行けば、今も淫乱の痕跡が残っています。三代で近親相姦が起きた痕跡です。アメリカのような所は二〇パーセントがそうです。これは滅びるようになっているのです。

  

 アメリカが、なぜ滅びつつあるのか分かりますか。私が以前警告しました。近親相姦関係がどれほど多いか知っていますか。二〇パーセントです。この国がです! おじいさんが孫娘を連れて暮らし、父親は、その妻がいるのに娘を連れて暮らしているのです。終末的滅びの徴兆がすべて現れ、天から原子爆弾が投下され、直撃爆弾を受けかねない時代に入っているという、この恐ろしさを知らない先進国家です。そこに私と統一教会が必要なのです。統一教会がなければ、収拾することができません。絶対にできません。

  

 男性は天使長の立場です。それゆえに、アメリカでは、自分の娘と自分の母親までも犯す事件が起きています。親族による近親相姦問題が二〇パーセントを越えています。サタンがおばあさんから、自分の母、自分の弟、自らの娘まで攪乱しているのです。それゆえに先生は、そのようなサタン圏を全滅させるために、地獄全体を包囲する作戦を立てているのです。

  

 イエス様が十字架で亡くなることによって、左側であるサタン世界が勝ちました。ローマ教皇庁が責任を果たすことができなかったことによって、フランス革命、人本主義を経て、無神論的物本主義に落ちていったのです。神様を追放し、人間を追放し、物まで追放して哀れな存在になりました。食べるものがなくて苦しんでいるのです。誰がそのようにさせたのでしょうか。

 神様がそのようにさせたのです。この民主世界において黄金万能を誇り、キリスト教文化圏の恩賜を知らず、それを天の前に返すすべを知らず、人間的責任を果たすことができずに、動物的人間になってしまったのです。キリスト教文化の背景を中心とした家庭において、どうして近親相姦というものがあるのですか。悪魔の祭物となって腐ってしまったのです。

  

 アダムは、十代で堕落しました。父母の承諾なく木陰で堕落してしまったのです。そのように蒔いたので、そのように出てくるのです。なぜこの時代において、十代が世の中の問題になり、誰も手をつけることができない全権時代になったのですか。これは避けることができません。これを料理することができる唯一の道は、来られる真の父母の道理を知ることです。真の父母の道理を知らなければなりません。分かりましたか。

  

 韓国の歴史において世界的に誇れるものとは何かというと氏族圏です。先祖を崇拝して一つの伝統と純粋な血族を保ち続けるために、神様が摂理の中で残された民族だというのです。ですから、そのような不倫の輩が出てこないように、早く整備をしなければなりません。今、アメリカのような所では近親相姦が問題になっています。おじいさんが孫娘を連れて暮らし、父親が娘と暮らし、兄が妹と暮らし、ありとあらゆる事件が起きています。今、そのような風潮が生じており、八親等同士で結婚するようなことが起きているのです。これをなくして処断してしまうのです。それを整備しなければならない私たちの使命は大きいのです。清い氏族を継承する伝統を守り、民族の道徳観念を継承、養育させなければならない責任があるというのです。


(2) 絶対純潔、血代を汚してはならない


 千代、万代純潔を守る血代に神様はついてこられるというのです。千代、万代、直系の血統をいかにして残すかということが、私たち人間の願いであり、人類始祖アダムとエバの願いだったという事実を知らなければなりません。その伝統的な思想は、今でもなくなっていません。なぜですか。神様が計画されたことは絶対的だからです。そのみ旨は、いつか必ず成し遂げられなければなりません。成し遂げることができなければ、神様になることはできません。これは変わることがありません。数多くの宗派の争い、数多くの宗教の争い、数多くの国家の争いは、神様のみ旨ではありません。神様のみ旨はそのようにはなっていません。それは、すべて壊れていくのです。

  

 真の父母は、アダムとエバが失敗したすべてのものに責任を負い、それを解決してあげなければなりません。解決しなければ、真の父母の位置に戻っていく道がありません。父母が蒔いたので、父母となる者が収穫し、悪いものは火で燃やし、良いものは倉庫に入れ、万民が要求する種を分配してあげなければなりません。それが原理のみ言です。真の愛のみ言です。純潔の血統のみ言です。理想夫婦の愛のみ言です。それ以外に人間として訪ね求めていく道はありません。それ以外はすべて消えていくのですが、これは、人間の生命と共に、永遠の生涯と共に行くのです。それほど貴重なものです。

  

 本然の血統を失ってしまった所では、心情文化は生まれません。文化というものは、歴史性を通じて連結されるものです。家庭を中心とし、社会を中心とし、国家と世界を中心として、これが連結されなければなりません。「本然の血統と連結された心情文化世界を完成することをお誓い致します」、純潔な血統を残すことが問題です。それができなければ、自分たちと心情文化世界が断ち切れてしまうのです。あの膨大な天国は、私が暮らすことのできる心情的基盤となっているのですが、心情文化世界ができなければ、その世界が断絶されるのです。それゆえに、心情文化圏を中心とした生活をしなければなりません。

  

 堕落は何によってなされたかというと、淫乱によって堕落したという結論を私たちは話すことができます。堕落論を語る前に、このような話をすべてしなければなりません。サタンは淫乱の神でした。淫乱の神です。神様は何ですか。純潔の神です。これは何のことでしょうか。血統です。血筋のことを言っているのです。サタン世界はすべて淫乱の世界、悪魔の世界です。

  

 清い血統、純潔な血統を維持しなければなりません。神様が堕落したアダムとエバを追放したのと同じように、血統が汚されれば完全に自分を除去してしまい、堕落した人と同じように、再び人類の後ろに回って入ってこなければなりません。今後、責任者には、このような純潔を守っていく人だけがなることができます。この人たちが主流の伝統思想を受け継いで相続していくはずです。祝福を受けた家庭が再堕落することは、許すことができません。この西洋社会は、めちゃくちゃです。

  

 麻薬中毒になれば、どのようになるか知っていますか。愛の中毒は、麻薬中毒よりももっと強いということを知りませんか。偽りの愛の中毒に引っ掛かって、人間がこのように滅びるようになったのです。気分が良いですか、悪いですか。顔は厚かましく、よく整っていますね。女性もそうです。女性が二つの心をもったのです。夫と愛する時、「神様が訪ねてこられる」と思わなければなりません。自分の夫に「神様が降臨された」と思わなければなりません。「寝る場所を今晩きれいに整えなければならない」と言って、あらゆる精誠を赤ん坊の種の時から動員しなければなりません。赤ん坊の時に動員し、兄弟の時に動員し、夫婦の時に動員し、母の時に動員して、四大心情圏を動員したそのような純潔な夫と妻が愛するというのです。そのように考えてみましたか。

  

 女性というものが、どれほど恐ろしい存在でしょうか。女性一人を誤って扱えば、国も滅び、一族も台無しになるのです。また、女性も同じです。夫一人誤れば、国も滅び、自分の一族も滅び、先祖から残してきた純潔の一代がすべて傷つくのです。深刻です。それゆえに、女性の前における最高の真理の真の本体は何かというと夫です。夫に対して初愛を与えたというのです。初愛は交換することができません。神様を与えても交換することができず、アダムを与えても交換することができません。完成した神様とアダムの二人をあげて、初めて交換するようになっています。このように途方もないものだというのです。

  

 神様も干渉することができず、サタンも、つくっておいたのちに「おい、おい! 間違っていた。もう自分もついていくことができない」、このようになりました。ですから、喜ぶ人がいません。それで、自殺する人がますます増えていきます。自分の体にとって最も貴いものとして守らなければならず、このような価値的な愛の本拠地として守ってきた純潔を四方から蹂躙するのです。お父さんとお母さんが保護することができる環境にならなければならないのに、おじいさんから、お父さん、お兄さんへと、このように蹂躙してきたのです。ですから、夢でも男性は見たくないのです。死んでも嫌だというのです。

  

 体を占領しなければなりません! 体と連結した五官を占領しなければなりません! 肉的な愛についていくのですか、精神的な愛についていくのですか。千万回死ぬようなことがあったとしても、貞節を守らなければなりません。結婚する女性と息子、娘たちは、純潔を守らなければなりません。結婚前は純潔を守り、真の人と結婚したのちには貞節を守らなければなりません。分かりますか、この女性たち。

  

 エデンの園で青少年問題をまき、誤って結婚したので、ひっくり返して再び天の側において結婚式をしなければならず、血統を転換しなければならないという論理を理論的に肯定しなければなりません。それで、青少年の絶対性、純潔を主張するのです。絶対性です。絶対的です。何ゆえにですか。絶対的愛ゆえにです。唯一不変の永遠の愛ゆえにです。永遠の愛ゆえだというのです。愛ゆえにこのようになったのであり、偽りの愛ゆえにこのようになったので、真の愛にひっくり返さなければなりません。

  

 生殖器を保全しなさいというのです。オリジナル生殖器を保存する運動をしなければなりません。神様は、純潔な愛の器官を創造されたのです。皆さんは、それを守らなければなりません。絶対的器官です。絶対一つの方向です。絶対一つの方向に連結した愛の道に永遠に従わなければなりません。神様が本来願われた生殖器だというのです。人々は、それが愛の宮殿であるということを知りません。愛の宮殿、生命の宮殿、血統の宮殿、良心の宮殿だというのです。四つの宮殿が一箇所に集まったのです。最高に神聖な場所です。永遠に清く守っていかなければなりません。

  

 絶対純潔の伝統をいかに残すかということが問題です。これを汚せば、イスラエル民族は石で打ち殺しましたが、今は違います。それよりももっと恐ろしいのです。アダムとエバという独り息子、独り娘を追放した神様のその心情の前に再び堕落するということは、夢にも考えることができないというのです。それで、限界線を宣布しなければなりません。限界線を宣布するその日となる時に残された者たちは、すべてサタン側に残された長子の中の悪の長子たちです。

  

 カナン復帰路程において、モーセに従い、今こそカナンの地に入城しなければなりません。今こそ王権を取り戻さなければなりません。エジプトでの四百三十年の受難の道において、神様の四千年歴史の悲惨な、それ以上に悲惨であっても耐え、すべてのことを越え、天の前に慰労して、謝罪することによって天国に行くのではありません。悔い改めたからといって天国に行くのではありません。峠を越えて悔い改めたのちに天を慰労し、真の父母を慰労し、その息子の新しい血筋をもって、永遠に純潔的血統を残そうと誓って約束した基台の上において、相続権が展開するのです。はっきりと知らなければなりません。

  

 神様の前に誓約をしなければなりません。今まで、自分が純潔を中心として生きることができなかったことを、すべて振り返って否定し、新しい真の純潔と貞操を誓うのです。統一教会は、嫁に行くまでは純潔を守り、嫁に行ってからは貞操を守らなければなりません。それは、誰のためでしょうか。自分のためではありません。夫と家庭と国と世界のためです。そうでなければ、永遠の世界である天国に入っていくにおいて、個人的な天国、家庭的な天国、民族、国家、天宙的な天国、神様の愛に定着することができる位置まで行くことができないのです。どうすることもできません。

  

 未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。世界各国が一様に悩んでいる青少年の退廃と絶え間ない麻薬による犯罪、増加する家庭破壊と離婚、エイズの蔓延、性犯罪などを、政治権力によって解決することができますか。現在の学校教育や宗教的教えでも解決することができずにいます。

  

 今後、先生が祝福する時は、浮気をして貞節を蹂躙した人はしてあげません。純潔な男性、女性でなくては結婚させてあげません。エデンの園のアダムとエバが定着して天下の公的な位置に立つようになるとき、堕落した息子、娘を集めて祝福してあげるでしょうか。そのようなことはあり得ません。それゆえに、浮気をして男女関係がある人は、どのような男性や女性であっても、今後、統一教会の祝福を受けることができないということを知らなければなりません。純潔な未婚の男女でなければならないのです。そうだとすれば、「祝福を受けて生まれた息子、娘しかいないだろう」ということが先生のみ旨です。それで、祝福家庭の子女だけを結婚させてあげるのです。

  

 ここから、女性はすべて貞節を守るのです。純潔な宗教は、性問題を絶対に拒否する宗教とならなければなりません。それで、キリスト教が「すべての罪は骨の外の罪だが、淫乱は骨の中の罪だ」と言ったのです。サタン圏内の世界とはこのようなものです。このようにして、すべて妨げているのです。数多くの人々は、サタン世界の愛に反対してきました。すべてサタン世界になってしまうところを、神様は、イスラエルの宗教とキリスト教を中心として、世界を革新し、新婦の貞節の道理を立ててきたのです。ここから新郎新婦が一つになれば、この二つの世界は道が開けるのです。

 それで、歴史的な伝統世界の純潔な新婦、純潔な新郎が来て愛し、一回りするようになれば、これがすべて崩れます。それゆえに、歴史始まって以来、キリスト教文化圏を開門するために、大勢の女性が犠牲になってきたのです。捕まえられていって強姦され、主権者たちからあらゆる辱めを受けたのです。

  

 もしイエス様が結婚して、自分が愛する以上に愛してくれる女性と愛を成していれば、そこから生まれた息子、娘を、悪魔は引っ張っていくことができるでしょうか。神様が連れていくのです。キリスト教徒たちは、「何だかんだ」と言って大騒ぎするでしょう? 純潔なイエス様が、善の男性として善の女性を迎え、神様が保護することができる家庭をもっていれば、どのようになっていたと思いますか。そこで善の息子、娘が生まれていれば、二千年が過ぎたのちには、既に世界は統一されていたはずです。一族なのです。七百年もかからないというのです。そのようになっていれば、イスラム教やイスラム教徒は現れていません。

  

 純潔な高次元的な良心、高く、広く、深い良心世界の活動舞台を追求し、そのような愛の基台を願う人であればあるほど、霊界における活動舞台は、広く、高く、大きくなるのです。自分のことだけを考えれば、どんどん狭くなっていくのです。

  

 祝福を受ける夫婦は、自分の家庭と夫婦の結合を神様の前に誓約し、配偶者に対して永遠の信頼と純潔を誓い、そして子女に対しては、高い道徳と純潔を教えながら養育することを約束するはずです。この夫婦たちは、言語と人種と国家と宗教の背景が様々です。しかし、彼らは神様の愛、そして世界平和の出発は神様を中心とした完全な家庭から来るという信仰ゆえに、この祝福式に同参しました。私は、皆さんがこの歴史的な式典において、見物するだけでなく、皆さん、または関係のある周囲の人々と共に神様の前に出て、自らの結婚誓約を更新するように招待します。


三、真の父母と根本復帰

 一) 根本問題解決のためには、堕落論を知らなければならない


 世界の問題を解決し、人類の道徳問題をすべて解消するためには、堕落原理がなければなりません。堕落原理がなくては、人間の問題は是正することができません。これは、サタンが天を裏切り、歴史を引っ張ってきた最後の絶望的終末現象だというのです。これは、人類を破綻、滅亡させるためのサタンの戦略です。これを解消しなければ歴史が解かれません。歴史が解かれなければ、歴史を清算することはできません。そこに代案を中心として、神様の創造と理想の代案を中心として、私たちは「神主義」に帰ろう、真の愛主義に帰ろうというのです。それは自分自身のためではなく、利他的なことです。愛の相対を創造しなければなりません。そのような内容でなければ、収拾する道がありません。

  

 人類歴史の堕落の起源は、結婚を誤ったということです。偽りの父母を中心として結婚式を誤りました。どの時期ですか。青少年の時です。ですから、青少年の淪落はエデンの園で始まったのです。青少年の淪落を植えたというのです。それによって、アダム家庭を中心とした全体の神様の理想は完全に壊れてしまいました。

 そのように植えたものが、ただそのまま植えたものが、次第に大きくなり、終わりの日になれば、このように結実する時が来ます。世界的に青少年の淪落を防ぐ者がいません。アメリカが防ぐことができますか。できません。これがフリーセックスの様相を呈し、ホモ、レズビアンの様相を呈しています。めちゃくちゃになったというのです。アメリカの教育やアメリカの宗教が防ぐことができますか。アメリカの政治や経済の力で防ぐことができますか。できません。軍事力で防ぐことができますか。できません。完全にお手上げだというのです。

 それでは、誰が解決することができるのでしょうか。神様だけが解決することができます。偽りの父母が植えたのです。その罪を犯した動機は人間だというのです。偽りの父母、アダムが誤ってこのようにしたのであり、アダムが無知の中で堕落したので、アダムがこの地で完全に知らなければならないのです。神様の秘密と神様の完成基準の目的がどのようになっていて、悪魔がどのような失敗をしたのかということを詳細に知ることによって、サタンを屈服させることができるのです。

  

 世界の難しい問題の原因は何かというと、男性と女性の二人の人間にあります。男性と女性がもつれたことが国家、世界の問題になりました。天地における問題となりました。この男性と女性における問題とは何ですか。愛です。愛の問題において誤ったというのです。それゆえに、エデンにおいて偽りの父母によって青少年が淪落し、アダム家庭を粉々に破綻させたことを、真の御父母様が来られて収拾しなければなりません。真の御父母様が来られてしなければならないのです。

 神様の愛の血統を伝授し、愛を中心とした生命体、偽りのオリーブの木ではなく真のオリーブの木になるのです。血筋が変わるのです。文総裁は、神様の血筋を連結させることができるすべての理論的な体系をもっている人です。その道を行けばそうです。それは証拠的事実です。

 それで、今、文総裁がしていることとは何ですか。青少年問題を中心として、アメリカ、ロシア、中国はもちろん、先進国家の世界の代表的国家は、すべて手を挙げました。宗教世界まで手を挙げました。それを解決することができる特権を受けた者は誰かというと、文総裁だというのです。文総裁しかいません。

  

 「蒔いたとおりに収める」と言ったので、エデンの園でアダムとエバが青少年の時に淪落することによって、世界的に家庭というものが一つもなくなるように完全に破綻させてきました。その時が終わりの日です。その時が、正に今の現実です。

 アメリカの人々に世界観がありますか。ありません。国家観がありますか。ありません。社会観はもちろん、氏族観、民族観、家庭観もありません。自らの父母をすべて否定しています。個人主義です! 個人主義は何かというと、悪魔である天使長のその位置に戻ることです。男性が女性を否定し、女性が男性を否定するのです。終わりの日になったので、最後にはサタンはその正体を現さなくてはなりません。

 そのようにして完全に家庭を破綻させました。青少年問題、家庭破綻を収拾するすべがありません。サタンも収拾するすべがなく、神様も収拾するすべがありません。神様が収拾することができるならば、エデンの園のアダム家庭の時に収拾していたはずです。エデンの園で手をつけることができなかった神様が、今、滅んでいくこの世に手をつけることができますか。

 これは、誰が責任を負わなければなりませんか。未知で堕落させられることによって、偽りの父母がこのように滅ぼしたので、真の父母が完全に神様の秘密、サタンの秘密を知って、サタンの秘密を神様の前に告訴してしまわなければなりません。「お前、よくよく知ってみると殺人魔だな、こいつ!」と言うのです。いくら隠れて生きてきた殺人犯であっても、その証拠を出されれば、自分の罪状をありのままに告げて判定を受け、永遠の人間世界から流れていってしまうではないですか。同じことです。今の現実が、これとちょうど同じだというのです。

  

 文総裁は、悪魔サタンを讒訴することができるのです。讒訴しようとすれば、その基盤、家庭基盤が半分以上を超えなければなりません。それゆえに、もしキリスト教が歓迎していれば、三年半で世界の人類を祝福し、天の眷属にし、神様を解放していたはずです。四十年前に、これをなしても余りあったというのです。それなのに、それに反対することによって、この文総裁を荒野に追い出してしまったのです。

 人類始祖の堕落によって恨に満ちた神様を慰労しなければなりません。堕落したアダムとエバによって、大きな悲しみのくぎが刺さっている神様を慰労することができる立場で出発しなければなりません。そのようにしようとすれば、悲しみの神様を慰労することができる孝子とならなければなりません。家庭を代表した孝子、国家を代表した忠臣、世界を代表した聖人、天地を代表した聖子の道理をすべてなすことによって、慰労してさしあげなければなりません。それだけではありません。私が間違いなく新しい青少年を動員し、新しい祝福をなして、アダムが破綻させたすべての要素を根絶しなければなりません。

  

 人類の願いは何かというと、堕落の仮面を脱ぐことです。堕落の仮面とは何でしょうか。血統が変わったというのです。血統の堕落とは何でしょうか。男性と女性が性関係を誤ったということです。誰を中心としてですか。サタンを中心としてです。

 アダムとエバが息子、娘を生んだ時が堕落する前かあとかというとき、「堕落する前だ」と言う人はいません。その息子、娘を生むことができるように、誰が結婚式に責任をもったのでしょうか。神様は、追い出した人々に対して責任をもつことができません。間違いなく悪魔サタンを中心として結婚式をしたのです。

  

 ですから、神様がアダムの心に入っていき、夫婦を完成しなければならなかったその位置をサタンが占領し、サタンの血統を植えつけたというのです。堕落することによって下部を覆ったでしょう? 取って口で食べたとすれば、口と手を覆わなければならないのに、口と手を覆ったのではないのです。その場所が血統的恨みの根拠地となりました。

  

 そのようなことを考えるとき、文総裁が「契約の箱の中の二つの石板は、アダムとエバのことをいいます」と言ったのですが、それを象徴しているのです。至聖所とは、その場所です。誰も触ることができません。触ってすべて滅びたのではないですか。至聖所は、その場所です。それから、芽を出したアロンの杖です! この杖は何でしょうか。永遠に死なないということです。死んだ杖から芽が出てくるので、永遠に死なないということです。何を中心としてでしょうか。本然の愛です! 愛がなければ死にます。それで、芽を出したアロンの杖が出てくるのです。そのような意義があるので、聖殿に置いて侍ったのです。ですから、神様の体を象徴したものが幕屋です。体は聖所であり、至聖所はその場所です。


) なぜ真の父母が必要なのか


 私たちに必要なものとは何かというと、真の父母です。偽りの父母から出発したことを、真の父母から出発させなければなりません。偽りの父母とは何かというと、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受けたものです。これをひっくり返さなければなりません。ですから、真の父母の愛を中心として、いかにして真の生命と真の血統を受け継ぐのでしょうか。言い換えれば、生命の種を誤って受けたので、これをいかにして再び本然の種として受けるようにするのかというのです。

 この問題を考えるとき、真の父母がいなければ受けることができないので、この地上にメシヤが来られ、そのメシヤの種、真の父母の新しい生命の種を再度注入し、接ぎ木しなければなりません。これを通して、本然の真のオリーブの木の位置に戻っていくのです。簡単なことです。ですから、神様は、私たちの本当の父母です。ですから、どれほど近いでしょうか。縦的な父母が神様であり、真の父母は横的な父母として、理想の愛を成すのです。

  

 なぜ真の父母が必要でしょうか。サタンの愛、生命、血統基盤を清算するために必要です。なぜ男性と女性がそのような位置に落ちましたか。生殖器ゆえにです。本来、生殖器は愛の王宮です。  

 今、その愛の王宮がどのようになっていますか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮であるという、そのように貴いものが人間の生殖器です。これは汚いものですか。神聖なものです。それが堕落によって汚いものになってしまいました。

 本然の神様の観点から見れば、それは汚いものではなく、神聖なものです。最も貴いものです。生命、愛、そして血統がここに連結されています。そのように神聖なものをサタンが汚しました。

  

 本来、アダムは皆さんの先祖となる父母だったのですが、神様の愛を連結させることができませんでした。それを連結させることができなかったのです。それゆえに、皆さんの父母は、皆さんを神様の愛に連結させることができないのです。真の父母が違うのは、神様の愛を連結させることができる特権をもってきたという点です。皆さんが父母の言葉を聞かずに統一教会の文先生の話を聞くので、これは社会の正義ですか、悪ですか。正義です。天宙の原則がそのようになっているからです。

  

 どのようにすれば真の父母になるのでしょうか。人類始祖の堕落によってふさがった垣根を壊すことができる責任的な条件を立てることができてこそ、真の父母になるのです。私たち統一教会を見れば、ここにはプロテスタント、カトリック、仏教、儒教、イスラム教徒がすべて入っています。仏教もここに入っているのです。そのことを知っていましたか。知らなければ恥をかくのです。ここに入ってくれば、宗教が一つになることができます。それから人種問題ですが、五色人種が一つになることができるのです。

  

 メシヤは、本然の愛、真の父母の愛を完成した男性として来られるお方です。本然の理想的な代身者として来られるのです。「私」という話をするたびに、これを考えなければなりません。ですから、解放されるのでしょう? そのようになっています。サタンから解放、生活圏において解放、血統圏から解放されればすべて終わるのです。

 それでは、解放されて何をするのですか。悪魔ではなく神様に侍り、文化圏を形成しなければなりません。真の父母の生活圏を形成しなければならないのです。完成したアダムの位置に立つので、生まれた目的を完成するのです。

 したがって、私に真の父母の愛が宿り、神様の愛が宿るのです。その愛は、私を完成させることができる調和の根本です。言い換えれば、それは、私に愛があり、生命があり、血統があるということです。三位一体です。

  

 真の父母を中心としたところから理想的な歴史の出発、新しい文化の出発、新しい愛の出発がなされ、新しい人生の出発、新しい家庭の出発、新しい国家の出発、新しい世界の出発がなされ、天国と神様の愛の出発がなされるのです。

 この真の父母という言葉は、今まで知っていたそのような内容の言葉ではないということを、皆さんは知らなければなりません。このような後世と関係を結ぶために国も滅び、個人も滅び、家庭も…‥。したがってこの位置は、数多くの、数千億万の犠牲となった祭物の血が訴えている位置だということを、皆さんは知らなければなりません。

 聖書には、アベルがカインに殺害されて血を流すことによって、天に讒訴したと書かれています。そのような歴史をすべて解怨成就することができる位置は、この位置しかありません。

 そのような使命を受け継ぎ、そのような驚くべき蕩減の道をまっすぐにするために集まった群れが正に皆さんです。それが本当に分かれば、自分の命がどうで、私がどうだという不平は、夢にも、千回死んでも言うことができません。

  

 本来、神様の創造理想は何かというと、真の父母の名を通じて天国の王国と地上の王国を完成することです。これを知らなければなりません。真の父母の名をもたずには、地上天国と天上天国は生じません。今日、キリスト教徒たちに「イエス様は神様の愛する長子であり、息子であるにもかかわらず、どうして天国に行くことができず、楽園に行っているのですか」と聞いてみれば、答えることができません。

 天上天国と地上天国は、真の父母の完成と愛の基盤を通してのみ成し遂げることができるものです。霊界に行って王国を統一するということは真の父母の使命であって、ほかの人の使命ではありません。イエス様は真の父母になることができなかったので、楽園に行っているのです。

 堕落した世界においては、今まで真の父母の愛を受けたことがある物もなく、受けた人もなく、そのような痕跡もありません。ですから、霊界にそのような基盤ができても必要がないのです。縦的で横的な原理基準、完全に公式となっているのです。公式になっているということを知らなければなりません。自分勝手にしてはいけないのです。

  

 すべての出発は、真の父母からです。あらゆるものの出発、最初は、皆さんではなく真の父母です。生きるのも、行動するのも、愛の家庭を連結するのも同様です。最初は真の父母です。これは先生の話ではなく、私たちの最初の先祖に対する神様の公式的な概念です。いかにして私たちの家庭を真の御父母様の御家庭のようにすることができるか、それを考えなければなりません。

  

 先生は、世界のためにどれほどたくさん投入したでしょうか。どれほど血の涙を流し、どれほど汗を流し、どれほどため息をついたでしょうか。私は、御飯や出世のためにそのようにしたのではありません。地上世界、天上世界、神様を解放するためです。このような人は、歴史時代において文総裁以外にはいません。真の父母以外にはいないのです。

 そのような背後の歴史をもっています。それは観念だけではありません。実践舞台において実際圏を形成するために、その理想基盤を築いてきたので、世界万国が粛然と頭を下げることができる段階にまで来たというのです。


) 血統復帰は祝福を通して成される


 すべての天の秘密は、文総裁が明らかにした内容でなければ解決する道がありません。ここにいる二人の人が私を紹介する時、「真の父母になった」と言いましたが、真の父母とはいったい何ですか。真の父母はどこにいるのですか。天にいます。神様が真の父母です。今日の人類、堕落した世界のすべての宗教は、神様のことを「父」と言います。天地を創造されたその主人が正に父です。誰の父ですか。私の父です。私の父なのですが、父の内容の中で、何を中心として父子関係になりましたか。神様の愛です。そして、神様を中心として、堕落していないアダムとエバの生命が愛に連結されるのです。

 神様の本然の愛を中心として、私たちの本然の先祖である堕落していないアダムとエバが、神様の愛に燃えて一体となるのですが、男性と女性を一つにすることができるのは、男性でもなく、女性でもありません。男性と女性を必ず一つにすることができるのは、絶対的に必要な愛だけです。これが一つになってこそ一つになるのです。神様は、絶対、唯一、永遠、不変であられるお方です。絶対的な神様の愛は、二つではありません。

 男性がもった愛と女性がもった愛は、二つではありません。一つです。それを知らなければなりません。しかし、それを知らずに生きてきたというのです。

  

 堕落とは何ですか。神様が創造理想によって願われた血筋が神様の血統と直結した血筋を残し、家庭の出発から氏族、民族、国家の形成と世界の平和、地上天国をつくり、天上天国をつくるのです。地上天国と天上天国とは何ですか。神様が私の体の中で生き、家庭で生き、国で生き、世界で生き、不可能なことがない無限な霊界という環境において暮らすことができる愛の家がなければなりません。私個人というものは、個人の真の愛を中心として、神様が入ってきて暮らすことができる家です。家庭というものは、夫婦同士において、二人の男性と女性は異なります。極です! エデンにおいて、神様が愛で一つになったその家に入ってきて暮らすためのものが家庭です。その父母は、万代の神様の血統によって連結した種として結実を結ぶための神様の孫だというのです。

 堕落とは何ですか。神様が一代ならば、アダムは二代です。三代となる血筋の孫をもつことができなかったことが堕落です。孫をもつことができなかったことが堕落です。堕落したのちに息子、娘を生んだのですか、堕落する前に息子、娘を生んだのですか。堕落したのちに息子、娘を生んだのです。それは、誰が結婚式をしてあげましたか。神様と関係なく、追い出され、結婚して生んでサタンの子になったというのです。今日、六十億の人類は、神様の前に追放され、隠れて誤った結婚を通して生んだ血統が連結された息子、娘なので、地獄に行くのです。神様と関係がありません。

  

 根本を知らなければなりません。それでは、滅びることがない道とは何でしょうか。万代を越えて、今日の六十億人類と未来の世界まで真の愛の血統を連結させなければなりません。変わらない血統となり、大きな木の中心の根、幹から芽まで、四方八方に伸びたすべての枝が、すべて一つの体のように感じることができる血族的連結体とならなければなりません。このように連結したものが国ならば、国の天国であり、世界ならば世界の天国であり、天地ならば天地の天国になるのです。

 真の父母になることができず、このようなことをすべて失ってしまったので、真の父母になることができなかった堕落した父母は偽りの父母であり、偽りの愛であり、偽りの家庭、偽りの氏族、偽りの国、偽りの世界です。ですから、滅びる運命です。世界は、どのようにすべきか分からないのです。ですから、神様の救援摂理は何かというと、本然へ帰ろうということです。ですから復帰です。病気になったので、病気にならなかった本然の世界に帰らなければなりません。神様の血統的因縁をどのようにして回復するのでしょうか。ですから、滅びなければならないこのような人々を捨てておくことはできません。偽りのオリーブの木と真のオリーブの木の比喩があります。

  

 真の父母とは何ですか。神様の愛を中心として、生命圏を中心として、血統圏を中心として、良心圏を中心として、すべて一体となることができるのです。真の父母が定着することができるそのような位置です。これが芽となり、ここから育って世界へ枝が伸びれば、国家、世界、天地にすべて連結されるのです。それは移動するものではありません。

 神様は、絶対、唯一、不変、永遠なので、定着する基準も、絶対、唯一、不変、永遠でなければなりません。何をもってですか。政治力ではありません。手段をもってはできません。力をもってもできません。真の愛をもって「ため」に生きて投入すれば、より価値があるものになるのです。  

 真の愛を中心として「ため」に投入すれば、それは絶対になくなることがありません。発展するのです。入力よりも出力が大きいのです。なぜですか。宇宙がそのようになっているのです。現れれば、絶えず宇宙が来てくっつきます。真の愛も、核が現れれば、来てくっつくようになっています。磁石も、鉄分があれば、鉄分の配合の度合いによって引き寄せる力が違うでしょう? 同じです。真の愛が宇宙を引き寄せるのです。

  

 血統の同一性が必要なので、神様の心情圏に従わざるを得ません。なぜそうなのかというと、根が違うのです。幹が違います。しかし、根が同じでなければならず、幹が同じでなければならず、芽が同じでなければなりません。そこには、絶対的に血統転換という途方もない問題が展開するのです。それは一人ではなすことができません。真の父母がいなければなりません。

  

 皆さん各自の血統的内容が違い、背後が違っているとしても、父母と似るためには接ぎ木する役事を行わなければなりません。身もだえして接ぎ木しなければなりません。接ぎ木しようとすれば、皆さん自身が残された蕩減路程をすべて清算しなければなりません。それは父母から始めたので、父母を通して清算されなければなりません。ですから、真の父母に接ぎ木しなければならないのです。アダムは、真の父母になることができず、偽りの父母となったので、今まで神様は、真の父母を探し求めてこられたのです。再臨時代における「新郎新婦」や「小羊の婚宴」というものも、すべて父母を取り戻すためです。

  

 皆さんが血統転換式をしたのちには完全に変わらなければなりません。もし真の父母が現れていなければ、このことが可能だったでしょうか。創世以後、いかに困難な道を歩んできたでしょうか。真の父母が現れただけでも有り難いのですが、真の父母から祝福されたということは、もっと驚くべきことなのです。このようにして伝統、その伝統とは何かというと血統の伝統です。真の愛と真の生命と真の血統を植えた伝統になっているのです。これを常に考えなければなりません。

  

 血統的転換は誰がすることでしょうか。それは、誰でもできることではありません。先生がこのことをするために、涙ぐましい十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。このような基準があるので、皆さんは、何の功労もなく、祝福という新しい伝統を継ぐようになったのです。転換の勝利圏を立てるにおいては、数千年に及ぶ神様の御苦労と実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを基盤として立ったところが、正に皆さんが立っている位置です。祝福されるということは、悪の血統を切ってしまい、新しく接ぎ木をすることです。接ぎ木をすることによって血統が変わるのです。

  

 祝福家庭は、どのような意味をもつのでしょうか。祝福家庭を中心として見るとき、サタンは祝福家庭を支配することができません。先生を完全に信じ、真の御父母様に属したという信念をもって、いかなる国であっても立つようになるとき、サタンはそれを侵犯することができません。なぜでしょうか。父母様の心情圏を中心として、血統転換した心情圏に連結しているからです。それゆえに、ここからは、サタンが帰らなければなりません。

 帰るには帰るのですが、どこに帰るのでしょうか。原点へ帰らなければなりません。偽りの父母から始まったので、原点へ帰り、真の父母から再び始めなくてはなりません。ですから、どれほど深刻でしょうか。私が、神様の愛と神様の生命と神様の血統を再び継がなくてはなりません。それで、皆さんが祝福を受ける時、血統転換式をしたでしょう? それを自分の命よりもっと信じなければなりません。統一教会の一つの儀式だといって、それを一般宗教の儀式と同じように思ってはいけません。これは死んだ人をよみがえらせる注射と同じです。解毒注射です。解毒注射なのです!


) 最後の目標は真の家庭理想実現


 人間において、最も神聖で貴いものが真の愛です。真の愛は自分一人だけでは生じません。自分中心的なところでは生じません。真の愛は相対のために生きて、与えてまた与えて、与えたことをすべて忘れて、また与えて与えながら、一つになろうというのです。それゆえに、真の愛は、すべてのものを抱くようになります。真の愛は、私個人の所有ばかりにしてはいられません。真の愛は相続されて、私なら私のものと同時に、万民のものであり、宇宙の公認のものになるのです。

 神様の希望は、真の愛を人間と共に成し遂げることです。神様は、御自身の息子であり、最高の被造物である人間と、心情世界で真の愛の喜悦と幸福を永遠に共にしたいと思われます。人間世界で真の愛を完成するならば、政治的にも、経済的にも、文化的にも、環境的にも、何の問題がありますか。真の愛の世界では、解決できない問題がありません。真の愛の世界は、すなわち歓喜と理想が充満した、自由と、平和と、幸福が無限に、そして永遠に広がる世界になります。今日、世界人類が抱いている難問題は、真の愛によってのみ根本的な解決が可能なのです。

  

 真の愛の真の家庭は、人類の願いと同時に、神様の創造目的の根本になります。このような真の家庭で輩出する、真の愛の真の人格によってのみ、真の社会、国家、世界の完成があり、すべての環境圏の創造理想が具現できるのです。私が、常に地上における真なる家庭天国を強調する理由もここにあります。真なる家庭天国がなされて、地上天国がなされるのです。真なる家庭天国で完成した真の愛の人格は、社会、国家、世界へ拡大され、不義と妥協せず、いつも「ため」に生きる真の家庭によって調和一体を成し遂げる真の人になるのです。

  

 人間の先祖を通した神様の理想は、男性と女性が結合して、理想的な家庭を築くことでした。ですから、理想的な家庭の中心は、男性でもなく、女性でもありません。家庭というものは、父母と子女、夫婦の結合によって成された一つの束ですが、その結ばれた中心が正に神様の愛です。神様の愛を中心として、家庭を完成させることが神様のみ旨であるという結論が出てきます。家庭は、神様の理想が顕現することができる起点であり、人類幸福の顕現の起点になるのです。人間としての仕事がすべて終わる位置であり、神様もすべてのことを完成される位置です。家庭がなぜ良いのですか。それは父母様の愛を中心として、自由活動の基地になるためです。

  

 家庭には必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。それでこそ、その家庭が幸福の基台になるのです。神様が人類を尋ね求めてくる目的も、神様御自身の幸福を模索するためだということは間違いありません。ゆえに、神様御自身が幸福の基台を尋ね求めていくためには、人間を離れた位置ではそのような理想があり得ないというのです。人間と共に関係を結んでこそ、その一致点をもたらすことができるのです。私たちが、家庭において、情緒的なすべての内容を備えた位置で幸福を感じるのと同じように、神様もやはりそのような位置で幸福を感じられるというのです。

  

 父子関係の真の愛は縦的であり、夫婦の真の愛の関係は横的であり、兄弟の真の愛は前後の立場として、球形の真の愛理想を願われたのです。すなわち縦には上弦下弦、横には左弦右弦、前後には前弦後弦、それをすべて連結した一つの中心点で統一がなされるのです。その点が球形体の中心点になるのです。いつ四大心情圏である子女、兄弟、夫婦、父母が一体を完成するのかというと、神様を中心として、人間が結婚して初愛を結ぶ位置が、すべての完成の結実点であり、中心になるのです。したがって、結婚は天地人の合徳であり、縦横、左右、前後、全体を完成するのです。結婚は、真の子女、兄弟、夫婦、父母の理想の、そして真の愛の完成地なのです。

  

 この宇宙の中心はどこにありますか。家庭にあります。真の愛が定着することができる基地はどこですか。皆さんが生きている皆さんの家庭だというのです。したがって、本来の家庭は、宇宙愛を掌握して、宇宙の保護様相を体得しながら宇宙愛圏を拡大させ、家庭を越えて国家を愛する、愛国の道を行かなければならず、ひいては民族と国家を越えて世界を愛する道に行かなければなりません。家庭を愛する人を孝子または烈女といい、国を愛する人を愛国者というならば、世界を愛する人を何といいますか。その人を正に聖人というのです。

  

 神様の愛圏の中で、理想的な家庭を築いて氏族をなし、民族と国家を形成してさらに拡大し、アダムの理想が実現される一つの理想的世界を成し遂げたのです。木の根、幹、葉が一つの生命に連結されているように、愛を中心として、上には神様を父として侍り、下には万民を兄弟と共に一つの生命体、愛の生命体と化して、神様を中心とした永遠の理想世界を成し遂げなければならないということが、正に神様のみ旨から見た世界観です。このような世界の人間たちには、救援が必要なく、メシヤも必要ありません。なぜなら、その世界で暮らす人間は、神様の善の息子、娘だからです。