Text Box: TP portrait  Book 十五: 天一国主人の生活

The Life of an Owner of Cheon Il Guk




はじめに


 真の御父母様は、神様と人類の解放、そして幸福な永遠の理想世界を実現するために、八十年の生涯を血と汗と涙で濡れた蕩減の路程を歩んでこられました。そのような苦難の路程の中で、一九九三年に成約時代の到来を宣布され、天宙平和統一国(天一国)の基盤を固められて、二〇〇一年に天一国を宣布されました。さらに、二〇〇二年の「真の子女の日」には、天一国主人として祝福家庭を祝福してくださいました。


 真の御父母様は、天国に対して多くのみ言を語ってくださいましたが、天宙平和統一国(天一国)宣布以来、天国の具体的名称は「天一国」だということを明確にしてくださいました。


 天一国三年二月六日、天一国開門が宣布されて以降、天一国主人としてふさわしい生活のために精誠を尽くしている祝福家庭の皆さんのために、真の御父母様のみ言集の中から天一国に関するみ言を精選して『天一国主人の生活』という本を発刊するようになったことを、神様と真の御父母様に感謝申し上げます。


 堕落した人類は、個人主義的利己主義と物質万能主義、瞬間的な快楽のみを追う即席的愛による道徳性の喪失と家庭の破壊によって、極度に乱れた生活を送っています。

 人類の父母であられる神様は、このような乱れた生活を送っている堕落人間が一日も早く創造本然の立場に戻り、天一国主人になる生活を送ることを願っていらっしゃいます。まず、神様から召命を受けた私たち祝福家庭が、天一国主人としての生活を率先して実践することにより、自らの氏族を祝福して天の懐へと導かなければなりません。


 「天一国主人の生活」は、一心、一体、一念、一和の精神を土台として、純潔、純血、純愛、純孝、純忠、純聖、純婚、純家庭の純潔八段階を常に実践することにより、天一国の主人になることができるというみ言が収録されています。


 天一国の開門が成された今、時代は大きく変わりました。古い時代は行き、新しい時代が到来しました。人間始祖の堕落によって出発したサタン主権の時代は行き、勝利された天地父母様が天宙を治められる神様主権の創造本然の時代が到来しました。


 すべての祝福家庭は、天一国主人にならなければなりません。このみ言を訓読し、実践することにより、天一国主人になられることを祈願します。


                           二〇〇三年三月





第一章 創造の原動力は神様の真の愛

一 真の愛は神様のみ旨がとどまる中心


 神様は、真理の大王、善の大王、真の大王、愛の大王です。では、神様は、もともといらっしゃったのでしょうか、お生まれになったのでしょうか。神様も大きくなってこられました。それを知らなければなりません。それをどのように知ることができるのですか。神様の本性に似たすべてのものが、小さな細胞から育ってくるのと同じです。それでは、神様は何によって大きくなってこられたのでしょうか。愛ゆえに大きくなってこられたというのです。絶対的な愛を中心として大きくなってこられました。愛の主体が神様であり、人間はその愛の対象です。


 神様は、真の愛のために天地を創造されました。神様が天地を創造されたのは、人を見るためではありません。愛ゆえに創造されたのです。愛は、神様お一人でもつことはできません。お一人で愛を感じることはできません。もちろん、御自身の中に愛はあるのですが、円満に和合する喜びが充満した愛は感じることができません。いくら美しい花が咲いても、香りが出なければならず、いくら香りをもっていたとしても、風が吹いて初めて香りが飛んでいくのです。ですから、風のように相対的な刺激の対象が必要なのです。


 真の愛は、神様が創造される時の根源的力です。原動力だというのです。それゆえに、神様も好むのは、真の愛だというのです。神様も、私たちのように御飯も召し上がり、目もあり、鼻もあり、すべてあります。そのようなお方ですが、そのお方が喜ばれることとは何かというと、私たち人間たちが喜ぶ黄金の塊ではありません。それは、いつでもつくることができます。それから、知識も同じです。神様は、全知全能のお方です。知識の大王であり、能力の大王です。


 真の愛の深さは、神様がお生まれになる時の、その底まで包括するという話です。どれほど深いか分かりません。神様が存在し始めた根源から始まったので、どれほど深いか分からないのです。一生の間生きても、すべてそこまで行けないので、あの世界に行っても、それに向かって永遠に発展するのです。ですから、夫婦でけんかをして別れるというのは考えることもできません。


 神様御自身も育ってこられたというのです。神様がその深さまで、出発とともに根源と一緒にいらっしゃったのです。根源は、神様が先ではなく愛が先です。「神様は二性性相になっている」というのですが、なぜ二性性相ですか。愛ゆえに二性性相を大切に保管するのです。


 真の愛は、神様が思いのままにお出ましになることができる橋になるのです。すべての四肢五体が、いつ愛を中心として表面で一つになってもOKであり、内面で一つになってもOKです。北でも、南でも、東でも、西でも、天国でも、地上世界でも、どこでも同じです。愛を中心として和合することができ、愛を中心として自律的に和動することができるのです。それは、愛だけがもっているものです。


 体制においても同じです。党を神様の絶対的な代わりとして立て、完全に一つになろうとするのは、神様を中心として一つになるということです。


 神様も、真の愛に対しては絶対的に服従します。真の愛を中心としては、神様も生命を捧げようとされます。男性や女性も、真の愛があれば、なぜ命を捧げようとするのですか。愛が生命よりも先だからです。神様がなぜ存在し始めたのでしょうか。愛ゆえに存在し始め、愛するために存在されるというのです。愛という概念がなかったならば、神様も生まれる必要がなかったというのです。


 それゆえに、神様からつくられたすべてのものは、ペア・システムになっています。鉱物世界もペア・システムであり、レベルは低くても、陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史上初めて発表したのです。神様御自身も真の愛を絶対視され、それに絶対服従しながら生きようと思われるその起源を発表したのは、レバレンド・ムーンが歴史上初めてです。それは、観念ではなく事実です。このように神様は、真の愛を求めるために創造されたのです。


 真の愛というものは、神様を介在させることなくしては成立しません。神様が介在されなければ、真という言葉、真という男性、真という女性、真という家庭、真という真理、真という愛がないというのです。神様が介在してこそ、それらが可能なのです。


 神様は、真理の大王であり、善の大王です。真の大王です。愛の大王様です。それゆえに、神様を介在させない所には、善なるものがあり得ないのです。仕事もそうです。神様を抜かして行うのは詐欺です。信じることができません。すべてのものがそうだというのです。神様を介在させることによって、真の基準、永遠の基準が設定されるのです。


 それでは、真の愛と偽りの愛を、何によって分別することができるのですか。自分を中心として「ため」に生きようとする愛は、悪魔と通じる愛であり、相対を中心として「ため」に生きようとする愛は、天地の道理と通じ、神様と通じる愛です。ここに境界線があるのです。


 神様の愛は、与えて、与えて、与えても忘れてしまうのです。それが真の愛です。年を取ったおばあさん、九十歳になったおばあさんが七十歳を越えた息子に、「おい、なにがしよ。きょう外に出たら車に気をつけなさい」と言って、相変わらず昔の幼い時の息子と同じように接してあげるというのです。毎日のように繰り返すその話を、九十歳を越えるまでしても疲れません。千万年たっても疲れないのです。そのような愛が真の愛です。


 自分の生命までも投入して、また投入するという位置、与えて、また与えても忘れてしまうことができる位置においてのみ、真の愛が始まるのです。真の愛は、天地を貫きます。死の世界も貫いて上がっていくのです。


 生命の世界も、硬い心でも、どこでも貫いていくことができるというのです。愛が通ることのできない所はありません。愛は、秘密の部屋も通ることができるのです。


 最も速い速度をもったものが愛です。真の愛は、神様の創造能力と一致した力です。ですから、その愛をもっていれば、地の果てから神様に、「来てください」と言っても来られるというのです。醜い孫娘でも、指を少し動かせば、おじいさんが彼女に従っていきます。愛は、そのように偉大だというのです。これが真の愛です。


 愛というものは、ただそのまま出てくるのではありません。神様の愛を通じなければ、栄光が出てこないのです。その人が栄光を享受するというのは、自分一人でいる愛をいうのではなく、億万長者になって金の畑に座っていることをいうのではありません。


 愛の因縁を完全に備え、変わらない幸福な位置にいることを、栄光を享受するというのです。栄光は、神様の愛を除いてはあり得ないというのです。責任を完遂したのちに、完成段階の基準を経たのちに神様の愛を受けるようになれば、栄光は自動的に訪れるのです。


 真の愛は、神様よりも貴くなり得るのです。それは何の話かといえば、神様でも愛の相対は、何千万倍も立派であることを願うというのです。それは逆にいえば、真の愛の対象は、神様より貴いというのです。皆さんも、相対が皆さんより立派であることを願うのが愛です。


 真の愛は、神様の愛です。霊界に行けば、真の愛の色と味を感じることができます。そのような世界が霊界です。その真の愛と和合すれば、通じない所や聞こえない所がなく、すべて通じるのです。真の愛の主人である神様の産毛があるならば、その産毛も真の愛に属しているので、少しだけ動いても天下がすぐに知るようになります。鋭敏だというのです。感情が宇宙的感情にまで、すべて通じるというのです。


 愛を中心として、人間たちが神様、創造主以上の位置にまで上がっていける特権を許諾したその道を歩んでいくことができ、従っていくことができる方向を教えてあげるので「神主義」というのです。


 「神主義」は真の愛主義ですが、真の愛主義は、堕落した生命を犠牲にして投入することができる道を訪ねていかない限り、その道に到達できないのです。それで聖書は、「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」と、逆説的な論理を教えてくれたことを知らなければなりません。


 愛の道を尋ね求めていく人は、どのようなものを備えなければならないのでしょうか。神様の愛、神様と父母、そして私が一つにならなければなりません。それで初めて真の愛だというのです。これが、神様のみ旨がとどまることのできる中心です。私がそのみ旨と一つになることのできる中心です。


二 神様と真の父母と一体を成し遂げるための真の愛


 本来、心と体は、離そうにも離すことができず一つでした。人間の心は神様の心であり、人間の体はその心を包む器でした。ところが、人間の堕落が人間の体を悪魔に差し出したのです。それから、人間の体は悪魔の僕になりました。


 人間の良心は、神様を代表する心です。良心は、自分のために存在するのではありません。天の義のために存在します。良心は、常に善に向かって走ろうとします。ここに体は反抗します。体は、自分だけ楽をしようとし、利己的であり、本能的要求によって肉欲を表そうとします。良心は、この体を叱責して心に順応させようとします。ここに、常に血を流す葛藤と闘争が一つの体の中で起きるようになります。


 しかし、神様を自分の中に迎え入れなければ、誰も自分の体を征服することはできません。ただ、神様の真の愛と真理の力を中心として、主体である心は、対象である体を率いて神様と一体理想をなすようになっています。これが宗教のいう完成した人間です。


 神様を中心として、神様はお父様であり、私たち人類の先祖は息子、娘でした。その真の愛が出てくるためには、神様と一つにならなければなりません。一つになるのが原則です。一つになるための原則とは何かといえば、従順にすることしかないという結論が出てきます。神様が人と一つになる日には、神様のものが私のものであり、神様であり私であり、私であり神様だというのです。神様と一つになり得るのは真の愛だけです。


 真の愛と和合すれば、彼は神様の体になり、細胞になります。神聖な神様の肢体になり、一体のようになって永遠に愛を呼吸し、愛を食べて生きることができるのです。そのような世界を天国といいます。真の愛を中心として一つになったことを、聖書は話さなかったのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ一四・六)、そこには愛が抜けています。


 真の人とは、真の愛で暮らす人です。真の愛は、与える愛であり、永遠にセンターのために生きるという愛です。これが神様の核心です。真の愛は、神様の愛です。神様を永遠に愛そうとすれば、私は真の愛の所有者になるのです。


 真の愛は、神様とだけ関係を結んだ愛です。自分とか大韓民国とか、また世の中の習慣性、風習、国民の伝統性、このようなものがありますが、そのようなものと関係を結んだ愛ではありません。神様とだけ関係を結んだ愛です。人間が堕落したために、神様とだけ関係を結んだ愛になることができなかったのです。サタンと関係を結んだというのです。それが家庭だけではなく、家庭を越えて氏族、民族、国家、世界まで、地上世界、天上世界までそれが拡大されているというのです。今日、私たちが堕落した人として生まれ、生きている環境に染まったすべての習慣や伝統は、神様と関係ないのです。これを否定して、これを解決することが、どれほど難しいか分かりません。


 真の愛は、神様までもコントロールすることができます。真の愛を中心として一つになれば、所有権が生じます。愛する相対のものは、私のものだというのです。愛のパートナーは、いつ、どこにおいても取り替えることはできないのです。絶対的な愛の主人です。


 真の愛には、神様の心と体を絶対的に統一させ、一つにすることのできる力があります。神様も人と似ているとすれば、心と体があるのではないですか。心と体は、何を中心として一つになっているのでしょうか。知識でもなく、権力でもなく、お金でもないのです。ただ、真の愛だけが神様の心と体を完全に統一させるのです。


 私たち人間は、欲心が多いのです。しかし、神様の真の愛圏に、さっと入っていけば、欲心がすべてなくなります。真の愛圏内には相続権があります。ですから、愛の主体である神様までも私のものです。神様に属したものはあとにして、神様の心と体も私のものになります。一体になります。神様と私が一体だというのです。


 真の愛は、神様の一体圏に属するもの、神様に支配されるものであって、サタンに支配されるようにはなっていません。皆さんの堕落圏は、そのようになっていません。したがって、垂直である神様の心情圏の円形は残っていますが、血統を誤って継承したので横的円形が九〇度になっていません。七五度、または一五度、このようになっているのです。その差によって、良心の呵責を受けながら、苦悶を避けることができず、圧迫を受けています。


 真の愛は、ダイヤモンドより貴重です。そのアンテナから強い電波が送出され、自分の方向に従って触れ、出会い、キスをするというのです。それが真の父母のアンテナです。決して変わらないで、最後まで消滅しない貴重なものです。それで、全霊界の善の霊たちが真の父母を通して、新しい自らの明るい道を行こうとするのです。


 世の中で最も悲しいことは、真の父母を失ってしまったことです。真の父母を失ってしまったことが、どれほど悲しいことかを知らなければなりません。そうしてこそ、真の父母に会うことが、どれほど喜ばしいことかを知ることができます。


 それで、私が皆さんに一つ一つ指導するのです。神様の真の愛は、真の父母を通して出てくるので、真の父母には天使世界も支配されるようになっていて、すべての万物世界も支配されるようになっています。世界がその愛圏内にあることを、いつも考えなければなりません。


 真の父母は、世界の人が冷遇する立場で生まれなければならず、世界が反対する難しい立場で生まれなければならず、万物世界のどのようなものよりも貴い立場で生まれなければなりません。天使世界の天使が反対しても、それを克服してこなければならず、神様が反対しても、それを克服してこそ、それを越えて新しい理想的なものが出てくるようになるのです。


 真の愛は、女性から始まるのではなく、神様を通して、男性を通して来るのです。それゆえに、女性に生命の種を植えようと、男性たちが女性を尋ね求めて歩くのです。女性は器です。完全に空の器です。空の器とは、その器に入っていくものと対等な価値をもつのです。


 人間に真の愛と偽りの愛というものが生じたのですが、偽りの愛とは何であり、真の愛とは何でしょうか。偽りの愛は、サタンと関係を結んだものであり、真の愛は、神様と関係を結んだものです。では、男性も女性も真の愛を願いますか。


 本来は、真の愛を願うのが人間ではありません。堕落したために真の愛が必要なのです。堕落したのです。これが問題です。


 女性が女王になり、男性が王になるには、真の愛を中心としてなるようになっています。真の愛を中心として女王、または男性の王が生まれるようになっているのであって、真の愛がなければ生まれることができないようになっているのです。真の愛は、最高の位置で会うのです。最高の位置で二人がぴたっと一つになり、ここに神様が連結するのです。結婚するのは、最高の男性世界と女性世界を成し、神様を占領するためなのです。二つの世界を占領するためだというのです。男性や女性は半分にしかならないので、完成するために結婚するのです。真の愛は、神様と一つにするのです。


 神様と人がどこで一つになるのでしょうか。結婚式の時に一つになるのです。本然の真の愛の中心である神様を中心として、ぴたっと一つになるのです。それは何かというと、神様がアダムの心に入っていき、エバの心に入っていくという意味です。アダムとエバの結婚式は、神様の体の結婚式です。神様の結婚式です。


 外的な位置が体であり、内的な位置が心です。それで、直接的に神様が私たちのお父様です。神様の愛が私の愛であり、神様の生命が私の生命です。神様の血筋が私の血筋です。


 夫婦は、すべて違う所から来て結ばれるでしょう? しかし、夫と妻が父母になって私を生み、父子の因縁を残すようにしたのですが、その横的な要素の中で、一つは他の所から来ました。それゆえに、夫婦は別れても、父子の関係では別れることができません。縦的なものは一つしかないのです。これを知らなければなりません。天地間に、本然の真の愛を中心として、人類歴史を引き継いであげ得る血統的伝授の道は、垂直の位置一つしかないのです。垂直の位置が、なぜ必要なのですか。垂直に入っていけば影がなくなります。正午になれば影がなくなるでしょう? 神様と人間の理想的な愛の理想を中心とした垂直関係ができませんでした。


 それゆえに、この宇宙の中で、人間と神様が真の愛を中心として垂直的な直短距離で連結できる道とは何でしょうか。このように連結できる関係は、父子の関係です。直短距離は、垂直以外にはありません。少しだけ違っても垂直ではありません。直短距離なので垂直です。その垂直を中心として、父母は東西に直短距離で連結しています。


 それから、兄弟も前後に直短距離です。これが九〇度です。これを面で見れば二十四面です。全知全能の神様がそのような理想的構想力をもたれたので、垂直と水平が九〇度を成し遂げ、前後、左右、すべて九〇度を成し遂げた球形の中央に、宇宙の真ん中にいらっしゃるのです。神様は、何を中心としていらっしゃるのですか。真の愛を中心としていらっしゃいます。神様に尋ねてみれば、それしかないとおっしゃるのです。


 真の愛は、通じれば絶対的になることができ、唯一的になることができ、永遠不変になることができるというのです。真の愛に一致した人は、神様に対して相対の位置に立つことができます。唯一的な神様、絶対的な神様、不変的な神様、永遠の神様にいつでも相対できる環境圏内に入っていくというのです。


 私たち統一教会員の関係は、自分の兄弟より近いのです。このように、今後世界は、前後の世界が一つになり、その次には夫婦が一つになり、左右の世界が一つにならなければなりません。上下、前後、左右が一つにならなければなりません。


 上下、前後、左右、これは何ですか。上下は子女の道理、前後は兄弟の道理、それから左右は夫婦の道理をいうのです。このようにして完成すれば、霊界の神様の位置に上がっていき、神様に帰らなければなりません。それは、真の愛だけができることを知らなければなりません。


 真の家庭は、このような公式的基準に訓練され、完成したアダム家庭を拡大させたものなので、この世界に拡大させれば東西が一つになるのであり、それは、男性と女性が一つになったのと同じです。男性を中心として、主体を中心として相対が一つにならなければならず、前後が一つにならなければならず、上下が一つにならなければならないというのです。そのようになれば、原理的な内容を中心として、真の愛によって一つの世界が間違いなく完結するのです。


 神様を中心とした真の愛の道が、天国に行く道です。偽りの愛の終着地が、いわゆる地獄です。今まですべての宗教は、それをはっきりと分かりませんでした。地獄と天国のバウンダリー(境界線)を知らなかったのです。今明らかになりました。堕落した愛を復帰して再出発することが、天国の出発だというのです。


三 神様の愛の絶対対象は人類の先祖アダムとエバ


 新しい万物をつくっておいたそのエデン、新しい万物と共に永遠の福楽を享有しなければならない主人公のアダムとエバ、そのアダムとエバを立たせておいて、新しい心情的な理念を抱いて見つめていらっしゃった神様、その神様には、一瞬でも貴重でない時がなかったのです。アダムとエバが挙動するその一瞬一瞬は、表現できないほど深刻な瞬間であり、表現できないほど貴い因縁の時間だったというのです。


 成長するアダムとエバは、日が進むに従って理知と知能が明るくなり、神様の本性に代わるにおいて不足なものがありませんでした。彼らは、神様から造られる新しい世界に対して、神様の心情に代わって見ることができ、聞くことができ、触れることができる資格者に間違いなかったのです。


 神様は、アダムとエバを見つめられながら、彼らの動きが神様御自身の動きであり、彼らが話す言葉は神様御自身の言葉となり、また彼らが聞いて、見て、感じるすべてのものが、神様御自身が聞いて、見て、感じるものになることを願われました。そのような関係と因縁圏内にいるアダムとエバは、神様が心中で描かれた、神様の全体に代わる存在だったことに間違いないというのです。


 アダムとエバのためにつくられた万物を抱いていらっしゃる神様は、アダムとエバを立てておいて、どのような一日を待ち焦がれ、慕われたのでしょうか。六日目までにすべて万物をつくり終えられたのですが、アダムとエバを完成した姿で創造されなかったということは、アダムとエバと神様の間に、必ず何か残っていたということです。神様が願われたのは、造っておいた状態のアダムとエバでもなく、彼らが成長する姿を見つめるその期間でもなく、アダムとエバを通じて成し遂げようとする一日であったことを知らなければなりません。


 この一日を迎えるその瞬間、神様も喜ばれるはずであり、アダムとエバも喜ぶはずであり、万物も喜ぶはずなので、万物もその日を待ち焦がれ、人間もその日を待ち焦がれ、神様もその日を待ち焦がれられるのは間違いないのです。


  


 私たちの先祖アダムとエバは、神様の愛の懐で育ち、神様の至聖、至大な愛の心情のもとで育てられました。しかし、いくら育つ姿がかわいくて、暮らす環境が自由だったとしても、彼らがもっていないものがあったのですが、それは何だったのでしょうか。許諾してくださった万物がなかったわけでもありません。使いがいなかったのでもありません。それは、アダムとエバが神様の息子、娘になり得る心情の因縁を結べなかったということです。それが恨です。


 神様が無限の創造の理念とともに享受することができる希望の世界を立てられ、アダムとエバによって天下万象が自由自在に主管される姿を見て喜ぼうとされたのは、彼らを愛されるためだったのです。外的なある条件が貴いからではなく、御自身の心血が彼らに浸透していて、御自身の骨肉が潜在していて、忘れようとしても忘れられない心情の流れがアダムとエバに向かっていたがゆえに、アダムとエバに天地のすべての万物を許諾されたということを、私たちは知らなければなりません。


 しかし、アダムとエバは、堕落することによって神様に背きました。万物に背いたのでもなく、施してくださった祝福に背いたのでもなく、背いてはいけない一つの原則に背いたのですが、それは何でしょうか。それは、神様と心情の因縁を結ぶことができる基盤です。心情の基盤に背いたのです。それが堕落です。


 神様は、アダムとエバを見つめるたびごとに希望の心情が燃え上がり、彼らを見るたびごとに、彼らが自己完成して幸福な生活をすることを思われて幸福の感情が燃え上がり、神様がつくってくださった天地万物を彼ら自身がつくったもののように主管して、楽しみ、なでてあげることを願われました。しかし、そのような希望の心情は、アダムとエバの堕落によって、すべて途絶えるようになったというのです。これが、私たちの先祖が過ちを犯した罪状の中でも、容認されない、とても大きな罪状だということを知らなければなりません。


 しかし、神様は、堕落した人間をそのままほっておくことができないのです。なぜですか。本来、人間を永遠の基準である原理的な法度によって造られたがゆえに、その基準を無視することはできないからです。堕落したアダムとエバを無にしてしまいたい心は切実でしたが、彼らを無にすれば、六日間でつくられた全被造世界の原則を無にすると同時に、永遠の基準まで無にしなければならない立場になり、永遠の主体であられる神様の実存まで侵害されざるを得ない立場になるので、これを知っていらっしゃる神様は、アダムとエバをもう一度救援する摂理を始められたのです。


 サタンは、エバと愛の関係を結び、ひいてはアダムまで堕落させました。すなわち、エバがアダムを主管したのです。それゆえに、今までこれを蕩減させるために、歴史的に数多くの女性が男性たちに蹂躙されてきたのです。女性は寂しく思うかもしれませんが、それは事実です。


 それでは、神様は何のためにアダムとエバを造られたのですか。聖書を見れば「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ三:一六)と記録されています。体が堕落して救援歴史を経なければならない人々も、体を何だと言うのですか。「神の宮だ」と言います。神の宮とは、神様が臨在される場所をいうのです。


 堕落して救援歴史を経なければならない人が、神様が臨在できる聖殿になるとしても、堕落していないアダムと比較すれば、堕落していないアダムが良いというのです。それでは、アダムの心に神様が入っていってそこにいらっしゃるのでしょうか。言うまでもなく、百年でも千年でもいらっしゃるというのです。


 それでは、アダムは、そもそも何でしょうか。アダムとエバが何も分からない間抜けならば、神様が創造された天地万物を主管することができないのです。すなわち、天地を創造した技術者のような実力がなくては、主管できないというのです。それでは、誰が主管の能力を下さるのでしょうか。正に神様であられます。すなわち、神様がアダムの心と体に入っていき、アダムをコントロールして初めて正しく動くというのです。


 このように考える時、神様の体になるように造られたアダムが人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには、実体、すなわち体があってこそ見聞きできるので、神様の実体になるように創造された存在がアダムだというのです。それでは、エバは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。したがって、アダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻をもらうなどとんでもないと思うかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体であり、エバは実体をもった神様の妻として造られたのです。


 そのようなアダムとエバは、どのようにしなければならないのでしょうか。見えない神様の内在的な性稟にそのまま似て一体を成し、愛の実を結ばなければなりません。そのようにすれば、その息子、娘は、アダムとエバの息子、娘であり、神様の息子、娘だというのです。真の愛を通してアダムの息子であり、神様の息子をつくらなければなりません。ところが、正常な軌道で愛の因縁を立てられなかったことが億千万代の恨の歴史であり、今日この悲惨な堕落の歴史だということを皆さんは知らなければなりません。


 神様が王ならば、アダムとエバは、神様の初代王子、王女です。神様の相対として、天宙のすべてのものを相続し得る神様の初代王子と初代王女が、私たちの最初の先祖であるアダムとエバだったことを、はっきりと知らなければなりません。このように、王族心情圏に一致する生涯を終えて入っていく所が天国です。これを今まで歴史始まって以来、どの宗教家も分からず、誰も分かりませんでした。


 ところが、既成教会では、「イエス様を信じれば、すぐに救われる」と言います。そのようなばかな話はありません。心情圏、長子権において、アダムとエバは、初代の長子と長女でした。初代の真の父母であり、地上王国の初代の中心人物でした。その王を中心とした王族が地上に残っているならば、今この世界はどのようになっていたでしょうか。神様の理想を中心として、すべてのものが準備されていたはずですが、堕落することにより、サタン圏を中心として数百、数千の民族が分裂し、闘いの渦中で王族圏を制圧してきたのです。それが堕落の結論です。

 無形の二性性相の主体としていらっしゃる神様の男性格性稟を実体として展開し、神様の内的性稟を見えるように実体として展開して相対的に造ったものがアダムであり、神様の内的な女性格性稟を実体として展開したものがエバです。別の言い方をすれば、神様の内性的なすべてのものを投入して実体化させたものが人間の体だというのです。


 エバゆえに、本来の理想的なアダムとエバが二人とも壊れたのです。それゆえに、理想的「後のアダム」として来られたイエス様の前に、堕落したエバ、すなわちマリヤがイエス様の妻になるエバを復帰してあげなければなりません。復帰するには、マリヤ一人ではできません。創造主がアダムを中心としてエバを造る時も天使長が協助したので、復帰歴史完成のために、「後のアダム」を型としてエバを造る時も天使長が協助しなければなりません。そのようにすることによって、エバが復帰されるのです。


 そして、イエス様と復帰されたエバが一つにならなければなりません。天使と天使長の立場である僕たちが、アダムの立場であるイエス様を中心として、エバの立場である娘を創造したとすれば、その娘は堕落していない神様の娘ではないですか。マリヤとヨセフが、その神様の娘とイエス様を祝福してあげなければなりません。ここで、神様の娘と神様の息子が一つになるのです。


 主管性転倒問題は、エバが行ったことなので、女性が責任をもたなければなりません。それゆえに、マリヤが天使長も復帰してあげるべきであり、アダムも復帰してあげるべきであり、エバも堕落前のエバに復帰しなければなりません。マリヤが、このすべてを復帰しなければなりません。ですから女性は、主管性を転倒しなければなりません。マリヤは、天使長とアダムとエバ、この三つを復帰するだけでなく、神様の心情まですべて探し立てなければなりません。


 それをすることによって、神様のみ旨と人類の目的が成し遂げられるのです。神様が四千年間願ってこられたみ旨と、人類が今後天国を成すことのできる起源が、ここでできるのです。ですから、これが人類の目的点となってきたのであり、神様の目的点となってきました。


 アダムとエバが愛を結び、愛を完成すれば、そこから完全なものへの出発がなされるのです。それゆえに、主管性転倒を必ずしなければなりません。


 もしアダムが堕落しなかったならば、アダムとエバが成し遂げた家庭は、神様が喜ばれる家庭であると同時に、人類始祖において最高の幸福を感じることができる基台になったのです。苦痛とか失望とか、あるいは嘆息などを見たり感じたりせず、喜びと幸福だけを感じて永遠を希望とし、神様の直接主管圏内で神様の主管を受けたのです。ところが、アダムとエバの堕落により、このようなすべてのことが誤ってしまいました。


 したがって、それを復帰しなければならないのですが、それをそのままでは絶対に復帰できないのです。必ず、創造原則によって復帰していかなければなりません。これが原則なので、今までの復帰歴史を見れば、再創造歴史を通してそれをなしてきたことが分かります。エデンの園には、天使長がいて、エバがいて、アダムがいて、神様がいらっしゃいました。別の言い方をすれば、神様を中心として四位の形態を備えた位置だったというのです。そのような位置で堕落したので、復帰するにおいては再創造原則を通さなければなりません。それで、今まで復帰歴史は男性が担当してきたのです。


 ユダヤ民族がイエス様を受け入れなかったために、イエス様は、一人で国家と世界のために自らを犠牲にすることに決めました。イエス様は、家族を離れなければならず、孤独に生きなければならなかったのです。しかし、神様の愛を受けました。結局彼は、堕落したアダムとエバの救援のために堕落していない兄弟が犠牲にならなければならなかったように、人のために自らを犠牲にしました。


 すべての人が堕落したアダムとエバの位置にいました。彼は、彼らのために自らを犠牲にしました。祭物になりました。自分を殺そうとする人々を呪わなかったのです。むしろ、神様に彼らを祝福してくださるように願われ、祈られました。それゆえに、イエス様は、神様と堕落したアダムとエバの間に仲保者として立ったのです。


 イエス様は、堕落していないアダムとして亡くなりました。そして、全世界、人類の救援のための公式的な道を行きました。それで、彼に従う者は誰でも救われる、代表的なアダムになったのです。


 もしアダムとエバが成熟し、完成していたならば、彼らは、夫婦の愛によって一つになることができたのです。彼らは、肉体的だけではなく、霊的にもお互いに愛するようになっていました。その場において、アダムは、お父様であられる神様と縦的に一つになることができ、エバは、お父様と娘の立場で神様と一つになることができました。その時、アダムとエバが望んだ位置は、一つになる位置でした。そして、神様とエバも一つになってアダムを望んだのです。


 横的には神様とアダム、そして、神様とエバ、三人がいます。この三人は、完全に一つになることを望みます。それでは、どこで彼らが会うのですか。あの上ですか、でなければこの下ですか。違います。彼らは、横的に出会って一つになったのです。もしアダムとエバが横的に一つになっていたなら、彼らはどのようになったでしょうか。完全に一体になったのです。何も彼らを離すことはできなかったはずです。


 これを成したのちに、初めて愛の位置に対する欲望が生まれます。男性と女性には、これが唯一の道であり、唯一の目標です。それは、神様とアダム、そして、神様とエバが一緒にいたいと思う唯一の位置なので、最高の位置です。神様とアダム、そして、神様とエバが一つになることができなければ、彼らはその場を占有することができないのです。その時から、神様を中心としたアダムとエバの間の授受関係が疎遠になります。


 このような観点から見るとき、私たちは、神様が縦的にだけではなく、横的にも創造していらっしゃることが分かります。これがアダムとエバを中心とした創造理想、神様の理想です。


 アダムが神様と一体になり、エバが神様と一体になれば、彼らの間ではどちらも、「私のほうがあなたより貴い」と言うことができないのです。より貴いものも、より貴くないものも存在せず、ただ完全な一つのものだけが存在するのです。しかし、様々な理由で、神様とエバのすきま、そして、神様とアダムのすきまが生じるようになりました。


 アダムとエバが成熟して成婚式をすれば、彼らは神様を中心として直接的な愛圏内で一つになるのです。ここで中心は、誰ですか。神様です。そのようになったとすれば、私たち人間は、実体をもった神様の体になるのです。そのようにしてアダムとエバが一つになっていたならば、彼らは神様の体であり、人類の父母であり、神様の中心になるのです。いくら全知全能の神様でも、相対なくして喜べば、「狂った神様だ」と言うことができるのです。


 絶対的な神様の前に、私たち人間は、相対的存在です。絶対的な愛を中心として一体にならなければなりません。そのように、神様とアダムとエバが一体になっていれば、そのアダムとエバを中心として生まれた息子、娘は、アダムとエバの息子、娘であり、神様の息子、娘です。そのようになったならば、神様の血族としてこの地上に家庭を築き、氏族を成し、民族を成し、国家を成し、世界を成していたはずであり、永遠であられる神様の愛を中心として結ばれたその因縁は、断ち切る者がいないので、その国自体が神様の愛を基盤とした地上天国になることを皆さんは知らなければなりません。


 アダムとエバが堕落していなかったならば、アダムがエバを愛するのは神様の代わりに愛することであり、エバもアダムを愛するのは神様の代わりに愛するという観念がここで形成されるのです。それゆえに、アダムとエバの生活は、神様の生活を表示するものになります。


 アダムとエバが喜べば神様も内的に喜ばれ、アダムとエバが悲しめば神様も内的に悲しみを一緒に感じられるようになっています。愛は、神様のものであり、アダムのものであり、エバのものだからです。一つの愛なので、そのようにならざるを得ないというのです。


 本来、堕落していなければ、左翼と右翼はありません。統一です。「頭翼思想」や「神主義」は必要なく、そのまま天国に行くのです。救世主も必要ないのです。アダムとエバから「頭翼思想」によって神様の前に行くのであって、再び戻る必要は何もありません。すべて天国に直行するのです。アダムとエバが堕落していなかったならば、天国の王子、王女として天国に行くのです。アダムとエバは、神様の王孫でしたが、堕落したためにそのようになれなかったのです。


 アダムとエバとは誰かといえば、神様の体です。エバは、神様の実体の夫人です。神様は、霊的に縦的なお父様になります。垂直的なお父様、縦的なお父様です。皆さんの心には、その二つの父母の血統を受け継ぐことのできる本然的基準があるので、堕落したとしても永遠に変わりません。


 創造主は縦的な父母として、横的な父母を縦的な愛の相対として造られたのです。それゆえに、アダムとエバは、神様の永遠の愛のパートナーです。神様の相対です。アルファとオメガだといいました。神様から愛を始めたので、戻れば神様の友人になるのです。あとで神様に戻らなければなりません。


 アダムとエバは、誰を中心として結婚生活をしたのでしょうか。神様がそれを干渉されたでしょうか─アダムとエバが息子、娘を生みましたか、生みませんでしたか。生みました。カインとアベルを生みました。カインとアベルを生んだのですが、神様が「おい、アダムとエバよ! お前たちは一緒に暮らして息子、娘を生みなさい!」とおっしゃって生んだのがカインとアベルですか、自分勝手に生きながら生んだのがカインとアベルですか。自分勝手にして生んだのです。自分勝手に生んだのですが、誰が喜ぶでしょうか。サタンが喜ぶのです。アダムとエバは、サタンを中心として結婚したのです。これを否定できません。


 韓半島がアダム国家ならば、日本はエバ国家です。韓国がなぜアダム国家ですか。地理的に見るとき、韓半島は男性の生殖器と全く同じです。ちょうどローマがそうです。地中海が女性の陰部と同じで、イタリアが男性の生殖器と同じです。ですから、二つが一つにならなければなりません。このような地域は、いつも文化が離れられません。一つの文化が帰着して離れることができないのです。


 なぜなら、愛の基盤の上に立ったのと同じ立場だからです。地政学的なすべてのものを見ても、ローマと地中海は、男性と女性が一つになったものと全く同じだというのです。


 今から父と母に代わって総合的な文化時代が訪れてきます。これは、アダムとエバが堕落した時に失ってしまったものを再び取り戻す場なので、その周辺国は、一緒に堕落した三天使長の立場です。アダムとエバ、三天使長と同じです。韓国を中心として三天使長は、中国とソ連とアメリカです。アメリカは、天の側的な天使長であり、サタン側的な天使長が、中国とソ連です。台湾とインドもそうです。これがちょうどそのような立場にいるというのです。


 アダムとエバが家庭を失ってしまったその時に、アダムとエバを失ってしまい、三天使長がすべて堕落しました。それを復帰しなければなりません。それゆえに、韓半島において、ローマ教皇庁ができないことを収拾しなければなりません。ローマ教皇庁は、来られる主のために備えるというみ旨をもっていましたが、失敗しました。


 日本は、サタン側の国です。天照大神の国を、天国のエバとして完全にひっくり返さなければなりません。次子権を日本人以外の第二世に、奪って返さなければなりません。韓国と日本は、アダム国家とエバ国家なので一つだというのです。一つにしなければなりません。日本が日韓併合する時には、銃刀で一つにしようとしましたが、文総裁は、自由の環境で、愛で一つにするというのです。


 エデンの園において、女性は一人であり男性は五人ですが、アダムは目がぼーっとしていて女性を奪うことができないのです。そのようにしようとすれば、息子、娘をすべて抱かなければなりません。息子、娘をもってこそエバを取り戻せるのです。息子、娘をすべて結婚させたので、エバは行く所がないのです。


 日本自体が国家的にこのようなことをしなければなりません。そのようにすることによって、世界を代表したエバ国家が出生し、それがアダム国家と一つになる日には、天使長国家であるアメリカまで加担して、三つの国が一つになるのです。


 「成約時代」と言うとき、「成約」とは、アダムとエバを創造して、アダムとエバの家庭を完成することをいうのです。すなわち約束を成すことです。


 そして、アダムとエバの本然的な基準に帰らなければならないのですが、堕落の血族、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の五十億人類と、歴史時代に霊界に行った数多くの先祖までぶら下がっています。いくら歴史時代に忠誠を尽くし、精誠を尽くして神様を愛したとしても、それはすべて過ぎていってしまい、み旨を成せる成約時代に達し得ない忠誠であり精誠だったというのです。


 神様は、アダムを造られ、アダムからエバを造られたので、神様が責任をもつべきことは、アダムを再び造ることです。神様はアダムを造らなければならず、地はエバを造っておかなければなりません。そして、エバを中心としてカインとアベルの二人の息子を失ってしまったので、これを取り戻すのです。そのように種を蒔いたので、それを収めなければなりません。


 母を中心としてアベルは右側であり、カインは左側だというのです。三角形の線と同じになるというのです。地でそれを準備しなければなりません。それをどのようにすれば解放することができるのですか。個人的にカインとアベルを蒔いたのであり、アダムとエバを中心として母と息子、娘が植えたので、これを世界的に蕩減しなければなりません。


 真の愛の礎石を、誰がおいたのですか。人間がおいたのか神様がおいたのかという問題の答えは、神様です。人間が生まれる前に鉱物をつくられ、植物をつくられ、昆虫をつくられ、すべてつくっておかれたのです。聖書を見れば、一番あとで人間を造られたのであり、最後に造られたのがエバです。


 それゆえに、結局神様は、誰と連結するのですか。女性と連結しなければなりません。神様が礎石をおいた目的は、地上でアダムとエバが一つにならなければならないからです。アダムとエバが一つにならなければなりません。それでは、アダムとエバは、横的な面において、プラスとマイナスを中心としてどこに行って一つになるのでしょうか。男性と女性が一つになるのです。男性と女性は、凹、凸で一つになるのです。


 神様は心的存在と同じなので、アダムの心に性相が入っていき、エバの心に形状が入っていき、彼らが結婚式をするようになるのです。結局は、私たちの心と体が一つになることと同じです。神様と私たちの心が一つになることが、霊肉一体と同じ立場に立つのです。霊肉一体の男性と霊肉一体の女性が神様と一つになって結婚式をするのです。結婚式は、一日、一時に一双で結婚するのです。その結婚式は、アダムとエバの結婚式であると同時に、神様の結婚式だというのです。


 それで正分合です。正で分かれたものが合わさるときは、それらだけで合わさるのではありません。アダムとエバだけではなく、神様から一つになるのです。


 縦横を中心として運動することにより面積が生じるのですが、この面積の中で、神様の真の愛を中心として、アダムとエバが内外に同じ姿を備えるようになります。そして、私たち人類の先祖の位置で初愛を結ぶことにより、永生的で内的な神様の存在と、この肉的で一生的な存在が一つになるのです。それで、神様の心の血筋と体の血筋を受け継ぐことにより、その子女は、神様とアダム完成のすべての基準を受けるようになり神様が永生されるので、私たち人間も永生するというのです。永生論理がここから展開するのです。

 それゆえに、愛でなければ人間が神様の形状を受け継ぐことはあり得ません。神様御自身が人間の形状、体の形状を受け継ぐことはできないというのです。そのように愛が重要なのです。それで、神様の愛の理想を完成させるのに絶対的に必要なのが、絶対主体の前の絶対対象だというのです。その対象的な存在がアダムとエバです。


 ここは、内的な形状であったものが実体として分かれ、再び完全なアダムとエバを中心として愛によって一体となることにより、結局は、心的実体である神様がここに内的に入ってこられ、体的な実体であるアダムとエバが愛で一つになるのです。ここにおいて神様もアダムの形状に似て、アダムも神様の内的な形状に似て地上に定着するのです。これが家庭の基盤です。これを知らなければなりません。これが宇宙の根本です。


四 真の愛の初舞台は真の家庭


 神様は、真の愛でアダムとエバを造られました。そのアダムとエバは、神様の本来の性相と形状が展開した実体です。神様の見えない性相と形状が実体として現れたのが、創造されたアダムとエバです。それゆえに、大きくなって上がっていかなければなりません。大きくなって神様と一つにならなければなりません。完成したアダムとエバになっていたならば、彼らの心と体が自動的に一つになるのです。


  しかし、堕落のために彼らの心と体が闘ったのです。今まで、これが分かりませんでした。神様の創造理想どおりに人間が完成したとすれば、心と体は闘いません。闘う人になったということ自体が、「神様はいない」と否定し得る条件になるのです。


 真の愛は、一人では成すことができないのです。相対がいなければなりません。皆さんも、自分の相対が自分よりも立派であることを願いますか。誰でも、自分の息子、娘が自分よりも立派であることを願うというのです。そのような心は、神様から来たのです。


 それゆえに、神様も、愛の相対が神様より立派であることを願っていらっしゃる事実を知らなければなりません。愛の相対が横的にも縦的にも自分より立派であることを願う本然的起源は、神様にあったというのです。


 女性の心と男性の心が一つになり、女性の体と男性の体が一つになれば、神様の形状になるのです。そのようになれば、その中心に神様が臨在し、永遠に定着することができるというのです。正分合作用が三段階を経て、心的基準と体の基準が一体理想を成すのです。


 愛の一体、縦横に理想世界の一体圏が成されるというのです。心身一体という概念に、すべてのものが統合されるのです。


 愛が一体となることにより、実体の神様として地上に定着し、繁殖した家庭が神様の家庭になり、神様の一族になり、神様の民族になり、神様の世界になるのです。そのようになれば、堕落による心と体の闘いがすぐになくなります。神様の性相と一つになっているので、自然に神様の愛が臨在して男性と女性の相克がなくなるのです。衝突なく、自動的にお互いが愛することができるようになるのです。そこに神様が臨在され、家庭で心的な存在となり、夫婦は体的な存在として一体を成し遂げるのです。


 真の夫婦というものは、真の生命体を中心として、男性と女性が真の愛によって結束した夫婦です。そのような夫婦が真の夫婦です。社会は、そのような因縁を連結しなければなりません。兄弟圏の心情を横的に拡大した相対圏が真の社会、真の国家、真の世界です。人間は誰しも、自分自身が宇宙の代表になりたいのです。


 真の愛を背景とする因縁を中心として見れば、すべてが平等なので、それに背く者は、立つ位置がなくなるのです。唇は、真の愛によって連結します。それゆえに、生命、愛と血統、これが自分自身です。


 真の愛の第一故郷は、真の家庭です。真の家庭とは何ですか。そこには真の父、真の母、真の夫、真の妻、真の子女がいるのです。それが真の愛の家庭基盤です。


 父母が子女のために無限に投入して犠牲になれば、真の愛が背後にある限り、子女はその真の愛に無限に感謝するようになり、父母は大きな喜びでその犠牲を埋めるのです。このように犠牲的な真の愛の力は、授け受けする作用を発展させ、真の家庭で、そして、真の世界で永遠の喜びと平和の関係を結ばせます。このようなところで、永生の理想世界が顕現するのです。


 しかし、このような真の愛が欠如した家庭と国と世界は、抜け殻にすぎず、むしろあらゆる不信と反目と不倫の納骨堂になってしまうのです。人間の純粋な真の愛が成長して完成する場は、真なる家庭です。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の子女の愛、そして、真の兄弟の愛が共に完熟して実践される真の愛の初舞台は、真の家庭です。


 真の父母の真の愛を通して神様の真の愛を学びながら、真の兄弟の真の愛を通して真の国と真の世界人類に対する普遍的真の愛を訓練させる、平和世界の基本核の場が真の家庭です。それだけでなく、父母と子女間に受け継がれる真の愛を通して、過去と現在と未来の世代が一貫した真の愛の価値観によって連結していくようになる、歴史的連結の輪の基本単位も真の家庭です。


 おじいさんとおばあさんは、父と母のために死を覚悟して、命を懸けて愛する、これがどれほど幸福ですか。また父母は、息子、娘のために命を懸けて愛するというのです。どれほど幸福ですか。


 皆さんは「愛のために死ぬ」と言うのですが、孫がおじいさんのために死ぬことが真の愛です。おじいさんは孫のために、父母は子女のために、子女は父母のために、姉は弟のために、弟は姉のために、夫は妻のために、妻は夫のために、おばあさんはおじいさんのために、おじいさんはおばあさんのために、愛を中心として生命を捧げようとする家庭が真なる家庭だという結論が出てきます。


  

 神様が最も好まれるものとは何ですか。神様が最も好まれるものとは真の愛ですが、真の愛が最も喜ぶ相対的基準は何かといえば、アダムとエバの家庭です。この家庭は、理想的な神様の立場に立てられたものです。


 レバレンド・ムーンが教えてあげる真の愛の道、真の愛の男性と女性が行き、真の家庭が行き、真の国が行き、真の世界が行く道は、絶対的です。一つしかないのです。二つではありません。それを教本として、すべての人が向かい合える所が家庭だというのです。


 祝福を受けた夫婦がけんかをすれば、どのようにするのですか。夫婦がけんかをすれば、自分の息子、娘を呼んでおいて、その次には信仰の息子、娘を呼んでおいて、許しを請わなければなりません。カインとアベルが、行くべき伝統に背いたのです。ですから、自分の息子、娘と信仰の息子、娘がアベルとカインの立場であり、彼らが一つになれずに反対のことをしたので、カインとアベルの子女に悔い改めなければなりません。そのような時が来るというのです。共同運命です。息子、娘が間違えば、父母に許しを請わなければなりません。もし夫、父が間違えば、その息子、娘と夫人に許しを請わなければなりません。それが真の愛を中心とした真の家庭です。


 宗教は、神様を尋ね求めていくのです。神様の教えを尋ね求めていくのです。それを成し遂げるのは、神様ではなく人間です。相対的な愛を尋ね求めていくのですが、どこでそれを定着させるのかといえば、教会でもなく世界でもありません。正に家庭だというのです。家庭に真の愛の種を植えなければなりません。真の家庭によって拡大するためなのです。そこには宗教観念がありません。


第二章 天国と真の家庭

一 神様の創造理想は四位基台と真の家庭


 本来、神様は、天地万物を創造され、すべてのものが人間を通じて完成するようになさることにより、神様の威信と人間の威信を立てようとされました。そのようになれば、人間の完成はもちろん、神様の創造理想の完成も自動的に完結するという結論に到達するのです。


 そのようになっていれば、神様は万宇宙の中心の権威を備えられ、人間はその息子、娘として一体となり、神様の理想的愛の世界がこの地上に実現していました。そして、神様の悲しみが始まるのではなく、神様の喜びが始まっていたのです。そのようになっていれば、神様は、喜びの中で、人間の権威を一〇〇パーセント褒めたたえていらっしゃったのです。


 神様が人間をそのように高く褒めたたえられることを見習い、人間も、同じように神様に対して高く褒めたたえていたのです。そのようになれば、共同運命に置かれるようになっていたというのです。


 神様は、人間始祖アダムとエバを中心として、万物を主管するだけではなく、愛の家庭を築こうとされました。私たち統一教会では、この基準を「四位基台の完成」と定義しています。結局、神様のみ旨とは創造理想を完成することですが、その創造理想を完成するということを具体的に言えば、それは四位基台の完成だというのです。


 それでは、四位基台とは何でしょうか。完成したアダムと完成したエバが、神様の愛の中で祝福を受け、そのお方の息子、娘になると同時に神様が願われる夫婦となり、その次に、神様が願われる家庭を築くためには子女がいなければならないので、子女を完成させることです。


 神様のみ旨は、創造理想を完成することによって成されます。それでは、神様の創造理想とは何でしょうか。もちろん万物をつくることが神様の創造理想でもありますが、アダムとエバを中心として創造理想を成そうとされたというのです。神様の創造理想の完成、み旨の完成とは何でしょうか。神様を中心として、神様の愛を中心として四位基台を完成することにより、創造理想も完成し、み旨も完成するのです。言い換えれば、「神様のみ旨の完成」という言葉は、常に神様の愛を中心として四位基台的愛の基盤を内包しているという事実を、皆さんははっきりと知らなければなりません。


 四位基台は、愛を中心として東西南北が備えられていくことです。愛を除けば何もありません。その愛は、アダムだけの愛ではありません。エバだけの愛ではありません。アダムとエバが統一された位置で、神様の愛を連結させなければならないのです。神様の愛を連結させたその位置には、アダムとエバの愛があると同時に、息子、娘の愛が介在します。


 私たちがしばしば言う「三対象理想」という言葉も、アダムを中心として見れば、天がいて、妻がいて、子女がいるという意味です。これは三掛ける四は十二、十二数の対象圏のことをいっているのです。またこれは、愛を中心とした人々の三つの位置についていっている言葉です。


 ところが、今まで信仰生活をしてきた人々は、神様の愛を中心として創造理想を完成するという、そのようなみ旨が分かりませんでした。それは、神様のみ旨の完成、創造理想の完成をいうのです。それが四位基台の完成です。四位基台を完成すればどのようになるのでしょうか。天と地が定着するようになります。天と地が初めて定着するようになるのです。


 天は上の軸と同じであり、地は下の軸と同じであって、これを中心として一つになるのです。ここで子女は、中央の軸に向かって一つになれる平面的な形態を備えなければなりません。そして、これが育つことにより、中央に上がっていって一つの円形を描き、さらには愛の理想である球形を成すのです。


 すべてのものは、中央線を通らなければなりません。なぜ人の鼻は、上から下に垂直に下りているのでしょうか。中央を失ってしまってはならないからです。顔を見れば、目は神様を象徴し、口は万物を象徴しています。それで、歯が三十二本です。四掛ける八は三十二、歯は三十二本です。これは全体数を表しています。四数は東西南北であり、八数は全体数を代理したものです。乗数なので、四掛ける八は三十二、全体を象徴しているのです。それは、万物を食べなさいという意味です。これは、外的なものを取り入れることです。一方で、話すということは、内的なものをはき出すことです。すべて四位基台になっています。授け受けする道理です。


 縦横に備えられた愛の圏が、四位基台の愛の圏です。そのようになった時に、初めて父母が父母として登場するのです。父母として登場するので、横的な面において初めて実体的な神様の代身者として登場するのです。神様がアダムとエバを造って感じられた喜びを感じさせるために、横的な子女を養育できる力を人間に許諾されたのです。これが神様の創造理想です。


 神様を中心としてアダムとエバが愛を感じたとすれば、その愛は神様の愛であり、その四位基台は神様を中心とした四位基台です。それから子女ですが、この子女関係は、神様を中心として相対的です。ところで、相対となっている子女を生み、ただそのままではどこにも使うことができません。教育をしなければなりません。大きくなっていかなければなりません。大きくなっていく中で、男性は右側、女性は左側に行かなければなりません。


 新しい時代の四位基台は、アダムとエバの息子、娘から始まります。ですから、アダムとエバが結婚して繁殖すれば、結局は四位基台圏を成すようになっているのです。


 本然の息子、娘に帰っていくには、どのように帰っていくのでしょうか。神様の本来の心情と、神様が願われた理想家庭を中心として、相対圈が新たに生じるのです。四位基台は三段階でしょう? 神様、アダムとエバ、息子、娘です。この場合が縦的です。これが横的に展開していかなければなりません。横的に着陸することにより、縦的な要素がこれを基盤として、無数に平行に広がっていくのです。これが一つのモデルとなります。


 アダムが理想とした四位基台が全世界的に発展していくためには、このような伝統的な家庭の内容を完成させなければなりません。これを完成させなければ、横的な連結を成すことができません。別々に分けて考えてはいけないというのです。アダムとエバが結婚して暮らせば、既に神様は右側に来ていらっしゃり、自分の息子、娘は左側に立つのです。これが一つです。この三つが一つになっていることを知らなければなりません。


 横的に見れば、アダムは長男です。次男はイエス様であり、完成したアダムは三男です。縦的原理から見れば、三男は三代目でしょう? ですから、おじいさんの立場が第一代であり、父の立場が第二代であり、第三代は息子であり、それは孫の立場です。このようになっていたものが反対を向けば、孫がおじいさんの立場になります。反対に、祖父、父、孫となるのです。それゆえに、先生に絶対服従していくことによって、神の国の四位基台、三代圏を完成し、神の国に入っていくことができるのです。ですから、蕩減復帰です。


 統一教会の主体思想は、神様を中心とした思想です。この主体思想の中で、秩序的段階について言えば、三段階がなければなりません。ですから、父母と夫婦と子女がいるのです。この中心が神様と因縁を結び、四位基台理想を拡大させ得る愛の理想圏なのです。これが、私たちの主体思想の内容です。


 愛は、拡大する力をもっています。それが集約されれば一つになります。それゆえに、拡大し得る理想と連結し、全人類を抱いて生きていこうとするので、拡大させなければなりません。これを拡大させたのが、私たち人間の繁殖です。アダムとエバの二人を、横的に拡大させたのです。


 それゆえに、主体思想の内容を要約すれば、神様が、愛を中心としては絶対的な主体です。その次には真の父母です。その次には自分たち夫婦です。自分たち夫婦が真の父母の代わりとなり、子女をもつのです。これが四位基台です。


 四位基台は、父母を中心とした真の愛の起源を表しています。その次には、父母と子女の完全な愛の一体を表しています。それは、一時的なものではなく、永遠です。永遠であると同時に、絶対的だというのです。その愛の起点とは、唯一であり、不変であり、絶対的です。そのような愛は、神様だけにあるのでもなく、父だけにあるのでもなく、母だけにあるのでもありません。家庭的基盤の上、真の家庭の基盤の上に成立するのです。


 愛が絶対的なので、その愛を中心とした家庭の信義は、絶対的です。愛は、すべての関係においても絶対的です。そこでは、一つが侵犯されるということは全体の破壊を意味するので、そのようなことは容認することができません。したがって、四位基台自体は、愛が侵犯され得る問題において、自らの生命を凌駕したとしても、これを擁護し、保護しなければなりません。ここで最も恐ろしいことは何かというと、この愛の基盤が破壊されることです。それが一つの核となって拡大したものが世界です。


 そのようにして、一つのアダム家庭からその息子の家庭が生まれ、父母の家庭と息子の家庭が一つにならなければなりません。それで、四位基台が生じれば、この四位基台は将来、霊界の四位基台へと移っていくのです。


 神様の創造理想の最後とは何でしょうか。原理でいえば、責任分担を完成し、愛を中心として四位基台の家庭理想を完成することです。なぜ四位基台が必要かというと、父子関係の家庭理想を成さなければならないからです。父母の愛を中心として一つになったその縦的伝統を受け継いだアダムとエバが、横的伝統を展開させていかなければならないのです。


 アダムを起点として十二部族が生まれ、その十二という数字を中心として三百六十日という日が拡張されたように、すべての民族の拡張のための摂理の基準を立てることが創造理想の完成だというのです。


 そのような面から見るとき、「み旨の道」におけるみ旨とは何でしょうか。創造理想の完成です。創造理想の完成とは、四位基台の完成をいうのです。父を中心とし、母を中心とし、息子を中心とし、娘を中心としたものではありません。真の愛を中心とした四位基台の完成です。


 真の愛を中心として、これが責任分担の完成です。責任分担の完成というのは、すべての愛の理想を基準として男性と女性が完全に一つになり、神様が創造なさったすべての基準に一致すれば、その地上において縦的な基準として受け継いだアダムとエバの伝統を、肉身を通して初めて横的に展開させていくことをいうのです。息子、娘を一人か二人だけ生むようにはなっていません。アダムとエバの時代が来れば、東西南北に息子、娘をたくさん生むようになっているのです。


 一人の男性は、必ず一人の女性と共に家庭を形成しなければなりません。そのようにしなくては、統一世界に行くことができません。過去の信仰者たちは、家庭を捨てていきましたが、捨てた家庭を高い次元において再び取り戻し、勝利の家庭として新しい基台の上に立てなければ、天国に行くことができません。一つの家庭が形成されたからといって、その家庭だけで天国に入っていけるのではありません。四位基台を形成して初めて行くことができるのです。


 どこで四位基台を成さなければならないのでしょうか。この地上で成さなければなりません。いつ成さなければならないのでしょうか。自分が死ぬ前に成さなければなりません。


 それを成さなくては、国家を迎え得る国民になることはできず、世界を迎え得る人類になることはできず、神様のみ旨が成されなければ天国世界を迎え得る天民になることはできないのです。


  

 皆さんは、妻をもって幸福だと思うかもしれませんが、私は、そのように思いません。女性も幸福なのではありません。幸福なのではなく、十字架を背負ったのです。主体である人は、相対を幸福にしてあげなければなりません。子女がいれば、その子女も幸福にしてあげなければなりません。三大十字架を背負わなければならないのです。


 ですから、四位基台の復帰が最も難しいのです。それは、世界を征服することに比喩することができます。


 皆さんの息子、娘は、神様が数千年の歴史を経ながら数多くの預言者、烈士を犠牲にさせて探し出された一つの家庭を通じて、願いのともし火のごとくに生まれた貴い息子、娘です。各家庭の息子、娘が四位基台の完成という神聖な目標の帰一点をもたらすことを考えるとき、その息子、娘に対しても、日がたてばたつほど、本当に感謝しなければなりません。父母がそのような心をもつようになれば、その息子、娘たちは絶対に飢え死にしません。


 今、皆さんは堕落圏内にいます。長成期完成級で祝福を受けた家庭は、上がっていく道があります。それは、先生に従っていくことができる道をいうのです。しかし、皆さんの父親や母親と、皆さんの四位基台が一つにならなくてはなりません。


 ノアじいさんが箱舟を造る時、その夫人がよく協助したと思いますか。息子、娘がどれほど批判したと思いますか。「神様が審判される」と言って、一日でもなく百二十年間、弁当を持って山に上がっていき船を造ったのですが、ノアの妻がよく協助したかを考えてみてください。ノアの妻が協助しないのですから、その息子、娘に至っては、協助しないのは当然でしょう。皆さんは、母と完全に一つにならなければなりません。


 立体的な四位基台を成さなければなりません。上下の位置、前後の位置で一体を成さなければなりません。そのようになれば、いくら転がしても、止まった時は垂直になるのです。


 サッカー・ボールを置いた時、中心は垂直です。一点しかありません。それゆえに、家庭において四位基台の立体理想が成されなければなりません。


 父母の前に孝子になるだけではいけません。夫婦がいなければなりません。ですから、四位基台を成さなければなりません。これは絶対原理です。このようなことを考えてみるとき、今日、個人的四位基台、家庭的四位基台、国家的四位基台はどのようになっていますか。家庭的四位基台形態を拡大したものが国家であり、国家的四位基台形態を拡大したものが世界であり、世界的四位基台形態を拡大したものが天宙なのですが、その根本は家庭です。


 そのように行く中で、サタンが一匹もついてくることができないように整備する、家庭四位基台の教育がジャルジン教育です。そこを通らなければ落ちるのです。国籍を失った家庭になるのです。登録をするためベツレヘムに行って、赤ん坊のイエス様を馬小屋で出産するという、それ以上に悲惨なことも起きるのです。その道を訪ねていかなければなりません。


 神様を愛すれば愛するほど、永遠の父母の愛を受けるようになるのです。孝子になればなるほど、その父母の愛を余すところなく受けるのです。忠臣になればなるほど、聖君の愛を余すところなく受けるのです。真の夫になればなるほど、妻の愛を余すところなく受けるのです。



 素晴らしい善の夫、善の妻とは、どのような人でしょうか。妻として、神様の代わりに、真の御父母様の代わりに絶対視する夫をもった者、夫としてそのような妻をもった者が真の夫婦です。神様を絶対視し、父母を絶対視し、夫婦を絶対視し、そのもとに生まれた子女を絶対視しなければなりません。これが統一教会でいう四位基台理想です。


二 真の家庭は天国の民の生産工場


 女性は、宇宙を与えられても、神様を与えられても換えることができない貴い宝物をもっていることを知らなければなりません。愛を実現できる根源の王宮が私にあることを知らなければなりません。ですから、神様は、どれほど安全な場所にそれを入れておかれたでしょうか。おしりの肉がなければ、どのようになっていましたか。凍りついていたでしょう。


 男性たちは、どのようになりますか。保護するのにどれほど良くできていますか。すべての精力、すべてがそこに集まっているのです。それゆえに、それは、自分と同じような人を再びつくりだすことができる器官です。父母となることができるその場所というものは、どれほど神秘の王宮でしょうか。


 天国に行けば生産地がありません。神様が人を造られたのは何ゆえでしょうか。垂直には繁殖がないからです。垂直の位置は一点しかありません。神様は、一点、垂直の位置で愛をなすので、そこでは繁殖をすることができません。霊界では繁殖することができません。それゆえに、横的な三六〇度が必要です。横的世界には、東西南北に繁殖していくことができる位置がいくらでもあります。


 ですから、それが、天国の民を生産するための生産地だというのです。その国の民として来る人は、すなわち天国の息子、娘です。神様御自身の愛する息子、娘になるのです。その人は、神様御自身を中心とした細胞と同じです。私たちの生命は、その国に行けば神様の細胞と同じです。神様御自身になるのです。根本から来たので、根本へ帰っていくのです。


 それゆえに、男性と女性は、霊界に行けば一つの体となって神様に似るのです。最後は神化するようになるのです。神様に似なければなりません。神様は二性性相だと言ったでしょう? 二性性相は何から出発したのかというと、愛から出発しました。愛の結実として本然の神様に似て、帰ってくるのです。ですから神様も、お一人では孤独なのです。


 神様は、花の咲く愛の園をつくり、色とりどりの花が満開となり、愛の香りであふれたその園の中で、昼寝をしたり、動き回ったりしてみたいと思われたのです。そのような神様だったのです。


 生殖器は、真の愛を中心とした王宮であり、真の生命を中心とした王宮であり、真の血統を中心とした王宮です。最も貴いものです。これがなくなれば天地がなくなり、これがなければ神様の理想、神様の家庭、神様のみ旨を成し遂げることができないのです。これは、全体を完成し得る一つの起源です。


 子供は一人だけ生めばよいのに、なぜ神様はたくさん生むようにされたのでしょうか。これが問題です。一人だけ生めば、アダムとエバの二人しかいません。そのようになれば、どのようになっていたでしょうか。二人だけで生きなければなりません。一家庭だけで暮らすのです。そのようになれば、世界がなくなります。天国をつくろうとすれば、横的に広げていって数多くの家庭を生産しなければなりません。そのようにしてこそ、天国の民が生まれるようになっているのです。霊界では繁殖がありません。地上の夫婦は、天国の民を生産する生産工場です。


 すべてを満たそうとすれば、一度にはできません。ですから、数多くの世代を継いで生まなければならないのです。そのようにして天国の民が増えていくのを御覧になるとき、神様は喜ばれるのです。その国では、食べることも、着ることも、寝ることも、何も問題になりません。自動車も必要なく、工場も必要ありません。すべてのものが準備されている所です。


 自分が願えば、ひゅーっと飛んでいくのです。信じることができないほどに早い所です。一歩動けば、数千マイルを移動するのです。


 先生は見え、神様は見えないだけです。結婚初夜に夫婦同士で盛んに愛し合う時、既に神様が入ってきてアダムとエバと一つになるのです。人間を創造した目的は何ですか。霊界では繁殖することができません。


 霊界の民を創造する所が地上の家庭です。天の民をたくさん生んで育てたのちに逝く人が栄光の位置に立つのです。栄光の位置に立ちたいと思えば、今から息子、娘をたくさん生まなければなりません。


 地上は、天国の民を生産する生産基地です。霊界では繁殖がありません。堕落することによって、悪魔の息子、娘になってしまったのです。


 それゆえに、これを接ぎ木する役事をして、天国の民に戻してしまわなければなりません。それゆえに、皆さんがあの世に行く時は、嫁に行く娘が婚礼家具をもっていくのと同じように、天国の民をどれだけ復帰して連れて帰っていくかが問題です。


 神様は、孫を御覧になることができませんでした。アダムとエバを通して孫を御覧になろうとしたのですが、御覧になれなかったことが恨です。それゆえに、この地で息子、娘を生んで育て、その人々をすべて抱いてくることを願っていらっしゃるのです。


 その広大無辺な天国には、数千億の民が必要だというのです。先生は、それを知っているので、監獄に行きながらも、一つの生命を救うために、御飯も食べずに、夜も寝ないで生涯活動してきたのです。夜を朝だと思い、朝を夜だと思ったことが何度もあるのです。そのようにしながら、一つでも多くの生命を救おうとしているのです。そこにおいては、あらゆる国境を超越しているのです。


 人間は、誰もが愛を中心として結婚生活をする中で連結するようになっています。完全な愛を成したその基準の上で完全な息子、娘が生まれるのと同じように、神様の子女圏と神様の兄弟圏と神様の家庭の理想的夫婦圏を生んで育てなければならないのが、地上で生きる私たち人間の責任です。


 霊界では繁殖が不可能です。霊界は中心です。中心は、面積がないので、息子、娘を生むことのできる空間がありません。ですから神様は、膨大な天国に行って暮らすようにするために、平面的、立体的空間をつくられ、神様の国の国民を生産するようになさったのです。


 それゆえに、夫婦というものは、天国の国民をつくる分工場です。そうだとすれば、この地上で息子、娘をたくさん生んで連れていくことが、その世界を相続し、所有権を受けることのできる相対圏となるのです。息子、娘がいない人は、そのような相対圏がありません。一つになった素晴らしい相対圏をたくさん、十二カ月の十二数以上もたなければなりません。


 神様を誇り、男性となり女性となったことを誇らなければなりません。そのような男性、女性となって、天国の民を繁殖しなければなりません。これは鉄則です。アダムとエバは、繁殖をしなければなりません。心と体が一つとなり、神様の愛によって霊的五官と肉的五官が一体となり、真の愛で永遠に一つにならなければなりません。そのようになることができる男性、女性として永遠に会うことのできる男性は、永遠の人類を代表した王権をもった王であり、女性は、王権に対する王妃です。父と母は、心の中において万世の父であり、万世の母です。真の愛には、そのような背後が連結されていることを知らなければなりません。


 そのような姿勢を備えた愛を中心として一つになり、結婚を通してその愛を訪ねていくのです。愛ゆえに行くのです。結婚は、二人だけではなく、縦的な神様を占領するためのものです。東西に分かれ、どこに来て爆発するのか分かりますか。垂直線です。垂直線で爆発してぶつかるので、戻ってこなければなりません。戻って、上がっていかなければ下りていくのです。ここで神様は下りてきて、私は上がっていくことにより、神様が中心に入っていくのです。


 このようにして下りてきてみると、神様が愛の中心核になっているのです。ここにおいて、このように垂直になっているのを水平にしようとするので、息子、娘が必要なのです。それゆえに、このような垂直をつくっても息子、娘を生むことができなかった男性と女性は、天上の位置に行って神様に侍ることができません。息子、娘を生んで愛してみた人であってこそ、神様の二性性相、理想的主体である神様に侍ることができるのです。皆さんも、真の父母に侍るためには息子、娘を生まなければなりません。息子、娘を生むことができなかった人が養子をとったならば、自分の息子、娘を生んだ以上にその息子、娘を愛する訓練をしなければなりません。ですから大変です。それゆえに、統一教会では、「愛する息子、娘をたくさん生みなさい」と言うのです。


 統一教会の子供たちは、天運に乗ってきます。食べることは心配いりません。その中からは、判事も出てくるはずであり、検事も出てくるはずであり、大統領も出てくるはずであり、あらゆる人が出てくることでしょう。五色燦然と輝く光が出てくることでしょう。


 それゆえに、真の愛を中心として、母として恥ずかしくなく、父として恥ずかしくなく、天国の民をたくさん連れていかなければなりません。


 今日、夫婦というものは、天国の民を生産する工場です。ですから、息子、娘をたくさん生んで入っていけば不幸ではありません。あの世に行けば、高い位置に行くのです。東西南北を中心として見れば、四季が三カ月ずつで十二カ月です。ですから、イエス様も十二弟子を選んだのです。イエス様を中心として、三弟子は、東西南北の代表型と同じです。神様を中心として、これが中央を中心として四方を備えたのです。  


 地上の家庭は、天国をつくるための横的な世界です。縦的な世界は繁殖することができません。横的な世界で息子、娘が増えれば、彼らが神様の民となるのです。


 皇族が繁殖すれば、長孫だけを残し、すべてが民となります。親戚になるというのです。親戚にも長孫がいるでしょう? 氏族たちも、氏族たちを合わせた長孫がいなければならないのではありませんか。それがアダムとエバです。アダムとエバは、伝統的な永遠の王と王妃です。しかし、民主世界では、これがすべてなくなるのです。


 天国の民を生産するための生成基盤は、天の家庭基盤ではなく、地上の家庭基盤です。息子、娘を生むということは、天国の民を生産するということです。


三 天国の民の教育は真の家庭で


 地上にある家庭は、天国に連れていく民を再創造する工場です。私たちは、その工場の主人の役割をなしたのちに霊界に行くのです。ですから、正しい道さえしっかりとつかんでおけば、息子、娘を教育する必要はありません。自然になされるのです。自分の神様をすべてもっているのです。教育は必要ありません。堕落したので、このようになったのです。堕落することによって、根本が分からなくなったのです。


 神様が願われるものは、失ってしまったエデンの真の家庭です。その真の家庭に立てられる真の父母、真の父母の前に立てられる真の夫婦、真の夫婦が愛することのできる真の子女のいる家庭が、神様が一緒にいたいと思われる天の家庭だということを、皆さんは知らなければなりません。このような家庭が現れれば、その時には、イエス様も兄弟と共に喜ぶことができるのです。そのような家庭が現れなければなりません。


 真の家庭は、真の男性と真の女性が一つになって夫婦として出発するのです。息子、娘を生んだのちに真の家庭が出てくるのです。心と体が完全に一つになった男性と女性が永遠の愛を中心として一つになったところから、分かれることのない子供が出てくるようになるのです。父と母が分かれたところから、感情的に分かれた子供が出てくるのです。


 心と体が一つになり、真の愛を中心として一つになった夫婦から、心と体が一つになった子供が出発するというのは自動的な結論です。そうでなければ、家庭に真の愛がとどまることができません。神様は、真の愛がない所に臨在なさることはできないのです。これは論理的な結論です。


 天国の倉庫に入っていこうとすれば、神様の愛と神様の生命と神様の血統的因縁を中心として、きれいにならなければなりません。そのようになろうとすれば、生まれた時から神様の息子、娘であり、育っていく時も神様の息子、娘であり、暮らすのも神様の家庭でなければなりません。そのように暮らしてから行く所が地上天国であり、天上天国です。それゆえに、天上世界にも、そのような家庭、そのような一族が入っていくのです。個人救援ではありません。


 神様の愛を受けることができる息子、娘として、神様の愛を受けることができる兄弟として、神様の愛を行使することができる夫婦として、また神様がアダムとエバを愛したのと同じように、第二創造主の立場から、神様の代わりに自らの息子、娘を愛していくのが人生行路です。始まりも愛であり、過程も愛であり、終わりも愛です。愛の教科書に一致することのできる完成品として入っていく所が天国です。そこに入っていく時には、個人で入っていくのではありません。家庭全体が入っていかなければなりません。


 妻が夫に対する時は、どのようにしなければならないのでしょうか。「私とあなたは、共に生まれ育った双子の兄妹なので、私たちは、別れようとしても永遠に別れることができないことを、今やっと分かりました」と言いながら、手をしっかりと握り締めなければなりません。アダムとエバがエデンの園から追い出される時、分かれていくことによって悲しみの涙を流しましたが、今、復帰時代においては反対の涙を流さなければなりません。天国の息子、娘になることができなかったことを、私の一生を通して復帰しなければならないのです。


 国を建てようとすれば、王がいなければならず、女王がいなければなりません。息子、娘がいなければなりません。また、王国を守ることができる中心家庭がなければなりません。ですから、今、イエス様は、楽園に行って待っているのです。天国は、一人で入っていくようにはなっていないのです。  


 愛の所有を中心とすれば、相対の故郷が私の故郷になり、相対の家庭が私の家庭になることができるのです。そこにおいて、子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成が成されるのです。


 神様の教本に提示されたすべての内容を成すことができなかったことを、今日、真の父母を通して再現し、知るようになり、それを再度実行することにより、堕落していない本然的立場において、神様が完全に恨の峠を越えて教育に対する定義を下すことができるのです。そのようになることにより、天国の民として、合格者、合格家庭になるのです。


 キリスト教における聖霊は、女性神ですが、霊的に、また実体的に二つの世界を生んで育てなければならない責任があったように、統一教会で祝福を受けた女性は、二つの世界に対する責任を負わなければなりません。天国の民もつくらなければならず、サタン世界の民をすべて拒否することができるようにならなければならず、その人々を統治できるようにならなければなりません。


 皆さんの息子、娘は、神様の国の民です。ある一国家の市民ではありません。天国の民だというのです。皆さんは、このような目的をもって育てなければならないのであり、そうでなければ、今後、皆さんの家庭には希望がありません。地獄に行くようになるのです。


 真の御父母様は、いつも私のために生きた父母様だということを知って、今からでもその父母様のみ旨を私がすべて相続し、今後誕生する子孫を大切に育て、私のような人にはしないと決心して立ち上がらなければなりません。それだけが先生の望む、たった一つの願いです。

 その貴い息子、娘を再び皆さんのような息子、娘にしてしまえば、どうするのかというのです。「私はこうだったが、将来の私の子孫はそのような息子、娘にしない」と決意して精誠を尽くし、神様がエデンの園でアダムとエバを造って喜ばれたように、息子、娘を真の息子、娘にするために保護しながら抱いて育て、堕落した子孫の前轍を踏ませないようにしなければなりません。


 再びそのような道を行かないように最善を尽くして育て、神様の前で祝福を受けるように、私が準備し、すべての内容を備えさせてあげなければならないという責任感をもって将来の家庭を築いていけば、天国の息子、娘になるのです。


 皆さんは、自分の息子、娘を教育する時に、父母だけを愛する息子、娘になりなさいと教えてはいけません。「私は、この国を愛する忠臣だ、愛国者だ。母としての愛国者ではなく、愛国者としての母、忠臣としての父だ」と教育しなければなりません。


 父母が素晴らしければ、その家の息子、娘も素晴らしく、息子、娘が素晴らしければ、その家で育つ犬や鶏も素晴らしいのです。犬がほえることができず、鶏が鳴くことができなければ、それが素晴らしいことですか。「父母は和やかだが、その家の犬はよくほえるし、鶏もよく鳴く!」。そのようになってこそ素晴らしいのです。「あの家の人はそうではないのだが、鶏はあまりにもよく鳴くし、犬はよくかんだりもする」、そのような家庭は、滅びるのではありません。栄えるのです。  


 息子、娘は、その父母を、神様の代わりとして、真のお父様と真のお母様よりも素晴らしい父母として侍らなければなりません。そのようにして、真の父母に敬拝する前に、先に自分の父と母に敬拝できる家庭にならなければなりません。家庭生活の中で神様に代わるのが自らの父母です。ですから、四大心情圏と三大王権は一つの家庭で成さなければなりません。


 神様の愛の主権は、絶対、唯一、永遠、不変です。その国の主権もそうであり、その国の民もそうであり、その国の万物もそうであるがゆえに、今、再整備して、絶対、唯一、不変、永遠の国民性で再登録しなければなりません。万物もそのように再整備する時なので、全体を反対に回さなければなりません。このように回っていたものが反対に回らなければならないという事実を知らなければなりません。


 神様の国では、絶対主権が必要であり、民が必要であり、万物が必要です。私たちの家庭を見れば、主権の代わりに父母がいて、民の代わりに息子、娘がいて、万物の代わりに物があります。それが小さな天国の基盤です。それを神様のために、すべて捧げてしまわなければなりません。そのようにしてこそ、大きな国、大きな世界が成し遂げられるのです。


四 天国の基盤は真の家庭から


 神様は、絶対者であられ、唯一、不変、永遠であられるお方です。そのお方のみ旨も同じです。絶対者であり、不変なお方なので、そのお方のみ旨もそうだというのです。

 創造主と人間の真の愛を中心として完成する真の家庭を願っていらっしゃった神様は、人間と一体となる条件が必要でした。ですから神様は、人間始祖に与える戒めが必要だったのです。その戒めとは何でしょうか。愛の家庭、愛の全体、最も貴いものを相続してあげようという約束の条件が戒めだというのです。人間には成長過程を経て成長して上がっていく未完成段階があるということを御存じである神様が、最も貴い真の愛と家庭を人間に相続してくださろうとした条件が戒めでした。


 真の愛と真の家庭を相続してあげようというのが、神様の約束された戒めです。


 神様のみ旨は、一つにすることです。堕落していなければ、私たちの心と体は一つになっているのです。男性の心と体が一つになり、女性の心と体が一つになっていたのです。そのようにして、二人が心と体の一つになった家庭を成していれば、そこからは統一の世界が展開していたのです。


 今日、この世界は一つになっていません。この世界というものは、男性と女性を拡大したものです。


 神様は、最も深い所に隠密にいらっしゃいます。より深い所に下りていけばいくほど愛は大きくなっていき、最後には神様の真の愛を探し出すようになるのです。


 皆さんが子女をより一層深く愛すれば、神様の愛と出会うようになるのです。このような真の愛の家庭は、地上天国の基盤となります。それゆえに、天国が別の所にあるのではありません。


 天国は、真の家庭によって構成されます。神様のように暮らすのです。内的な父母である神様と永遠に共に暮らせる夫婦の生活環境だというのです。天国とは、そのような人々が入っていける所です。神様の体、神様の家庭に属する家庭が入っていく所です。完成したアダム家庭が、そこに入っていくのです。


 ですから、天国は、家庭的に入っていくようになっているのであって、一人で入っていくようにはなっていません。今まで「個人救援を受けよう」と言っていたのは、天使長世界です。ですから、真の家庭の所有は、天国です。真の家庭が所有物であり、主人となるのが天国だというのです。真の家庭と真の主人が真の所有権をもつのが天国だというのです。家庭的主人が所有するのが天国だというのです。


 皆さんが、神様の息子、娘となり、神様の家庭を築いてこそ、天国が成されます。一つの家庭においても、すべて同じです。サタンがわなを仕掛けて引っ張り、神様も引っ張っているのですが、その食口が神様の前に完全に帰ろうとすれば、限りない精誠を尽くさなければなりません。そのようにしてこそ、個人個人に対して、五人家族ならば五人家族に対してサタンが引っ張り、神様が引っ張っていても、サタンの綱を切ってしまい、天の側に帰っていくのです。


  


 夫婦は、神様をお迎えして愛の部屋に入っていくことを、お互いが考えなければなりません。そのようにして、心と体が完全に一つになれば、その夫人は、天下の女性の中で王の中の王であり、美人の中の美人であり、一つしかない絶対、唯一、不変の永遠の私の体だと思わなければなりません。愛する私の体だと思いなさいというのです。愛の体だというのです。


 主体と対象が愛で一つになることにより、夫人は私の愛の所有になります。愛で一つになる時は、相対を中心として、その愛も私のものなので、主人も私のものになり、その主人の所有も私のものになるのです。同じ価値をもったので、宇宙がすべて私のものになるというのです。


 このことは、神様を感じなければならないという話です。ですから、誰もが、神様に侍って生き、愛したという体験をしなければなりません。そのようにしてこそ、天国家庭として神様の貴族となり、血族となることができるということを知らなければなりません。神様が天国においてこのような祝福家庭を御覧になれば、星のように輝いているというのです。ですから、神様が常に喜ばれるというのです。


 栄光の真の家庭とは、地上でも幸福であり、霊界でも幸福になれる、真なる家庭のことをいうのです。あの世の中心存在であられる神様と直接共に暮らすことができる家庭が、栄光の真の家庭になるのです。うれしくて、またうれしくて、永遠に喜べる真の家庭にならなければなりません。お互いにうれしくなければ、協助して愛の理想的世界を築かなければなりません。愛の理想的な主体と対象として、自らを愛の対象として迎えてくれたので、お互いに感謝し、「ため」に生き、尊敬することができる世界を築かなければならないというのです。


 真の家庭の核心は、夫婦です。それでは、夫婦とは何でしょうか。神様の実体対象である神様の体です。真の愛をもった神様のことを、皆さんは父と呼びます。神様が父ならば、私とは父子の関係だというのです。父と息子であり、母と娘ですが、一つの体です。縦横を一つにしたものなので、そうだというのです。

  

 若い青年男女の願いは、理想家庭の完成、すなわち真の家庭を築くことです。ここで真の家庭とは、神様が喜ばれる家庭のことをいいます。それゆえに、最も重要なことは、神様をいかに知るかということです。

  

 真の家庭は、神様の目に入れても痛くないというのです。胸に抱いて踊られるのです。どれほど踊り騒いでも、神様は全能でいらっしゃるので、抱いて空中を舞いながら踊りたいと思われるのです。真の家庭は、神様を解放して慰労することができる対象です。


 真の家庭とは、神様がつくられ、神様のみ旨どおりに理想が成し遂げられた家庭です。


 完成したアダム家庭が真の家庭だというのです。しかし、アダム家庭がそのようになることができなかったので、そのようになるためには復活が必要です。復活した家庭によって、復活した氏族、民族、国家、世界を立てようというのです。そのようになれば、この地上において、サタンや、罪悪や、神様とサタンが闘う人類歴史の戦争などというものはなかっただろうというのです。そのようになれば、サタンもいなくて、この世界は、今日のように様々な国に分かれ、民族が異なり、文化が異なり、言葉が異なり、すべてが異なる、このような世界にはならないというのです。


 それでは、真の父母とは、どこから来られたお方でしょうか。神様からです。神様から連結されているのです。ここで、第一に神様の愛、第二に神様の生命、第三に神様の血統にならなければなりません。これは何かというと、ここにあるすべての世界も、神様の愛、神様の生命、神様の血統のために生じたということです。


 そのようになれば、ここには、サタンを中心とした愛や、生命や、血統などというものはあり得ないのです。そのようにしようとするので、今までの愛と生命と血統、このすべてのものは、神様に帰らなければならないというのです。


 しかし、直接帰っていくことができないので、ここで息子、娘を通じて帰っていくのです。この時、カインとアベルが問題になります。ですから、アダムとエバを中心として神様に帰っていくのだというのです。


 男性も、真の愛でなければ心と体が一つにならず、女性も、真の愛でなければ心と体が一つになりません。心と体が一つになってこそ、真の愛のカップルになることができます。真の愛のカップルになってこそ、真の愛をもった神様の子女となります。そのようにして神様の家庭になるのです。


 神様が最も好まれるものとは何でしょうか。ただ真の愛だけです。愛は、一人でなすものではありません。神様が人間を造られたのは、御自身のパートナーを造られたということです。真の愛のパートナーとして人間を造られたのです。それを手本として、全宇宙がペア・システムをもって造られたのです。


 ですから、神様の愛も永遠であり、男性の愛も永遠であり、女性の愛も永遠であり、子女の愛も永遠なのです。これが神様の家庭です。

  

 神様を中心として家庭生活を始めるということは、神様の家庭が出発するということです。そのようにして、神様と人間が愛を中心として一つになって家庭が出発するのですが、私たちの家庭だけが出発するのではありません。天国の家庭の出発とともに、これが並行していかなければなりません。


 神様の解怨を成就した家庭が、神様の家庭です。兄弟以上に愛することができる長男の資格、夫の資格をもった人々によって構成された家庭が、安息の場所なのです。父母として、こじきまでも自らの子女として迎えて暮らしたいと思う安息圏をつくらなければなりません。それが統一教会の祝福家庭の使命です。それが祝福家庭の宿命的使命だということを忘れてはなりません。


 真の父母の真の愛を通じて神様の真の愛を学びながら、真の兄弟の真の愛を通じて真の国と真の世界人類に対する普遍的真の愛を訓練させる、平和世界の基本、その核の立場が真の家庭です。


 霊界に行けば、理想的夫婦、理想的な真の家庭は、神様といつでも共に暮らすことができます。ですから男性は、神様の性相、心の立場にならなければならず、女性は、形状となって一つにならなければなりません。これが一段階もっと大きくなって一つになるのです。この二人の心的な面が性相になり、体的な面が形状となって、ここで初めて実を結ぶようになります。それで、神様を中心として、心と体の一体圏が成されるのです。


 そのようになれば、アダムの息子、娘には、神様の心、神様の愛を中心とした骨が生まれ、アダムとエバのような体が生まれるようになるのです。それゆえに、神様御自身は、アダムとエバのような形状をもって、見える人類を支配することができるのです。そのようになれば、完全に地上天国となり、神様を見ることができるのです。


 今は、天国に行っても神様が見えません。真の父母がそのようなすべてのことを成し遂げてあの世に行った時、神様は真の父母の心の中に入っていかなければなりません。そのようになれば、神様が体をもたれ、すべての宇宙を動かし、支配することができる時代に入っていきます。神様が神聖な形状をもたれるというのです。


 それらをすべて完成すれば、すなわち天上世界が完成し、地上天国が完成すれば、神様が形状をもたれるのです。それは、愛を中心として可能なのです。アダム家庭において肉体的に愛が一つになっていれば、神様も、性相と形状を兼ね備えることができるので、体をもつことができるというのです。それは、愛でなければできません。「一体」という言葉は、そこから出てくるのです。


 霊界は、真の愛、絶対的な愛によって統治する世界です。すべてのものが真の愛と連結しているのです。真の愛は、種です。堕落していない種が連結して、地上と天上に満ちるのです。


 ですから、今の世の中は、堕落した結果の世界なので、なくならなければなりません。堕落した世界の血統はなくしてしまい、本然の神様の血統を連結しなければなりません。どのようにしてそのような世界をつくるのでしょうか。その方法が結婚です。結婚とは何かというと、家庭を接ぎ木することです。


 霊界にいる人々も、真の家庭が必要です。その真の家庭がなければ、神様の位置に連結されず、天国に入っていくことができません。地上天国で暮らした夫婦も、あとから天国に入っていくようになります。それが神様の創造理想です。そこには宗教もなく、文化も一つしかなく、家庭がすべてのものを完成するのです。家庭があらゆるもののセンターです。ですから、私たちの家庭は、センターに立ちたいと思うのです。


 そこには、宗教が必要ありません。キリスト教も解放であり、仏教も解放であり、すべて解放です。イエス様も家庭が必要であり、釈迦牟尼も家庭が必要であり、マホメットも必要であり、すべての聖人も家庭が必要なのですが、その家庭は、誰によるものでしょうか。真の父母の家庭です。


 今までは、すべての家庭は、偽りの血統で連結されていました。本然の家庭ではなかったのです。祝福家庭が現れることによって、神様の血統が連結された真の家庭が生まれるようになったのです。


 レバレンド・ムーンは、四方八方のあらゆる場所に勝利的な基盤を築きました。霊界と肉界も同じです。そのようにして、真の家庭から真の世界に発展していくのです。真の家庭から、真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界、真の宇宙、真の天国が築かれるのです。


 今は、私というものをはっきりと知りました。私は、どこから因縁を結び、どのような生活過程を経て、どこに向かって行くのかということを知りました。このように行く私は、何をもって行くのでしょうか。神様の憂いを抱いて行くのです。私の個性が復帰されていれば、私がこの家庭だけに安息するのではなく、私には、家庭を中心とした氏族があり、氏族を中心とした民族があり、民族を中心とした国家と世界人類が残っているという事実を知って、死んで土に埋められる前に、この世界の果てまで行って数多くの民族を父の前に導き、その後ろから万民を祝福していくことができる一日が私に来ることを侍ち望みながら、毎日のように闘っていくことができなければなりません。そのような人が、神様に代わることのできる人です。


 今まで、私たちが信仰してきた観念というものは、「私は、神様を信じて天国に行こう」というものでしたが、天国に行く前に何をしなければならないのか分かりますか。私自身が、心と体を中心として一つに統一されなければなりません。そのような闘いをしなければなりません。自分を統一できない人が天国に行くことはできません。私の家庭を中心として一つになることができなければ、天国に行くことができないというのです。私が、親族を中心として善の場所に導いていくためには、精誠を尽くさなければなりません。そのようにしなくてはならないのです。


 アダムとエバは、堕落することによって死亡世界に占領され、死亡世界を主管するサタンは、神様の創造理想時代において、反対に神様に背く家庭をつくり、現在まで神様と対峙する世の中をつくりあげてきたことを考えるとき、神様が心で思い描かれるのは、もちろん理想的な家庭ですが、その内心は、怨讐が願う基準よりも、怨讐が知っているその基準よりも、堕落前の理想時代の家庭基準よりも、もっと素晴らしく、愛情の深い家庭を成したいと思われたのではないのでしょうか。そのようなことを私たちは考えなければなりません。


 イエス様がこの地上に来て教えられた真理は、簡単です。「天地を創造した神様は、私の父だ。私は、その息子だ。あなた方は、私を信じればその息子になることができる。私の父であると同時に、あなた方の父だ」と言いました。その次には、私たちに子女の道理を教えてくれると同時に、自分の父を教えてくれました。それから、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言いました。これは何でしょうか。神様を中心として家庭を築くのに必要な要件を、イエス様が来られて初めて叫ばれたのです。聖書がそうです。ほかのものは必要ありません。


 聖書を見れば、神様を父だと教えてくれています。イエス様は、「自分はひとり子だ」とおっしゃいました。またイエス様は、信者を見て「新婦」と言い、それから「兄弟だ」とおっしゃいました。これが、神様の家庭を中心としたその愛の型において、すべてのものを備えた内容を明らかにする教理となっているので、神様の家庭をつくっていく教理であり、その息子が神様の家庭に安息することができる家庭の道理を教えてあげたものです。


 聖書が教えてくれたものは、家庭です。イエス様は新郎であり、私たちは新婦だというのです。新郎新婦が出会って神様を中心とした「小羊の婚宴」をなし、家庭に帰っていくのです。これが新約・旧約六十六巻を総合した結論です。それゆえに、聖書は偉大だというのです。


 聖書が指向する最高の目的は何であり、聖書が要求する希望とは何でしょうか。イエス様個人ではありません。イエス様が新婦と一つになった神様の家庭を、侍ち焦がれていらっしゃったというのです。神様の家庭をつくれば、何をするのでしょうか。


 家庭、すなわち新郎新婦が出てくれば息子、娘が出てくるのであり、息子、娘が出てきて繁殖すれば、氏族になり、民族になり、国家になり、世界になるのです。その世界とは、どのような世界でしょうか。神様の愛と連結した「神主義」の世界です。「神主義」の世界であると同時に、アダムとエバ主義の世界です。アダムとエバ主義の世界とは何でしょうか。父母主義の世界です。


 天国の終着点は、真の家庭の完成です。真の家庭の中には、真の国があり、真の世界がなければなりません。真の世界と真の国に影響を及ぼすことができる真の愛の伝統として、「絶対セックス」という言葉が出てきます。絶対セックスとは、絶対、唯一、不変、永遠のセックスをいいます。神様の属性である愛を中心として連結された対象的なパートナーと、そのような観点において愛で一体化するのは、すべて性関係によって結ばれるのです。


 互いに異なる人種と文化背景をもった夫婦であっても、神様の真の愛で一つになった家庭を築いたならば、そこから生まれる子女の間には、人種や文化的な葛藤が存在できません。


 その子女たちは、父母を愛するそれ以上の心をもって、両方の文化と伝統を愛し、大切にするはずです。世界の至る所で深刻な社会問題となっている人種間の葛藤を、政治や経済によってのみ解決しようとすれば、その結果は失敗しかありません。人種差別は赤ん坊の揺りかごから始まるものなので、真の愛を中心とした真の家庭の理想をもたなくては、この問題の根本的な解決は不可能です。

 したがって、その中心理想は、やはり一人のお方、すなわち神様の真の愛を中心とした真の家庭を築くことです。


 人類が歴史の最初から神様と一つになっていたならば、既に人類は、真の愛を中心とした真の家庭を築き、「ため」に生き、より「ため」に生きる真の愛を実践することによって、真の国家、真の平和の世界を成し遂げていたでしょう。


 この歴史的な闘いを終息させるためには、神様に帰らなければなりません。まず、神様を中心として個人の心と体が一つにならなければなりません。そのような真の男性と真の女性が、神様を中心として真の家庭を築くことにより、その中に再び神様を迎えるようになるのです。真の愛を中心とした真の家庭こそ、神様がお住みになる地上基地になるのであり、さらに真の国家、真の平和世界の出発地になるのです。これによって、真の自由と幸福の世界が開かれるのです。


 今からは、デモをしなければなりません。デモをして、真の父母を誇り、真の家庭を誇り、真の血族を誇り、真の純潔を誇らなければなりません。それは、真の御父母様がこの地上に来られた目的を世界化させるのと同じように、皆さん個人や、家庭、氏族、民族、国家も、すべて真の父母になるためです。個人において家庭的な真の父母、家庭的な基準において真の父母、真の家庭、真の純潔、民族基準において真の父母、真の家庭、真の純潔、国家基準において真の父母、真の家庭、真の純潔、これが世界化されるのです。


 国家基準において世界化し得る立場になるので、真の父母の基準が私たち個人から世界と天宙まで連結し、真の家庭基準が連結し、真の純潔の血筋が連結することによって、堕落がなかった解放の時代に越えていくのです。ですから、この全体を清算するためのデモをしなければなりません。伝道よりも、このことをしなければなりません。


第三章 神様と真の父母

一 真の父母は神様と人類の希望


 神様は、私たち堕落した人間にとって、先生の中の最も大きな先生です。先生の中の大王の先生だというのです。それは、神様に知らないことがないからです。また、父母で言うなら、父母の中でも最初の父母です。すなわち、真の父母です。王としては、王の王です。


 今日、堕落した人間の願いは、神様の息子に会うことです。神様の息子としては、個人的な息子、家庭的な息子、氏族的な息子、民族的な息子、国家的な息子がいます。彼らをすべて取り戻さなければならないのですが、このように取り戻そうとすれば、人類がどれほど苦労するでしょうか。ですから、国家的基準にある息子圏を代表したメシヤを送るのです。このメシヤを迎える日――個人的神様の息子、家庭、氏族、民族、国家的息子まで、すべての息子を取り戻したという喜ばしい知らせを、人間世界に与えるためのものがメシヤの降臨だという事実を、皆さんは知らなければなりません。


 堕落した私たちは、神様の息子、サタンの讒訴圏から外れた神様の息子に会わなければなりません。会ってからのちには、神様が愛することのできる父母を取り戻さなければなりません。


 またその次には、父母の家庭を取り戻すのです。父母の家庭を取り戻し、神様の愛を取り戻すのです。そして、神様に会うというのです。


 神様の愛を中心として愛の関係を結ぶことができるものは、ただ完成したアダムだけです。アダムは、真のお父様です。それゆえに、先生が真のお父様の位置にいるというのです。それでは、パートナーは誰ですか。女性です。絶対女性です。世界的な女性を代表したものがキリスト教の新婦教会です。新婦宗教を代表したものがキリスト教です。キリスト教の主流思想は、再臨主、メシヤを中心とした新婦思想です。


 真の父母は、二つではありません。唯一です。それは、男性も絶対的に一人であり、女性も絶対に一人です。二人ではあり得ません。そのように、二つの唯一な存在が出会って真の父母になるのです。真の父母は、神様の創造理想を中心とした真の理想的夫婦だというのです。


 真の父母は、個人的、絶対的一つの標的になり、家庭的標的、氏族的標的、民族的標的、国家的標的、世界的標的となり、地上・天上天国の一つの中心形態を代表するのです。真の父母を立てるということには、神様の愛を中心として創造理想を完成した地上・天上世界を、統一させるという目的があります。


 それゆえに、個人から世界、天地まで、その統一的中心になったので、個人も接ぎ木することができ、家庭、氏族、民族、国家、世界が接ぎ木することができるところにまで来たというのです。先生は今まで、一生涯このことを準備してきました。神様の真の愛を中心として、個人の中心にならなければならず、家庭の中心、氏族の中心、民族の中心、国家の中心をどのように形成するか、これが目的でした。そのような目的に向かっていくという概念をもって、これから始めなければなりません。


 神様が終わりの日に約束された一日は、「父母の日」です。真の父母に侍ることができる日です。別の言い方をすれば、堕落によって父母を失ってしまったこの地上の数多くの人々が、神様の祝福を成すことのできる本然の父母を、再び迎える日です。


 人類がある復帰の一つの目標を定め、神様に向かって進んでいく中において、必然的な条件とは何かといえば、父母の門を通らなければならないということです。父母の門を通るまでは、心情を連結させることができません。この時代は、心情的にはこの民族とあの民族が通じることができず、この宗教とあの宗教が通じることができず、この家庭とあの家庭が通じることができない時代です。私たちがこれを通じさせるためには、必ず神様の心情を知らなければならず、神様の心情と因縁を結ばなければならないのですが、これを連結してくれる仲保者が真の父母です。ですから、失ってしまった本然の真の父母を探し出してこそ、神様の心情と連結することができるというのです。


 エデンからアダムと神様を追い出しました。それで、霊的な父と肉的な父に分かれました。これを家庭で失ってしまったので、世界的に取り戻すときには、世界型の大家庭が生まれなければなりません。それでキリスト教文化圏は、母の文化圏なのです。新婦の文化圏です。東洋と西洋を中心としてカインとアベルが一つになった息子、娘をキリスト教が抱いて、誰のところに行かなければならないのかといえば、来られる再臨主のところに行かなければなりません。そのようにしていれば、七年以内に世界を統一するのです。


 その来られる再臨主が真の父母です。真の父母が現れ、真の子女が現れ、真の家庭が出てこなければなりません。真の家庭を編成するのが統一教会でいう祝福です。家庭を編成するのです。


 エデンの園で真の父母になることができなかったことが堕落です。真の父母が来られることによって、試練と迫害の路程がなくなるときには、世の中は真の父母の道理を求めてくるのです。真の父母の息子、娘を見ると、彼らの生活とすべての人生は、世の中の人とは違うというのです。貧しく見えても、そこには平和があり、哀れに見えても、そこには希望があり、苦しんでいるように見えても、そこには喜びをもった人生があるというのです。


 アダムとエバは、神様が本当に願う真の人類の先祖、人類の真の父母にならなければならなかったのです。その真の父母の血族によって、私たち人類は生まれなければなりませんでした。歴史の出発から始まらなければならなかった人類の真の父母、その真の父母は、神様の栄光の実体として、人類の前には勝利的な永遠の実体として現れなければならなかったのです。それにもかかわらず、アダムとエバは、勝利的な実体として現れることができませんでした。


 これが、今までの悲しい歴史を成してきた怨恨の基台になったということを、私たちはよく知っています。それによって天の法度を離れ、自らの実体を失ってしまい、神様の心情を蹂躙した私たち人間は、み言によって実体を取り戻し、心情の世界を取り戻す復帰の路程をたどってきているということを、私たちはよく知っています。


 このように堕落した人間は、万物よりも悪なる位置に立つようになり、神様に自由に対することができない悲しい立場に落ちるようになったのです。このような人間は、自ら回復することができないので、神様は、彼らを目覚めさせて再創造の役事をしてこられました。僕の位置を経て、養子の位置を経て、息子の位置を経たのち、勝利的な主管圏を備えて真の父母の位置まで復帰してこられたという事実を知らなければなりません。


 皆さんは、堕落の氏族です。皆さんは、神様がどのような方でいらっしゃるのかを知らなかったのです。真の家庭、真の社会、真の国家、真の主権がどのようなものだということを分かりませんでした。それでは、皆さんは、これからどのようにしなければなりませんか。人間の堕落以後六千年間、数えきれないほどの涙を流されながらサタンと闘う神様ではなく、栄光の神様を知らなければなりません。二千年間闘ってきたイエス様と聖霊ではなく、栄光のイエス様と聖霊を知らなければなりません。闘う天上世界の億千万の聖徒ではなく、栄光の中で生き、栄光を享受する億千万の聖徒を知らなければなりません。地上で迫害されて苦痛を受ける聖徒ではなく、栄光の中にいる聖徒を知らなければなりません。そのような聖徒を見ましたか。見ることができませんでした。アブラハムも、ヤコブも、モーセも、イエス様も栄光の神様を紹介するために来て、死んでいきました。栄光の真の父母を紹介して、栄光の真の息子、娘を紹介して、栄光の真の民族と真の天民をつくるために努力しました。  


 神様が御覧になる時、この世は堕落した世の中なので、愛国者が一人もいませんでした。孝子もいなくて、聖人、聖子もいなかったのです。メシヤが地上に来られて、神様の家庭を築かなければなりません。そこから孝子が出てきて、国の基盤の上に愛国者が出てきて、世界的基盤の上に聖人、天宙的基盤の上に聖子が出てくることができるのです。第一・第二アダムが失ってしまったものを取り戻すことが、私に対する召命です。すべてのものを売り払ってでも、その国を取り戻さなければなりません。統一教会員ならば、霊的、肉的、すべてのものを投入して犠牲になっても、「私が天国を成し遂げる。愛国者になる。聖人、聖子になる」と考えなければなりません。


 それでこそ、神様の祝福を受けるようになります。「あなたこそ本物の孝子であり、本物の愛国者であり、本物の聖人、聖子だ」と言われるその時、初めて「私があなたを祝福する」と言われるのです。そこからすべてのものを相続されるようになります。その場が、すべての統一教会員の本郷です。  


 本来、「父子」という言葉は、本然の父と息子、娘をいうのです。そのような父子がなければ国もできません。万民は、平和の世界を願っています。その世界は、今日の世界の先進国家が追求している、そのような文化を通して成されるのではありません。


 真の父母を通して成されるのです。真の父母が一枚のむしろを使い、ぼろきれのふろしき包みを担ぎ、いくら色あせたよれよれの服を着ていたとしても、また千丈、万丈の奈落から気力の果てた姿で出てきたとしても、堕落した人間は、その真の父母を中心として神様の心情を学ばなければなりません。


 それでは、どの程度に心情を接ぎ木しなければならないのかといえば、お父様の腹中から接ぎ木をし、お父様と共に生きたという条件を立てたのちに、お母様の腹中を通して生まれ、成長しながら父母に侍って暮らさなければなりません。しかし、それによって終わるのではなく、父と母と共に暮らすことのできる親戚と愛の因縁を結び、親戚を中心とした氏族と心情の因縁を結び、その氏族は民族と心情の因縁を結び、その民族は国家と心情の因縁を結び、その国家は世界と心情的な因縁を結び、その世界は天地と心情の因縁を結び、その天と地を通して神様まで心情の因縁を結んだという基準を立てなければなりません。それでこそ神様が「あなたは私の息子である」とおっしゃるのであって、自分自身だけを中心として心情の因縁を結んだ人を、神様が私の息子だとはおっしゃいません。


 再び生まれなければならないというのは、堕落したアダムとエバの子孫である父母の血肉を通して生まれなければならないということではなく、堕落とは関係のない父母の血肉を通して生まれなければなりません。そうでなくては神様に帰ることができないのです。


 罪の根本は、アダムとエバから始まったので、これを踏み越えて、すなわち原罪と因縁がない位置で生まれたという資格を備えることなくしては、神様のもとへ帰ることができないのです。


 神様が私たち人類を救援しようとされるとき、堕落圏以下ではいくら救援しようとしてみたところで救援できないのです。それで、神様は、堕落していないアダムとエバ以上の真の父母をこの地上に再び送り、その父母を通して人類が再び生まれる路程を経るようにして、サタンと永遠に関係がなくなり、サタンが讒訴しようにも讒訴できないようにされ、神様だけが主管され、神様だけが干渉なさることができるようにされるというのです。そのような位置で人類が再び生まれることなくしては、原罪をもった人間が、原罪のない位置には帰れません。


 堕落した父母の因縁によって、神様から離脱した伝統を受けて、この世界がこのようになりました。ですから、真の父母が来て新しい主義を立てなければなりません。それが真の家庭主義です。真の家庭主義が出てこなければ、世界主義が出てくることができません。この真の家庭主義の代表者は、神様の真の息子にならなければなりません。彼は、神様の心情的なすべてのものを相続する内情的な相続者であり、外形的な相続者、そして、万物所有権の相続者にならなければなりません。


 別の言い方をすれば、神様の心を相続することができる方であり、体を相続することができる方であり、万物を相続することができる方でなければなりません。そのような息子でいてこそ神様の代身者になることができます。その息子が来て、初めて天国が成されるようになるのです。


 真の家庭主義は、神の愛主義です。愛がなければ、いくら世界の第一主義だと威張って歩き回っても、その人は不幸な人です。真の家庭主義は、父母が行けば、その息子、娘が父母のあとを永遠に従っていく主義であり、また兄が行けば、弟が永遠に従っていく主義であり、弟が行けば、兄が永遠に従っていく主義です。ですから、弟の国があれば兄の国が従っていき、兄の国があれば弟の国も従っていかなければなりません。


 それでは、神の愛主義とは、どのような主義ですか。国境を超越して、このすべての平面的な世界を超越して、お互いが授受することにおいて、争って先に与えようとし、受けることを遅らせようとする主義です。そのような主義の世界が今後、訪れる理想世界です。理想世界は、何か大きな権勢をもって号令する世界ではありません。理想世界というものは、自動的に心が動いて神様の愛に和合することができる万民兄弟主義世界です。今後、そのような世界になるはずです。


 四大心情圏と三大王権を私の家庭で花咲かせ、嫁に行って、妻をめとって、そのまま本郷の地に移しておくことが神様の創造理想でした。ここに、すべてのことがかかっています。ここに真の父と母、真のおじいさん、おばあさん、真の夫婦、真の子女がいるのです。天国にあるのではありません。ここで一つになって、もっていくようになっています。人類平和の家庭、王の家庭を築くことができる教材、テキストブックが統一教会にだけあるというのです。その教材をもってこられた方が真の父母なのです。真の父母の家庭には、真の父母のおじいさん、おばあさんもいらっしゃり、真の父母の息子、娘もすべているのです。その真の御父母様は、どのようなことをされるのでしょうか。世の中の国は、すべて滅びていきます。アメリカも滅び、イギリスも滅び、韓国も滅びる兆しでいっぱいでしょう?


 真の父母は、家庭を収拾して国を収拾するのです。この二つの責任が真の父母にあります。真の愛と真の愛の生命の種で接ぎ木することにより、収拾することができるのです。人類が堕落したので、今日の偽りの愛、偽りの生命の種を受けました。これが野生のオリーブの木になったので、真のオリーブの木に接ぎ木して真の愛に接ぎ木し、真の愛を中心とした生命を再び受け継がなければなりません。そうでなければ、真の父母の血族になることができないのです。


 今日の既成教会では、「イエス様を信じて天国に行く」と言うでしょう? 私たちは、「天国を成していく」と言います。天国は今、空いています。本然の理想的な家庭形態をもつことができず、これを成し遂げようとしましたが成し遂げることができなかったので、再臨時代にメシヤが来て成し遂げなければなりません。再臨主は真の父母です。そして、真の国の王、天地の王として来るのです。


 先生は、天地の全体を代表して開拓した真の父母になりますが、それは一つの種と同じです。種を植えれば、それを中心として根から幹を経て芽が出てくるのです。千年、万年、いつまでも大きくなるのではありません。大きくなれる時まで大きくなって、次第に縮むのです。それと同じです。種は、実を結ぶようにしてくれるのです。


 帰ることができなかった故郷を、真の父母を中心として真の国を成し遂げた立場で取り戻すことができるように、勝利的権限を下さったことが、天下を与えられても取り替えることができない有り難いことだということを知って、涙を浮かべながらその故郷の道を帰らなければなりません。


 不平を言えば呪われます。先祖がしりをたたくので、今後、息子、娘が平安でなくなります。皆さんに対して薬を与え、病を与える時が来るというのです。


 私たちは、サタンから生まれた堕落した人間なので、サタンの愛から出発しました。それで、神様の愛と真の父母を中心とした愛の因縁をもつことができなかったので、真の父母の息子、娘になることができなかったというのです。


 結局、メシヤとは何ですか。真の父母です。それでは、なぜ真の父母の愛を必要とするのですか。私が真の父母の愛を通して再び生まれなければ、生命が出発することができないからです。生命は、愛によって出発するのです。ところが、私たちは、堕落した生命から出発したので、これを否定して真の父母の愛と因縁を結ぼうとするので、真の父母の愛を求めるのです。それで、メシヤが必要なのです。


 救世主、その方さえこの地に来られれば、その方の中では、神様が求めてこられた個人も生き返ることができ、神様が求めてこられた家庭も生き返ることができ、民族、国家、世界が生き返ることができるので、今日、道義世界を望んでいる数多くの民族は、「救世主よ、来たりませ!」と言いながら、救世主を待ち焦がれているというのです。


 なぜなら、その方が完成した世界的な真の父母の立場にいらっしゃるので、私たちは、その方にさえ侍れば、真の父母の息子、娘になります。また息子、娘になって育ててもらえば、私たちも結婚して真の父母になることができるというのです。


 統一教会の食口だけは、世界を兄弟のように考え、一つの国のように考え、神様を中心として一つの血筋を受け継いだ兄弟のように考えることができるのです。この運動が統一運動です。


 先生が今まで四十年の闘争過程で滅びなかったのも、神様が願われるそのような考え、そのような思想をもったからです。神様と同じ立場にいるので、それを保護されるために滅びないのです。それと同じように、皆さんも自分を中心として考えるなというのです。このすべての国境を越えて、神様の息子、娘の代わり、真の父母の息子、娘の代わりとして生きるようになれば、今後、成されるすべての版図は、皆さんのものになるのです。


 神様の理想が分からず、統一の概念が分からない者たちは、地獄に落ちるのです。彼らは、恥ずかしい姿になってしまうのです。皆さんは、子女です。今この時の皆さんは、子女になるのです。


 旧約時代には兄弟でした。兄弟として長子権を復帰する、そのような時代は過ぎました。メシヤの心情は、父母の心情です。祝福を受けて、周囲の堕落した人々を一度見回してください。サタンは滅びていくのです。


 歴史上のどのような聖人、賢哲、どのような孝子、忠臣を問わず、私が神様を愛することにおいては、彼らとはその根本が違います。私は、世の中を中心としてはいませんでした。完全に新しい次元において、神様の本然的愛を中心として、本然の愛による生命と一つになり、その生命と一つになった血統の因縁を自分が伝授されて、神様が「私の息子、娘を抱いた家庭だ」と誇ることのできる家庭が、今日の堕落した世界には一つもないというのです。家庭を夢見て、それを成すために送った方がメシヤであり、これがメシヤの使命なのです。

 真の父母は、家庭を収拾するために必要です。サタンが家庭を破綻させておいたので、その混乱した家庭を収拾するために救世主が必要なのです。サタンが国を滅ぼしておいたというのです。家庭を破綻させて国を滅ぼし、神様の家庭と神様の国を永遠に編成できないようにすることがサタンの最高目的です。ですから、家庭をサタンから奪ってくるために真の父母が必要なのであり、サタンが滅ぼしておいたものを奪って、神様が願う国をつくるために救世主が必要なのです。


 皆さんが知っているように、レバレンド・ムーンの夫婦は、真の父母という言葉で全世界に知られています。今日、私たち夫婦が本当に真の父母として真の愛、真の生命、真の血統によって神様と連結したということが事実ならば、この地上には、平和を成し遂げた「真の家庭と私」から解放と自由と統一と幸福の天国が芽生えてくることを記憶してくださるようお願いします。


 神様が愛の理想を中心として、解放された位置に堂々とお立ちになり、「私は解放された天地創造の主人である!」と言って万歳をお叫びになることができるためには、地上で真の父母を中心として愛の因縁を、血縁的関係を結ばなければなりません。また、そこで血縁的関係を結んで生まれた息子、娘がいなければなりません。その息子、娘を中心とした家庭によって一つの国家、世界まで形成することが、創造主と全人類の歴史を通じた希望の基準だということを知らなければなりません。


 父母の中の真の父母が神様です。神様は、私たちの真の父母だというのです。真の家庭の王、真の国の王、真の世界の王が私たちの御父母様だというのです。その方に侍ることができる千年太平時代を迎えなければなりません。韓国の「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んだ月よ……」という歌のように、この地上で御父母様に侍り、千年、万年生きたいという、そのような希望を成すことができる統一教会員各自の使命と、召命的目的があるということを知らなければなりません。


 天地に運動する数多くの存在物の価値基準を決定し得る核心であり、中心が真の父母です。すべての存在の希望の価値を決定し得る要因が真の父母だというのです。したがって、神様が常に共にいらっしゃるのです。神様がそのようなお方としていらっしゃるからです。歴史的な結実を追求する原理の原因になるのであり、時代の中心であり、未来の主人が神様です。したがって、真の父母は、神様が臨在なさることができる中心本部なのです。


 真の父母は、神様の体です。私たちに良心と肉身があるのと同じように、宇宙の原点、最初の出発点は神様と真の父母です。人を例に挙げれば、神様はアダムとエバの心です。それが平面的な心ではなく、立体的な心です。その立体的心と平面的心が自分の位置を決定することは、それ自体では不可能です。愛の力によって永遠の位置を決定するのです。真の愛の出発は、そこからなされます。そのようになる場合には、すべて一体です。良心に苦痛があるときには、肉身も苦痛を感じます。避けることができません。一体です。


 真の父母という人は、神様の心の中における息子の中で、最高の息子だというのです。相対完成した永遠の息子として、その息子の歴史は、このようになってこそ永遠の息子が生まれるという神様の教本となるものであり、そのような歴史を残した息子だというのです。


 神様が見ていらっしゃるレバレンド・ムーン、真の父母の価値と、皆さんが知っている価値とは、天地の差です。原理的な観点で、あまりにも差があります。神様の立場で見れば、レバレンド・ムーン、真の父母というものは、歴史始まって以来、創造の時代から願ってきたことです。真の父母というものは、堕落した人間たちが願う前に、創造された神様が願われたものです。創造する前から願われたものなのです。創世以前に神様が願われた目的だったというのです。


 それでは、この被造世界は何億万年などと言いますが、何千万年の歴史を経ながら、創世以前の理想をこの地上に実現するために、あらゆる努力をしてきたのが今までの宗教歴史です。それが主流宗教の歴史だというのです。ユダヤ教は第一次選民、キリスト教は第二次選民、統一教会は第三次選民圏を通して出てくるのです。長い歴史時代を通して多くの犠牲者を出したのは、その一つの目的を再び取り戻すためなのです。


 真の父母には神様の愛が宿っています。今まで私たちが考えることもできず、夢にも考えることができなかった、そのような神様の愛が宿っています。神様の愛を中心として父子の因縁が連結するのです。それゆえに、皆さんが祈祷するときには、神様を直接呼ぶのではなく、真の父母を通さなければなりません。皆さんが祈祷するとき、最後に真の父母の名によって祈祷するということは、簡単なことではありません。習慣的に感じる、そのような簡単な内容ではありません。


 そのような内容が成される一つの起点は、天上ではなく地上だというのです。それで、地上で新しい天地が展開することを皆さんは知らなければなりません。真の父母との因縁は、霊界のような漠然とした世界ではなく、地上で連結します。真の父母は、実体を備えて地上へいらっしゃるというのです。ですから、真の父母は、私が呼べば返事をすることができ、私が難しい立場にいれば同情してくださるのです。このように平面的な途上において、真の父母に出会うことができるということが、人間にとってどれほど幸福で楽しいことか分かりません。


 地上に生きなければならない人々は、本来神様の真の愛から生まれ、真の父母を通して真の子女を中心とした血縁関係を経て、この血縁的基盤を縦的として、世界に拡大しておかなければならなかったのです。そのような主体的家庭を中心として、相対的家庭によって連結した世界像、すなわち地上世界と天上世界が成し遂げられなければならなかったのです。これが神様の愛を中心とした創造理想世界です。


 皆さんの中心は、イエス様を中心とした真の父母です。歴史的な万民は、真の父母を中心として一つにならなければなりません。ここから未来の伝統的起源が立つようになります。統一することができる伝統の起源は、ここからだというのです。三数の中心がここからです。それでは、私たち統一教会員は、どのような群れですか。真の父母の教理を教わり、真の父母の息子、娘になる群れです。真の父母の息子、娘にならなければならないという教理を教える所は、統一教会しかありません。


 それゆえに、統一教会は、歴史が探し求めてきた中心である真の父母に侍ることができる所です。時代が要求する中心である真の父母に侍ることができる所です。未来の起源となることができる真の父母の因縁を、私が相続することができるというのです。したがって、私は、歴史的な結実です。私は、時代的な中心です。未来の起源となるのであり、先祖になるのです。真の父母の心情と一致することができる因縁を結んでこそ、そのようになる事実を知らなければなりません。このような心をもって、このような祈祷をすれば恥にはなりません。


 これを何によって統合するのですか。真の父母の愛によって統合させなければなりません。誰に統合させるのですか。息子、娘に統合させなければなりません。その息子、娘とは誰ですか。真の父母の愛を中心とした息子、娘です。別の言い方をすれば、堕落していないアダムとエバが生む息子、娘と同じです。ここから天国の息子、娘になることができるのです。したがって、今日、三時代の愛の因縁をもって生まれた位置が、真の父母の息子、娘になる位置です。たとえ人間が堕落したとしても、歴史過程をさかのぼっていき、その位置を取り戻さなければなりません。


 真の父母と生活すれば、どのようになりますか。個人的な生活、家庭的な生活、氏族的な生活、国家的な生活、世界的な生活、天地においての生活、神様に侍る生活、すべてが通じるのです。皆さんが真の父母の家庭を中心とすれば、氏族も皆さんの家庭であり、民族も皆さんの家庭です。私の家庭です。民族も私の民族であり、国家も私の国家であり、世界も私の世界であり、天地も私の天地であり、神様も私の神様だというのです。このような観念を知らなければなりません。すべて真の父母と一つになっているのです。


 真の父母は、神様と一つになっているのですが、神様は世界人類と共に生きようとされるのであって、一つの宗派と共に生きようとはされないのです。宇宙と共に、理想世界全体と共に、その愛を中心として生きたいというのが神様の創造理想であり、神様の家庭を中心として始まる生活方法です。


 霊界に行けば、アダムとエバが神様の形状に似て神様と一つになるのと同じように、皆さんが真の父母を通さなければ、神様の形状を完全に受け継ぐことはできません。


 また、神様がアダムとエバを中心として愛の世界を成し遂げることができなかったので、真の父母を通して愛を再現させるのが復帰です。


 今すべての父母が「レバレンド・ムーンが真の父母ならば、私たちは何だ」と言いながら大騒ぎです。聖書を見れば、来られる主は真の新郎だといいます。それでは、自分の新郎は何になるのですか。それは偽りの新郎です。そのようになるのです。聖書には二人の人の話だけが出ています。一人は新郎、一人は新婦です。本然のエデンの園における理想的な新郎はアダムであり、新婦はエバでした。彼らは、神様が造られた理想的なカップルだったのです。


 かわいそうなアメリカの家庭に、真の父母を教えてあげたという事実は驚くべきことなのです。真の父母を知るようになったという事実は、驚くべきことです。また真の兄弟、真の家族を取り戻したという事実は、驚くべきことです。真の家庭、それ自体をアメリカが本当に願うのであり、真の世界が願うのであり、真の宇宙が願うのです。ところが、アメリカの人々は、父母の愛を知ることができません。それが恨です。


 王は、自分の国の家庭のために自分の息子、娘を犠牲にさせ、王自身が犠牲にならなければなりません。そのように犠牲になっても、自分の民族を食べさせて生かす責任を果たす人が善君です。それで、母と息子が一つになり、王と一つになるのです。このように、この王が父母の愛をもってよく食べさせるようにし、すべて投入して、投入して、投入しなければなりません。それが善なる王です。


 真の父母になれば真の子女が出てきて、真の家庭が出てきて、真の氏族が出てきて、真の国、真の世界がここから自動的に生じるのです。その中で「真の父母」という用語が最も重要です。


二 神様は縦的父母、真の父母は横的父母


 真の父母は、神様が創造される前、神様の心の世界から始まったというのです。神様が創造されたすべての理想は、真の父母を中心とした愛の理想を表題として始まったので、「真の父母」は、創造前から神様が願われた希望の言葉だということを知らなければなりません。


 真の父母を探し出すために、神様の摂理路程において数多くの人々が犠牲になったという事実を知らなければなりません。神様は、数多くの宗教を立てて摂理してこられました。宗教の中では、天使世界の宗教、カイン的な宗教、アベル的な宗教、庶子的な宗教、養子的な宗教、庶母的宗教、養父母的宗教、それから真の母の宗教、真の父の宗教があります。


 新教と旧教が、神様の摂理の全体的なみ旨に合わせて世界を指導する責任を負ってきたすべての宗教圏を統合し、一つの国、一つの世界、一つの平和世界を成し遂げなければなりません。一つの平和世界を追求する神様のみ旨を完成させようという数多くの宗教が現れたのですが、その主流宗教がキリスト教だったというのです。


 キリスト教は、何を教えるのですか。真の父母と愛を教えるのです。イエス様に関しては新郎だという話を教えてあげ、兄弟だという話を教えてあげ、神様に関しては父母だという話を教えてあげました。家庭的理想を中心とした内容を全面的に備えたものがキリスト教なので、そのキリスト教は、神様が理想とされる家庭を全面的に完成させられる内容を教えてあげたというのです。それゆえに、数多くの宗教を越えて、キリスト教だけが世界を統一したのです。


 それでは、再臨主とは誰ですか。エデンで真のお父様と真のお母様を失ってしまったので、真のお父様としてこの地に来られ、真のお母様を立て、神様との心情的一体を中心として、血統的一体、血肉の一体を中心とした神様の家庭にならなければなりません。神様をお迎えして暮らすことができる第一次の家庭がメシヤの家庭だというのです。


 メシヤとは、完成したアダムの位置をいうのです。完成したアダムとエバが夫婦を成し、神様をお迎えして暮らし、神様を中心とした息子、娘を生んで、神様の一族を生み、この地上で生きて、神様と共に天上世界へ移っていくのが天国だというのです。


 見えない針の先端が神様ならば、見える先端は私たち人類の先祖です。それで、神様は垂直的な父母です。そのような神様が霊界で息子、娘を生めばどれほど良いでしょうか。しかし、霊界では生産ができないのです。


 神様はなぜ、横的な父母アダムとエバを造られたのですか。アダムとエバは、天国の民を生産するための生産工場として造られたのです。なぜなら、垂直には一つの焦点しかないので生産できないのです。中心で生産すれば、どのようになりますか。今までのすべてのものを押し出さなければならないという結論になるのです。そのように、垂直には一点しかないので生産が不可能なのです。


  

 赤ん坊は、神様が産むのではありません。真の父母を通して生むのです。横的な真の愛の父母の位置に立った方が誰かといえば、今日の統一教会でいう真の父母です。神様の前に、縦的な愛を中心とした真の父母の前に、九〇度を備えた横的な愛をもった方が真の父母です。それゆえに、二つの父母の愛が必要なのです。一人のお方は、創造主である父母であり、一人のお方は、被造物の、神様の対象として理想を描きながら造られた肉的な父母です。それゆえに、神様は心的な父母の位置にいらっしゃり、真の父母は肉的な父母の位置にいます。このように、縦的な愛と横的な愛を中心として生まれなければならなかったのが人間でした。


 皆さんもこれに似なければならないので、自由に縦的な愛に似るようにするために「縦的な私」がいるのです。それが心です。今まで心が分かりませんでした。仏教でも心を知りません。しかし、統一教会では心を知っています。神様の創造理想を通して縦的な愛の前に、横的な愛を中心として、それから前後の愛、球形的な理想を描いてこそ、東西南北に通じる力の消耗がなく、いつ作動しても良いことばかりであって悪いことはないというのです。相克がないというのです。


 皆さんの心は縦的な私であり、体は横的な私です。真の愛を中心として、この点で一つになるのです。そうでなければなりません。皆さんの心と体は闘うでしょう? なぜですか。堕落したからです。これがどのように一つになるのですか。真の愛がなくては一つになりません。


 ここで、神様のように真の愛を通して一つになれば、そのまま天国に行きます。救世主が必要ないのです。そのまま入っていくのです。


 天の王は縦的な中心となって心の位置に来て、地上の王は体になるのです。それゆえに、完成したアダムとエバの理想的結婚式は、神様が中心になり、アダムとエバが体となってする結婚式です。それが神様の結婚式であり、アダムとエバの結婚式だというのです。


 カインとアベルが一つになって神様の前に帰る時、初めて横的基盤が築かれるのです。神様の前に帰ろうと思えば、どのようにしなければなりませんか。真の父母を通して行かなければなりません。このように完全に一つになったその場を中心として、主である真の父母が来る時まで引っ張ってきた歴史がキリスト教歴史です。それが霊的なキリスト教歴史だというのです。


 皆さんも先生が行く天国に行こうとするなら、資格がなければなりません。それをもとうとすれば、先生のみ言どおりに一つでもしなければなりません。それによって皆さんがどのようになりますか。皆さんが真の神様、真の父母、真の国、真の世界、真の天国を中心として、愛で連結される価値をもつようになります。神様を、私個人のお父様であり、家庭のお父様であり、その次には国のお父様であり、世界のお父様であり、すべての天地のお父様として侍り得る権限を得るというのです。言い換えれば、神様を私の個人的なお父様として侍ることができ、家庭的なお父様として侍ることができ、氏族的なお父様として侍ることができ、民族的、国家的、世界的なお父様として侍ることのできる権威を相続されるというのです。


 それは、父母になるための神様であり、父母の立場にいらっしゃる神様だからなのです。それで、個人の神様であると同時に、個人のお父様であり、家庭のお父様であり、氏族のお父様であり、民族のお父様であり、国家のお父様であり、世界、天の国のお父様だというのです。それは世界でも同じであり、霊界でも同じです。


 先生のものは私のものではありません。これは人類のものであり、神様の愛を中心として一体となった、堕落の侵犯とサタンの讒訴圏から外れた、本然の所有決定の条件基地だと考えるのです。アベル、天の側の愛を中心として相続された所有物だというのです。初めて地上に、真の父母を中心として神様の所有が生まれるのです。それゆえに、統一教会では、物を買ったなら売ってはいけません。必ず真の御父母様が手放すという方式を経なくてはいけません。それゆえに、先生が一度買ったものはこじきになっても売ろうとしないのに、それを売り飛ばした者たちは、あとですべて法に引っ掛かるのです。


 真の父母は、神様の愛と一つになった所有を決定されましたが、この横的な祝福を受けた家庭に、父母の位置に進んでいける道がなければなりません。しかし、そのような愛を中心とする所有の決定を父母から受けることができませんでした。ところが、「父母の日」を共に記念することによって、皆さん自身にも、今まで万物から子女、このように逆に上がっていったものが、この直接主管圏時代に来て平面で連結するのです。ここで個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、この七段階の形態がすべて成され、中央線に連結されなければなりません。それは、男性の七段階、女性の七段階を中心として、すべて連結するためなのです。


 救世主がこの地上に来られる時は、自らの新婦を取り戻されるというのです。真の女性を取り戻さなければなりません。真の女性を取り戻すことによって、神様を中心として歴史上初めて、堕落しないで完成できる縦横が連結するのです。内的天のお父様と外的真の父母を通して初めてこの地に着陸して、天国と直通する道が連結するのです。


 先生は、歴史始まって以来世界人類の中で、最も多くの迫害を受けた人です。多くの反対を受けた人です。一つの時代において、個人的にも世界的迫害を受けなければならず、家庭的にも世界の迫害を受けなければならず、それから氏族も同じです。統一教会の氏族は、世界の祝福家庭を通して全世界百六十カ国のすべての民族に接ぎ木しなければなりません。それを復帰していくのです。氏族的に、それから民族的に、その次には国家的にしていくのです。


 皆さんは、先生が世界的条件を中心として勝利した基盤の上にいるので、先生の心情を受け継がなければなりません。その心情を受け継いで、「私は真の父母の息子、娘であることに間違いなく、アベル的立場に生まれたが、この世界のカインを屈服させることは間違いない」と言うことができなければなりません。


 なぜなら、それは霊的な面において完全に勝利の基盤を築いたので、実体圏にある力は消えるようになっていて、押せば、引くようになっています。


 皆さんは、ただの一個人ではありません。「自分は世界全体を代表した中心だ」という観念をもてば、それがそのようになるのです。誰でもそのような考えをもって世界を代表しています。息子、娘は父母を代表していて、父母はその一家を代表しています。同じです。感謝しなければなりません。


 「摂理は自分のためのものだ」というその内容は、簡単なものではありません。自分が負債を負っていくことなので、四方を見ることができないくらい恥ずかしさを感じることができなければなりません。一時でも、そのような過程を通過しなければなりません。父母によって自分が生まれたことを幸運だと考えて孝行をするならば、すべての歴史が自分のためにそのようになったと考えれば、その孝行以上に国と世界を愛さなければなりません。そのような関係をもって行かなければできません。そのような主体性をもった息子、娘が、真の父母の息子、娘になり得るということを記憶してくださるようにお願いします。


 今日、私たちが生きているこの世界に真の父母を迎えましたが、この地には、真の父母の息子、娘だけが生きているのではなく、堕落した父母の息子、娘も生きています。本来は、真の父母の血肉を通して、神様の愛する息子、娘になるはずだったのですが、堕落により、堕落した息子、娘になったので、私たち人類始祖が誤ったことを、すべて解怨成就してあげるために再び来られる父母が再臨主であり、救世主だというのです。ですから、その方が来られて、先に生まれた長子を復帰しなければなりません。その長子が庶子のようになりました。血筋が変わりました。庶子と同じです。本然的愛では、神様の血統を受けたのですが、堕落することによって、他の血筋を受け継ぎました。だからといって神様が捨てることはできません。


 皆さんが労働をするのは創造です。一生働いても疲れを感じないで、神様の愛の世界に接触することができ、神様を慰労し得る道を訪ねていくことが愛の一生だというのです。神様が創造されたものを、私が趣味と思い、楽しく天の記念品にしていくと考えて生きなければなりません。


 それで、真の御父母様がそのように自然を求め、海という海、五大洋六大州、川という川、山という山、景色の良い所をすべて実地調査しながら生きるのです。皆さんも、そのように神様の愛をもって自然の嘆息圏を解放させるという真の父母の生活に従っていきますか、都市にいて自分個人を中心として環境を破壊し、公害を起こし、子女の情緒的側面を発展させることができる道を妨げる父母になって生きるつもりですか。このようなことを比較してみる時、先生がこのように自然を愛していった道を統一教会の食口たちは自然に従っていくので、都市分散、自然化した都市世界、自然と和合し得る理想的天国が可能だというのです。

 神様が生きていらっしゃるということが本当に実感できます。韓国の独立万歳運動の指導者が三十三人です。韓国の反対側がウルグアイですが、ウルグアイの独立軍指導者も三十三人です。南米の国も三十三カ国で、今私がジャルジンに行って仕事をしていますが、そこも都市が三十三だというのです。本当に不思議です。その周囲にある主要都市が三十三だというのです。それは本当に不思議です。


 摂理のみ旨を見れば、神様が生きていらっしゃるからそうなのです。ですから、三十三人にしなければいけません。自分まで入れれば三十四人です。重要です。国家的メシヤと、何が何でも一つにならなければなりません。不平を言ってはいけません。絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなさいというのです。


三 神様を解放する真の父母


 悲惨にも、神様が理想とされた真の家庭は実現されませんでした。エデンの園で蛇はエバを誘惑し、エバはアダムを誘惑して、利己的な偽りの愛をこの世に植えました。人類の罪と不幸は、人間の先祖アダムとエバがサタンを動機として結ばれた不倫なる愛の結果から始まりました。


 個人を復帰して、真の家庭を復帰して、真の愛と善を世界的基準に拡大しなければなりません。ただ、この真理だけが争っている教派を一つに統一することができ、また地上天国を成すことができるという事実を知っている私は、五十年前にこの啓示をキリスト教徒に明らかにしました。私は、もう一つの分離された教派をつくる意向は絶対にありませんでした。


 しかし、神様のメッセージは、既成教団から拒否されて迫害を受けました。私は、やむを得ず他の基盤を築かなければならなかったのであり、過去四十三年の苦労がそれでした。


 一九五四年、韓国で「世界基督教統一神霊協会」として始め、日本、アメリカ、ヨーロッパ、そして、全世界に宣教師を派遣しました。この基盤の上に私たち夫婦は、多くの団体を立て、真の家庭の原理が学術、言論、宗教、芸術、産業分野等で扱われ、この世界を蕩減復帰することができる標本と典型をつくろうと努力しました。


 エデンの園で失ってしまったすべてのものをどのように復帰するのか、これが先生の還故郷という考えです。故郷へ帰らなければなりません。それで、氏族的メシヤと国家メシヤを派遣しました。神様は、イエス様という一人のメシヤしか送ることができませんでした。そのメシヤは、氏族を解放するメシヤでした。今この時に、先生は、神様の立場で百八十五カ国に国家メシヤを派遣しました。その国家メシヤは、イエス様の時の氏族的メシヤより次元が高いのです。


 そのようなコンセプトがイエス様の時にはありませんでした。十字架ですべてのものを失ってしまいました。家庭がなかったのです。それで、天国に入っていくことができず、楽園にとどまるようになったのです。本然の天国では、家庭から氏族、民族、国家へと続いていくのです。

 イエス様は、家庭を成し遂げることができませんでした。エデンの園でも、家庭が失敗したのでアダムが追い出されました。それを復帰するために真の父母が現れ、失ってしまった家庭以上のレベルである国家基盤の上でメシヤを派遣したのです。


 人間が堕落することにより、神様を失ってしまい、真の男性、真の女性、真の夫婦、真の子女の位置を失ってしまいました。粉々にすべて壊れました。堕落した人間たちは、神様と一つになることができません。神様に侍ることができる真の男性と女性が一つになり、離れようとしても離れることができず、別れようとしても別れることができない真の夫婦を成して、真の息子、娘を生まなければなりません。すなわち、神様を中心とした真の父母、真の夫婦、真の息子、娘となって四位基台を成し遂げなければなりません。


 したがって真の父母は、神様をお迎えしてきて、すべての家族の中心にならなければなりません。ここでの生活制度は、万民が生活することができる生活制度であり、ここで望む国家観、ここで論議される世界観、ここで教える理念は、全世界の万民が共通してもたなければならない国家観であり、世界観であり、理念だということを知らなければなりません。


 ところが、これがそのようにできないので、現在、修羅場が展開されるのです。しかし、人類は、今まで一つの門に向かって終末の時を願ってきたのです。真の父母の願いは、人類が神様を中心として真なる家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙を成し遂げることです。そのようになれば、神様の愛までも復帰することができるのです。


 神様の怨恨とは何でしょうか。民族を抱えて泣かれ、地に対して泣かれましたが、神様が願われる勝利した息子を抱いて喜びの涙を流せないことが天の怨恨だというのです。すなわち、天から「あなたは勝利した息子だ」と認められる人がいないことが、天の怨恨であり悲しみです。


 それだけではなく、失った息子、娘を復帰するために、そのようにさまよわれた神様を抱いて泣いた人が一人もいなかったというのです。


 「神の日」において、人間として成してさしあげなければならない神様の願いとは何かといえば、神様の真の愛を中心として神様を完成させてさしあげることです。神様を完成させようとするならば、人間が完全な主体の前に完全な対象の位置に立たなければなりません。それが真の父母です。また、神様を真の愛を中心として解放しなければなりません。それを誰を通してするのですか。真の父母を通してするのです。このような内容を知っているので、神様を解放してあげることができるのです。


 主体的神様を中心として、先生がマイナスになって一つになったのと同様に、皆さんが真の父母を中心として、実体的にプラスとマイナスになることによって、神様と一つになった位置に思いのままに行くことができるのです。再創造原理がそのようになっています。


 先生が祝福してあげることによって、神様を中心とした一族、一国が、一世界、天上天下に垣根がつくられるので、神様が解放されるのです。


 神様の胸に打ち込まれた釘を、地上で真の父母の胸に打ち込まれた釘を抜かなければならない責任者とは誰ですか。真の父母だというのです。また、そのことを最後にしなければならない人が、お母様です。お母様を前面に立てて世界を巡回するのです。女性たちは全員、お母様の代わりにならなければなりません。


 今日の歴史は、父母を取り戻さなければならない歴史的な方向に流れています。神様がいらっしゃるならば、その神様を中心として創造の目的を完結させることができ、すなわち救援の目的を完結させることができる真の父母がいて、その真の父母が神様に孝心を尽くさなければなりません。同時に天使たちは、その真の父母の息子、娘を中心として忠誠の道理を果たすのです。それが本然の創造原則ですが、それが壊れてしまったのです。ですから、私たちは、それを再現させて蕩減しなければなりません。失ってしまったのならば、失ってしまったその姿どおりに取り戻さなければなりません。


 皆さんは、父母が所有する父母の息子、娘ではなく、先に神様の息子、娘にならなければなりません。堕落していなかったならば神様の息子、娘ですが、逆になっています。今は、神様の息子、娘になることができなくなっています。ですから、真の父母の息子、娘になったという条件的基準で、根が違うのでその根を切り捨て、大木の根元を切り捨ててここに接ぎ木をし、先生を中心として新しい芽を連結するのです。接ぎ木をするのです。それが神様を解放してさしあげることです。


 キリスト教だけでも数百の教派に分かれ、教派間で闘っています。そのように闘うところが神様の肢体と神様の踏み台になることができますか。できないというのです。そのような観点で見てみるとき、神様が思いどおりにできる教派がないというのです。


 それでは、神様にこの地上で天国を成し遂げようという理念があるならば、神様はどこに行かれるはずですか。仕方なく一つの家庭でも訪ねていかれるしかないという結論が出てきます。


 それでは、父母が神様と直接一つになり、その父母を中心とした子女が父母と完全に一つになり、神様がその家庭の唯一の主人になり、その家族が主人である神様の家族になり、その家庭の所有が神様の所有になる、そのような家があるかというのです。


 アダムとエバがエデンの園で夫婦になることができなかったことを、歴史時代を通して克服してきたすべての結果を締めくくるものとして、真の父母を再現するその祝宴が「小羊の婚宴」です。「小羊の婚宴」を通して真の父母が結婚式をもつならば、その息子、娘もその伝統に従って結婚することにより、すべてのものを真の父母の理想に、神様の願われる愛の世界に包括することができるのです。


 その中心から全体の環境的要件まで、自分と接触させることができる愛の解放的王子、王女として登場する家庭が、私が暮らすことのできる私の家庭だったのです。神様の家庭であり、私たち人類の家庭であり、私の家庭だったのです。それが大きければ大きいほど、神様と、人類と、愛することのできる国を代表するのであり、それが平等と統一がある愛の天国だったというのです。


 アダムが堕落することにより、偽りの父母が生まれたでしょう? ですから、真の父母が現れなければなりません。偽りの父母は、サタンを根拠として生まれたので、神様を中心として真の父母にならなければならない本然の創造理想が残っているというのです。それゆえに、堕落したアダムを救い、本然の真の父母の理想を地上に実現しなければなりません。


 それでは、どのような力でできますか。偽りの父母を通して生まれたこの世界人類が、もし堕落していなかったならば、神様の息子、娘になり、本来真の父母の息子、娘になっていたのです。それが創造原理なので、偽りの愛によってこのようになったことを放棄できないというのです。


 皆さんがいくら忠臣の家庭になったとしても、国がなくなる時にはなんにもなりません。国でいくら忠臣でも、国がない時は歴史に定着できる基盤がないというのです。ですから、家庭を通して国を取り戻さなければならず、国を通して世界を取り戻さなければならず、世界を通して天宙を取り戻さなければなりません。そのようになれば天宙の主人です。

 ですから、個人は家庭のために投入しなければなりません。投入して忘れてしまわなければなりません。「ため」に生きて犠牲になりなさいというのです。個人は家庭のために、家庭は氏族のために犠牲になるのです。氏族は民族のために犠牲になり、すべて犠牲にならなければなりません。民族は国家、国家は世界、世界は天宙、天宙は神様のために犠牲にならなければなりません。神様まで行くようになれば、神様も犠牲になり、私に戻ってくるというのです。そのまま流れていくのではありません。最後に神様に投入して忘れてしまえば、神様がすべて所有され、それに愛を加えて天地の世界を私に与えてくださるのです。


 人類の解放とともに神様が解放されることを知らなければなりません。皆さんの家庭が解放されることは、家庭を失ってしまった神様の悲しみを私が慰労してさしあげることです。一族を解放させ、一族を失ってしまった神様の悲しみを慰労して、一国を私が建国し、神様が国を失ってしまったことから解放してさしあげなければならないのです。先生の一生は、失ってしまった天宙を取り返して、神様の悲しみを慰労するということです。私の願いはありません。私の考えはありません。絶対信仰、絶対愛、絶対服従するのです。「死になさい」と言えば直行します。死んでも戻ろうと思いません。


 それで、神様を完成させて、神様自体を永遠にサタンから解放しなければなりません。自然監獄に閉じ込められたのと同じように、捕らわれの身になったことを解放することができる息子にならなければなりません。それでこそ、家庭で解放されなかった恨を抱かれたかわいそうな神様が、終わりの日に世界と天宙で解放され、初めて自分の姿勢を備え、神様を中心とした家庭愛、氏族愛、民族愛、国家愛、天宙愛の法度を中心とした主権を立てることができるのです。


四 真の父母は天国への通路


 アダムとエバの位置が、神様に代わる位置であり父母の位置ならば、先生も霊的に見れば父母の位置、神様に代わって地上を代表した位置にいるのです。この地を通して霊界に行ったすべての霊人たちは、アダムとエバを追いかけていったのです。ですから、先に行った霊人たちは天使世界に属しています。したがって、皆さんを思いのままに後援することができるというのです。


 今、霊界に行っている霊人たちは、真の父母を通して生まれずに、偽物の父母を通して生まれたので、真の父母を協助することができません。しかし、天使長が失敗したすべてのものを蕩減して、子女の位置でアダムとエバが成長しているそのような立場に対しては、いくらでも後援することができるようになっています。それゆえに、霊界が協助することにより、世の中がますます短期間のうちに崩れていくというのです。


 父母がお互いに愛し、息子、娘を愛しながら、国を代表してそれを見せてあげ、その次には天地に代わってそれを見せてあげ、自分の親戚に代わってそれを見せてあげ、父母を通じて見せてあげ、兄弟を通じて見せてあげるように教育しなければなりません。これが世界から順番に下りてこなければなりません。天地を愛する標本、世界を愛する標本、国を愛する標本にならなければなりません。将来において、見せてあげることができる教科書にならなければなりません。


 それだけではありません。主人にしようとするので、父母の心情と、先生の心情と、神様の心情を知って所有権を相続しなければなりません。教会に入ってきて再び生まれ、教育を受けて完成するのです。成長すれば、すべてのものを知るようになるのです。私も主人の位置に立ちたいと思うようになります。すべてを相続するのです。それが主人です。どこでも同じです。それが主流思想です。こちらについていっても真の先生に会い、あちらについていっても真の父母に会うのです。すべて同じです。それゆえに、天国はどこに行っても同じだということができます。


 皆さんが残さなければならないことは、天から真の愛、真の父母から真の愛を受け継ぐと同時に、真の血統を受け継がなければなりません。これが誇りです。これが変われば、天国に行くことができないのです。行けません。結婚というものは、それ自体が父母様の愛を受け継ぐことです。皆さんは、堕落したために真の血統をもつことができなかったのです。真の血統は、祝福によってのみ可能です。堕落した世界の根は、堕落した父母です。それで、真の父母を中心として新しく接ぎ木をし、新しい真の血統を受け継がなければなりません。そのような位置が統一教会の祝福の位置だということを知らなければなりません。


 「重生」という言葉があるでしょう、生まれ変わるという言葉です。ニコデモが夜にイエス様を訪ねてきて、生まれ変わるということに対して尋ねた時、イエス様が「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことが分からないのか」と答えられたのですが、重生は再び生まれるということです。生まれ変わるというのです。生まれ変わるということはどういうことですか。偽りの父母から生まれた人が、真の父母を通して再び生まれることを意味するのです。再び生まれる時、神様の愛、神様の生命、神様の血統を受け継ぐためには、「サタン世界の愛と、サタン世界の生命と、サタン世界の血縁とは全く関係がない、それは意識にもない」と言うことができるようにならなければなりません。


 堕落する時と反対に、真の父母を通して、イエス様を中心として二人が一つになって蘇生、長成、完成の位置に復帰してあげなければなりません。アダムの息子、娘を霊界と肉界が一つにして、イエス様の息子、娘を一つにして、再臨時代にも一つにして、すべてここに入ってこなければなりません。このようにすることによって、アダムの息子、娘になるというのです。


 皆さんには、父母がいて、息子がいて、万物がありますが、家庭教会はこのような姿を拡大させたものです。アダムが堕落により、この三つを失ってしまいました。ですから、この三つを一度に取り戻し、神様に捧げなければなりません。失ってしまったものを取り戻し、真の父母を通して神様に捧げようというのです。



 ですから、神様を経てこなければなりません。失ってしまったものを探してあげ、神様が所有され、父母から再び相続しなければなりません。それでこそ皆さんの家が生じ、皆さんの世界が生じるということを知らなければなりません。


 その基台が、正に家庭教会です。これは何かというと、祭物です。これは、一つの祭壇です。ここで三大祭物を捧げるのです。


 自らのものをすべて自分の所有圏にはできないのです。自らの所有圏をもてばサタンです。私のものという心をもてばサタンです。本来の神様のものに帰らなければなりません。帰るには、そのままでは帰ることができません。天使長を通して、エバを通して、アダムを通して神様に帰るのです。それは何かというと、真の父母を通して帰らなければならないという意味です。皆さんが着た服も、皆さんのものではありません。


 家庭を築くためには、皆さんに所有圏や所有観念があればできません。私は誰々の父だ、という所有圏を越えなければなりません。私は何をもっている、という所有観念を越えなければなりません。これがすべて神様の所有になり、そして、神様が本来人間をすべての万物の主人として造られたので、真の父母を中心として真の父母の所有の系統を通したのちに、三段階ごとに神様に公証され、真の父母から皆さんが所有権を伝授されて、初めて皆さんの所有権時代が来ることを知らなければなりません。


  

 皆さんが天国の所有を受けるためには、皆さんの財産、息子、娘、皆さんの一身、すべてを捧げなければなりません。旧約時代型、新約時代型、自分自身をすべて神様の前にもっていって所有権を決定し、「あなたの家庭は私の家庭であり、あなた方はすべて私のものであり、あなたの息子、娘は私の息子、娘である」と言うことができ、神様の物、神様の息子、娘、神様の分身という公認を受け、神様が「今はもう必要ない」とおっしゃり、真の父母を通して、父母を通して、母を通して、息子を通して相続する時、初めて皆さんにおいて天上世界と地上世界の所有権が決定するのです。愛の所有権ではなく、万物の所有権が決定するのです。堕落の愛によって、すべてのものが堕落の所有として決定したのと同じように、本然の愛によって、すべてのものに対する所有権が決定するというのです。


 所有権を神様に返してさしあげるためには、真の父母の名前を通さなければなりません。真の父母の名前を通さずには帰る道がありません。それゆえに、世界統一は統一教会を中心として成就せざるを得ません。手をつけなくても、争ってより早く入籍しようと列を成して待つようになるのです。最初になるか、二番目になるか、三番目になるかを争いながら、必死になって闘う時が来るでしょう。


 個人が行く道も真の父母を通して、家庭が行く道も真の父母を通して、氏族の道も真の父母を通して、民族の道も真の父母を通して、国家の道も真の父母を通して、世界の道も真の父母を通して、天国に行く道も真の父母を通して行かなければなりません。そのような道を真の父母が築くために、一生を懸けて受難の道を歩いているという事実を知らなければなりません。


 真のアダムは、真の父母です。真の父母の言語は、真の子女が真の父母を通して引き継ぐ言語です。それが原理です。真の父母は、レバレンド・ムーンとして来たのではありません。天から来たというのです。神様から来たというのです。それゆえに、神様が分からない人は真の父母が分からないとみなすのです。


 皆さんが生んだ息子、娘は、神様が四千年間準備して生んだメシヤ、イエス様より立派になることができる息子、娘です。イエス様の父母がいるならば、その父母が祝福を受けてイエス様を生みましたか。皆さんは、真の父母を通して祝福を受けて生んだというのです。


 祝福は、先生の主張ではありません。すべて神様が教えてくださるとおりに処理し、このような論理体系を間接的につくりました。私がもともと分かっているならば、私の口で話をします。ですから、どのようにも否定する道理がありません。


 復帰するためには、母の腹中で絶対的に一つになり、父母が率いた世界の人と絶対的に一つにならなければなりません。それは、女性が一つになるようにしなければなりません。女性が堕落することにより、真の父母を失ってしまい、神様まで失ってしまいました。今、女性が復帰されることにより、神様と真の父母を知ったので、その真の父母と完全に一つにならなければなりません。真の父母を通して生まれなければならない全人類が、偽りの父母を通して生まれ、偽りの父母になったので、女性が彼らを真の父母のように愛することができる運動を起こしてこそ、世界は復活して解放が展開するのです。その運動が「世界平和女性連合」の運動です。


 それで、世界的な基準で家庭と相対するのです。家庭では、母と息子、娘が一つにならなければなりません。そして、父と一つにならなければなりません。ところがこの父は、偽りの父だというのです。ですから、真のお父様が来られれば、この真の父母を中心として一つになり、母と息子、娘が偽りの父を教育しなければなりません。そして、一つになって本然の家庭を復帰するのです。母と息子、娘が父を救ってあげなければなりません。


 地上に生まれたすべての人間の中で、真の父母を通して生まれた人は一人もいません。真の母、真の父、真の父母の血統を受けずに生まれた者は、天国に入っていく道がないというのです。神様の創造理想から見れば、真の父母の血統を受け継ぎ、真の父母を天上天国、地上天国の王権の主人として仕え、親族圏内で愛を中心として真の御父母様と共に暮らし、自分も結婚して子孫を残し、そのまま移るところが天国です。ですから、皇族圏の愛を中心として、体恤した経験をもたない人は天国に入っていくことができないのです。


 勝利した真の父母と、国家的に祝福を受けた家庭が一つにさえなれば、その国が帰ってくるようになります。国連で真の父母と国連の各国が決定さえすれば、一日で復帰できるのです。そうすれば、祝福さえしてあげればよいのです。堕落は、結婚式を間違ったのです。神様と真の父母を通して、正しい結婚さえしておけば、完全に復帰するのです。来たる再臨主がすべてのことを勝利したので、思いどおりにしても、サタンはこの横的な線を侵犯することはできません。


 サタンが最も無念で悔しいこととは何かというと、皆さんが真の父母に出会ったという事実、その次には、真の父母が皆さんに、「皆さんが真の父母の息子、娘だ」ということを教えてあげたことです。このように教育することを最も嫌い、最も恐れます。ですから、その伝統を見習うことが問題です。


 皆さんの希望がほかのところにあるのではありません。真の父母の息子、娘になるのです。真の父母の息子、娘となり、真の孝子、孝女になるのです。その真の父母が、今後天下を中心として地上の王の王になるのです。それゆえに、人類の希望や歴史の希望、時代の希望、すべての希望の中心が結実することができるところがここです。


 原理で見れば、真の父母の愛が成したその基盤の上で、万物が支配されるようになっているので、このような愛の内容を皆さんが決定的に備えたのかという問題が、何よりも重要な問題なのです。


 養子が直系の位置に行こうとするなら、アダムとエバの時代に天使長がもった心情的なすべてのものを蕩減しなければなりません。猜忌というものを蕩減するためには、信仰の息子、娘が信仰の父母の腹中にいる息子、娘を、自分の生命より貴重に思い、愛さなければなりません。その次にサタン世界を取り戻さなければなりません。このような内容は、すべて本質的な内容です。


 それは、皆さんが先生の息子、娘を愛さなくては入っていくことができないという意味です。腹中から愛したか尋ねてみなさいというのです。先生を愛して、神様のみ旨をもっと愛して、腹中から私の息子、娘を自分の体よりも愛したのですか。問題は、自分より愛したのかということです。イエス様は、「自分の息子、娘より、自分の家族よりも、私を愛したのか」と言いました。これをしなければ行くことができません。それが引っ掛かっていれば、今からでも三年間で蕩減しなければなりません。


 イエス様が氏族的なメシヤとして立つためには、ヨセフ家庭とザカリヤ家庭が一つになった基台をつくらなければなりません。そして、国家を蕩減しなければならなかったのですが、それができませんでした。しかし、統一教会は、この国家に対して蕩減することができる民族的基盤を築いていっています。今は、氏族時代が過ぎた基台の上にいます。


 一つは真の御父母様に侍ったということであり、また一つは真の父母の息子、娘という名前をもったということです。子女になることができるというのです。それは、本当の子女ではなく庶子です。養子は血筋が通じていないのですが、庶子は血筋が通じるのです。そのような位置に立つことなくしては、この世の中を救う道がありません。言い換えれば、氏族圏を越えて民族圏に向かってきたというのです。その圏内において、皆さんが祝福を受けました。


 神様が万物をつくられましたが、主人になれずにいるというのです。本来、万物は、愛を通して、愛と一つになるその場で神様の所有として決定します。神様の所有として決定した真の御父母様を中心として、その真の父母の愛と因縁をもった基盤のもとで、真の父母の子女も愛の中から出てくるので、真の父母の息子、娘の所有圏が展開し、その息子、娘の所有圏を通して一つになることのできる万物の基盤が愛と連結するとき、その息子、娘の所有物が出てくるようになるのです。


 イエス様とアダムの解怨を成就しなければなりません。イエス様が間違い、アダムが間違って父母になることができなかったので、それを解怨成就しなければなりません。それで、三代のために生きなければなりません。おじいさんから三代です。アダムが蘇生であり、イエス様が長成であり、真の父母の息子、娘まで、三代圏を連結しなければなりません。これは不可避なことです。


 「真の父母の日」が展開することによって、「真の子女の日」が生じ、「真の家庭の日」、「真の国家の日」、「真の世界の日」、「真の天宙の日」、真の神様の解放まで連結することができるというのです。それゆえに、どの時代であっても、「真の父母」の名がなくては連結することができないという事実を知らなければなりません。


 皆さんの目は、先に真の父母に会いたかったというのです。どれほどこの目が涙を流したか分かりません。鼻が真の父母の胸で、真の父母のにおいをかいでみたかったというのです。偽りの父母に会ったことを、どれほど嘆いたか分からないというのです。口が真の父母の話をして、真の父母の乳を飲みたかったのですが、偽りの父母のうそを学び、偽りの伝統を立てたのです。この耳が真の父母の話を聞いてみたかったというのです。この手が真の父母の胸を触って、真の母と真の父を引き寄せることができる手になりたかったのですが、偽りの父母と怨讐にもてあそばれ、恨を抱いた手になったのです。広げようにも広げることができず、握ろうにも握ることができない恨の手になったことを知らなければなりません。


 永遠に真の父母に侍り、出発と同時に永遠に分けることのできない真の父母の伝統を受け継ぎ、そこに満足感を感じて生きなければならない体であり心だったのですが、歴史の恨をもって悲惨さと怨恨を抱き、嘆息圏内から抜け出すことができない心と体になったという事実を知らなければならないというのです。


 この地球星のすべての地も、真の父母が踏んであげることを希望するというのです。真の父母の息子、娘が踏んであげることを希望するのです。


 神様が家庭から所願成就できる道を計画されたので、真の父母を願われたのです。真の父母の考えから真の父母を創造され、真の父母の愛とともに一致することを願ったというのです。そうです、蘇生、長成過程を経て成熟し、アダムとエバの結婚式が神様御自身の結婚式として、人間と神様の愛が定着することができる一つの焦点を合わせなければなりません。


 ほかの父親には真の愛がありませんが、レバレンド・ムーンは真の愛をもっています。それで、白人も喜び、黒人も喜び、万物も喜び、天地もすべて喜ぶというのです。私たち統一教会の家庭には、真の父母、真の子女、真の家庭、真の社会、真の国家、真の世界、真の神様がいるということを知らなければなりません。そして、永遠に変わらない真の血統をもっています。人は、真の血統の橋を通じて、すべて愛で連結されています。愛を中心として、ここから始まり、神様まで、すべて真の血統です。


 真の家庭は、一つの言語と文化をもつのです。文化は、言語を意味するのです。文化は、言葉によって、言語によって形成されます。


 新・旧約聖書をすべて捨てても、真の父母を取り戻さなければならないという事実を知らなければなりません。真の父母をもたなければならないということなのです。それで、真の兄弟が出てきて、真の国が出てきて、すべて出てくるのです。それで、世界的な因縁を通じて基盤を築き、その父母が出てきたのちに、父母を通して子女が出てくることができるのです。そのような天地の調印式をしなければなりません。


 それを神様が公認して、サタンが公認して、その次には真の父母が公認しなければなりません。その時から「真の子女の日」が世界的に設定されるのです。

 歴史的な転換時代に置かれている私たちの責任は、神様の身代わりの立場に立つことであり、真の父母の身代わりの位置に立つことであり、真の家庭と、真の国家、真の世界の代表者の位置に立つことなので、歴史時代に孝子の中の孝子になるのです。歴史時代の孝子が私を本物の孝子だと称賛することができる天国の孝子にならなければならず、天国の忠臣にならなければならず、天国の聖人にならなければならず、さらには天国の聖子にならなければなりません。


 偽りの父母は、サタンの愛を中心として落ちたのですが、真の父母は、神様の愛を中心として上がっていくので、愛の世界へ前進していくのです。


 愛とは偉大で永遠に平等なのです。愛という名前だけ聞けば、いくら高い位置にも一度に同参できる資格をもつようになります。女性が無学文盲で、男性が世界の大学者でも……。


 それは、私たち人間がいくら不足でも、神様と愛の関係を結ぶようになれば、神様の位置に上がっていくことができるということです。そのような価値の内容があるために、すべての人間の心はどうなのかというと、最高のものを願うのです。


 世界をすべてもったとしても、それ以上に良いものがあれば、またもちたいと思うのです。


 偽りの愛の立場にいるものを真の愛で取り戻してこようと思えば、すべてのものを否定しなければなりません。真の父母を通して、真の愛を知ったあとからは、過去、現在、未来に対する垣根がない、すべてのものを完全に清算した息子、娘として生まれたという解放的な位置に立つので、皆さんが結婚をして夫婦で暮らすことができるのです。そうでなければ、到底望めないというのです。イエス様も、今まで夫婦生活ができませんでした。


 世の中の家庭、氏族、民族は、すべて滅びるようになっています。中心がないというのです。サタンがそのようにしておいたのです。神様は、その中で個人的中心、家庭的中心、国家的中心、世界の中心的存在を求めて、統一教会を通して祝福をしてくださったというのです。サタン世界の五十億の人類を滅ぼしたその代わり、それ以上の資格で立てたものが祝福家庭だということを知らなければなりません。


 キリスト教を中心として、アメリカがアベルならば、ここ(ブラジル)はカイン、カトリック圏です。ラテン文化圏、カトリックはカイン圏です。お兄さんと同じだというのです。プロテスタント、弟を通さなければなりません。弟がこのカトリックを助けてあげなければなりません。


 アメリカを中心に、新教で弟であるアベル国家圏の北米を一つにし、その上に父母様が来て、アメリカに築かれたすべての勢力基盤を通して、この南米帝国、カトリック文化圏を消化しなければなりません。先生がカトリック文化圏についていくために来たのではありません。


 また、統一教会がカトリック文化圏に従っていくのではありません。統一教会が生まれれば、カトリック文化圏が統一教会を通して行かなければならず、ブラジル人が父母様を通して行かなければなりません。そうでなくては行く道がありません。


 氏族的メシヤの氏族的基盤である百八十家庭は、すべてを天の前に奉献しなければなりません。祝福される前のすべての所有、家も、土地も、万物も、所有物というものは、本来神様の所有だったのですが、祝福とともにアダムの前に伝授してあげなければなりません。これが原則ですが、堕落することにより、神様が主人の立場に立つことができなかったのであり、真の父母が主人の立場で来ることもできなかったのです。


 今に至っては、主人の立場に立つことができなかったことを、サタン世界で天使長の使命を行うことができる人を通して、息子を通して、母を通して、父を通して、族長を中心とした全体が献納しなければなりません。血統復帰、所有権復帰、心情圏復帰を、七代を中心として献納して戻っていかなければなりません。


 地獄が二つあります。地上地獄、天上地獄がありますが、天国の門は一つです。地獄の門が開くからといって、地上から天国に直接入っていくのではありません。真の父母を通して入っていくのです。真の父母を通して入っていく門が、一つの天国の門です。


  


 所有権、心情圏、実体圏を神様に返してさしあげなければなりません。家族と共に、国家と共に、世界と共に神様に帰らなければなりません。それを祭物として、真の父母を通して神様に返してさしあげ、すべてのものを清算しなければなりません。


 そのような基盤の上で、真の父母を通して皆さんの家庭の父母と、子女と、万物の所有権平面的基台が連結するのです。そこが地上天国です。堕落していない立場で所有権を地上に連結しなければならなかったのですが、堕落したので、蕩減の道を経て再度連結しなければなりません。


 そうすれば、天国の所有権、絶対的な愛の主権時代を迎えることができるのです。そのような解放圏を迎えるために、家庭盟誓の八番に地上天国の解放圏を完成し、その目的を達成することを宣言したのです。


 いくら理想家庭を願い、いくら理想的な父母を願い、いくら理想的な夫婦を願い、いくら理想的な息子、娘を願ったとしても、ないというのです。それが、真の父母を通し、初めて総合的な完成が成されるのです。


 皆さんがそのような伝統の位置で、神様に代わり、真の父母に代わる後継者として天下になかった兄弟の位置で、同じ種の価値、アダムとエバが神様と一つになったものと同じ種の価値を成し遂げなければなりません。世界で収穫された家庭を拡大したその基盤で、すべての人間の新しい子孫の種を、神様と真の父母が一つになって蒔いた種と同じ価値の種をつくっておけば、チャンピオンの記録を引き継ぐことができる後継者になるのです。


 力のある者が世界を指導するといいました。お互いが力で対決して闘うのではありません。力のある者が力をもつことができるように環境条件をつくり、弱い者をすべて巻き込んでしまって、チャンピオンシップ、新記録達成者のような行いをしているので、これは、神様が願われる善意の競争を通して勝利の結果をもつことができなかったというのです。それゆえに、これは、いずれ地球上で清算されてなくならなければなりません。


 世界のすべての家庭が、真の父母を中心として、「真の父母の息子、娘だ」と言うことのできる再覚醒が展開するようになる時、そこから世界的天国が顕現するのです。


 世界の家庭全体を中心として、このようになる時、新しい地上天国の世界へ入っていくのです。


 成約時代というものは、全世界が等しく真の父母の恩恵を受けることができる場に入ってきたというのです。その代わり、血統転換、所有権転換、心情圏転換をしなければなりません。これが氏族的メシヤの責任です。正に女性時代になったのでこのようなことが可能なのです。


 堕落したこの世界に、悪魔の愛と生命と血統を受け継いだこの世界に、神様の所有権を完全に奪われました。今、私たちは、これを元に戻さなければなりません。神様の真の愛を受け得る息子と娘が一つになり、この世界を収拾しなければなりません。神様の愛を受けることができる息子、娘を中心として、アダムとエバ、カイン・アベルを中心として失ってしまった家庭の血族的因縁を収拾しなければなりません。そして、万国が解放され、歓迎するその基盤の上で、このすべての悪魔の、サタン世界の所有権を真の愛の主人、愛を受け得るナンバーワンの男性と女性、ナンバーワンの息子、娘を中心として神様にお返ししてさしあげなければなりません。


 全世界の人間たちは、真の父母の愛を通って行かなければなりません。その門を通らなくては、天上世界の本然的故郷の地へ帰る道がありません。地獄しか行く道がないのです。これをさかのぼっていかなければなりません。反対する国と闘い、勝ち進んでいかなければなりません。そして、今日の統一教会は、世界的メシヤ圏の勝利を受け継ぎ、国家的メシヤ圏を越え、氏族的メシヤ圏を尋ね求めてきたのです。サタン世界の氏族圏を中心として、サタン家庭に入っていって世界と交替しなければなりません。


第四章 天一国の民になる道

一 人類に対する神様の希望


 神様と人間が一つのみ旨を中心として一つの愛に和合して生き、全天地が神様の愛を喜びながら、その愛を実際の生命の中心として立てた中で、すべてが一つになって生きることが神様の創造本然のみ旨でした。しかし、アダムとエバが堕落することにより、神様の愛は、神様の愛としてのみ残るようになりました。すなわち、人間と関係を結ばなければならない神様の愛は、人間と関係を結ぶことができずに人間から離れるようになり、すべての被造世界から離れるようになったのです。


 それゆえに、今まで神様は、御自身が立てようとされたその愛を中心として、すべての万物を糾合し、神様と万物が共に喜ぶことのできる一日を願われながら、六千年の歴史を経過してこられたのです。しかし、いまだ全被造万物が神様の愛を中心として一つに統一されないまま、その神様の理念は、理念のまま残っていて、取り戻さなければならない希望の愛もそのまま残っているのです。ですから、今まで神様は、そのみ旨を必ず成し遂げるために摂理してこられたのです。


 このように、人間の堕落以後今日まで、時代を問わず、神様は、神様の希望を成し、人間に対して信じ得る心と、愛することができる一つの心を取り戻すために、長い間摂理してこられたのですが、いまだにそれらを成し遂げることができず、取り戻すことができずにいらっしゃるのです。


 創世以後今日まで、宇宙的な勝利の一日を迎えることができなかった神様は、地上の人間を通して、願われた勝利の日を迎えようとしていらっしゃるのです。それゆえに、地上の人間たちがその日を探し立ててさしあげることができなければ、この地で人間を蹂躙しているサタンを処分することができないばかりでなく、天上で神様に人間を讒訴しているサタンの勢力も退けることができないのです。それゆえに、神様は、いかなる苦労も意に介されることなく、いかなる犠牲も意に介されることなく、いかなる闘いも意に介されることなく、きょうこの時間まで、皆さん個人個人を立てるために盾となっていらっしゃるのです。


 これを見れば、私たちは、神様の希望とは何かということを知ることができます。神様は、皆さん個人個人を立てられ、人間を堕落させた怨讐サタンを分別して、サタンが主管する悪の歴史を終結させようとしていらっしゃるのです。


 私たちは、そのような神様の希望を成してさしあげ、天の前や万物の前に堂々と立つことができ、神様に勝利の栄光をお返しできる人間にならなければなりません。そのようになってこそ、苦労してこられた神様の摂理の目的が成し遂げられるようになるのです。


 神様は、アダムとエバを造られ、彼らが希望の人格者になることを懇切に願われたのですが、そのアダムとエバが堕落してしまいました。堕落前から抱いてこられた慕わしい心情、堕落前から抱いてこられた希望の心情に対して、人類の先祖アダムとエバが裏切ることによって、神様の心には悲しみがしみわたるようになったのです。神様は、アダム家庭に対する悲しみの心情、憤りの心情を抑え、慕わしい心を再び取り戻すためにカインとアベルを立てられたのですが、彼らは、その希望を成してさしあげることができず、逆に悲しみだけを神様に与えたという事実を、皆さんは考えなければなりません。その後、千六百年という歳月を経て、再びノアを立てられました。しかし、結果は同じことになりました。そこからまた四百年を経て、アブラハムを立てられたのですが、やはり同様でした。慕わしく思った一人に出会って心情を分かち合おうとされたのですが、アブラハムも、やはり神様が抱かれた慕わしい心情を完全に解いてさしあげることができなかったのです。そのようにして、数千年間抱いてこられた慕わしい心情を悟らせるために、三代を経ながらヤコブ家庭を立てられたのです。しかし、その家庭においても、完全にみ旨を成し遂げることはできませんでした。


 イスラエル民族を立てられても、このような慕わしい心情を躊躇なく話すことができず、教えることもできず、支配することもできない立場で、彼らのあとから従っていかざるを得なかった神様の事情を、私たちは知らなければなりません。


 慕わしく思ってこられた一つの民族形態を地上に立てられ、その民族が塗炭の苦しみに陥るたびに、神様は、その慕わしく思われる心に比例して苦衷を感じられ、悲しまれ、困難に遭われたという事実を、私たちは知らなければなりません。


 長い歴史路程を経てこられる間、神様は、慕わしい心情を私たちの心に植えつけ、歴史に植えつけ、世界に植えつけるために闘ってこられました。それゆえに、私たちが接する物一つにも神様の慕わしさがしみ込んでいるという事実を知らなければなりません。私たちが対する食口にも、歴史的な神様の慕わしさがしみ込んでいるということを知らなければなりません。私たちが生きているこの国、この世界にも、神様の慕わしさがしみ込んでいるというのです。


 したがって、私たちが目を上げて、神様がつくってくださった万象を見つめる時、その万象が神様の切実な慕わしさの対象だということを感じなければなりません。万物でもそうであるならば、万物の霊長である人間はどうでしょうか。


 たとえ悪の姿をしていても、神様は間違いなく一つの基準をもって慕ってこられたという事実を皆さんが感じるようになる時、天の前に本当に感謝しなければなりません。


 神様が、今まで数多くの悲しみの歴史過程を経てこられながらも、人類を捨てることができずに胸に抱いてこられた内容とは何でしょうか。それは、神様が人間に対して「お前は、私の実の息子、娘だ」と言い得るようになることを願われたのです。このような理想を成し遂げるために、今まで神様は闘ってこられたのです。


 神様の善の園において、神様の栄光の中で、神様の愛を中心として万物が和動する中で、万物の主人の資格を備え、神様に「私の父よ! 栄光をお受けください」と言えたはずのアダムは、堕落により、そのような価値を喪失してしまいました。ですから神様は、創世以後本然の息子、娘が現れて、「お父様」と叫ぶその一言をお聞きになりたかったのだということを、皆さんは知らなければなりません。


 今日私たちが叫んでいるそのお父様は、罪悪の立場から叫ばれる、そのようなお父様ではありません。したがって、私たちは、罪悪の世の中から抜け出して、善の理想の園に入っていかなければなりません。その理想の園とは、人間が神様の栄光を現し得る世界であると同時に、喜びに陶酔して生き得る世界です。別の言い方をすれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静ずるようになり、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主である神様も動じ静じ得る世界です。そればかりでなく、神様と人間の相対的な関係を超越して一体となり得る理想の園なのです。


 神様はこのように、人間が神様御自身と一つになることを願われたのであり、一つになった中で驚くべき愛を中心として喜びに酔う、その一場面を思い描きながら、そのような世界を創造してこられたのです。ところが、人間が堕落することにより、これが自分たちの恨みとなると同時に天倫の恨みとなり、堕落以後今日まで、その恨みに恨みを加重させる悲しい歴史を引き起こしてきたのです。


 それでは今日、神様がこの地に対して摂理なさる最大の希望とは何でしょうか。それは、堕落の父母をもっている人類を再び神側に立て、「私は、あなた方の永遠の父であり、あなた方は、私の永遠の息子、娘だ」と叫ぶことです。そのようにすることができる日を迎えることが、堕落した人間たちの歴史的な希望であり、天倫に対する天的な希望だということを、皆さんは悟らなければなりません。


 今日、この地上には、数多くの人々が生きています。彼らは、各自のビジョンと意見をもって生きており、また何かの主義主張をもって生きています。しかし、心から神様に敬拝し、神様を主張しながら、神様から召命を受けたと、天と地の前で自信をもって立ち上がる人はいません。


 今、私たち人間が最後に取り戻さなければならないこととは何でしょうか。自らの主義主張と、自らのあらゆる主観的な行動をすべて放棄し、自分の心と体は神様に代わり、自分は神様に代わって行動すると主張して立ち上がる人がこの地上に現れることを、今日まで歴史上に現れて死んでいった数多くの人々が望んでいたのです。また、神様は、このような代身者が現れることを願われ、無限な苦労と忍耐をされながら、長い間摂理していらっしゃるのです。


 したがって、地上の悲しみとは何かというと、何かの主義がなくて悲しいのではなく、また行動する人がいなくて悲しいのではなく、神様の心情に代わり、神様のみ旨に代わって主張することのできる主義がなく、また神様に代わって行動する人がいないということが悲しみであり、切なさだというのです。


 今日、この地と人間世界に散在している嘆息と苦痛と、しみわたっているあらゆる恨みを除去することに対しても、神様に代わることができる主義主張と、神様に代わる一人の人が現れなければなりません。したがって、摂理の目的もこの一人であり、歴史の目的もこの一人だということを知らなければならない時になったということを、皆さんは再び感じなければなりません。


 皆さんは、神様に代わって心から本当に信じることができる一人の友人をもたなければなりません。さらには、神様に代わって信じることができる一つの兄弟、父母、夫婦をもたなければなりません。そのようにして、家庭を超えて、社会、国家、世界の舞台にまで伸びていかなければなりません。これが神様の願われた希望だったのです。


 しかし、神様は、人間を個人の立場で追い出され、信じることができない立場に立てられ、人間世界のいかなる希望もすべて絶たれた中で、人間をして神様を信じさせるようにされました。そのようにして、その信じる人が一つになって、すなわち兄弟同士、友人同士で、神様に代わってお互いに信じ得る関係を結ぶことを神様は願われたのです。これがまさしく神様の願われた最高の希望なのです。


 レバレンド・ムーンがサタンに、「サタンよ、お前が要求するものはすべて満たしてあげたか、あげなかったか」と尋ねれば、「満たしてくれた」と答えるというのです。神様の本然の愛を中心としたすべてのものを中心として、堕落したサタンまでも愛して余りあるほどに、天国に入っていき得る堂々とした基盤を築いたので、サタンは、「あなたが行く世界は解放であり、あなたの願いで成し遂げられないものはない」と言って祝福しなければなりません。「どこに行こうと、あなたが願うもので、成し遂げられないものはなく、あなたが願うもので、あなたのものではないものはありません」と言うというのです。


 「神様のみ名によって、真の御父母様のみ名によって、真の家庭の名によって世界は解放されなければならない!」と言う時は、「アーメン」と答えるようになっているのです。春が来ました。雪がどれほど冷たく、氷がどれほど硬いとしても、溶けるようになっているのです。ですから、春の季節には種を蒔きなさいというのです。サタンが悪の種を蒔いた以上に世界の果てまで、アメリカの果てまで種を蒔くのです!


 良い種は、家庭です。サタンは一つ植えたのです。それが堕落したアダムとエバです。今、私たちは、新しい家庭をつくるために、どこにおいてもそれを築き上げなければなりません。そこにおいてすべてのものを栽培することができます。それをこのアメリカの地でしなければなりません。それが神様の願われた目的です。


 神様が男性と女性を造られ、大きくなることを願われたのは何ゆえでしょうか。愛するためです。愛するためだとすれば、その愛は神様よりも高くなるほうが良いでしょうか、低くなるほうが良いでしょうか。神様が、「おい、お前たち! 私がお前たちを愛するよりも、お前たちが私を愛するほうが大きくなってはいけない」とおっしゃるでしょうか。そのようにはおっしゃらないというのです。


 それでは、今皆さんが永遠の神様とつかみ合って闘えば、神様のほうがより情熱的でしょうか、それとも弱いでしょうか。情熱的です。神様には、すべてあります。ないものがありません。神様がより情熱的な時は、どのような時でしょうか。新しい男性と女性が現れて、昔の私たちの先祖よりも情熱的に愛するようになれば、神様も息切れされるようになるのです。


 そのような情熱的な夫婦に出会ったならば、神様は、人間と離れて生きられるでしょうか、それともくっついて生きられるでしょうか。くっついて生きられるのです。したがって、愛を中心としてのみ、愛においてのみ永遠性があるということを知らなければなりません。真の愛には永遠という概念がある、という話が成立するのです。


 真の愛は、一人では成すことができないのです。相対がいなければなりません。皆さんも、自分の相対が自分よりも立派であることを願いますか。誰でも、自分の息子、娘が自分よりも立派であることを願うというのです。そのような心は、神様から来たのです。


 それゆえに、神様も、愛の相対が神様より立派であることを願っていらっしゃる事実を知らなければなりません。愛の相対が横的にも縦的にも自分より立派であることを願う本然的起源は、神様にあったというのです。


 女性の心と男性の心が一つになり、女性の体と男性の体が一つになれば、神様の形状になるのです。そのようになれば、その中心に神様が臨在し、永遠に定着することができるというのです。正分合作用が三段階を経て、心的基準と体の基準が一体理想を成すのです。


 愛の一体、縦横に理想世界の一体圏が成されるというのです。心身一体という概念に、すべてのものが統合されるのです。


 愛が一体となることにより、実体の神様として地上に定着し、繁殖した家庭が神様の家庭になり、神様の一族になり、神様の民族になり、神様の世界になるのです。そのようになれば、堕落による心と体の闘いがすぐになくなります。神様の性相と一つになっているので、自然に神様の愛が臨在して男性と女性の相克がなくなるのです。衝突なく、自動的にお互いが愛することができるようになるのです。そこに神様が臨在され、家庭で心的な存在となり、夫婦は体的な存在として一体を成し遂げるのです。


 真の夫婦というものは、真の生命体を中心として、男性と女性が真の愛によって結束した夫婦です。そのような夫婦が真の夫婦です。社会は、そのような因縁を連結しなければなりません。兄弟圏の心情を横的に拡大した相対圏が真の社会、真の国家、真の世界です。人間は誰しも、自分自身が宇宙の代表になりたいのです。


 真の愛を背景とする因縁を中心として見れば、すべてが平等なので、それに背く者は、立つ位置がなくなるのです。唇は、真の愛によって連結します。それゆえに、生命、愛と血統、これが自分自身です。


 真の愛の第一故郷は、真の家庭です。真の家庭とは何ですか。そこには真の父、真の母、真の夫、真の妻、真の子女がいるのです。それが真の愛の家庭基盤です。


 父母が子女のために無限に投入して犠牲になれば、真の愛が背後にある限り、子女はその真の愛に無限に感謝するようになり、父母は大きな喜びでその犠牲を埋めるのです。このように犠牲的な真の愛の力は、授け受けする作用を発展させ、真の家庭で、そして、真の世界で永遠の喜びと平和の関係を結ばせます。このようなところで、永生の理想世界が顕現するのです。


 しかし、このような真の愛が欠如した家庭と国と世界は、抜け殻にすぎず、むしろあらゆる不信と反目と不倫の納骨堂になってしまうのです。人間の純粋な真の愛が成長して完成する場は、真なる家庭です。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の子女の愛、そして、真の兄弟の愛が共に完熟して実践される真の愛の初舞台は、真の家庭です。


 真の父母の真の愛を通して神様の真の愛を学びながら、真の兄弟の真の愛を通して真の国と真の世界人類に対する普遍的真の愛を訓練させる、平和世界の基本核の場が真の家庭です。それだけでなく、父母と子女間に受け継がれる真の愛を通して、過去と現在と未来の世代が一貫した真の愛の価値観によって連結していくようになる、歴史的連結の輪の基本単位も真の家庭です。


 おじいさんとおばあさんは、父と母のために死を覚悟して、命を懸けて愛する、これがどれほど幸福ですか。また父母は、息子、娘のために命を懸けて愛するというのです。どれほど幸福ですか。


 皆さんは「愛のために死ぬ」と言うのですが、孫がおじいさんのために死ぬことが真の愛です。おじいさんは孫のために、父母は子女のために、子女は父母のために、姉は弟のために、弟は姉のために、夫は妻のために、妻は夫のために、おばあさんはおじいさんのために、おじいさんはおばあさんのために、愛を中心として生命を捧げようとする家庭が真なる家庭だという結論が出てきます。


  

 神様が最も好まれるものとは何ですか。神様が最も好まれるものとは真の愛ですが、真の愛が最も喜ぶ相対的基準は何かといえば、アダムとエバの家庭です。この家庭は、理想的な神様の立場に立てられたものです。


 レバレンド・ムーンが教えてあげる真の愛の道、真の愛の男性と女性が行き、真の家庭が行き、真の国が行き、真の世界が行く道は、絶対的です。一つしかないのです。二つではありません。それを教本として、すべての人が向かい合える所が家庭だというのです。


 祝福を受けた夫婦がけんかをすれば、どのようにするのですか。夫婦がけんかをすれば、自分の息子、娘を呼んでおいて、その次には信仰の息子、娘を呼んでおいて、許しを請わなければなりません。カインとアベルが、行くべき伝統に背いたのです。ですから、自分の息子、娘と信仰の息子、娘がアベルとカインの立場であり、彼らが一つになれずに反対のことをしたので、カインとアベルの子女に悔い改めなければなりません。そのような時が来るというのです。共同運命です。息子、娘が間違えば、父母に許しを請わなければなりません。もし夫、父が間違えば、その息子、娘と夫人に許しを請わなければなりません。それが真の愛を中心とした真の家庭です。


 宗教は、神様を尋ね求めていくのです。神様の教えを尋ね求めていくのです。それを成し遂げるのは、神様ではなく人間です。相対的な愛を尋ね求めていくのですが、どこでそれを定着させるのかといえば、教会でもなく世界でもありません。正に家庭だというのです。家庭に真の愛の種を植えなければなりません。真の家庭によって拡大するためなのです。そこには宗教観念がありません。



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